04
一年前。
どこかの鉄骨が、限界を超えてせん断を起こした。
その瞬間の、鈍くて重い破壊音。それが廃区画全体に不吉な地鳴りとして響き渡る。
音の発生元からあふれ出した塵。微細なコンクリートの粒子が、天井の隙間から差し込む光の筋の中に浮かび上がり、まるで淀んだ水中のようにゆっくりと漂っていた。
居住区画の廃棟のひとつ。それが、ついに構造上の許容限界を迎えたのだ。
長期間放置され、内部から腐食が進んだ巨大な構造物が静かに倒壊していく光景。それはこの下層では決して珍しいものではない。足元の地盤や頭上の天井が、いつ崩落するかを常に計算しながら歩く。それがここで生きる者たちの常識だ。
いつものことだ。そう判断し、マッピングを更新して迂回ルートを歩き始めたとき、瓦礫の向こうから微かな声がした。
大量の粉塵に掻き消されそうなほど細い波長。だが、人間の声帯から発せられた声だった。
崩壊の余波が残る瓦礫付近。そこを進むには、目で安全を確認するより、足裏のセンサーで体重の乗せ方を少しずつ変えながら進む方が確実だ。
崩落直後の不安定な地盤。それは一歩踏み込むたびに、荷重のバランスによって下の状態が大きく変わる。
振動の減衰と、瓦礫がこすれ合う微細な摩擦音。その感触だけを頼りに慎重に進むと、V字に折れ曲がって崩落した巨大な梁の下に、二つの小さな影があった。
少年と、それよりさらに小柄な少女。
少年の右足首。それが、落下したH鋼の鋭利な端部に完全に挟み込まれ、身動きが取れない状態だった。
少女は、少年の左腕を両手でしっかりと掴んだまま、決して離そうとしなかった。
子どもの腕力で引っ張ったところで、数トンの鉄骨がびくともするはずがない。それをしっかりと理解していながら、本能的に手を離すことができない。そういう、悲痛で強烈な握り方だった。
近づいた俺の足音に気づき、少年の目が俺を捉える。
その瞳に浮かんでいたのは、子どもらしい恐怖や、助けが来たことへの安堵ではなかった。俺という人間の価値を瞬時に見極めようとする値踏みの色だ。
こいつは純粋に助けに来たのか、それとも身ぐるみを剥ぐという別の目的があってここにいるのか。
生き延びることに慣れきった、冷たい野良犬の目だった。
「……動くな」
俺は少年ではなく、少年の足を拘束している鉄骨の構造を見た。
そのまま上に持ち上げようとすれば、H鋼が逆にねじれて足首への圧力が増大し、骨を完全に粉砕する。強引に足を引き抜こうとすれば、錆びた端部の鋭い断面が皮膚と肉を削り落とし、致命傷ともなりかねない出血を招く。
鉄骨の三メートル先。そこに半ば崩れた巨大なコンクリートブロックが転がっているのを視界に収める。
それを支点にして鉄骨を横方向にずらせば、少年の足が抜けるわずかな隙間を生み出せると判断した。
俺は外骨格であるリグのフレームを、H鋼の下端に密着させる。
荷重を面で分散させながら、腰の回転トルクを使って斜め上方へと押しだす。
足裏から地面への荷重逃がしと、全身の連動。数トンの質量を持つ鋼鉄の塊が重力に逆らって、ミリ単位で浮き上がり始める。
だが、想定が甘かった。
ブロックとの接触部。そこで鉄骨が耳障りな金属音を立ててきしむ。このまま単一方向へ力をかけ続ければ、支点にしているブロックそのものが割れてしまう。
体勢を低く沈める。腰から力をかけ直し、今度はリグのフレーム全体を一枚の強固な壁として扱うように、体全体で鉄骨を押し込んだ。
その瞬間、俺の右肩の奥で「ギュ……」と不快な音が鳴った。
腕の人工筋繊維。それが急激なトルクの増加を受けて、耐えきれずに粘りのある抵抗を起こした異音だ。
少年が、そのかすかな駆動音を聞き逃さなかった。
鉄骨の重さに押し潰されそうで、苦痛に顔を歪ませていたはずなのに、その瞬間だけ表情がスッと消えた。値踏みの目が、俺を探る目へと変化していた。
鉄骨が数センチずれ、少年の足首が拘束から解放される。
俺はまず、少女の細い腕を掴んで危険エリアの外へと引き出した。彼女は俺が手を差し伸べる前から、自分からしがみつくように掴んできて、一言も声を出さなかった。ただ、握り返してくる力だけが異様に強かった。血の気が引いて氷のように冷えた手だったが、俺の装甲越しにも伝わるほど、その力には人としての温もりがあった。
