第四話 種まき
陽が昇る少し前、まだ空が薄藍色に染まり始めた頃、フィリンに起こされた。
その瞬間、ふと訓練時代のことを思い出す。
最初の頃は教官たちの怒鳴り声で叩き起こされていたものだ。だが数週間もすれば慣れたもので、毎朝五時頃には自然と目が覚めるようになっていた気がする。
そんな昔を思い返しながら、動くようになった足で急いで身支度を整える。
そしてフィリンと共に外へ出た。
流石に徒歩ではなく馬車で向かうらしい。
馬の乗り方こそ教わったが、馬車の準備については知らなかったため、フィリンが手際よく教えてくれる。
荷具の固定方法や手綱の扱い方。
一つひとつ説明する彼の表情は、普段よりもどこか柔らかく見えた。
私を教育している時の彼は、少しだけ機嫌が良いような気がする。
そうして準備を終え、そのまま隣町へ向かうことになった。
村を出ると、途端に視界は自然一色へと変わる。
どこまでも続く森。
朝露に濡れた草原。
枝葉を揺らしながら飛び去る鳥たち。
身を乗り出して眺めたいほどだったが、流石に子供のような真似は控え、大人しく景色を見つめるだけにしておいた。
森の奥を駆ける小動物の姿を目で追いながら、衝撃吸収機構など存在しない馬車の揺れを身体に受け続けていると、不意にフィリンが口を開いた。
「あの少女は誰なんだ?」
ルーナのことだろう。
「お、王都から来たと言っていました」
その言葉を聞いた途端、フィリンが片目だけこちらへ向ける。
王都。
その単語に反応したようだった。
都市が嫌いなのか。
それとも王都そのものに何か思うところがあるのか。
そんな印象を受ける視線だった。
しばらく沈黙が続いた後、再び口を開いたのはフィリンだった。
「この国、パラベラムには昔、別の王がいたんだ。君達が来る前の話だがな」
君達とは、ラフのことだろう。
「残虐で慈悲の欠片もない王だった。色々な呼び名があったが、一番有名だったのは――血王だ」
馬車の車輪が石を踏み、小さく揺れる。
「自ら戦場へ赴き、玉座では貴族をその手で殺したとも聞く。まるで血そのものに魅せられていたような王だった」
そこで彼は一度言葉を切った。
「そして血王が死んだ後に君達が現れた。だから一部では、血王が最後に何かを行い、君達を召喚したのではないかとも言われている」
「証拠らしい証拠はないがな」
どこか苦々しそうな声音だった。
「では今は誰が王なんですか?」
フィリンは血王の話を好んでいるようには見えない。
それでも話したのは、知っておくべきことだと思ったからなのだろうか。
「さあな、知らない」
意外な答えだった。
「血王がまだ生きていた頃に田舎へ引っ越したからな。王都で何が起きているかなんて興味もない」
そう言った後、少しだけ考えるように空を見上げる。
「だが、前よりはずっと良い王らしい」
そして小さくため息を吐いた。
やはり昔、血王と何かあったのだろうか。
それとも血王という存在そのものが、それほど多くの人々に傷跡を残したのだろうか。
推測はいくらでもできる。
だが情報が足りない。
結局のところ、今は何も分からなかった。
そんなことを考えているうちに、自分たちの総司令官のことも思い出した。
総司令官カイラム。
実際に見たのは一度だけだ。
高齢の男だった。
髪はほとんど白くなっていたことだけは覚えている。
だが不思議なことに、それ以外の印象がほとんど残っていない。
もし彼が血王の時代を知っているなら。
そしてフィリンも同じ時代を生きているなら。
このエルフは一体何歳なのだろう。
「ち、ちなみにフィリンさんは何歳なんですか?」
すると彼の表情が少し和らいだ。
重い話題から離れたからかもしれない。
「今年で六百七十三歳……ぐらいかな」
そう言って小さく笑う。
さらりと告げられた数字に驚くが、エルフなら普通なのだろうか。
「で、では私が前に読んでいた勇者の話は、本当なんですか?」
以前から気になっていたことだった。
だが聞く機会がなかった。
「ああ、勇者アーロの話か。本当の話さ」
フィリンは懐かしむように目を細める。
「俺がまだ七十歳くらいの頃だったかな。あの頃はまだ君達はいなかった」
何か引っ掛かった。
だが何が引っ掛かったのか、自分でも分からない。
「君達が来たのは百年くらい前だったか」
フィリンは気にせず話を続ける。
百年?
