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マリエルの仮想空間からウェスの意識を引き剥がし、俺たちは泥濘のような現実へと這い戻った。
中層エリアの空気には、下層の錆びついた湿気とも、タワー上層の冷たい静寂とも違う、鼻を突く消毒液の匂いが微かに混じっている。
重い防爆ドアが低い駆動音を立てて開き、サツキの診療所が俺たちを迎え入れた。
限界を超えて酷使した右腕からは、じりじりとした微小な排気音が絶え間なく漏れ出している。
表面の耐熱服は焦げ、内部の熱耐性格子が異常な高負荷を生み出し続けていた。
息を呑むナオが、不安げに俺の顔を見上げている。
ウェスはまだ仮想と現実の感覚のズレに眩暈を覚えているのか、壁に手をついて荒い息を吐いていた。
「……相変わらず、無茶苦茶な使い方をしてくれるね」
白衣のポケットに手を突っ込んだサツキが、呆れたような、しかしどこか諦観の混じった声で出迎える。
彼女の視線は、俺の右腕から立ち昇る陽炎のような空気の歪みに真っ直ぐ向けられていた。
ここは嵐をやり過ごすための、つかの間の休息地だ。
だが、右腕の内部でポリマーマッスルが軋む嫌な音は、もはや後戻りできない臨界点を超えていることを冷酷に告げていた。
サツキは無造作に医療用のキャビネットを引き開け、厳重にロックされた保管庫から一つのアンプルを取り出した。
粘度の高い赤黒い液体が、硝子管の中でぬらりと揺れる。
「最終手段だ。あんたのその右腕、もう骨の周りのサーマルラティスが完全に硬化しちまってる。それを力ずくで流動化させる《珪素キレート剤》だよ」
サツキはアンプルを、俺の無事な左手に押し付けた。
触れた硝子の表面は、異様なほど冷たかった。
「打てば、固着したサーマルラティスが強制的に溶けて動くようになる。だが、反動で組織構造そのものがドロドロに崩壊する。文字通り命を削る劇薬だ」
俺はその冷たさを掌で確かめるように、静かに握り込む。
失われた感覚を取り戻すための薬ではない。
完全に壊れるまでのわずかな時間を、力ずくで前借りするための代物だ。
「十分だ」
短く答え、アンプルを腰のポーチに収める。
サツキは小さく息を吐き、モニターに映るタワーの構造図へと視線を移した。
これから俺たちが向かおうとしている場所は、この都市のすべてのエネルギーと論理を管理する中枢だ。
エネルギーの逆流やシステムエラーが起きれば、この中層エリア全体が余波で吹き飛びかねない。
「サツキ。頼みがある」
静かな診療所に、俺のひどく掠れた声が響く。
「ナオを連れて、最下層へ降りてくれ。下層に着いたら運び屋のマキと連絡を取って、ジジの店に身を隠せ。あそこの分厚い防壁なら、何が起きても凌いでくれるはずだ」
サツキは一瞬だけ反論しようと口を開きかけた。
だが、俺の放つ過剰な排気圧と、誤魔化しようのない決意を感じ取ったのか、呆れたように短く息を吐く。
「……マキかい。あの腕の良い運び屋なら、ウチの非合法な医療物資の調達で何度も使ってるから、確実な連絡のツテがあるよ。まったく、あんたたちの尻拭いまでさせられるとはね」
中層はタワーからの直接の余波を受けやすい。
エネルギー炉の暴走や防衛兵器の無差別展開が起これば、彼女たちが生き残る確率は極めて低くなる。
「分かったわ、運び屋に連絡取って下層に着いたら合流、衛生観念の薄いあの爺さんのところに行くのは釈然としないけど」
サツキが力強く頷き、必要な医療キットを素早くケースに詰め込みながら退避の準備を始めた。
ナオは不安げに見上げてきたが、俺の静かな覚悟と視線に、ただ小さく頷きを返した。
戦力を下層の安全圏に集約し、守るべきものを確実に隔離する。
俺は深く息を吸い込み、少しだけ軽くなった肩の力を抜く。
仲間たちが下層への搬送用エレベーターへと乗り込んでいくのを見送り、診療所には俺とウェスの二人だけが残された。
不気味なほどの静寂が、温もりの一切ない空間に降りてくる。
ウェスは自身の左腕にある寿命計の発光を見つめていた。
その数字は絶えず減少し、彼の生身の残り時間を無慈悲に削り取っている。
だが、今の彼の瞳に、かつてのような死への恐怖や焦燥はない。
「俺の寿命を狂わせた元凶が、あそこにいるんだな」
ウェスの声は驚くほど平坦で、確かな意志を帯びていた。
「そうだ。すべての始まりであり、すべての終わりだ」
俺は右腕の強化服から焦げる匂いがするのを無視し、パイルの装填機構を手触りで確認する。
ガシャリ、という重い金属音が、静かな空間に決意の楔を打ち込むように響いた。
ウェスは自身の端末をベルトに固定し、俺の隣に立つ。
マリエルの仮想空間で俺が示した、予測不能な行動原理と人間としての意志。
それを間近で感じ取ったウェスは、もはや単なるハッカーではなく、世界の構造そのものを力ずくで書き換えるための共犯者としての覚悟を決めていた。
俺たちの視線の先には、見えないタワーの中枢が立ちはだかっている。
「行くぞ」
短い言葉を合図に、俺たちは診療所を後にした。
かつては孤独に死を待つだけだった俺の隣には今、共に未来をこじ開けようとする若き意志が並んでいる。
中層の通路は静まり返り、排気口から吹き出す生ぬるい風だけが足元を掠めていった。
目指すは『セントラル・タワー』。
112年前のあの日、世界の理を書き換え、俺からすべてを奪い去った元凶が打ち立てた場所だ。
体内では、限界を迎えたポリマーマッスルが悲鳴を上げ、過剰な摩擦が皮膚の下をじりじりと焼いている。
だが、その絶え間ない痛みこそが、俺が今を生きている確かな証明だった。
ウェスの端末が、タワーの外部防壁に隠されたメンテナンス用の暗号搬入路を割り出していく。
計算で構築された強固な檻を、質量を持った熱と意志で破壊するための歩み。
背中を追うように、中層の照明が次々と明滅を繰り返す。
すべての嘘と真実が眠る場所へ向け、歯車は完全に回り始めていた。
戻る道はない。
俺たちが刻む足音は、静止した世界にひびを入れる最初の振動として、タワーの奥深くへと響いていった。




