表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
INDEX  作者: クネロ
32/44

31

 中層の街角で、ウェスは巨大なホログラムモニターに映し出される聖女シオンの美しい説法に、文字通り心を完全に奪われていた。

 先ほどまで彼を圧倒していた雑踏の喧騒や、彼を透明人間のように扱う中層市民たちの冷たい足音は、すでに彼の耳に届いていない。ただ彼女の甘く透き通るような声だけが、神経の隙間に入り込み、麻薬のように脳内へ直接響き渡っているように感じられた。


「私たちは皆、限りある時間に怯え、重い体を引きずって生きています。でも、もうその苦しみに耐える必要はないのです」


 シオンの言葉は、まるでウェスの心の奥底に渦巻く絶望をすべて見透かしているかのように、優しく、そして滑らかに語りかけてくる。

 短命に苦しみ、下層の泥水の中で必死にもがいてきた彼の傷だらけの心に、その慈愛に満ちた言葉は恐ろしい速度で染み渡るように浸透していった。彼女の瞳の奥で明滅する複雑な数式やエネルギーの揺らぎが、ウェスの視界を優しく包み込み、外界の現実を白く塗りつぶしていく。


 カイトから突きつけられた残酷な真実によって、これまで寄りかかっていた拠り所を完全に失っていた彼にとって、シオンの存在は突如として現れた唯一の救いのように思えた。

 シオンはモニター越しに慈愛に満ちた瞳を向け、ウェスと同じ短命の者としての焦燥に深く共感しながら説き続ける。


「四十年という寿命の枷。そして、飢えや疲労、痛みを感じるこの燃費の悪い肉体。それらはすべて、古く泥臭い世界が私たちに押し付けた『呪い』なのです。本来、私たちが背負う必要のない、無駄で非効率な欠陥に過ぎません」


 彼女の言葉は、ウェスが常日頃から感じていた体の限界や、圧倒的な力の差という理不尽さを見事に代弁していた。

 彼がどれだけハッキング技術を磨き、どれだけ賢く立ち回っても、カイトのような強靭な物理的パワーや、この世界の決して覆せないほどの力構造の前では無力だった。肉体を持つ限り、彼らは永遠に「持たざる者」のままだ。


「もう、頑張らなくていいのです。エントロピーを増大させ、痛みに耐え、誰かと摩擦を起こして生きる必要はありません。その重い鎧を脱ぎ捨てて、私と共に情報の静寂……本当の平穏へと旅立ちましょう」


 「頑張らなくていい」。その甘美な一言が、ウェスの中で限界まで張り詰めていた緊張の糸を完全に断ち切った。

 カイトの強大な背中を追いかけ、この過酷な世界を生き延びるために必死に張っていた虚勢が、音を立てて脆く崩れ落ちていく。

 カイトの生き方は、常に痛みと熱を伴うものだった。彼の発する金属の軋み音、限界を超えた排熱、骨が砕けるような摩擦。それは確かに「生きている手応え」かもしれないが、ウェスにとってみれば、ただただ苦しいだけの終わりのない消耗戦だったのだ。


「肉体を捨て、精神と意識を私たちの用意した仮想世界へと移行すれば、そこには永遠の命と、一切の苦痛がない完全なる極楽が待っています」


 シオンは両手を広げ、すべてを包み込むような救済のビジョンを提示した。

 飢えも、寒さも、擦り減る寿命への恐怖も存在しない、完璧に制御された無音の海。そこでは誰もが平等であり、四十年という呪われた寿命から完全に解放されるというのだ。

 それは、過酷な現実を生きる者にとって、あまりにも甘く、そして抗いがたい強烈な誘惑だった。


「仮想空間への移行……。この身体を捨てれば、俺も……」


 ウェスはうわ言のように虚ろな瞳で呟く。

 カイトのような強靭な人工筋肉を持たず、常に自分の無力さを痛感してきた彼にとって、肉体という枷から解き放たれることは、何よりも魅力的な提案だった。


 ウェスは元々、効率と合理性を重んじるハッカーだ。

 腕力では決してカイトに勝てなくとも、データの海の中であれば誰よりも自由に、自在に泳ぐことができる。不便で脆弱な肉体の限界に縛られた現実世界よりも、仮想空間の方が彼にとってはよほど息がしやすく、合理であるように思えた。


 だからこそ、シオンの提示する「意識の仮想移行による永遠の極楽」という提案は、彼の中で完全に理にかなったものとして受け入れられてしまった。

 量子ショックが忘れ去られた世代である彼には、そこに潜むかもしれない危険性など微塵も感じられず、疑う余地もなかったのだ。


 絶望を抱いた心に完璧に構築された甘い誘惑は、抗うすべもなく浸透していく。

 ウェスの心は、もはやその隙のない救済に抗うことができなかった。カイトへの激しい怒りも、サツキの診療所にナオを置いてきた罪悪感も、すべてが白い光の中に溶けて消えていく。


「さあ、こちらへ。救済の扉は開かれています」


 シオンの導く声に促されるように、ウェスはまるで何かに憑かれたような足取りで歩き始めた。

 モニターが指し示す方向には、真っ白な大理石で造られたような巨大な施設がそびえ立っている。教団『エントロピーの揺り籠』の本拠地だ。その施設の入り口には、ウェスと同じように救済を求める人々が、まるで光に集まる羽虫のように長い列を作っていた。


 彼らは皆、一様に生気を失ったようなうつろな表情を浮かべている。誰も口を開くことはなく、ただ足を引きずるような静寂の中で、吸い込まれるように施設の中へと消えていく。

 ウェスもまた、何の疑いも持たずにその列の最後尾に加わった。

 施設の内部から漂ってくる、生気を完全に吸い取るような不気味なほどの無音状態。それに気づくこともなく、彼は四十年という寿命の絶望から逃れるため、自らその真っ白な墓標の中へと足を踏み入れてしまった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