私はラフがこの世界に来てから何百年も経っていると教えられていた。
ではどちらが正しいのか。
フィリンの記憶違いなのか。
それとも私が教わった歴史が間違っていたのか。
もし嘘なら、何のために。
理由が思いつかない。
歴史のどこかで記録が失われたのだろうか。
考えれば考えるほど分からなくなる。
今はまだ結論を出せない。
もっと証拠が必要だ。
そのまま会話は途切れた。
私自身、教えられてきたラフの歴史を疑い始めてしまっていたからだ。
しばらく進むと、景色が少しずつ変わり始める。
森が減り、畑が増える。
そして民家が見え始めた。
やがて建物が密集し始め、人の姿も増えていく。
ついに町へ到着したのだ。
ラフの居住区とは全く違う。
建物の構造。
窓の形。
木材と石材の使い方。
どれも見慣れない。
街道もコンクリートではなく石畳だった。
馬車の揺れが一定になり、車輪が規則正しい振動を生み出している。
フィリンは慣れた様子で馬を進め、店が並ぶ大通りの脇へ停車した。
その先へは進めないらしい。
露店がずらりと並び、人で溢れていた。
興味を引かれないはずがない。
こんな場所へ来るのは初めてだ。
ただ立っているだけで異文化が全身へ染み込んでくるようだった。
フィリンと共に馬車を降りようとした時、不意に肩を掴まれる。
「分かっていると思うが、余計なことは言うな」
低い声だった。
「説明が必要なら俺がやる」
そのつもりだった。
だが改めて念を押されるのは初めてだった。
何か警戒しているのだろうか。
私は黙って頷いた。
馬車から降り、周囲を見渡す。
露店。
看板。
行き交う人々。
賑わう商店街そのものだ。
しかもエルフだけではない。
教科書で見たことのある獣人たちも歩いている。
近くで観察してみたい気持ちは山ほどあったが、今は我慢してフィリンの後を追った。
最初に入ったのは本屋だった。
もっと読書をしてほしいのだろうか。
少し期待されているような気がして、胸が高鳴る。
店内を見て回る。
棚には様々な本が並んでいた。
だがどれも分厚く、紙質も粗い。
やはり長期保存を前提として作られているのだろうか。
そんなことを考えながら眺めていると、一冊の本が目に留まった。
表紙に書かれている文字。
銀河標準語だった。
思わず足が止まる。
大きさも他の本より小さい。
明らかに異質だ。
なぜこんなものがここにある。
そう思いながら手を伸ばした瞬間、フィリンに止められた。
彼は何も言わない。
私もすぐ意味を察し、手を引っ込める。
興味はある。
だがここで反応すれば、自分がラフであると宣伝しているようなものだ。
私は諦めて別の本へ視線を移した。
しばらくしてフィリンは何冊か本を購入し、それを私に持たせる。
革張りの分厚い本は想像以上に重かった。
店を出た後、本を馬車へ置きに向かう。
その時だった。
「フィリンじゃないか!」
背後から大きな声が響く。
振り返ると、人族の男がフィリンへ話しかけていた。
どうやら知り合いらしい。
腰には剣。
革鎧。
所々には鉄製の防具。
以前教わった特徴そのままだ。
冒険者。
依頼を受け、その報酬で生計を立てる職業。
ある意味では傭兵に近い。
だが彼らは人間相手の殺しを嫌い、主に魔物や魔族を討伐対象としている。
不思議な価値観だと思う。
なぜそこまで区別するのだろう。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか話題が私へ移っていた。
二人が同時にこちらを見る。
「ああ、この子は森で拾った人族だ」
フィリンが説明する。
「魔物に襲われたらしくてな。気を失っていたところを助けた」
少しだけ間を置く。
「衝撃のせいか記憶も曖昧らしい」
それを聞いた冒険者がこちらへ歩いてくる。
「この辺じゃ見ない顔だな、小僧」
そう言って私の顔を覗き込む。
私も視線を逸らさず見返した。
ラフだと見抜かれたのではないか。
そんな不安が脳裏を過る。
だがここで挙動不審になれば余計怪しまれる。
訓練中、教官に怒鳴られていた時と同じだ。
落ち着け。
目を逸らすな。
焦りを見せたら終わりだ。
そう自分へ言い聞かせる。
その時、男の首元にある刺青が目に入った。
どこかで見た覚えがある。
思い出そうとした瞬間、男は一歩退いた。
