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INDEX  作者: クネロ
24/29

23

 昇降機の重々しい扉が背後で閉ざされた瞬間、肺を満たしていた下層の泥臭い空気が完全に断ち切られた。ひどく息苦しい感覚に襲われる。

 換気ダクトから吹き込む空気には、いつも嗅ぎ慣れている鉄錆の匂いも、古びた機械油の刺激臭も全く含まれていない。無臭という匂いすら徹底的に濾過され、ただ冷たく乾燥した気体だけが喉の奥を刺すように通り抜けていく。俺たちはついに、中層都市セクター・ルミナスへの潜入を果たしたのだ。


 横に立つウェスが、微かに息を呑む音を立てた。

 その隣でウェスの袖を強く握りしめているナオの小さな肩が、極度の緊張で強張っている。薄暗く煤けたスラムの風景しか知らない子供たちにとって、目の前に広がる光景は別次元の領域だろう。天井一面に敷き詰められた均一な白色光が、一切の影を許さず通路の隅々までを照らし出している。

 床の大理石のようなタイルは滑らかな純白で、靴底が擦れる音すら吸い込まれて消えるかのようだ。


「これが、セクター・ルミナス……」


 ウェスが掠れた声を漏らす。その声は反響することなく、不自然なほど素早く空間に溶けて消えた。

 ナオも目を丸くして、眩しすぎる白い光から身を隠すようにウェスの背中に隠れようとする。俺は視線を巡らせ、隠れ潜むための暗がりを探す。だが、計算し尽くされた光源の配置は、埃一つ隠す場所を用意していない。あまりにも均質で、変化のない風景。首筋の産毛が粟立ち、この完成された環境そのものが放つ見えない圧力に、俺の肉体が微かな警鐘を鳴らし始めていた。


 俺はブーツの底で床の質感を確かめる。

 表面に微細な凹凸すらない。おそらくナノレベルで自己修復を行う特殊なポリマーだ。ここには摩耗という現象が入り込む余地がない。有機物が入り込む余地のない、完成された世界。俺は油断なく前方へ足を踏み出す。ナオを連れたウェスが、俺の背中にぴったりと張り付くように付いてくる。


 視界の奥を、滑らかな流線型の物体が無音で横切った。

 床面から数ミリ浮遊して移動する清掃ドローンだ。それらは決まった軌道を正確に巡回し、俺たちという異物が入り込んでいることに気にも留めずに通り過ぎていく。駆動音も、車輪と床が擦れる音もしない。摩擦という現象そのものが、この空間からは極限まで排除されていた。


 そこにあるのは、見事なまでに制御された清潔な停滞だ。

 空気の流動から温度、湿度に至るまで、すべてのパラメータが完璧な均衡を保っている。下層で常に肌に感じていた、人が密集して生きる泥臭い熱気や、重機が立てる無骨な騒音がここには一切ない。


「見てみろよ、カイト。ドローンが羽もないのに宙を浮いてる。あんな技術、下層じゃ見たこともないぞ」


 ウェスが周囲を警戒しながらも、テクノロジーの恩恵から目を離せずにいる。ナオは浮遊するドローンを見て怯え、ウェスの手をさらに強く握った。


 確かに、効率という観点から見ればここは理想郷に近い。

 だが、俺はこの光景に対して拭いようのない違和感を覚えていた。人が活動すれば必ず熱が生じ、乱雑さが増す。その当然の現象をここまで抑え込むには、どれほど一切の感情を持たない巨大な制御網が裏で稼働しているのか。俺は顎を引いて周囲を見渡した。


「……静かにしろ。浮かれている場合じゃない」


 俺は短く告げ、さらに奥へと進む。俺が歩を進めるたび、軋みが生じた。

 俺の内部に埋め込まれた熱耐性格子や人工筋繊維が発する駆動音が、この無菌室のような世界では耳障りなノイズとして響き渡る。下層の喧騒の中では周囲の雑音に紛れていたその音が、ここでは隠しようもなく空気を震わせていた。俺の体重を支えるたびに、鋼の足音が床を叩く。ガタのきている左膝の関節が、油切れの機械のように小さな摩擦音を立てる。


 普段なら気にも留めないその微小な音が、静寂に支配されたこの通路では、まるで警鐘のように大きく感じられた。

 肺が再び熱を帯び、呼吸がわずかに荒くなる。自分の体がひどく重く、不格好な鉄の塊のように思えた。俺は無意識のうちに、その無骨な右腕を隠すように身体の脇へ引き寄せる。ここは、俺のような古びて油にまみれた者が、乱暴に息をしていい場所ではない。


 俺が体内で生み出す熱と音が、周囲の冷たい空気と激しく衝突するのを感じる。

 肌表面に滲んだ汗が、冷調された空気に触れて急激に体温を奪っていく。この完璧な秩序の中で、俺の存在そのものが歪な塊として浮き上がっていた。俺が警戒を強める横で、ウェスはまだ周囲の景色に目を奪われていた。彼の視線は、壁面に埋め込まれたインターフェースや、天井を這う光の明滅を追いかけている。


「ここなら、下層みたいに飢えることも、病気に怯えることもないんだろうな」


 ウェスがぽつりとこぼす。

 その言葉には、短命を強いられる自身の境遇への微かな諦めと、中層への淡い憧れが混じっていた。ナオも不安げな表情をわずかに緩め、周囲の明るさに目を細めている。


 だが、俺にはわかる。この完璧な静寂の裏には、目に見えない強固な監視網が張り巡らされている。

 壁のわずかな曲面。天井のパネルの継ぎ目。そこには極小の光学レンズや生体が放つ熱を捉える網が隙間なく埋め込まれているはずだ。俺は目を細め、視線を鋭くして周囲のわずかな光の屈折を探る。俺の古い記憶が、この構造の裏側に潜む幾重ものレーザーグリッドの配置を正確に予測していた。


「騙されるな、ウェス。ここは安全な楽園じゃない。お前も、ナオをしっかり守ってやれ」


 俺は低い声で警告する。


 この徹底した清潔さは、異物を即座に発見し、排除するために用意されたものだ。

 俺たちはすでに、巨大なシステムの胃袋の中にいる。空気の冷たさが、首筋に張り付く汗をさらに冷やしていく。俺は自身の呼吸を深く、静かに整え、人工筋肉の駆動を最低限に抑え込んだ。少しでも摩擦熱や騒音を減らし、この世界に溶け込む必要がある。だが、どれほど歩みを慎重にしようとも、俺の抱える重さと体温は完全に隠しきれるものではない。


 俺の背中を、見えない視線が撫でる感覚があった。

 俺は足を止め、振り返る。純白の通路には誰もいない。だが、確かな違和感がある。俺は壁面に視線を固定する。周囲の温度とは異なる微細な熱の揺らぎ。隠しカメラのレンズが駆動する、極めて小さな振動音が耳の奥を打った。


「……見つかったか」


 俺が呟くと同時だった。通路の照明が、一瞬だけ赤い光へと変貌した。

 足元の床から、かすかな警告音が這い上がってくる。巡回する防犯網が、俺たちの発する微細な熱量と生体反応をついに捉えたのだ。


 無音の世界が、突如として牙を剥く。

 非接触社会の容赦ない追跡網が起動し、異物を排除するためのプロセスが始まった。壁のパネルが音もなくスライドし、数機の警備ドローンが滑り出してくる。俺はウェスの細い腕を掴み、ナオの背中を支えるように押して、迷うことなく前へ向かって走り出した。


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