〜5.満ち溢れた想いが軌跡を辿る〜
あぁ、自分以外の人生を歩めていたらどれだけ楽しかっただろう。そう考えては紙の切れ端をちぎっては僕はそのちぎられた紙に妄想をしたためた。
今日の妄想は隣のクラスの学級委員長。定期テストでは毎回1位。噂では最近可愛い彼女が出来たんだとか。まあそれは別に羨ましくない。僕が羨ましいのはその圧倒的な秀才さ。僕も学級委員長みたいだったら、きっと見えた世界が違ったんだろうなぁ。勉強が出来て、きっと親にはいっぱい褒めてもらえて、将来をも約束されたようなものだろう。
「一澄〜!夕飯できるぞ〜!」
聞き慣れた"兄"の声が聞こえて僕の空想は途切れる。
「はーい。」
トントンと一定のリズムで階段を降りると徐々に食べ物の匂いが鼻に入り込んでくる。これはデミグラスソースの香り…今日はハンバーグだろうか。
「一澄、ちゃっちゃと食べなさい。中学受験まであと1年切ったんだから。」
母の言葉に耳を傾けないフリをして、僕は少し重たい椅子を引いて着席した。テーブルの上にはデミグラスソースが既にかかった状態のハンバーグと、色とりどりの温野菜が並べられていた。母は口うるさいが、その行動に愛情があることは小学6年生の僕も理解していた。
「母さん、来週からテスト期間に入るから家帰るの早くなるよ。何か手伝いでもしようか?」
そう母に声をかけたのは、凛とした佇まいで背筋を伸ばしながら僕の隣の席で同じくハンバーグを食べる男、兄の雅美。
「何言ってんの。雅美も勉強しときなさい。まあ、あなたの成績は安定しているし極端に勉強時間が減らないなら洗い物してくれると助かるけど…」
「洗い物?任せてよ。洗い物なら15分もあれば終わらせられるしついでにお風呂場の掃除もやるね。」
そう言い切ると兄は席を立ち、食べ終わった皿を重ねて洗い場へ運んだ。運び終えると「じゃあ俺は勉強再開するから。一澄は分からないとこあれば俺に聞いていいよ。じゃ。」と言ってリビングから出て2階に上がって行った。
「一澄も雅美みたいに勉強好きなら良かったんだけどねぇ。」
別に兄ちゃんは勉強が好きなわけじゃないと思う。そう言いかけたが僕はやめた。なぜなら、兄は昔から勉強以外も完璧な人間だからだ。
小学3年生の頃から始めたクラブバレーでは、初心者とは思えないほどの飲み込みの速さで高学年たちを押し退けリーダーに。中学3年生の今は主将として部を引っ張って行く存在。それだけでも凄いのに、兄は昨年から突如ハマりだした裁縫で、なんとウエディングドレスを作り上げたのだ。もちろん独学。元々は母が趣味として続けていた裁縫に興味を示し、勉強の合間を縫ってマフラーを完成させたことで兄の心のどこかに火が着いたようだった。しかしこれは偶然ではない…。
「あら、おばあちゃんのお店、また取材されてるじゃない。」
母はいつの間にかつけられていたテレビに映る、とあるものに気づく。
『こちら銀座にあります"ワカツキ・トーキョー-3106-"本店に来ています。外観もダイヤモンドのように煌びやかになっていますが、今回のイベント開催中だけの期間限定の装飾だそうです。』
"ワカツキ・トーキョー-3106-"
これは父の祖母、つまり僕の曽祖母にあたる人物が作り上げたファッションブランドである。シンプルながらに繊細なこだわりが施されているのが特徴のブランド。いまや似たようなブランドは世間に溢れかえっているが、曽祖母がブランドを設立した頃では物珍しい存在だった。ちょうど母が履いているズボン。一見ただの黒いジーンズパンツに見えるが、光に当たるとキラリと光る。実はそのジーンズパンツには金糸が使われており、歩く度に控えめながらも上品に輝くのだ。
「あら、あの人ってばインタビューされてるじゃない。言ってくれれば録画しといたのに。」
母がそう言いながら嬉しそうにくすりと笑う。