肩から重石が落ちたような気分になる。
見つめられるのは好きではない。
「まあ、フィリンが面倒見てるなら心配ないか」
男は笑う。
「また今度、酒でも飲みに行こうぜ」
そう言ってフィリンと固く握手を交わし、人混みの中へ消えていった。
残された私は、その背中を見送りながら考える。
フィリンは昔、一体どんな仕事をしていたのだろうか。
今回も既存の内容や伏線を変えず、情景描写・心理描写・世界観の没入感を強化した編集版です。
そして次から次へと店を回った。
変わらず、購入した荷物は私が運び、馬車へ積み込む。
その後はまた別の店へ向かう。
そんな流れが何度も繰り返された。
フィリンが買い物をしている間、私は店内を歩き回り、出来る限り情報を集める。
食料品はラフのものとそれほど変わらなかった。
野菜も果物も肉類も存在する。
だが全体的に少し小さい。
やはり品種改良の技術は発達していないのだろうか。
そんな推測をしながら商品を眺める。
途中で獣人も近くから観察することができた。
もっと自然に見ているつもりだったのだが、自分でも演技が下手だと分かる。
もしかすると既に気付かれているのかもしれない。
ただの子供が珍しそうに見ているだけ。
そう思われていることを願うばかりだった。
そして変わらず、フィリンは数軒に一度の頻度で誰かに呼び止められていた。
彼は有名人なのだろうか。
それとも単純に知り合いが多いだけなのだろうか。
その辺りはよく分からない。
だが共通点はあった。
話しかけてくる者たちは、全員が冒険者に見えた。
数人は私について尋ねてきたが、その度にフィリンが代わりに説明してくれる。
そして誰もが同じような言葉を口にする。
「フィリンが世話しているなら大丈夫だ」
まるで決まり文句のようだった。
それだけ信用されているということなのだろう。
しかし私としては、知らない人間に見つめられる度に心拍数が上がるばかりだった。
やがて空が茜色へ染まり始める。
日暮れが近付いた頃、フィリンが私に尋ねてきた。
「せっかくここまで来たんだ。何か寄りたい店でもあるか?」
彼は手綱を軽く握りながら続ける。
「俺の買う予定だった物は全部揃った。気になる物があるなら付き合うぞ」
武器屋。
真っ先に頭へ浮かんだのはそれだった。
だが流石に物騒すぎる。
怪しまれる可能性もある。
少し考えた末、別の答えを選んだ。
「冒険者のことをもっと知りたいです」
フィリンは少し考え込む。
その沈黙が妙に長く感じられた。
まだ私を完全には信用していないのだろうか。
そんな考えが頭を過る。
「分かった」
やがて彼は頷いた。
「この街には冒険者組合がある。少し顔を出す程度なら問題ないだろう」
そう言うと馬車の向きを変えた。
冒険者組合は予想以上に賑わっていた。
建物の出入り口から絶え間なく人が出入りしている。
依頼を受ける者。
依頼を終えて帰ってきた者。
仲間と談笑する者。
様々だ。
フィリンの後について中へ入る。
内部は広かった。
壁際には巨大な掲示板。
無数の紙が貼り付けられている。
依頼書だろう。
受付窓口も並び、その光景はどこかラフの区役所を思い出させた。
もっとも、酒の匂いと武装した人間だらけという点を除けばだが。
フィリンは真っ直ぐ受付へ向かう。
私は周囲を見渡しながら後を追った。
そこで気付く。
至る所から彼の名前が聞こえてくるのだ。
「フィリンだ」
「あいつ久しぶりじゃないか」
そんな声があちこちから聞こえる。
やはり有名なのだろう。
だが本人はその注目を歓迎しているようには見えなかった。
「フィリンさん、お久しぶりです」
受付の向こう側から、人族の女性が声を掛ける。
「こちらこそ」
フィリンは軽く頷く。
「今日は冒険者に興味を持った子がいてな。組長はいるか?」
「呼んできます」
女性はそう言うと受付を離れ、奥の部屋へ消えていった。
すると待っていたかのように周囲から声が飛んでくる。
「戻ってくる気になったのか、フィリン!」
「うちのパーティに入ってくれよ!」
「その子はフィリンの息子か?」
次々と浴びせられる声。
だがフィリンは一切反応しない。
まるで聞こえていないかのようだった。
私は反射的に声のした方を見る。
そのまま人々を眺めていると、一人だけ妙な違和感を覚える男と目が合った。
