⑩
7月1日
ー午前7時37分。
夏の朝日が遮光カーテンの隙間から細く差し込み、窓越しに鳥の鳴き声が聞こえた。
鳴海に集合時間を指示された時は、必ずアラームを5つセットしている。いつもならスマホのアラームの5つ目が鳴っても起きない彩花だが、今日は不思議とアラーム前に目が覚めた。
昨日の出来事が頭をぐるぐる巡って、いつもより寝付きが悪かった。そして眠りも浅かったせいだろうか。
グッと背伸びをしたが、何となくスッキリしないままだった。
大あくびをしながら朝ごはんの支度を始めた。
お湯を沸かし、マグカップにドリップコーヒーをセット。パンをトースターに入れ、テレビのリモコンを押した。
鈴の音。
違和感のある空き地。
小さな古い祠。
そして一瞬だけ二股に見えた三毛猫の尻尾。
浮かんでは消え、消えてはまた浮かぶ……。
テレビの向こうのニュースキャスターの声が聞こえてきた。何かを話しているけれど、その声がいつもより少し遠くにいるような気がした。
パンを食べ終え、身支度を整えると彩花は玄関を出た。
「うわ、あっぢぃ……。」
この時間にもかかわらず、眩しくて痛いくらいの日差しと暑さに思わず声が出た。ついで小さくため息が出る。
なんだか鳴海のため息みたい……。
ふとそんなことを思い、小さく笑ってしまった。
うんざりした鳴海の顔を思い浮かべると、少しだけ元気が出たような気がした。
「よし!」
彩花はやっと事務所まで歩き出した。
ー午前8時58分。
……チリン。
と事務所のドアベルが鳴る。そして、
「おっはよー!」
と元気よく彩花が入ってきた。
空調で涼しくなった事務所の空気が、彩花の体をふわっと包み込む。
「あ゛ぁ〜。涼しい……幸せ……。」
彩花の口から声が漏れる。
そして我が物顔で応接ソファに移動した彩花は、ぼふっと座った。
自席でキーボードを打っていた立花が、手を止めて思わず笑った。
「彩花さん、完全におっさん出てるって!」
「いい、立花。知らないかもしれないけど、みんな等しく心におっさんを飼ってるのよ!」
立花に力説した彩花がそっと鳴海の方を見た。
つられて立花も鳴海の方を見た。
しばらく2人で鳴海を見つめる。
鳴海の心の中のおっさん……。
視線を鳴海から外した彩花と立花は、互いに目を合わせた。
そしてどちらともなくぶふっ、と吹き出すように笑った。
……ぎ、と椅子の軋む音がした。
2人が音の方を見ると、鳴海が無言で席から立ち上がっていた。
何故か鳴海の後ろに恐ろしいものが見えた気がした。
彩花はそっと応接ソファから立ち上がり、そそくさと立花の後ろに隠れた。
「立花!謝った方がいいって!」
「それを言ったら彩花さんもでしょう!」
小声でコソコソ話す2人。
鳴海はつかつかと2人の近くまで歩み寄ると、無言で2人を見下ろす。その目に睨まれただけで、部屋の温度がもう2℃くらい下がった気がした。
瞬間、立花と彩花の額に痛烈な痛みが走る。
「いったぁ!」
「痛っ!」
額を押さえながら悶絶する2人を無視して、鳴海はくるりと自席へと戻って行った。
少し離れたところで飲み物を入れながら、黒崎はそんなやり取りにふふっ、と笑う。
今日は珍しく鳴海がリクエストした、レモングラスのハーブティーを入れるつもりだった。
ー午前10時04分。
4人は商店街を抜け、昨日と同じ空き地の前にやって来ていた。商店街のスピーカーから流れるBGMも、人々の声も、少し離れたここからでは随分遠くに感じられる。だからこそ、この空き地の静かさがより一層際立っている気がした。
蒸し暑い空気と日差しで、彩花の額にもじわりと汗が滲む。
彩花は腕で汗を拭いながら、改めて空き地を見た。
……やっぱなんか変。何が変か分かんないけど。
上手く表現できないけど……。
じっと空き地を眺める彩花に、隣にいた鳴海が声をかけた。
「変か。」
「うん、なんか変。」
「そうか。」
鳴海は短く返事をした。
さっと空き地を見回し、そして慎重に空き地へと踏み入った。
立花、黒崎、彩花が鳴海の後を追う。
4人全員が空き地に入ったその時だった。
空き地の草が風の吹かないタイミングで揺らめいた。
しかし、既に空き地の中に足を踏み入れていた4人は、それに気付くことはなかった。
4人は、昨日自分たちが踏んだ跡を頼りに進んで行った。