テレビの中で突如マイクを向けられつつも、荘厳な佇まいで受け答えに応じる男性が映る。この男性は僕の父だ。現在は"ワカツキ・トーキョー-3106-"の3代目の代表であり、ブランドの顔だ。実の親に対してだから気恥しいが、父はかなりの男前だ。伸ばされた背筋は元々の恵まれた長身を更に引き立たせ、仕事ができそうな手入れのされた眉毛。歳をとり、最近少し目元が垂れてきたが、瞳の奥は未だにキラキラと輝き若々しい。わざと染めずにいる白髪混じりの頭髪も、父のような人間には何故か格好良く見えるから不思議なものだ。唯一僕の良いところというならば、僕はそんな父の血を濃く引き継いだ容姿をしているといったところだろう。
もし、僕に兄の頭脳が備わっていたらどうだったのだろうか。俗に言う"薔薇色の人生"というやつか?いや、もしそうだとしても僕は兄には勝てない。まずそのような思惑を考えてしまっている時点で、僕は兄に負けている。兄を否定したくても、兄には欠点がない。足りないものなんてない…。
「一澄、一澄。起きなさい。」母のひそひそ声が耳元で靡く。
「んあ…あれ、いつ寝たんだっけ。」
「あなた夕飯の途中にぱったり寝てしまったのよ。雅美が部屋までおぶってくれたの。さすがに私じゃもうあなたは運べないから。」
きっと兄は軽々と僕を担いで、優しくベッドに寝かせたのだろう。兄に担がれた記憶が全く無い。
「…お風呂入る。」僕はそう言って自室を出る。出る際に時計をちらりと見ると朝の5時だった。夕飯を食べていたのは20時前だったのでかなり寝入ってしまったらしい。
脱衣所で服を脱ぎ浴室に入ると、妙に浴室が温かい。風呂の蓋を開けるとそこには湯が張っていた。僕は一瞬体が固まったが、しばらくして蓋を壁に立てかけて、ゆっくり湯船に浸かった。
僕は鼻をすすりながら、温かい湯船の中で静かに泣いた。
どうして僕は頭も良くないのに兄を敬う気持ちを抱く純真さもないのだろう。母に対してもだ。納得のいく成績を持ち帰れないならば、代わりに家事をするくらいの気遣いが出来れば良いいのに、それすらもなければ勉強もせずに寝落ちしてしまう。僕に出来ることってなんだろう。僕にしか出来ないことってなんだろう。心のどこかで僕だからこそできることがあると思っていたのに、それすらも無いような気がして涙が止まらなかった。
このままじゃダメだ、変わらないと。
ずっと比べていたら僕は駄目な人間になる。
本気になれていないんだ。本気になれば、そうすれば、兄に勝てなくても並ぶことはできるはずだ。
僕は自分自身を奮い立たせるように両手で両頬をバシンと叩き、湯船から出てジャバジャバと髪と体を洗って飛び出すように浴室を出た。まだ風呂に入ってから15分ほどしか経っていないはず。家を出るまで約2時間半ある。2時間は勉強できる。濡れた髪から滴る水が無くなるくらいにタオルで豪快に拭いて自室に戻る。
「人はいつだって変われるんだ。」
僕はそう口にして、机にかじりついた。
その日から僕は人が変わったように何事にも颯爽と立ち振る舞いのできる好青年と呼ばれる人間に生まれ変わった。
勉強時間も以前の倍に増やすが、毎日の風呂掃除は欠かさない。時間があれば簡単な朝食も自分で用意出来るようになった。そして元々平均よりも高かった背丈は更に半年で10cmも伸びて僕は小学6年生にして177cmになっていた。以前よりも忙しいはずなのに、僕には心の余裕が生まれていたからか、辛いと感じることは一切無くなっていた。
そんな日々を送っていると、久しぶりに父が帰ってきた。
「ちょっと話があってね」そういって家族全員をリビングに集めた。
「気が早いかもしれないが、私が思い描いている未来を、みんなに話しておきたい。気難しい話ではないが、特に雅美と一澄にはしっかり聞いてもらいたい。」
普段、寡黙な父が、この日だけは妙に明るくて楽しそうで、どこか幼く感じた。そして瞳の奥のキラキラが、いつも以上に輝いて僕を照らしているようだった。
