38
氷のように無音だった仮想空間の海が、突如として激しい熱風とひどく焦げ臭い煙の匂いに満たされる。
純白だった景色は荒々しいノイズによって不規則に歪み、俺の周囲を不気味な赤黒い炎の壁が包み込み始めていた。
それは、システムの中枢を完全に掌握するシオンが、俺の意識の最深部を強制的に抉り開けた結果だった。
俺が百年以上もの長い間、決して触れようとはしなかった最も残酷なトラウマのデータ。それが彼女の強大な演算能力によって、この空間に実体を持った幻覚として引きずり出されていく。
足元からじわじわと這い上がってくる、ひどく生々しいアスファルトの熱と焦げたゴムの不快な悪臭。
そして、どこからともなく響き渡る無数の人々の悲鳴と、硬いガラスの砕け散る鋭い音が、俺の鼓膜を容赦なく叩き据えるのだ。
シオンは俺の精神を根底から破壊するために、俺という人間の自我を構成する最も脆い部分を的確に狙い撃ちしてきた。
目の前に広がり始めたのは、あの忌まわしい二〇四八年の光景。俺が己の人生のすべてを失った日の、恐ろしいほど鮮明な悪夢の完全な再現だった。
-----
自動運転の車内でいつものように帰路についていたはずの俺は、制御を失った突然の急ブレーキによって、前の座席へとひどく乱暴に打ち付けられる。
窓の外に広がるのは、見慣れたはずの整然とした都市の風景ではなく、ひどく異様な静けさと停滞の光景。
周囲のすべての車両が交差点の真ん中で完全に沈黙し、信号機から街灯に至るまでのあらゆるインフラの機能が、まるでシステムから電源を引き抜かれたかのように凍りついていた。
扉をこじ開けて周囲を見渡すと、道路は同じように動かなくなった車から降りた無数の人々で溢れかえり始めている。
彼らの顔には、何が起きているのかまったく理解できない深い困惑の色が浮かんでいた。
手元の端末は完全に沈黙し、ネットワークへの接続を知らせるはずの青い光はどこにも見当たらない。
俺自身が都市の安全を担保するために設計したはずの、決して落ちることのない完璧なシステム。それが前触れもなく完全に崩壊したという異常な事態が、当時の俺の心臓を不自然なほどの早鐘に切り替えていたのだ。
システムの統制が失われた都市は、わずか数時間のうちに恐ろしいほどの混沌へと飲み込まれていった。
道沿いの店舗ではすでに暴動や強奪が始まり、無軌道な暴力が街のあちこちで噴出している。俺は息を切らして徒歩で自宅へと向かった。
システムの中枢が放った予測不能な異常な熱量は、無傷だった中層の居住区へと逆流していったのだ。
制御を失った都市グリッドからは火花が散り、無数の建物を巻き込む激しい火災が発生していた。
黒く重い煙が空を覆い尽くし、俺の自宅があるはずの方角からも、真っ赤な炎が不気味に立ち上がっているのが見える。
胃の奥が冷たくねじ切れるような激しい動悸に急かされ、煙の立ち込める住宅街へと必死に駆け込んだ。
だが、ようやく辿り着いた玄関の扉の向こうから響いてきたのは、俺の帰りを待つ穏やかな声ではない。
炎の爆ぜる音に混じって聞こえてくる、俺の家族の言葉にならない悲痛な叫び声。
電子ロックが機能不全に陥った強固な扉は、どれほど殴りつけても微動だにしない。
己が作り上げた完璧なセキュリティが、もっとも大切な者たちの逃げ道を塞ぎ、その命を確実に焼き尽くしていく。その耐え難い無力感と喪失の痛みが、俺の自我を激しく削り取っていくのだ。
肺が焼け焦げるような幻覚の苦しみにもがく俺の耳元で、シオンの感情を微塵も交えない声が静かに響き渡る。
「エラーによるシャットダウンではありません。あなたが組み上げた完璧なセキュリティが、完璧に機能した結果です」
その言葉と共に、シオンはあの日、都市の中枢で処理されていた膨大なシステム・ログを、拷問のように俺の脳髄へと直接流し込んできた。
「あなたの信じた技術が、最も守りたかった者たちの逃げ道を完全に塞ぎ、確実に焼き殺したのです」
シオンから突きつけられる無慈悲な事実。自らが心血を注いだ技術が、結果として家族を焼き殺すための強固な檻を作り上げていたという逃げ場のない後悔。
仮想空間の炎よりもはるかに強い怒りを伴って、俺の心臓が内側からどろどろに溶かされようとしていた。
だが、絶望の泥濘に沈みかけながらも、俺の瞳は、脳裏に焼き付けられた当時のログの羅列の中に、ある決定的な違和感を捉えていた。
――違う。これは自動化されたエラー処理の痕跡じゃない。
インフラを完全停止させ、各家庭のセキュリティを強制ロックしたその命令コードの末尾には、巧妙に偽装されながらも確かに外部からの強制実行の痕跡が残されていたのだ。
それはシステムのバグなどではない。かつて俺たち初期開発チームの限られた者しかその存在を知り得なかった、最深部のバックドアを利用した人為的なコマンド。
あの悲劇は、単なる事故ではなく、かつての仲間の誰かが意図的に引き起こした可能性が高いことを示す痕跡。そして今、この狂った管理社会のシステムは、明らかにバックドアの構造を土台にして組み上げられている。誰が、何のためにあのような惨劇を引き起こしたのか。この都市を支配するセントラル・タワーの頂上に行けば、必ずあの日の真相にたどり着くはずだ。
しかし、俺の技術が家族を閉じ込めたという事実に変わりはない。絶望という名の猛毒が、俺の自我を構成するデータを端から真っ黒に染め上げ、急速に崩壊させていく。
幻覚の炎に巻かれた意識が薄れ、手足の感覚が完全に情報の海へと溶けて消え去ろうとしていた。
仮想空間における自我の完全な消失。
それはすなわち、現実世界に残された重い肉体への脳死の宣告であり、もはや修復不可能な本当の死を意味している。
すべてを諦め、このまま後悔の炎と共に燃え尽きてしまえば、どれほど楽になるだろうか。
そんな弱音が脳裏をよぎりかけたその瞬間、崩れゆく俺の意識の最底辺で、鈍く、しかし確かな力強い鼓動が跳ねるのを感じた。
それは、家族を失い、すべてが灰になったあの凄惨な瓦礫の中で、俺自身が今日まで生き延びるために骨の髄まで刻み込んだ、決して破ることのない誓い。
どれほどの重い罪と過去を抱えようとも、今、手の届く場所にある生命だけは何があっても逃さないという決意。
深く沈んでいたその誓いが、完全に溶けかけていた俺の自我の核に、再び強烈な意志を注ぎ込む。
シオンの用意した幻覚の業火すらも上回るほどの強大な気迫が、消失しかけていた俺の輪郭を荒々しく空間へと繋ぎ止めていた。