続いて少年の腕を掴んで立たせる。足首は紫色に腫れ上がっているが、骨までは達しておらず、自重を支えて歩行できる程度の怪我のようだった。
「歩けるか」
「……歩ける」
「ならいい。出口は自分で探せ」
それだけ言い捨て、俺は踵を返した。
少年がまだ何か言いたそうに口を開きかけたのは、背後の空気の動きでわかった。
俺の正体を問いたいのか、それとも律儀に礼を言おうとしているのか。判断はつかなかったが、俺は立ち止まらなかった。
助けた理由に、崇高な理念や特別な根拠があったわけではない。瓦礫の向こうに声が聞こえ、そこに壊れかけの構造物があった。だから排除した。ただそれだけのことだった。
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コンクリートの欠片。
その表面には、薄く赤茶けた錆の色が滲んでいる。
あの崩落現場の粉塵が染み込んだ結果なのか、それともこの工房に持ち込んでからのひどい湿気で後からついたものなのか。今となっては確かめようもない。
親指で弾くようにゴミ箱に向かって軽く投げ入れる。底の鉄板を叩くカラカン、という乾いた音がして、工房は再び静寂に包まれた。
今日のウェスは、食料を四本持ってきた。
自分の分だけでなく、ナオの消費分も含めて計算してきたのだ。
エネルギーの変換効率、移動によるカロリー消費コスト、在庫の残量、そして次の補充タイミング。それらを内部で処理するだけではなく、実際に行動に移すスピードが異常なほど速い。
純粋な効率だけで考えれば、こんな下層の片隅にいる俺との取引など、ウェスにとって移動のカロリーに見合わない、割に合わない話のはずだ。それは一年前から何も変わっていない。
なのに来る。毎回来る。
そのたびにウェスは舌打ちをして、無駄を嫌悪する計算の目をして、それでも確実にパックを置いていく。
一年前、あの瓦礫の下にいた子どもが、少しだけ変わったのかもしれない。それを確かめる術はない。ただ、手のひらに残る食料パックの確かな重みが、そう思わせた。
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ウェスは工房の前の暗い通路で、ピタリと足を止めた。
厚い鉄扉の向こう側。そこでカイトが何をしているかなど、知る由もない。どうせまた、残った珈琲でも飲んでいるのだろう。
あの男は毎朝、狂ったようにそれをやっている。
手動で豆を挽いて、沸かした湯を注いで、ゆっくりと飲む。ただそれだけのためだけに莫大な時間を使っていて、朝の貴重なμセルの電力を、あの黒い液体を抽出するためだけに無駄に消費している。
それが、ウェスにはどうしても理解できなかった。
左手首に視線を落とす。
「ジジッ」と放電音が鳴り、今日も小さな液晶の数値は規則正しく動いていた。
寿命計。
そこに刻まれた数字が、一秒、また一秒と確実に減っていく。その感覚にはもうとうに慣れているはずなのに、数値が更新されるのを見るたび、腹の底に氷を押し当てられたように冷える。
なんで焦らないんだ、あの男は。
エネルギーは有限で、生命の時間も有限だ。
この光の届かない下層に生まれた時点で、その揺るぎないルールは決定づけられている。ウェスはそれを毎日、毎分、この手首のデバイスで突きつけられ続けている。
交換できる代替臓器の数も限られているし、スクラップから稼げるμセルも限られている。一度の呼吸、一度の瞬きすらコストだ。
なのにあの男は、時間にもエネルギーにも追われていないような、まるで世界のルールから外れたような顔で、あの古臭いカップをゆっくり口に運んでいる。
何が彼をそうさせているのか。推論をいくら重ねても、ウェスには理解できなかった。
さっきの、パッケージの圧着テープのことを思い出す。
また苛立ちが胸の奥で燻り始めた。今日中に食ってしまえばそれで終わりの品だ。なぜあんな無意味な手間をかけるのか。
テープ一枚を真っ直ぐに貼る。その数秒の動作が、下層の人間にとってどれほどのエネルギー消費を意味するか。あの男は計算していないのか。それとも、すべて計算した上で、あえて無駄なことをやっているのか。
どちらにせよ、ウェスにはその行動原理が意味不明だった。
そして、計算式の合わない不具合のような「わからないこと」が目の前にあること自体が、ウェスにはなぜか酷く腹立たしかった。




