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薄れゆく空気の中、ウェスはジジから託された古いデータディスクを自らの端末に接続する。
酸素の欠乏で彼の手は小刻みに震えているが、充血した眼差しは食い入るようにホログラムのコード列を追っている。
「これは……」
やがて、画面の中央に無数の文字列と共に『PHYSIS』というタイトルが浮かび上がる。
ウェスの顔に驚愕の色が広がり、彼は信じられないものを見るように俺と端末を交互に見比べる。
それは、領主連合の管理する都市の中枢システムであるμセルの挙動を根底から書き換えるプログラムであり、都市の機能を完全に破壊するために組まれた未完のプロトコルだ。
俺はその見覚えのある文字列を見つめながら、手術を終えたばかりの右腕のマウントフレームの軋みと共に、古い傷が深く疼くような感覚を覚える。
イライアスの包囲網によって生存の猶予が刻一刻と削り取られていく中、五十年間このスラムの底で埃を被っていた俺の過去が、再び光の当たる場所へ引きずり出されようとしている。
ジジの言う通り、それは俺の残した呪いの遺物だ。
「このコードのタイムスタンプ……半世紀前だ。設計寿命が施行された直後に書かれている」
ウェスが浅く荒い呼吸を繰り返しつつ、猛烈な速度で画面をスクロールさせる。
彼はコードの記述パターンと、幾重にも張り巡らされた異常なまでの緻密さから、それが誰の手によって書かれたものかを即座に見抜く。
「カイト。あんたがたった一人で、この狂った世界を正すために書き上げたコードなんだろう」
俺は沈黙したまま、先ほどマウントされたばかりの右腕の無骨な鉄の塊を見下ろす。
ウェスの言う通りだ。
あの時、俺は領主連合が定めた人間の選別という現実に耐えきれず、全てを終わらせるためのコードを一人で組み上げた。
イライアスと共に語った明るく、健康的な未来のちょっとした遊び心。それが全く異なるものとして形を成そうと知るや、己の身を削るような思いでキーを叩き、μセルを制御不能とする手段を形にした。形になったところで、気付いてしまったのだ。これが都市の根幹を破壊する手段でもあることに。
そうして、その手段は最後まで完成させることができず、俺はそれをこのジジの墓場に置き去りにするしかなかった。
逃げ出した俺の過去の残骸が、ホログラムの光となって薄暗い部屋を照らしている。
「なぜ、これを実行しなかったんだ……? あんたほどの腕なら、当時の管理網を出し抜いてシステムを破壊できたはずだ」
ウェスの痛切な問いかけに、俺は目を伏せ、五十年前の記憶を重い口調で語り始める。
このプロトコルを起動させれば、領主連合による統治は確実に終わったであろう。
だがそれは同時に、かつての量子ショックのような制御不能な大災厄を、再び世界に引き起こす可能性が極めて高かった。
全てを壊したあとの世界をどう生きるのか。
当時の俺には、その先に広がる不確定な未来にこの都市の住人全てを巻き込む責任の重さに耐えられず、最後の引き金を引く決断を下せなかった。
世界を救う勇気もなく、壊す覚悟も持てず、ただ無力感に苛まれた俺は、絶望と共にこのスラムの片隅へコードを封印したのだ。
言い訳にもならない俺の告白が、静まり返った薄暗い部屋に虚しく響く。
俺の身勝手な絶望のせいで、都市の人間たちは五十年間も理不尽な選別を受け続けている。
空気の薄れゆく密室の中で、サツキもナオも、ただ静かに俺の過去の罪に耳を傾けている。
俺の過去の吐露を聞き終えたウェスは、端末の淡い光に照らされた顔を伏せる。
そして、首を横に振る。
「違う……あんたはただ罪悪感に押し潰されて逃げたわけじゃない」
ウェスの声は微かに震えている。
「いつか、不確定な未来を切り拓く誰かが現れた時のために、この世界を託すための刃を遺してくれていたんだ」
彼の大粒の涙が、端末の画面にポツリと落ちる。
俺はただ逃げ出したつもりだった。だが、無意識の底では誰かにこのコードを見つけてほしかったのかもしれない。
五十年の時を経て、俺の遺した未完の反逆が、彼という未来に繋がれたのだ。
俺は何も言わず、ただ不器用に左手で彼の細い肩を叩く。
かつての俺たちへの贖罪として残したシステムが、今こうして俺たちの手元で再び力強く脈動を始めている。
「こいつの足りない部分は、俺が今のシステムに合わせて書き換える。必ず起動させてみせる」
ウェスは袖で涙を乱暴に拭い、力強い瞳で俺を見上げる。
かつて俺が手放した真の切り札が、いま確かに未来へ手渡された。
だが、要塞内の空気はすでに限界を迎えつつあり、外にはイライアスの無数のドローンが隙間なく包囲網を敷いている。
手にした刃を振るうためには、まずこの墓場から抜け出さなければ、反逆の狼煙を上げることも叶わない。
すると、傍らの作業台に寄りかかっていた老兵ジジが、不敵な笑みを浮かべる。
「お前さんたちの時間は、ここからが本番のようだな」
ジジの手には、分厚い装甲板の裏に隠されていた古びた起爆装置が握られている。
彼は忌々しい無数のドローンが待ち構える分厚い鉄扉を見据え、静かにそのスイッチへ指をかける。
死のカウントダウンが迫る冷え切った密室の中で、道を切り拓くための火花が散ろうとしている。




