03
鉄扉が蹴り開けられる。
同時に、工房の内側に充満していた濃厚な珈琲の香りが、流れ込んできた廃駅の湿った空気と一気に混ざり合い、急速に薄まりながら散っていく。
錆びついた蝶番。それが金属同士を削り合わせる乾いた悲鳴を上げ、重い鉄扉がコンクリートの壁にぶつかる。強烈な衝撃。それが床のひび割れを伝わり、ブーツの底から足の裏へと確かな振動となって響いた。
吹き込んだ冷気とともに立っていたのは、ひとりの少年だった。
飢えとは違う、異常な痩せ方をした体躯。
余分な脂肪をすべて削ぎ落とし、剥き出しの神経と骨格だけで立っているような、危うい細さだ。全身に這わせた自作の配線。その胸元には、使い込まれて薄汚れた小型バッテリーが幾つも無造作にぶら下がっている。一見すると不格好なガラクタの塊だが、重心のバランスやケーブルの取り回しに無駄は一つもない。剥き出しの銅線が肌に直接触れており、微量の漏れ電流が皮膚を浅く焼いた痕が首筋にいくつもある。
踏み込む足音は、ほとんど無音に近い。
少年はまず、冷ややかな視線で作業台全体を一瞥する。部屋の状況、俺の体勢、武装の有無。それらを瞬時に測り終え、次の瞬間には真っ直ぐに俺の目を見た。
まるで部品の価値を値踏みするような、鋭く乾いた目。ウェスだ。
「……来たか」
俺は作業台の端に置いてあった分配タンクを手前に引き、少年の側へ向けて勢いよく滑らせた。
中には昨日の排熱から強引に抽出した電力が詰まっている。外装のアルミ合金。それが細かい砂の浮いた鉄の作業台を引き擦る。ギリギリという不快な摩擦音が工房の空間に転がり、ドーム状の天井でしばらく反響した。
しかし、ウェスは受け取ろうとはしない。
視線は俺の手の中にあるカップに落ちている。まだ白い湯気を立てている珈琲の黒い液面。その水面がかすかな振動で薄く揺れるのを、じっと追っていた。立ち昇る陽炎が、室内灯の人工的な白い光の中でゆらりと形を変えている。
「……450kJ。それ、一杯で今日のナオの昼飯の足しにはなるだろ」
少年の声に棘はない。ただ、機械のように計算している。
珈琲を淹れるために消費された熱量。それを瞬時にカロリーや通貨に換算し、数字の意味を整理しているのだ。その思考プロセスが、かすかに動く眼球の動きに表れている。
「そうかもしれないな」
俺は淡々と答えながら、珈琲を一口飲んだ。
強烈な苦味が喉の奥で熱の塊に変わり、食道を通って胃の腑へとゆっくり降りていく。冷え切った工房の中で、その熱だけが俺の身体に確かな質量を与えていた。
「だったら、コスパが最悪だとは思わないか」
ウェスは言葉を足した。問いかけというよりは、その経済性の破綻具合を確認するような口調だ。俺の答えを求めているわけではなく、俺という不可解な男がどう反応するかを、ただ測っている。
「そうだな」
短く同意しながら、もう一口飲む。
ウェスが何かを言いたそうに薄い唇を引き結んだのがわかったが、それ以上言葉が続くことはなかった。
ウェスは一度だけ短く舌打ちをした。
それが取引開始の合図だ。背中のポーチから食料パックを取り出し、作業台に並べていく。
合成タンパクと圧縮炭水化物のブロック。計四本。
密封された灰色のパッケージ。手に取れば、見た目のチープさとは裏腹に、高密度の重みが掌に沈み込む。
俺はそれを受け取る前に、親指の腹でパッケージの側面をゆっくりとなぞった。
製造時の圧着ライン。成形金型が熱で押し当てた際の微細な段差。そこが、端の一か所だけわずかに浮き上がっている。
封が甘い。この微小な隙間。そこから廃駅特有のアンモニアを含んだ湿気が入り込めば、端から内部の炭水化物に向けて静かに腐敗が進んでいくだろう。