「まず1つ目を話そう。次期"ワカツキ・トーキョー-3106-"の代表を雅美、君に担って欲しいと考えている。」
これは当然のことだ。少し前の僕ならここでまた兄と自分を比べて自身を卑下していたが、今なら心から祝福できる。
「いやいや、父さん、あまりにも気が早いよ。たしかに僕は服飾に興味はある。作るのだって好きだよ。でも代表になるかどうかはまだ先でもいいんじゃないか?」
兄はそう言うと、僕の方に視線を向けた。
「僕は父さんの意見に賛成する。もし仮に雅美兄さんが代表じゃなかったとして、誰が代表になるんでしょう。まず、僕には到底、務まらない。服は好きだよ。もちろん"ワカツキ・トーキョー-3106-"の服が1番好き。だからといってファッションブランドの代表ができる度量は、きっと未来もないと思う。つまり答えはいま出てるってわけだよ。雅美兄さん」
僕は心から思っていることを伝えた。
兄は珍しくどこか緊張した様子で「そっか…そうか。」と落ち着かない様子だった。
「もちろん雅美に目指したい夢や目標があるならばそちらを優先したって構わない。ただ、代表はできるうちは身内で続けて行きたいんだ。」
「父さんがそう思っていることは理解しているよ。それに僕は代表になりたくないわけじゃない。ただ、最近一澄が頑張っているから、もしかしたら代表になりたいのかと思ってね。」兄は僕の顔色を伺うように、後半は語気が弱まっていた。
「ないないないよ!僕はただ勉強した方が良いと思っただけだから。」
僕の両手を思い切り振り、そんな思惑はないという潔白を伝えた。その言動を受け取り、兄は安堵するかのように緩やかに綻びを見せた。
「じゃあ2つ目。というよりも今日の"本題"だ。」
父は先程までの穏やかな雰囲気とは一変し、いつもの厳かな佇まいで、じっとこちらに視線を向けている。
「一澄、来年行われる次回のコレクションでランウェイに立ちなさい。これに関しては拒否権はない。」
ランウェイ…?ランウェイって、僕の知っているランウェイだよな?次回のコレクションって、"ワカツキ・トーキョー-3106-"のコレクションってことを指しているということ?そのランウェイを僕が?
「ちょっとあなた。その話は聞いていないわよ。」先程まで黙って話を聞いていた母が、席から立ち上がり口を挟む。
「ああ。今日、一澄を見た瞬間に決めたからね。」父は淡々と答える。
母はその言葉に「はぁ…」と1度だけため息をついてから静かに腰を下ろした。
「一澄。君は私が思っていた以上に"モデル"としての素質があると見た。まだオーラは出ていないが、私も母さんもオーラはある。いずれお前にも出るはずだ。」
「でも、コレクションまでにオーラが出ない可能性もあるよ。そうなると、僕にはまだ早いんじゃないかな…。」
僕はあまりにも突飛な発言をする父を抑えようと、頭の中をくまなく働かせる。しかし、
「いいや、仮に次のコレクションまでにオーラが出ていないくても構わない。私が一澄を選んだ理由は、今の君は自信に満ち溢れているからだ。"ワカツキ・トーキョー-3106-"は自信を持った原石をモットーとして創設されたブランドであることは誰もが周知しているだろう。今、このブランドの顔として誰がいちばん相応しいか…そう考えた時に一澄、君しかいないと思ったんだ。」
父はまた目の奥をキラキラと輝かせて、熱く語る。嘘偽りのない、本心で僕にその熱意を向けていることは明らかだった。
「分かった。僕、ランウェイに立つよ。父さんの期待に応えてみせる。」
その場にいた3人は、僕の決意を後押しするかのように大きく頷いた。
その日の夕食は、久しぶりに4人で食卓を囲った。母の作るハンバーグはやっぱり美味しくて、兄も今晩は受験勉強そっちのけで父との談笑に夢中になっていた。この温かさを素直に受け取れるようになれて、本当に良かった。
僕、ようやく、幸せを感じられるようになれたんだ…。
「父さん、母さん、兄さん。僕、そろそろ寝るよ。」僕は3人に声をかけて席を立つ。