外見は普通の冒険者だ。
武装も服装も何もおかしくない。
だが本能のどこかが警鐘を鳴らしている。
違う。
そんな感覚だった。
もしかして。
ラフの潜入員か。
士官学校で存在だけは教わった。
だが実際に見たことはない。
彼としばらく視線が交差する。
互いに何も言わない。
ただ見つめ合う。
その時だった。
「フィリンから呼び出しなんて久しぶりだな」
振り返る。
そこには巨大な獣人が立っていた。
普通の獣人より頭一つ以上大きい。
身体には古傷が無数に刻まれている。
一目見ただけで分かる。
強者だ。
経験の積み重ねがその身体に刻み込まれている。
「この子が冒険者を見たいと言うからな」
フィリンはそう言いながら私の頭へ手を置く。
「ハハハッ!そうか!」
組長は豪快に笑った。
鋭い牙が並ぶ。
「やっぱりお前は優しい奴だな、フィリン!」
その笑い声だけで周囲の空気が震えた気がした。
「どうだ?その子も連れて依頼に行くか?」
冗談半分なのだろう。
だがフィリンは露骨に嫌そうな顔をした。
「この子はまだ若い」
即答だった。
「そんな危険な真似はさせない。ただ近くで見たいだけだ」
子供扱いされているが反論はしない。
ここで余計なことを言う理由もない。
するとフィリンが組長へ提案した。
「お前の剣でも持たせてやったらどうだ」
「なるほどな」
組長は頷く。
そして何の躊躇もなくカウンターを飛び越えた。
派手な動きだった。
無駄も多い。
だが身体能力が桁違いなのは分かる。
着地音すらほとんど聞こえない。
彼は腰の剣を抜いた。
「どうだ、小僧」
誇らしげに掲げる。
「すごいだろう?」
鈍い光沢を放つ大剣。
「こいつはドラゴンの骨から出来てる」
そう言って私へ差し出した。
思わず受け取る。
次の瞬間。
予想以上の重量に身体がよろめいた。
数歩後退してしまう。
だが背後からフィリンが肩を支えてくれた。
助かった。
剣を見つめる。
見た目は完全に金属だ。
だが骨だと言う。
詳しく調べられない以上、本当かどうかは分からない。
それにしても重い。
こんな物を振り回して戦うのか。
私達の銃やナイフとは根本から違う。
消費する体力も桁違いなはずだ。
けど、それに見合うだけの利点があるのだろう。
やはり魔法。
あるいは剣技。
そういったものが関係しているのかもしれない。
しばらく眺めていると、組長が剣を回収した。
重量が消える。
数秒間、自分の腕が異様に軽く感じられた。
「少しは分かっただろう?」
組長が笑う。
その時、フィリンが口を開いた。
「今日はこれくらいでいいだろう」
そして私を見る。
「先に馬車で待っていてくれないか?」
どうやら組長と話があるらしい。
私は素直に頷いた。
組合を出る。
夕暮れの空が町を赤く染めていた。
私は馬車へ戻り、待ちながら馬の首を撫でる。
毛並みは悪くない。
駄馬ではない。
だが戦闘馬でもなさそうだ。
競走用としてはどうだろう。
そんなことを考えながら撫で続ける。
その時だった。
頭の奥。
埋め込まれたインプラントが反応する。
不意に視界の端へ文字列が浮かんだ。
そして声が響く。
『メッセージ。ID422754だな?』
身体が硬直する。
『生きているとは想定外だ。こんな所で何をしているのかは知らないが、今の状況でラフへ帰還するのは難しいだろう』
聞き覚えのない声。
間違いなくラフの通信だった。
『だが、あのフィリンの懐へ入り込めたのは良い判断だ』
機械的な声が続く。
『そのままでいろ。新たな命令が届くまで現状維持だ』
通信はそこで途切れた。
私は反射的に振り返る。
そして周囲を見渡す。
人通りは多い。
露店もある。
誰が送信したのかなど分からない。
見分けることすら出来ない。
いずれラフの人間と接触することは予想していた。
こんな形で現れるとは思っていなかった。
おそらく監視されている。
今も。
そしてこれからも。
あの組合の中で目が合った男。
脳裏にその姿が浮かぶ。
多分、目を付けられている。
この先も追跡されるだろう。
馬の首を撫でながら考える。
どうやって撒くべきか。
どうやって自由に動くべきか。
気付けば、そんなことばかり考えていた。
書き方がパターン化すると同じ文例になりがちですね。




