第12話 麦は待たない
麦村へ入っても、村人たちは仕事の手を止めなかった。
無礼なのではない。
道を空け、騎士の紋章に気づいた者は頭を下げる。
だが、すぐに手元へ戻っていく。
水路の板を二人がかりで押さえる者、荷車から薪を下ろす者、鳴き続ける羊を囲いへ追う者。
王都から使節が来たという知らせより先に、日暮れまでに終えなければならない仕事があるらしい。
王宮なら、女王候補の到着を前に床が磨かれ、人が並び、扉の開く時刻まで決められる。
ここでは誰も、暮らしの順番を入れ替えなかった。
一行を迎えた村長は、腰の曲がった老人だった。
土壁の家の前で深く頭を下げ、冷えた手を何度も衣にこすりつけている。
「遠いところを、ようこそお越しくださいました」
歓迎の言葉とは裏腹に、その目には隠しきれない不安があった。
これほど多くの騎士と神官が突然現れれば、当然なのかもしれない。
「星読みの確認に参りました」
同行した代理神官が告げる。
星、という一語に村長の肩がわずかに強張った。
王宮でその言葉は荘厳に響く。
銀の灯、黒石の床、息を潜める廷臣たち。
だが村では、厄介な霜の知らせでも聞いたように受け止められた。
「水路番の子、カイはいますか」
記録官が尋ねた。
「おりますが……今は上の水門に」
「呼んでください」
「すぐには、ちょっと」
村長が言いよどみ、神官が眉を上げた。
「すぐには?」
「今、水を切り替える時刻でして。
あそこをしくじると、今夜のうちに南の畑へ回るはずの水が回りません」
「王都からの使者が来たと伝えればよいのです」
「伝えても、水は待ってくれませんので」
村長は困り果てた顔で、それでも譲らなかった。
神官の沈黙が長くなる前に、アステルは口を開いた。
「では、私たちが水門へ行けばいいのでは?」
村長は飛び上がりそうになった。
「殿下が、あの泥道を?」
自分の身分を知られていたことより、その驚き方の方が気になった。
王女は泥道を歩かない生き物だと思われているらしい。
「泥道を歩くための靴を履いているわ」
ミレイは何か言いたそうだったが、汚れきった旅靴を見て口を閉じた。
水門は村の外れにあった。
細い道の片側は石垣、もう片側は冬麦の畑である。
日が傾くにつれ、風が冷たくなった。
泥は表面だけが薄く凍り、踏むと小さな音を立てて割れた。
星読みの夜から、ひと月あまり。
星盤の上に現れた麦畑を追い、七日の道を進み、ようやくこの場所まで来た。
アステルは足を速めたくなる気持ちを抑えた。
水門では、一本の水路が三つに分かれていた。
石枠の間に厚い木の板を差し込み、流れを変える仕組みらしい。
水音は思ったより大きく、板の隙間から噴き出した水が周囲を濡らしている。
その中に、一人の若者が立っていた。
伸びかけた黒髪を、耳にかからないよう後ろへ撫でつけている。
日に焼けた頬。
古い上着の袖を肘までまくり、鉄の鉤棒を水の中へ差し込んでいる。
長靴も膝も泥にまみれ、跳ねた水が頬に筋を作っていた。
星読みの夜に見えた影より、ずっと若い。
そして、ずっと重みがあった。
「カイ」
村長が呼んだ。
「王都から、お客様だ」
若者が振り返る。
夕日の赤い光の中で、その顔がはっきり見えた。
――あの人だ。
理由を説明できるわけではない。
けれどアステルには分かった。
星盤の上に浮かんだ石垣、水路、麦畑。
その中心にいた影が、今、目の前にいる。
胸が一度、大きく鳴った。
カイもこちらを見た。二人の目が合う。
ほんの一瞬、周囲の水音が遠のいた気がした。
彼も何かを感じたのではないか。
驚き、立ち止まり、この出会いの意味を問うのではないか。
だが、カイの視線はすぐにアステルの顔から足元へ落ちた。
「殿下、そこは踏まないでください」
「……何を?」
「麦です」
アステルは足元を見た。
泥の上に、小さな青い葉が伸びている。
靴の先が畝へ入りかけ、その一本を押さえていた。
「ご、ごめんなさい」
慌てて足を引く。葉はゆっくり起き上がった。
カイはそれを確かめると、もう水門へ向き直った。
鉤棒を引き、絡みついた枯れ草を水から掻き出す。
それだけだった。
アステルは行き場のなくなった息を飲み込んだ。
星に示された相手との出会いは、もう少し何かがあるものだと思っていた。
少なくとも相手も驚くはずだと。
ところが彼の関心は、どう見ても女王候補より麦の芽にある。
「カイ」
神官が水音に負けないよう声を張った。
「星読みの儀により、伝えます。
あなたは、第百一代女王候補アステル・デ・ヴェルタ殿下の『導きのかたわれ』として示された可能性があります」
「困ります」
カイは水門を見たまま即答した。
神官の口が半ば開いたまま止まる。
「……困る?」
「今、村を離れろと言われても困ります」
「まだ、そのような話はしていません」
「王都の人がこんな人数で、顔を見るだけってことはないでしょう」
カイは鉤棒を置き、両手で木の板を押した。
水圧を受けた板は簡単には動かない。肩に力を入れ、少しずつ溝へ落としていく。
「この水を今夜、南へ回さないといけません。
今ここで水を切らせば、春に穂が立っても実りが悪くなる。
刈り取りはまだずっと先です。
でも、収穫の出来は今の仕事から決まります」
季節も人の都合も飛び越えて、すべてを「収穫期」と呼んでいるのではない。
カイにとって、今押している板と、何か月も先の麦の実りは一続きなのだ。
アステルは低い麦畑へ目をやった。
まだ穂すら見えないこの時期から、刈り取りの日まで仕事は切れない。
王宮では収穫量が報告されて初めて、その年の麦を知る。
ここでは、今日の水がすでに収穫の一部だった。
「王都とか星とかいう話は、その後で聞きます」
王宮では、誰も星に選ばれて困るとは言わなかった。
星に示されることは栄誉であり、王家に関わることは家門の誉れである。
そういう言葉しか、アステルは聞いたことがない。
それなのに、目の前の青年は星より水を見ている。
「あなたが、カイ?」
確かめると、ようやく彼は顔を上げた。
「そうです」
「姓は?」
「ありません」
記録官の羽根ペンが止まった。
「家名ではなく?」
「村では、カイで通じます」
アステル・デ・ヴェルタ。
カイ。
二つの名が、泥の水門を挟んで向かい合う。
長い名が相手を強くするわけでも、短い名が相手を小さくするわけでもなかった。
水門の板が最後まで下りた。
流れがぶつかり、やがて一方の水音が弱くなる。
カイは、三本の流れを順に見てから言った。
「話は聞きます。でも、この切り替えが先です。
南の畑は待ってくれません」
神官は不満げだった。
記録官はどう書けばよいのか分からない顔をしている。
ガラードは何も言わず、カイと水門を見比べていた。
アステルは泥に汚れた水門と、その前に立つ若者を見た。
星より天気。王冠より水門。
運命の相手に会ったというのに、胸に満ちたのはときめきではなかった。
うまく言葉にできない戸惑いだった。
たぶん星は、本当にここを指した。
だが、星が何を教えようとしているのかを、自分はまだ何一つ分かっていない。