立花が途中で何度も腕に当たった草を払ったり、嫌そうな声が漏れたりしていた。
「所長ー、まだつかないんでしたっけ?」
立花がげんなりした声で問いかける。
その質問に、鳴海ではなく後ろを歩く彩花がからかうように答えた。
「立花は都会っ子だからもう疲れたんでしょ!まだ半分も行ってないじゃん。」
彩花は笑ってそう言いながら、キョロキョロと忙しなく周りを見回した。
草の匂いも足元に散らばるゴミも、昨日と変わらないように見える。
そして、立花の言う通り、なかなか到着しないのもまた昨日と同じだった。
「黒崎はさー、こういう所平気なの?」
彩花は黒崎にも話しかけてみた。
今はそうしたい気分だった。
「そうですねぇ。私は平気ですよ。よくおばあちゃんの家の裏山で虫取りなんかして遊んでましたから。」
彩花の方を向き、ふふっ、と笑いながら黒崎が答えた。
「意外過ぎるってぇ……。」
立花が後ろを振り返り、有り得ないものを見たかのような顔をした。
その顔と情けない声に彩花と黒崎が笑う。
そんなやり取りが、今の彩花にはちょうどよかった。
そんな雑談もしばらくすると静かになっていき、立花の嫌そうな声がたまに響くだけとなっていった。
この沈黙と空気感に耐えきれなくなってきた彩花が、目の前の黒崎になにか話しかけようと、話題を一生懸命考えていたその時だった。
「着いたぞ。」
と、鳴海の低い声が聞こえた。
鳴海の声に彩花は顔を上げる。
目の前には昨日訪れた、古い小さな祠があった。
彩花は無意識に深呼吸をした。
蒸し暑い空気とは違った、ほんの少しだけ爽やかな空気を感じた。
「あぁやっと着いた……。まだここの方が良いですよ。」
立花がホッとしたような声で言いながら、ぐーっと背伸びをした。
そして服についた葉っぱを見つけ、げんなりした顔で一生懸命払い始める。
そんな立花の様子を黒崎が小さく笑いながら見ていた。
彩花はふと、祠の後ろに視線を向けた。
昨日の甘酒のコップ。
その後ろの木の根元に、昨日の三毛猫がいた。
気持ちよさそうに丸まりながら寝ていたが、目を覚ましたのか、ぴくりと体が動いた。
三毛猫は気持ちよさそうに背中を伸ばす。
そして不意に彩花の方を向いた。
少し距離があるはずなのに、目が合った気がした。
ぴょん、と三毛猫が木の根元から飛び降りる。
その瞬間だった。
……ちりん。
と鈴の音がした。
立花も黒崎も、驚いて周りを見回している。
鳴海も警戒するように視線を動かした。
彩花は驚きのあまり目を見開いていた。
明らかに三毛猫から鈴の音がしたのだ。
三毛猫には首輪も、もちろん鈴も付いているようには全く見えない。
彩花は視線を三毛猫から外さないまま、思わず鳴海の腕を引っ張った。
怪訝そうな顔をした鳴海だが、彩花の顔を見た途端低い声で聞いた。
「どこだ。」
鳴海の声に立花と黒崎も振り向く。
その声に彩花は鳴海を見ぬまま三毛猫を指差した。
3人が指の先に視線を向けると、三毛猫がゆっくりと近付いてきていた。
首輪も何もない野良猫にしては、人を怖がらずにまっすぐこちら側に近付いてくる。
そして視線は彩花の方に向いたままだった。
鳴海が1歩前へ出た。
すると三毛猫はぴたりと足を止め、小さく鳴く。
威嚇するわけでも、甘えるでもない。
まるで返事をするかのような鳴き声だった。
じゃり……っと鳴海の足元で地面を擦る音がした。
彩花を背にしたまま、鳴海はゆっくりと後ろに下がった。
立花と黒崎もその音につられるように、数歩後ろに下がっていた。
まるでその様子を眺めるかのように、三毛猫は首を動かしていた。
にゃあ、と一声鳴く。
そしてその場に座って、顔を舐め始めた。
その時だった。
しっぽがゆらゆらと揺れ、そして二股に分かれたのだ。
鳴海の後ろで彩花が息を飲む音が聞こえた。
立花がぽかんと口を開けたまま凝視し、黒崎が口を押さえて驚いている顔が、鳴海の視界の端に映る。
「このまま下がれ。」
鳴海の低い声が3人に届く。
そして全員がそのまま下がろうとした時。
……ちりん。
鈴の音がまた聞こえた。
確実に、目の前の三毛猫から音がした。
三毛猫は大きな欠伸をして、4人の方をまた見る。
そして、
「お主ら昨日の。また来たのか。」
三毛猫から、そう聞こえてきた。




