新学期
9月1日木曜日。
爽やかな朝。
須磨家の玄関。
久しぶりの学生服に身を包んだ楽人は、上がり框に座って、同じく久しぶりに履く、登校用の革靴の紐を結ぶ。
その直ぐ後ろには、スクールバッグを持ったサーニャが立っている。
「はい、鞄」
楽人が靴紐を結び終わって立ち上がると、サーニャが彼にスクールバッグを手渡す。
「ありがとう、サーニャ」
「忘れ物は無い?」
「大丈夫だ」
今日は始業式なので、スクールバッグの中に教科書などは入っていない。
夏休みの課題や、上履きの入ったシューズケースなど、普段とは違った物ばかりが入っている。
「んっ」
サーニャは目を閉じると、腰の後ろで手を組んで顔を少し突き出した。
一学期には無かったそれが、二人の夏休みの時間を物語っている。
土間との段差があるので、普段よりも顔の高さが近い。
楽人は躊躇い無く、自分から自然に唇を重ねた。
チュッ
楽人が離れると、サーニャは唇に手を当てて幸せそうな顔になる。
「いってらっしゃい、ガクト♪」
「いってきます、サーニャ」
楽人が玄関から出て行った。
サーニャは暫く幸せに浸りながら玄関を眺めていたが、我に返ると、靴を履いて玄関の鍵を閉め、家事を手伝うために義母の元へ戻った。
* * *
「あんまり変わらないなぁ…」
一カ月ぶりの通学路は相変わらずだった。
ジャージを着たマッチョの兄ちゃんが狼みたいな四足歩行の何かに引き摺られ、ゴスロリを来た四十路のお姉さんが身長2メートル以上のイケメンと腕を組んで歩き、三つ目の猫が二階建ての屋根から華麗に空中三回転二回捻りを決めた。
かと思えば、ロマンスグレーの老紳士が魔法少女コスチュームの幼女を肩車し、白いカラスが路上に撒き散らされた名状しがたきモノを啄み、朝帰りの茶髪のキャバ嬢が何処かで見たような白猫のぬいぐるみを抱えて歩いている。
「…と思ったら、何か変な方向にパワーアップしてるな」
異様な光景ではあるが、これが現実だ。
――【リアライザー】が現れて二ヶ月。
【超生物保護法】の公布からでも一カ月が経ち、【リアライザー】もすっかり世間に溶け込んだ。
それに伴って、世間で見かける数は倍増した。
大多数の企業が、企業理念やプライバシー保護で、彼らとの友好関係を表明し、大企業の多くが広告塔として起用している。
朝のワイドショーなんて、スタッフとして起用していない方が珍しい状況となっていた。
「…ちょっと待て。あれは本物か。ってことはあの時の…」
楽人はキャバ嬢が抱えているぬいぐるみが、本物の仕事を選ばない猫だと気付いた。
本来なら、キャーティは造形が単純なこともあり、当猫がぬいぐるみの振りをしていると見分けようが無い。
それでも彼が気付けたのは、キャバ嬢――伊達絢乃――の方に見覚えがあったから。
「あら、坊や?」
絢乃も楽人に気付いて驚いた。
以前、犯人の倉庫まで来た唯一の一般人だったので、彼女の方も覚えていた。
「お久しぶりです。あの時のお姉さんですよね? お元気そうで何よりです」
楽人は両手を胸の前でグルグル回して見せた。
知らない人が見れば糸巻きにしか見えないだろう。
「くすっ。坊やもね。近所に住んでいるの?」
絢乃が子供をあやすように艶然と微笑む。
キャーティも楽人に顔を向けたけれど、何も喋らなかった。
賢い彼女は、自分が言葉を発すれば、直ぐに騒ぎになることを理解している。
「見ての通り、月仰高校の生徒です。確か初めてですよね、この通りで会うの」
「今日は仕事が長引いちゃったからこれから帰宅なの」
(言われて見れば化粧も落ちかけているし、目の下にも疲れが出ているな)
キャバ嬢の生活は昼夜が逆転している。
高校生の登校時間と言えば、彼女たちにとっては夜中。
過去にも会っているかもしれないが、彼らがお互いを認識したのは夏休み中、犯罪者集団に拉致された時が初めてだった。
「それは引き止めて済みませんでした。帰ってゆっくり休んでください。俺はこれで失礼します」
楽人は頭を下げて謝罪すると、学校に向かった。
「あっ、待って!」
絢乃が引き留めると、彼は振り返って不思議そうに首を傾げた。
(私、今なんで引き留めたの? 別に興味や恩がある訳でも無いのに…)
彼女自身、引き留めた理由が分からなくて戸惑った。
実際、楽人は何もしていない。
彼女たちを助けたのは警察であり、協力したアル・ラクス。
しかし、彼が危険を顧みず、助ける相手も居ない犯人の倉庫へ駆け付けたこともまた事実。
逆に言えば、他の拉致された男たちは駆け付けなかった。
後日、彼らは日常に戻ってから、当時のことを話題に彼女へ近付いた。
敢えて言えば、彼女が惹かれた理由はその違いだったけれど、仕事明けで疲れている彼女に、面倒な客と彼女を特別扱いしない子供を冷静に比較する余裕は無い。
だから、彼女は自然と、仕事柄慣れている行動をしていた。
「…これ、良かったら貰って」
彼女はルイスヴィトンのハンドバッグから、ググッチの名刺入れを取り出し、中から名刺を一枚取り出して、彼に差し出した。
名詞は黒地に目立つ白で、店名や連絡先が書かれている。
ざわ…ざわ……
キャバ嬢と男子高校生の組み合わせは珍しい。
時々、通行人が彼女たちを見ながら通り過ぎて行く。
「…未成年なんで行きませんよ」
楽人は視線に耐え切れず、名刺を受け取って名前だけ確認すると、直ぐに財布に仕舞い込んだ。
裏面には彼女の写真と源氏名が“あやの”と印刷されていた。
「くすっ。当たり前じゃない」
絢乃は思わず吹き出した。
「常識が通じるようで何よりです。それでは今度こそ失礼します。始業式から遅刻したくないので」
楽人が憮然とした顔で応える。
「いってらっしゃい、坊や」
「はいはい」
絢乃に手を振られながら、通行人からは冷たい視線を浴びながら、楽人は早足にならないように、意識してゆっくりとその場を離れた。
日常は死んだ!
もう帰って来ないんだよ…




