大好物
「ただいま~」
パタパタパタ…
塾から帰った楽人が玄関のドアを開けると、奥からスリッパの軽快な足音が聞こえて来た。
彼がドアを閉めて鍵を掛ける頃には、サーニャが玄関に到着して彼に――
「ガクトおかえり~♪」
――抱き付いた。
「ただいま、サーニャ」
楽人も抱き返しながら、足だけで靴を脱ぐ。
サーニャが鼻をスンスンとさせた。
「初めての匂いです」
ギクッ
範子の移り香である。
楽人は、ドラマで浮気がバレた男の心境を初めて理解したが、彼がサーニャを見ても、当の本人はキョトンとしているだけだった。
「塾にギャル……化粧の濃いクラスメイトが居たんだ。結構話し込んだから、匂いが移ったんじゃないかな?」
「あ、わかります~♪ わたしもお義母様の香水を掛け過ぎてすごいことになりました♪」
サーニャは当時を思い出して、鼻に人差し指を当てて眉を顰めた。
「サーニャが気になるなら、余り近付かないようにするよ(そんな機会は二度と無いだろうけど)」
「別にいいですよ、これくらいなら。わたしの匂いで上書きしちゃいます~♪」
サーニャは抱き付いたまま楽人の胸に顔を埋め、全身でスリスリと匂いを擦り付けようとする。
「サ、サーニャ、お腹空いたから夕飯を食べたいんだが……」
楽人は別の生唾が出そうになったので、我慢して話を逸らした。
「あっ、すみません気が付かなくて」
「いや、いいよ。食堂に行こうか」
「はい♪ 今日はガクトの大好きなハンバーグですよ♪ わたしも一緒に作ったんですよ♪」
サーニャはよく母親の料理を手伝うが、野菜の皮を剥いたり鍋を混ぜた程度では一緒に作ったと言わない。
今日は本当に一緒に作ったのである。
サーニャは楽人をハグから解放すると、今度は彼の腕に抱き着き、二人は一緒に食卓へと向かった。
* * *
食卓に着いた楽人は、得も知れぬ違和感を感じた。
特に豪華だとか、品数が多いとかいう訳では無い。
いつもと同じ茶碗にご飯、いつもと同じお椀に味噌汁、大きめのお皿にハンバーグと付け合わせ、それに皆で取る漬物の容器が並んでいる。
「いただきます」
楽人は好物のハンバーグを、箸で小さく切って口に運んだ。
「もぐもぐ……?」
楽人はまた違和感を感じた。
彼が食べ始めても、サーニャと母親は食事に手を付けない。
サーニャはずっと隣に座る彼を見ていて、母親もニヤニヤしながら彼を見ている。
(…なるほど、違和感の正体はこれか)
食卓は一見、いつもと変わりは無い。
しかし皿の中身は違った。
楽人の皿だけ、付け合わせがいつも以上に多く、ハンバーグはいつもより大きい……と言うよりも平べったく、まるで広がり過ぎたのを後から整えたみたいに、周囲が小さな丸みに押されて整形されている。
そのサーニャの指の曲線を、彼が見間違えるはずも無い。
それに比べると、サーニャと母親の皿はいつもと変わらない。
「…どう、ですか?」
サーニャの表情は心配そうで、言葉は緊張で僅かに震えている。
「美味い」
楽人はサーニャの顔を見て答えた。
「ほ、本当ですか?」
先程の反応を見たせいで、サーニャは疑心暗鬼だった。
「俺がサーニャに嘘を言ったことがあるか?」
「じゃあ本当に本当なんですね?」
サーニャが僅かに身を乗り出す。
「本当の本当に美味い」
「キャーっ♪」
サーニャは胸の前で手を合わせて見る見る笑顔になっていき、
「やりましたよ、お義母様っ♪」
「良かったわね、サーニャちゃん」
「はい」
テーブル越しに母親とハイタッチをした。
実際のところ、ハンバーグは捏ね過ぎたせいで若干硬かったが、味は母親が作ったものと然程変わらない。
「いつもより少し塩気が薄いけど、俺はこれくらいの方が好きだな」
精々それくらいの違いだった。
「キャーっ♪ あぁ~、もぅ~、どうしましょ、どうしましょ♪」
サーニャは嬉し過ぎて困り出し、身をくねらせて喜んだ。
ゾワッ
「?!」
楽人は久しく感じていなかった、命に関わるような悪寒を感じた。
彼がそちらに視線を向けると…。
「へー、そうなんだー」
母親が笑っていた。
笑っているのは口元だけで、目は全く笑っていない。
何なら身体も微動だにしていない。
「楽人はお母さんの汗腺が緩々だって言いたいんだ~?」
(こっちの地雷を踏んだ?!)
――一般的に、加齢で身体能力が低下すると汗腺が緩み、汗に含まれる塩分が増える傾向にある。
加えて、年配の人は塩分を控えた料理を作るので、塩気が濃いと言われることは少ない。
手であれ、顔であれ、汗で塩分が濃くなったと思われて喜ぶ既婚女性は居ないだろう…。
「いや、そうじゃなくって…」
「そうじゃなくて?」
楽人は必死に言い訳を絞り出そうとするが、良いアイデアが思い浮かばない。
視線を彷徨わせていると、母親だけでは無くサーニャまで彼の顔を覗き込んでいた。
(―――っ!)
楽人は下手な言い訳を諦め、天啓に従った。
「俺とサーニャの相性が最高って話だよ!」
「キャーっ♪」
感極まったサーニャは、口元で両方の拳を握って、今日一番の歓声を上げた。
「あらあら、まあまあ。…そういう事にしておいてあげるわね」
母親はサーニャを微笑ましいものを見る目で慈しみ、楽人の失言を許した。
(許された…)
楽人は一つ学んだ。
「女性の料理を比較する時、塩分の話題は避ける」……例え只の味付けの差だったとしても。
それが彼の本日最大の教訓となった。
サーニャはハンバーグを習得した!




