報復
「うぷ……飲み過ぎた」
花畑美那子は二日酔いで頭痛の激しい頭を抱えながら、家路を辿っていた。
「美那子、大丈夫?」
親友の須磨真理が、美那子に肩を貸しながら心配する。
一緒に朝まで飲んでいたとは思えないほど、その顔色は綺麗だった。
「何で真理は平気なのよ…」
「うふふ。普段からあの人との恋に酔ってるからかしら?」
「…あっ、十分酔ってた」
真理は見た目が変わらないだけで、気持ち良く酔って、頭の中は夢見心地だった。
「ああ、早く楽人がお酒を飲める歳にならないかしら~」
お酒が飲める親にとって、それは子供の成長を実感できる楽しみの一つ。
もし酔っていなければ、安月給を母親への仕送りに注ぎ込んで婚期を逃した友人の前では、気遣って口にしなかっただろう。
美那子も、酔っていなければ嫉妬で掴み掛かっていたところだ。
「楽人君、いくつだっけ?」
「今年で17よ」
「私にちょうだい」
「だ~め。もう売約済みだから」
「ちぇっ」
真理は何人目かの息子狙いの友人を窘めた。
息子の恋愛に口を出すつもりは無くても、流石に自分と同年代以上には抵抗がある。
「着いたわよ」
「…ありがと、真理」
(また微巳にグチグチ言われるんだろうなあ…)
美那子は少し憂鬱になった。
悲しいことがあってお酒を飲む。
友人に会ってお酒を飲む。
どちらも自然な流れだが、何より自分の気持ちが大切な妹には通用しない。
その対象が、外面を取り繕う必要の無い母や姉相手となれば尚更だ。
それでも美那子は飲んだ。
今日――昨日――くらいは飲まなければ、やってられなかったから。
だから妹の身勝手なお小言を覚悟して、鞄からキーケースを取り出すと、その中から家の鍵を選んでドアを開けた。
ガチャッ
「…ただいま」
それでも、少し控えめに声を掛けた。
返事は無い。
美那子は出迎えなんて期待していなかったけれど、妙な違和感を感じた。
真理も妙な胸騒ぎを感じた。
玄関には来客の靴は無く、廊下にも土足で上がり込んだような汚れは無い。
――違和感の正体は音。
防音を意識した作りでも無いのに、生活音が全く聞こえて来ないのだ。
聞こえるのはドアの外の音と、どこかで何かが軋む音だけ。
美那子と真理は顔を見合わせると、靴を脱いで家に上がった。
「お邪魔します」
真理は小声で言った。
玄関は綺麗だったが、それは不法侵入者が居ない証拠にはならないからだ。
それでも挨拶をしてしまうのは育ちの良さ。
ガチャッ
「「―――っ!」」
彼女たちは廊下を進んで居間のドアを開けると、中の光景を見て絶句した。
居間はカーテンが閉め切られていた。
外から入って来る陽光は乏しく、代わりに電気が点いている。
正面の壁の四隅からは細い糸が伸びていて、微巳の両手両足に何重にも絡み付き、彼女を壁に磔にしていた。
糸は口と首にも巻き付いている。
微巳だけでは無い。
左の壁には息子の莎阿、右の壁にはその妻の葛奈も同様に磔となっていた。
「微巳っ!」
美那子が思わず妹の名前を叫んだ。
微巳は彼女に気付くと、その綺麗な四十路の顔を歪ませて何かを訴えようとしたが、口を塞がれていて声にならなかった。
とてとて
天井から軽い接地音がした。
美那子と真理が釣られて上を見上げると、そこには黒と赤の頭部まで全身タイツの男が、天井に手の平と足の裏を付けて張り付いていた……【蜘蛛男】である。
「ひっ!」
真理が悲鳴を上げる。
美那子から話には聞いてはいたが、急に頭上に現れたので驚いた。
プシュッ、プシュッ
【蜘蛛男】が壁から両手を離して彼女たちに向けると、手の平の小さな穴から細い糸が飛び出した。
「なにっ?!」
「いやっ!」
彼女たちは手で糸を振り払おうとした。
しかし、糸はまるで意思を持っているかのように宙を舞う。
シュルシュルシュルッ
糸は彼女たちの顔に巻き付いて口を塞ぐと、続いて全身にグルグルと巻き付いた。
糸が更に少しずつ伸びて、ゆっくりと彼女たちを床に転がすと、【蜘蛛男】は手元で糸を切り離した。