腰のポーチから防水性の高い圧着テープを取り出し、浮いている部分に慎重に貼り付けた。空気を抜きながら、指先で入念に擦る。
「……今日中に食っちまうなら、手間をかける意味がないだろ、それ」
一連の動作を黙って見ていたウェス。数秒の沈黙の後、疑念と苛立ちが混ざったような声で小さく呟いた。
「明日もまだ食うかもしれないからな」
それだけ言って、テープを貼り終えた面をもう一度軽く押さえた。粘着剤がパッケージの素材に完全に馴染むまで、少しだけ圧力をかけ続ける。
ウェスにとってはおそらく、秒単位の時間を無駄にする意味不明な手順に映っているはずだ。
ウェスは何も言わなかった。
代わりに左手首へ視線を落とす。手首に巻かれたデバイス。それがかすかに「ジジッ」と鳴った。
青白い微小な放電のノイズ。そのデバイスは、この少年に残された寿命という名の時間を、今この瞬間も無慈悲に数え続けている。
取引の確認は一分もかからなかった。抽出したセルと食料パックを交換する。それだけだ。
紙の契約も、電子的な確認書もない。この下層では、信用とは言葉で交わすものではない。ただ取引の回数を積み上げて証明するものだ。
「そういえば」
立ち去る直前、ウェスがふと思い出したように口を開いた。
「最近、中層との境界壁のあたりを嗅ぎ回ってる頭のイカれた女の運び屋がいるらしい。重機バイクで派手に暴れ回ってて、上の治安維持部隊もピリピリしてる」
少年は俺の古い人工腕を冷ややかに一瞥する。
「あんたもパーツ漁りで上の方に行くときは、面倒に巻き込まれないように気をつけなよ」
「……忠告、痛み入るな」
俺が適当に聞き流すように返すと、ウェスは自身の短い生を分単位で計算するかのように、今度こそ素早く踵を返した。
「……待て」
言葉を発したのは、深い意図があってのことではなかった。ただ、なんとなく、この効率の塊のような少年をもう少しだけ引き留めてみたかったのだ。
「なんだよ」
少年は立ち止まったが、振り返ることはしない。扉に向けたまま、肩越しに冷たい声だけを投げてくる。
「ナオは今日も工場に出ているのか」
少年の背中。それが一瞬だけ、ほんの少し固まる。
背筋に沿って微弱な電流が走り、筋肉が反射的に硬直したような、かすかな緊張だった。
「……そうだよ」
それだけ言い捨て、重い鉄扉を引き開ける。
ウェスの細い身体は、廃駅の湿った暗がりの中へ音もなく消えていった。
金属の蝶番が再び噛み合う音が響き、扉が重い音を立てて閉まる。その残響がコンクリートの壁の間を何度も跳ね返り、長く尾を引いてからようやく消滅した。
工房には、再び焦げたような珈琲の香りだけが取り残された。
ウェスが来てから少し温度の下がったカップ。そこに視線を落とし、最後の一口を一気に飲み干す。
冷めかけた液体が喉を通る感覚。それは温かいときとは違う、泥水のような不快な質量を伴っていた。
空になったカップを作業台に置き、工房の隅を整理していた手を止める。
指先に触れたのは、硬いコンクリートの欠片だった。
二センチほどの小さな塊。その断面は、大きな塊から無理やり剥離した際の、引き千切られたような粗さを持っている。張力と圧力の複合応力によって無惨に割れた、構造物特有の破面だ。
このざらついた冷たい感触。俺はそれを掌の感覚でよく知っている。
一年前の崩落現場。そこで握りしめた瓦礫と、まったく同じ質感だった。
「人間」:「μセルを精製・活性化するための培養槽」として利用される生体触媒となった。
「生体触媒」:特定の感情やストレス下で分泌されるホルモンや神経パルスが、μセルの「情報の純度」を高める。




