55
強固な防衛障壁が轟音と共に崩れ落ち、俺たちの前に広大な塔中枢の中心部が完全に開かれる。
砕け散った隔壁の奥から、タワーの基幹を流れる極寒の波が、鋭い刃のように俺たちの肌を直接撫でていく。
『……やれやれ。君たちの想定外の破壊力には驚かされるよ。ならば、これ以上の余計な熱はすべて奪わせてもらう』
ホログラムのイライアスが静かに息をつき、冷ややかな視線を向けながら腕を軽く振り下ろす。
その直後、塔中枢全体の空気が一瞬にして凍りつく。
凄まじい排気音と共に、巨大な冷却パイプ群から超低温の冷却ガスが空間全体に猛烈な勢いで噴出される。
ただ温度を下げるだけの単純な冷却ではない。タワーの中枢が持つ莫大なエネルギーを逆転させ、空間内にあるすべての熱を強引に吸い上げているのだ
あっという間に、俺たちの足元にある床材の表面が分厚い霜で覆われ、踏み込むための摩擦を極限まで奪い去った氷の板へと変化していく。
踏み込もうとした足が激しく空回りし、俺はバランスを崩して危うく床に膝をつきそうになる。
「くそっ……摩擦が完全に死んでやがる……!」
俺は奥歯を噛み締め、右腕の拡張リグの重みで強引に体の重心を保つ。
どんなに強靭なポリマーマッスルを持っていようと、地面を蹴るための反発力がなければ、一歩前に進むことすらできない。
イライアスは俺たちの機動力を削ぐためだけに、タワーの心臓部そのものを凍結させるという常軌を逸した手段に出ていた。
『機動力は奪わせてもらった。そのまま氷漬けになるがよい』
イライアスが淡々と宣告すると同時に、壁面に並ぶ巨大な排気ダクトが、一斉に俺たちへ向けて口を開く。
次の瞬間、耳をつんざくような轟音と共に、極低温のガスが猛烈な暴風となって塔中枢全体を吹き荒れる。
ただの風ではない。氷の破片を無数に孕んだそれは、人間の肉体など容易く切り裂き、壁際まで一気に吹き飛ばせるほどの暴風だ。
「ぐわぁっ……!」
背後でウェスが短い悲鳴を上げ、凄まじい風圧に耐えきれず、氷の床の上を背中から無様に滑らされていく。
摩擦を失った足元では、風に逆らって立ち上がることすらできない。
俺の視界も猛烈な吹雪で白く染まり、強烈な冷気と風圧によってポリマーマッスルの関節が引き千切られそうになる。
どこへ逃げようとも、この空間にいる限りすべてを吹き飛ばす暴風からは逃れられない。
回避不能の絶地。このままでは、氷の壁に全身を容赦なく叩きつけられ、二人とも粉々に砕け散って終わる。
ホログラムのイライアスは微かに目を細め、俺たちが為す術もなく吹き飛ばされる瞬間をただ待っている。
だが、その余裕こそが奴の最大の隙だ。
「……なら、動くのをやめるまでだ」
俺は吹き荒れる吹雪の中で、イライアスが奪った機動力を、俺自身の手で完全に捨て去る決断をする。
俺は風圧に抗いながら右腕の重い撃鉄を起こし、足元の分厚い氷の床へ向けて、インパクト・パイルの切先を真っ直ぐに突き立てる。
ガガガガガッ!!という激しい音と共に、パイルの先端が氷を砕き、分厚い床板の奥深くへと食い込んでいく。
自らを動かぬアンカーとしてタワーの床に強引に固定し、壁際へ吹き飛ばされようとするのを力ずくで食い止める。
『……正気かい、カイト。自らを固定すれば、極寒の烈風をその身に直接受け続けることになる。君の肉体は数分と持たずに凍りつくはずだ』
ホログラムのイライアスが、理解できないものを見るように俺の自滅にも等しい行動に怪訝な顔を浮かべる。
床に打ち付けられた右腕を強靭な支点にして、俺は叩きつけるような暴風の壁を無理やり受け流し、片膝を立てて強引に立ち上がる。
強烈な風圧で体中の骨格が悲鳴を上げ、極低温の風が皮膚を裂くような激痛となって俺の全身を駆け巡る。
イライアスの強いる冷え切った空間で、俺の命は今、極限の熱を持って確かに燃え上がっている。
俺はパイルを床に打ち込んだまま、荒れ狂う暴風と冷気に耐え、ゆっくりと顔を上げる。
視線の先にあるのは、五十年前と変わらない姿をした旧友のホログラム。
その顔に張り付いた余裕を、俺が引き剥がしてやる。
「ウェス……聞こえるか……」
暴風の背後で必死に堪えている若い相棒へ向けて掠れた声を絞り出す。
「あんたの背中なら、いつでも見ているさ……」
ウェスもまた、氷の床の上で自身の体を太い配線ケーブルに縛り付けるように固定し、震える指で『PHYSIS』の最終コードを懸命に編み上げようとしている。