「美那子さんたちに恨みは無いけど、騒がれても困るのでね」
マスクに覆われた異形の顔が悲痛に歪む。
彼は天井から床に音も無く下り立つと、居間を出て行った。
(悲しそうな顔…)
初めて見る真理にも、その表情は悲しそうに見えた。
真理や美那子は糸を解こうと藻掻くが、糸は全く緩まない。
糸が巻き付く際に、バッグが邪魔で僅かな隙間が出来ていたが、糸は何重にも巻き付いているので抜け出すには至らなかった。
真理はその隙間でスマホを見ずに操作して、コネクトで夫に助けを求めた。
その後、通話のマイク感度を最大に、上下のマイク兼スピーカーの穴を指で塞いだ。
* * *
暫くすると、【蜘蛛男】は玄関の鍵を閉めて、居間に戻って来た。
彼は入り口近くに転がる真理たちをチラリと見たが、直ぐに興味を失い、部屋の中……壁に磔になっている微巳たちの方を向く。
彼が人差し指を軽く引くと、彼女たちの口を塞いでいた糸が解けた。
「ぷはっ! あんたこんなことして許されると思ってるの!?」
微巳は口が自由になった途端、【蜘蛛男】を睨んで批難した。
「そうよ!」
「お前何考えてんだよ!」
葛奈と莎阿も尻馬に乗って罵声を飛ばす。
【蜘蛛男】はまだ彼女たちを磔にしただけで何もしていない。
騒がれて来客に通報されても面倒なので、一先ず口を塞いでいただけ。
「自分は何もしていないと言うんだな」
彼はゆっくりわからせるつもりだった。
「当たり前でしょ! あたしが何したって言うの!?」
微巳は磔にされても強気だった。
彼は口では自分を批難しても、母親には従順で、結局最後はいつも折れていた……そう思い込んでいたから。
『喚けば正当化できる』
『反撃されないから何をやっても良い』
その考えは、麻疹のようなものだ。
大半の人間は幼い頃に現実に直面し、間違う前に、或いは間違ってからでも理解する。
しかし、稀に例外が居る。
甘やかされた人間や、理解した振りをしてやり過ごした人間だ。
「貴様は咲に散々迷惑を掛けた。反対を押し切って結婚や離婚をしたのは貴様の勝手だろう。けれど、家事や子育てを押し付けて、金の無心を続けておきながら、『何にもしない親の面倒を見てやってる』と真逆のことを吹聴して回った挙句、亡くなった彼女を冒涜する暴言の数々。貴様に咲を侮辱する権利は無いっ!」
【蜘蛛男】は微巳に指を突き付けて、一気に捲し立てた。
「はあ? なんの証拠があって言ってんのよ! 証拠見せなさいよ! 証拠っ!」
微巳は鬼の首でも取ったように、息を巻いて反論した。
それは現実から目を逸らす人間の常套句。
彼女が彼の言葉に口を挟まなかったのは、別に真剣に聞いていたからでは無い。
面倒だから聞き流していただけに過ぎない。
「…本気で言っているのか?」
【蜘蛛男】は呆れて、溜め息と一緒に吐き捨てた。
「ほら証拠なんて無いんでしょ! 誹謗中傷よ! 謝罪しなさいよこの陰険男っ!」
キュッ
「――っ?!」
【蜘蛛男】が中指を曲げると、微巳の首に巻き付いていた糸が締まった。
彼女は急に呼吸ができなくなって、顔を青くして苦しみだした。
手足は糸で壁の四隅に繋がれているので、藻掻くことも出来ない。
「ママっ! 何すんだこの恩知らず!」
「離しな、さいよっ! 殺す気?! やっぱり所詮はバケモノね!」
莎阿と屑奈が唾を飛ばして【蜘蛛男】を批難する。
(夫婦は似ると言うけれど、ああは成りたく無いものね…)
真理は口を塞がれているので黙って事態を見守っていたが、口汚く罵る親友の甥夫婦を見て耳も塞ぎたくなった。
キュッ、キュッ
「「――っ!?」」
その思いが通じた訳では無いが、【蜘蛛男】は糸を操って、莎阿と屑奈の首も締め上げる。
三人が呼吸困難で意識を失うと、【蜘蛛男】は彼女たちの首の糸を緩め、その代わりに再び彼女たちの口を塞いだ。
彼女たちはこれから知ることになる。
【蜘蛛男】による復讐は、まだ始まってもいなかったのだと…。
復習は大事です(誤変換にあらず)