「ああ、今日は難しい話をしてしまったな。ゆっくり休んでくれ。一澄がランウェイに立ってくれるとなれば、明日から早速採寸しないとだなぁ。」ソファでくつろぐ父が、柔らかく笑う。
「そうだね。じゃあ、おやすみなさい。」
「おやすみ。」
3人と僕は笑顔で挨拶を交わした。
その晩、父は亡くなった。
◇◇◇◇◇
「一澄さん、入られまーす!」会場の若い男性スタッフが周囲に呼びかけるように声を張り上げる。
「あら、あの子が一澄くん?見ないうちにだいぶ大きくなったわねぇ。」
「色々あったけど、間に合わせてくるあたり、さすが日本一のブランドなだけあるわぁ。」
関係者の夫人だろうか。当人たちは小声にしているつもりかもしれないが、耳によく入る声量だ。
「おい一澄!ダメだ、そのズボンの裾!足りてないから作り直す!」こちらに走ってきた兄の雅美が焦った表情で僕の肩を強く引く。
「大丈夫?ショーの開始時刻まで30分もないけど…。」
「何言っているんだ。この俺に出来ないことなんてあるわけないだろう。現役高校生の代表取締役なんて前代未聞の出来事さえ務まるんだからな!それにしても一澄は身長が伸び続けるなぁ…。とりあえずズボン脱いで!」
僕は流されるままその場でズボンを脱ぐ。先程ひそひそと話し込んでいた夫人たちがその光景にギョッと目を丸くさせて、そそくさとその場を立ち去った。
「あの人たち、本当に関係者?僕がズボン脱いだら驚いてどっかいっちゃった。」
「ああ、さっきの夫人たちね。俺も初めて見たけど、2人ともファッションを仕事にしてる様子は無さそうだよ。スカートからは糸が出てたし、靴も擦り傷が目立ってた。多分野次馬根性で見に来たんだと思うから気にするな。」
兄は父の死後、人が変わったように見える一面が増えた気がする。優しくて、細かいところに気づけるところは変わらないが、穏やかな柔らかい表情をすることは減った。いや、もうここ最近は一度も見かけることが無くなった。まだ当分先だと思われた世代交代が、あまりにも早く唐突で、兄は冷静そうに見えていても、現実を受け入れることに必死だったのだ。
でも兄は僕の憧れている兄そのものだった。
父の死を表向き引きずることなく受験勉強を開始し、見事第一志望校に合格したのだ。
ちなみに僕は第一志望校に落ちてしまった。母は「仕方ないわよ」と慰めの表情で僕の頭を撫でてくれた。事実、僕は父の死をしばらくの間、受け入れることが出来なかったからだ。
リビングのソファで寝ていた父を母が起こそうとしたところ、父の体は既に冷たくなっていたという。急いで病院に連れていかれた父だが既に亡くなっており、死因は心筋梗塞と診断された。僕はまだ自室で呑気にすやすやと眠りついている頃で、夢の中で父に採寸してもらっている内容だったのを今でも覚えている。
「よし!完璧!一澄、ズボン直せたよ。」
兄によって調整されたズボンを履き、鏡で合わせる。
「たった数ミリの変化なのに、さっきと全然印象が違う。やっぱり兄さんは凄いや。ありがとう。」
僕が屈託のない笑顔で兄にそう伝えると、兄は照れくさそうに笑っていた。
「でも、兄さんごめん。俺は間に合わせられなくて…。」
「なんのこと?…もしかして、オーラのこと言ってるのか?」
そう。僕は今日この舞台が始まるまでにオーラが開花されることはなかったのだ。中学1年生だと大半がオーラを纏い出すのだが、僕は未だにオーラがない状態。
「父さんの言葉、忘れたのか?オーラは無くったっていいと。自信に満ち溢れている一澄だから任せたいと。今の一澄から自信を無くしたらそれこそランウェイに立てないぞ!」そう言って兄は強めに僕の背中を押した。
「もうすぐ始まる。それはショーの始まりだけじゃない。俺たち若月兄弟の始まりでもあるんだ。」兄は薄暗い舞台袖の中でニッと白い歯を見せて僕に笑いかける。
「うん。兄さん、一緒に始めよう。」
僕たちの物語を。




