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INDEX  作者: クネロ
30/38

29

 診療所を飛び出したウェスは、当てもなく歩き続けるうちに、居住区画を繋ぐ巨大な連絡エレベーターを無意識に乗り継ぎ、中層の華やかなメインストリートへと迷い込んでいた。

 そこは下層の薄汚れたスラムや、先ほどまで彼が隠れ潜んでいた廃棄区画とは完全に切り離された、光と色彩に溢れる別次元の世界だった。


 まず彼を打ちのめしたのは、空気の違いだった。下層に常に立ち込めている、錆と機械油、そして腐敗したヘドロの臭いが全くしない。空気を浄化する微かな甘いフローラルの香りが漂い、完璧に温度管理された無風の空間が広がっている。足元には、チリ一つ落ちていない滑らかな純白の床面が続き、色とりどりのホログラム広告がそれを鏡のように照らし出していた。街路樹の代わりに配置された幾何学的な光のオブジェが、計算し尽くされた木漏れ日のような美しい陰影を作り出している。


 ウェスのボロボロの衣服と、泥と油にまみれ、擦り切れた靴は、このきらびやかな空間においてひどく異質で、まるで一枚の美しい絵画に垂らされた汚点のように浮き上がっていた。

 彼は荒い息を吐きながら、周囲の光景をただ呆然と見渡した。


 そこには、飢えも寒さも、そして何よりも死の気配が一切存在していなかった。

 誰も彼という異物に注意を払うことはなく、透明なガラスに隔てられたかのように、完璧な日常が彼を素通りしていく。周囲には、清潔で美しい衣服を纏った中層市民たちが、空中に投影されたインターフェースを指先で優雅に弾きながら談笑していた。彼らの肌は体内を巡るナノマシンによって完璧に保たれ、シミ一つなく若々しい。


 彼らにとって「美しく長生きすること」は、血反吐を吐いて勝ち取るものではなく、生まれた時から当然のように享受できる権利だった。

 彼らの歩みは穏やかで、下層の住人が常に抱えているような、明日を生き延びるための切迫した焦りが全くない。左手首の寿命計(ライフ・セル)を常に睨みつけ、一秒の無駄すらも命の浪費として恐れるウェスとは根本的に違う。彼らは時計の針に追われることなく、永遠にも等しい時間をただ無意味に浪費することを楽しんでいるかのようだ。


 ウェスは彼らの穏やかな笑い声を聞くたびに、胸の奥を鋭い刃物でえぐられるような痛みを覚えた。

 彼らと自分たち下層民とでは、そもそも生きている世界の次元が違う。それを頭では理解していたはずだったが、こうして目の前で見せつけられる残酷な光景は、ウェスの心を容赦なく打ちのめしていく。


「ふざけんな……なんで俺たちだけが……」


 ウェスは固く握りしめた拳を震わせた。自作の配線が巻き付いた手首にあるライフ・セルが、無慈悲に残り寿命をカウントダウンしている。彼に残された時間は、あとわずか二十三年。それは決して覆しようのない、すべてを押し潰すような重い貧困として彼に重くのしかかっている。


 彼の中にあるカイトへの激しい怒りは、やがて何も持たずに生まれ落ちた自分自身の運命に対する、深い絶望へと変わっていった。

 カイトは、この理不尽なシステムを作り上げた設計者の一人だった。そんな力を持つ人間が、なぜ下層で廃品回収業者などと名乗り、小銭を稼いで日陰で生きているのか。なぜ自分たちのような搾取される側をただ見つめているだけで、世界を変えようとしなかったのか。

 カイトの不器用な優しさに、ほんの少しでも「大人への期待」を抱いてしまった自分がひどく滑稽に思えた。

 誰が悪いわけでもない。ただ、下層でどれだけ賢く立ち回り、どれだけ必死にもがいたところで、この華やかな世界の住人たちに追いつくことは一生できないという決して抗うことのできない残酷な事実がそこにあった。


 すれ違う中層市民たちの感情の読めない視線が、ウェスの劣等感をさらに煽る。

 誰もがウェスを「存在しないもの」として扱い、彼が発する泥臭い生命感を避けるようにわずかに距離を取って歩いていく。すべてを押し潰すような孤独と劣等感に押しつぶされそうになり、ウェスはその場に力なくしゃがみ込みそうになった。自分が一体何のために生まれてきたのか、その意味すらも見失いかけていた。


 その時だった。

 周囲を照らしていた色彩豊かな広告ホログラムが一斉に消灯し、街頭に設置された巨大なモニター群が、眩い純白の光を放ち始めた。


 周囲の中層市民たちが一斉に足を止め、静まり返った通りでモニターへと視線を向ける。

 ウェスもまた、その神々しいほどの光に引き寄せられるように顔を上げた。光の粒子が空中で集束し、一人の人物の姿を鮮明に描き出す。それは、白地の清らかな衣服を纏い、透き通るような肌と静かな微笑みを浮かべた少女の姿だった。


 彼女の名前はシオン。

 人々を「肉体という燃費の悪い器」の苦しみから解放すると説く、ウェスと同じく四十年という寿命を背負った十五歳の聖女だった。彼女の瞳の奥には複雑な数式やエネルギーの揺らぎが投影され、背後には天使の羽を模したような幾何学的な光の模様がゆっくりと回転している。彼女は実体を持つことの痛みを捨て去り、純粋な情報体へと移行することを謳い、下層のみならず中層にまでその信者を爆発的に増やしつつある存在だ。


「――重い体に縛られ、限られた時間に苦しむ必要はありません。すべてを委ねれば、安らかな永遠が待っています」


 幻想で彩られた美しい姿のシオンが、空から降り注ぐような優しい声で語りかける。

 光の粒をまとう彼女の慈愛に満ちた声は、カイトの軋む人工筋肉が発する痛々しい金属音や、焦げるような熱とは違い、ひどく甘く柔らかかった。


「熱も、痛みも、誰かとぶつかり合う摩擦も、もう不要なのです。肉体という檻を抜け出し、情報の静寂へと溶け合いましょう。……もう、頑張らなくていい」


 その言葉が、限界まで張り詰めていたウェスの神経に、麻薬のように深く甘く浸透し始める。

 下層での泥にまみれた過酷な日々も、血のつながりもないナオを妹のように思う気持ちも、理不尽な四十年という寿命も、そして信じかけていた相棒からの裏切りも、彼女の教えに従えばすべてが報われるのではないか。そんな甘い錯覚が、ウェスの思考を奪っていく。


 ウェスは無意識のうちに、強く握りしめていた拳の力を抜いていた。全身を覆っていた焦燥感が嘘のように薄れ、代わりに抗いがたい安堵感が胸を満たしていく。

 彼は吸い込まれるように、光り輝くホログラムの少女の姿を見つめ続けていた。

 周囲の冷たい街の光景が完全に色褪せ、ただ彼女の放つ白い光だけが、今の彼にとって唯一の、そして絶対の救いのように見えていた。


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