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溶け落ちた分厚いファイアウォールの奥。純白の情報の海に深く沈みかけながらも、ウェスの意識は全体に呑み込まれまいと必死に抗い続けていた。
個としての輪郭が曖昧にぼやけていく中で、彼は自身の不器用で泥臭い自我をギリギリのところで保とうともがいている。
俺は泥水のような情報の海を掻き分け、その中心に向かって重い腕を迷いなく突き入れた。
システムの放つ強烈な拒絶の圧力を跳ね除け、俺の手は確かに彼の意識の中核を強く掴み取る。
俺の自我の底からとめどなく溢れ出している強烈な意志が、接触した部分からウェスのデータへと急速に流れ込んでいった。
「目を覚ませ、ウェス! 俺の手を絶対に離すな!」
声帯を持たないはずの無音の空間に、俺の強い意志が雷鳴のようなノイズとなって激しく響き渡る。
その叫びと決意の衝撃によって、ウェスの意識が深い泥の底から一気に浮上するように、完全に覚醒を果たした。
だが、システム上で俺の手が彼と直接接合したその瞬間、無音だった空間の底から不測の事態が引き起こされる。
防御壁を失った互いの接合部を通じて、この仮想空間に囚われ、そして静かに呑み込まれていった無数の人々の記憶が、激流となって俺たちの脳髄へと直接流れ込んできたのだ。
それは、シオンの用意した偽りの極楽の中で、四十年の寿命を全うして静かに溶けていった者たちの、途方もなく重い人生の蓄積。
彼らが抱えていた安らかな諦めと、その奥底に沈殿していた泥臭い生への未練が、巨大な感情の渦となって俺たちの自我を容赦なく削り取っていく。
何万、何十万という他者の記憶の海に呑まれ、俺という『個』の輪郭が曖昧にぼやけ始める。
抗う気力すらも奪い去るような、心地よくも死のように静かな忘却の誘惑。このまま情報の波に身を委ねてしまえば、どれほど楽になるだろうかという甘い錯覚が脳裏を過る。
だが、俺はその強烈な同化の圧力に歯を食いしばって耐え、力強い腕でウェスをさらに強く引き寄せた。
「呑まれるな、ウェス! 他人の記憶の波なんかに絶対に流されるな!」
声帯を持たない空間で、俺の強い意志が彼を繋ぎ止めるためのノイズとなって激しく響き渡る。
「お前はお前だ! 泥水を啜ってでも自分の足で生きてきた痛みを、絶対に手放すな!」
俺の放つ不格好な強い意志が、甘い忘却に溶けかけていた彼の輪郭を黒く焦がすように、明確な境界線を描き始める。
システムから流れ込む無数の記憶の波に押し潰されそうになりながらも、彼の中で再び生への激しい渇望が脈打ち始めた。
彼自身の放つひどく人間らしい不器用な強い意志が、情報の濁流を跳ね除け、俺の握る手から全身へと確かに伝わってくる。
だが、二人の意志が力強く交わったその直後だった。
「私の完璧な箱庭に、あなたのような古き欠陥品は不要なのです!」
常に慈愛に満ちていたシオンの声に初めて明らかな焦りが混じり、システム全体が荒れ狂うように激しいノイズを放ち始める。
完璧な静寂を乱す危険な異物として俺たちを完全に排除すべく、シオンは巨大で暴力的な情報の嵐を巻き起こし、四方八方から容赦なく襲いかかってきた。
周囲の空間がひどく歪み、仮想空間の重圧が手足を切り刻まれるような激痛となって急激に襲いかかってくる。
少しでも気を抜けば、情報の波に呑み込まれ跡形もなく消し去られてしまうほどの、底知れぬ圧力が空間を支配する。
だが、俺は仮想空間での無意味な回避行動を完全に放棄し、現実の自らの肉体に向けて、極太のネットワークを通じてたった一つの逆命令を送る。
すべての安全装置を強制的に焼き切り、限界を超えてすべてを燃やし尽くす。
それは単なる自暴自棄ではない。俺がかつてこの都市を設計した際に組み込んだ、最下層のハードウェア・プロトコルを利用した意図的なエラーの誘発だった。
俺の強烈な意志に呼応し、現実の肉体が猛烈な唸りを上げて激しい摩擦熱を生み出し始める。
マグマのように噴き出した異常な熱暴走のデータは、致命的なハードウェア・エラーとしてダイブ装置を逆流し、俺のいる仮想空間へと大量に注ぎ込まれていった。
「なっ……! 私の防壁をすり抜けて、ありえないはずの『熱』が流れ込んでくる……!?」
シオンが驚愕の声を上げる中、熱暴走のデータはシステム保護の最優先事項――不可避の割り込み処理として、彼女の構築した高度なソフトウェアの論理を最下層から強制的に停止させていく。
「お前のいうその完璧な措置も、『熱暴走時は全処理を中断して冷却を優先する』っていう泥臭い基礎カーネルの上で動いてるに過ぎないんだよ」
俺の言葉がすべてを圧し潰すような圧倒的な気迫の波となり、仮想の純白の大地をドロドロに溶かしていく。
「動けば熱が出る。熱が出れば何かが軋む。そのどうしようもない痛みが……俺たちが生きているということだ!」
俺たちの手から放たれる荒々しい気迫の連鎖が、迫り来るシオンの冷たい刃を次々と蒸発させ、この下層の檻を内側から激しく崩壊させていた。
シオンの作り出した美しい幻影や強固な論理の壁が、俺たちの放つ規格外の気迫によって炎を上げて次々と溶け落ちていく。
完璧だったはずの世界が激しく崩壊し、足元からひび割れた空間が真っ白な閃光へと反転していった。
「ああ……私の、理想郷が……こんなノイズに……!」
すべてが光に包まれるその瞬間、崩れゆくシオンの体が激しいノイズにまみれて溶け落ちていくのを俺は見た。
永遠に続くはずだった彼女の完璧な箱庭は、二つの命が放つ泥臭くも力強い生命力に耐えきれず、跡形もなく消え去ろうとしている。
だが、その崩壊の行く末を最後まで見届ける暇もなく、俺たちの強固な意識は乱暴に光の中へと飲み込まれていった。
限界の軋みを上げる痛みに満ちた現実の重い肉体へと帰還するべく、俺たちの確かな意志を帯びた意識はシオンの残骸を強引に振り切った。
そして、重力と摩擦の存在する元の騒がしい世界へと、凄まじい速度で引き戻されていく。




