09
ナオが工房の入り口に立っていた。
分厚い鉄扉の外枠に力なく手を当て、足先をわずかに内側に向けたまま、こちらへ入ってくることも、外へ戻ることもなく、ただそこに佇んでいる。
体の輪郭がひどく薄い。まるで、コンクリートの壁にこびりついた古い染みが、偶然に人の形をとってそこに張り付いているような、危うく存在感を感じさせない立ち方だった。
ウェスが、ナオに向かって昨夜手に入れた重厚なケースを前に出して見せる。
ナオはそれに頷くこともなく、助けに対する礼を言うこともなく、ただ虚ろな目のまま黙って工房の中へと足を踏み入れた。
その不自然な歩き方が、俺の目を惹いた。膝を持ち上げる動作に連動して前傾すべき動きが、どこかのジョイントが一つ外れているかのようにバラバラなのだ。縦糸と横糸のバランスが崩れ、繊維が一本抜け落ちたボロ布のような歩き方。それが、この少女の生体システムがいかに限界に近い状態にあるかを物語っていた。
工房の奥。ツール類が散乱する長椅子にナオを座らせてから、俺は彼女の左腕を取り、汚れた上着の袖を慎重にまくり上げた。
前腕の内側。
そこには、銀糸を縦横に粗く編み込んだ導電布が、皮膚に直接貼り付けられている。
まともな医療処置を施した痕跡は一切ない。工業用の強力な接着剤を使った乱暴な処理だ。布の硬い縁が皮膚に深く食い込み、その境界線に沿って細かい内出血の傷が赤い列をなしている。
上層の工場設備に合わせて規格化された、安価で劣悪な量産の消耗品。それが、下層の労働者の生身の肉体に、ただの接続端子として無造作に縫い付けられているのだ。
細胞内で分子の熱運動を識別し、エネルギーを変換する酵素。かつての人類は、その極小の働きを徹底的に技術化した。上層のシステムは、それを産業レベルの搾取インフラへと昇華させている。人間の生体活動によって仕分けられ、情報と強固に紐づけられた高純度な熱エネルギー。それを細胞内から吸い上げ、この導電布を経由して都市のネットワークへと還流させる。人間という有機体そのものを、安価なバイオ・リアクターとして使い潰す醜悪な技術だ。
導電布の下の皮膚には、本来あるべき血色がまったくない。
指先で触れると、伝わってくるのは人間らしい熱ではなく、マネキンのような無機質な硬さだ。エネルギーを抽出され、熱が失われているのだ。
この少女の小さな体の中には、いま、自分の基礎体温を保つための余剰エネルギーすら、ほとんど残されていない。触れた指先が、その残酷な現実を突きつける。
俺は黄色いケースを開け、クッションの中に眠る軍用規格の高密度セルを取り出す。
自作の変換コネクタと太いケーブルを用意し、セルと接続する。内蔵メーターの抵抗値を確かめ、回路の導通を測り、過電流のリスクがないことを確認する。
すべての準備を終え、重い真鍮製の端子を、ナオの腕にある導電布の受け口へと真っ直ぐに差し込んだ。
カチッ、という硬質な接続音が鳴り、ロックが掛かる。
同時に、ケーブルの内部を強烈な電流が流れ始める感覚が、俺の掌に微細な振動として伝わってきた。
変化は、彼女の指先から始まった。
ロウ細工のように白く透き通っていた皮膚。
そこに、毛細血管を伝うように、じわじわと赤みが戻ってくるのを、俺は出力メーターの針を見ながらも横目で確認している。
それは単なる色の変化というより、薄紙のようにペラペラに乾燥していた細胞のひとつひとつに、少しずつ水分と熱の体積が戻ってくる確かな手応えがある。
ナオが、短く息を吸い込んだ。
弾かれたように息を呑んだのでも、安堵したのでもない。ただ、胸腔を広げて空気を取り込むだけの余裕がようやく生まれたからこその吸い方だ。
それは生き物が無意識に息をするというよりも、ひび割れて乾ききった土が、降り注いだ雨水をスポンジのように吸い込むような、ごくゆっくりとした動作だった。
健康な血色が徐々に広がっていく。
前腕から肘の関節へ、肘から細い肩へ、そして肩から首筋へと。人間の体が本来持っているはずの正常な温度が、奪われて凍りついていた場所を一つずつ溶かすように広がる。
首回りの皮膚が、長いあいだ日の当たらなかった暗闇に初めて光が差したときのように、じわりと血色を取り戻し、生命としての熱の輪郭を取り戻していく。
「……温かい」
ナオがぽつりと口を開いた。
俺やウェスに向けた言葉でもなく、救われたことへの感謝でもない。ただ、劇的に変化していく自分の状況を、自分自身で確認しているような声だった。
熱と電流を吸収している自分の前腕に向かって、ただ観測した事実だけを告げているような言い方。その感情の抜け落ちた静けさが、俺の胸の奥に、少しだけ痛みを走らせた。