「ウェス……! あとどれくらいだ!」
極寒の風と激痛に歪む視界の端で、床の太い配線用ケーブルに体を縛り付けながら懸命に端末を叩き続ける若い相棒へ向けて、俺は掠れた声を絞り出す。
「もう少しだ、カイト……! もう少しでセルを縛り付けている檻を外せる!」
ウェスが荒い息を吐きながら、俺の背後で端末のホロキーボードを猛烈な速度で叩く。
彼が凍える指先で懸命に操作して展開しているのは、俺たちの持つ不規則な熱量を触媒にして、μセルを完全に自由化させるための未完のコード――『PHYSIS』。
俺は床に深く固定されたままの姿勢で、全身のポリマーマッスルの生体リミッターと、右腕の巨大な拡張リグのセーフティをすべて解除する。
肉体の限界を超えるための、爆発的なエネルギーを生み出す、自滅にも等しい完全な臨界駆動への移行。
ガキンッ、という重い金属音が体内まで鈍く響いた直後、俺の全身を駆け巡る人工の筋繊維が、かつてないほどの悲鳴を上げ始める。
ギーッ、ギギギッという、黒板を爪で力いっぱい引っ掻くようなひどく不快な軋み音が、暴風の吹き荒れる空間に幾重にも鳴り響く。
ホログラムのイライアスが、その耳障りな音と急激な温度の上昇を前にして、ひどく苦しげに顔を歪める。
彼がどれほど冷静な観察者を装おうとも、俺の放つ荒々しい熱と不規則なノイズは、彼の築き上げた秩序をかき乱す確かな痛みとして彼自身に伝わっている。
ノイズを極端に嫌う彼の表情に、かすかな苛立ちが混じり始めた。
『……警告……いや、やめろ、カイト。君から放たれるその無秩序な熱は、都市の安定を根底から揺るがす異常なノイズだ……』
イライアスのホログラムがわずかに顔をしかめ、その声からは先ほどまでの静かな余裕が完全に失われている。
俺の肉体から発せられる熱は、イライアスが最も忌み嫌う、人間の持つ予測不能な意志の熱量そのものなのだ。
物理的な熱量がもたらす無秩序なエントロピーの増大は、制御されているはずのμセルの相転移予測に、わずかな演算の遅れを生じさせる。
吹き荒れる極寒の暴風の中で、強烈な熱源となった俺の周囲だけが陽炎のように白く歪み、床の分厚い氷が急速に溶け出して大量の蒸気を上げ始める。
その計算式のズレという極小の『論理の隙間』に、ウェスの指先から紡ぎ出されたウイルスコードが次々と牙を突き立て、タワーの中枢回路へと強引にねじ込まれていく。
それは、この都市が、イライアスが管理しているμセルの安定した繋がりを強引に切り離し、本来の不安定でゆらぎのある自由な状態へと解放するためのプロセスだ。
統制されたシステムの中に、次々と奔放なノイズが流れ込んでいく。
計算し尽くされた静止の世界を拒絶し、人間が人間らしく生きるためのゆらぎを取り戻すための、泥臭い反逆の始まり。
『……やめろ! 定数の書き換えなどさせない! そんな不安定な力で、君たちはまたこの世界を壊すつもりか!』
イライアスが激高したように叫び、ホログラムの腕を大きく振り回して、冷却プロセスの強化と修復プログラムの展開を必死に試みる。
いつも完璧に澄ましていた彼の顔に、焦りと苛立ちの色がはっきりと浮かんでいる。
彼が展開する極低温の暴風は、俺の熱量と、自由化されたμセルのエネルギーを前にして相殺されつつある。
俺の熱とウェスのコードは、まるでタワーの太い血脈を侵食する猛毒のように、中枢深くまで深く根を張り始めたのだ。
エラーを知らせる赤い警告の光が、青白かった塔中枢の空間を不気味に染め上げる。
空間を包み込んでいた冷たく厳しい氷の刃が、少しずつ、だが確実にその勢いを失っていく。
「どうしたイライアス! お前が望んだ、何一つ変わらない静止した世界はどうなった!」
俺は全身の関節から莫大な白煙を噴き出しながら、目の前で明らかな焦りを見せる旧友へ向けて獣のように咆えつける。
塔中枢の壁面に立ち並ぶ巨大な冷却パイプ群が、けたたましい悲鳴を上げ始める。
無数のパイプの継ぎ目から高圧の蒸気が吹き出し、タワーの心臓部そのものが、俺たちの放つ熱に耐えきれずに悲壮な軋みを上げているのだ。
自由を取り戻したμセルのエネルギーが、極寒の吹雪を完全に圧倒し、この空間の支配権を力ずくで奪い返していく。
ホログラムのイライアスが、予想外の熱に焼かれるように顔を覆い、その姿をノイズのように激しく明滅させる。




