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ウェスの意識は、果てしなく広がる純白の空間の中をただ宛てもなく漂い続けていた。
そこには上下の感覚も、光を放つ確かな光源すらも存在しない。
下層の生活で常に彼を苛んでいた、肌を刺すような冷たい隙間風や、胃を激しく締め付ける強烈な飢えや息苦しい空気の重さすらもが、この仮想の空間からは完全に消え去っている。
ここは熱も摩擦も、体を縛り付ける重力さえも存在しない情報の海。文字通り、死のように平穏で、恐ろしいほどの無音の世界だった。
ウェスは自分の体を見下ろそうとしたが、そこに確かな肉体の感覚はどこにもない。
ただ自分という存在が、希薄なデータとしてこの無限の空間に溶け込んでいるという漠然とした認識だけがある。
「これが……救済……」
ウェスの口から、声にならない微かなつぶやきが漏れる。
肉体から来るすべての苦痛から完全に解放されたその深い安堵感に、彼は自らの意識を委ねようとしていた。
もう、これ以上何も考える必要はない。
不条理な四十年という寿命に追われ、明日を生きるために泥水の中で必死に足掻く必要もないのだ。
だが、その完璧に調整された極楽の中で、ウェスの意識は微かな違和感を覚え始めていた。
肉体の持つ苦痛が完全に消え去ると同時に、自分が自分であるという存在の輪郭までもが、少しずつ曖昧にぼやけ始めていることに気づいたのだ。
下層の暗がりで懸命に生き抜いてきた泥臭い日々の記憶や、ナオの不安そうな泣き顔。そして、裏切られたと感じてカイトにぶつけたあの激しい怒りの感情すらもが、古い写真が徐々に色褪せるように急速に意味を失っていく。
頭の中にあったはずの鮮烈な意志が、真っ白な海の中へと跡形もなく溶け出してしまう。
それは、自分を形作っていた大切な感情や記憶が、根本からごっそりと奪い取られていくような奇妙な感覚だった。
苦痛の一切ない完璧な安らぎの裏側に潜む、自分が自分ではなくなってしまうという静かで底知れぬ恐怖の始まり。
その確かな危機感が、すでに形を失いかけている彼の心をひどく冷たく締め付ける。
しかし、その理屈を超えた恐怖のさざ波すらも、空間の放つ抗いがたい平穏のうねりにすぐに飲み込まれそうになる。
必死に輪郭を保とうとする彼の意志は、この情報の海の中ではあまりにも脆く無力だった。
周囲の果てしない白い海からは、無数の人々の意識の残滓が静かに流れ込んでくる。
ウェスと同じようにこのシステムへと取り込まれた者たちが、個としての形を完全に失い、巨大な全体の一部として溶け合っていく気配がそこにはあった。
他者との境界線が消滅し、すべてが一つのデータとして統合されていく恐ろしいほどの心地よさ。
それに抗わなければならない理由を、ウェスはもはや明確に思い出すことができない。
自分という小さな個体に執着することの無意味さが、甘い毒のように意識の奥底へと浸透していく。
彼の意識は、シオンが周到に用意した「完璧な静寂」の最深部へと、静かに、そして確実に沈みかけていた。
だがその時、波一つない無音の海に、突如として激しい亀裂のような波紋が走った。
空間の完璧な法則を強引に引き裂くように侵入してくる、不格好で規格外の情報の塊。
それは、現実の肉体の重さと限界の気迫を背負ったままダイブしてきた、俺の荒々しい意識の波動だった。
「ウェス……!」
情報の海を大きく揺るがすような、不器用で強い意志の叫び。
その泥臭い強い意志の接近が、完全に溶けかけていたウェスの意識の輪郭を、間一髪で空間に繋ぎ止めたのだ。
俺は純白の海の中に沈みかけているウェスの姿を捉え、情報の波を掻き分けて彼に向かって強く手を伸ばす。
だが、この仮想空間を支配する強固な法則は、異物である俺の意識体にひどく重い枷をはめ込んでいた。
俺が現実世界でどれほどの分厚い装甲を持ち、人工筋肉による規格外の出力を誇っていようとも、ここでは何の意味も持たない。
すべては計算されたデータとして処理され、システムを根底から支配するシオンのルールだけが空間を完璧に統制している。
俺の動きは、まるで粘り気のある深い泥水の中をもがくように、ひどく鈍くて重い。
現実の肉体であれば容易に踏み越えられるはずのわずかな距離が、ここでは一歩前に進むことすら途方もない労力を強いられるのだ。
彼との距離を詰めようとするたびに、情報の見えない壁が俺の行く手を幾重にも阻んでくる。
システムの激しい拒絶反応が強大な圧力となって俺の意識体を押し返し、静かだった仮想の海が荒れ狂うようにうねり始める。
それでも俺は、現実の腕に刻み込まれた焼けるような痛みの記憶を足場にして、強引に前へと進む。
彼が完全にデータの海へと溶けてしまう前に、どうしてもその腕を掴み取らなければならないのだ。
俺が歯を食いしばりながら泥水のような空間を進む中、突如として周囲から冷ややかな声が響き渡った。
「そこまでです、古き技術者よ」
姿は見えないが、それは間違いなくこの空間の神として君臨するシオンの声だった。
情報を自在に操る彼女が空間の法則そのものを歪め、俺とウェスの間に強固なファイアウォールの絶壁を出現させる。
見えない分厚い壁が俺の進行を完全に遮断し、伸ばした手が空しく弾き返される。
システムの中枢において、彼女の演算能力は俺の抵抗を容易く無力化するほどに巨大だった。
「あなたは彼を救うことなどできない。なぜなら、彼を絶望の底へと突き落としたのはあなた自身なのですから」
シオンの無慈悲な言葉が、俺の意識の根幹を鋭く突き刺してくる。
そして次の瞬間、彼女の宣告が空間の景色を一瞬にして塗り替えた。
「あなたの背負う、決して拭い去れない罪を見なさい」
純白だった無音の海が激しくノイズを放ち、ひどくおぞましい色彩へと変貌を遂げる。
仮想空間には存在しないはずの、足元から吹き上がる熱風と皮膚が焼け焦げるような幻覚の業火。それは百年以上もの間、俺の心を蝕んできた最も恐ろしい記憶の炎だった。




