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生物教師:音無静香

 伊耶美町郵便局前。

 楽人は電車を降りて待ち合わせ場所へ駆け付けると、一度立ち止まって、呼吸を整えてから声を掛けた。


「はぁっ、はぁっ…………音無先生、お待たせしました」


 植え込みに座っていた彼女は、自分を呼ぶ声に気付いて、俯いていた顔を上げた。


 その姿は、一言で言うとボロボロだった。

 人並み以上に整っている顔は、汗で薄い化粧が崩れ、眉が歪んだり、口から血が滴っているように見える。

 髪はボサボサで、普段はピシっと決まっているスーツも着崩れしていて、靴も片方履いていない。


 真面目な女教師の面影は無く、酔っ払いOLかゾンビの成れの果てにしか見えない姿に、道行く人々は時々視線を向けるだけで、誰も声を掛けようとしない。

 しかし、その散々な見た目に反して、その動きは緩慢ではあっても歪みは無かった。


(良かった。酷い怪我は無さそうだ)


 楽人は心の中で安堵すると、もう一度謝った。


「遅くなって済みません。須磨です」


 その名前を聞いて、音無静香の視線が漸く彼の姿を捕らえた。


「……須磨…君?」

「はい、須磨です」


 見知った女教師の化粧の崩れた顔を間近に見て、楽人は一瞬驚いたが、何とか顔には出さずに済ませた。


「隣、いいですか?」

「……ええ……どうぞ」

「では失礼して……」


 こういう状況に疎かった楽人は、昔憧れたヒーローたちがそうであったように、肩が触れそうなくらい直ぐ近くに座った。

 彼女の肩が一度小さく震えたが、彼はそれに気付かなかった。


「教えてください」

「……教える……何を?」

「先生が昨日学校を出てから、今までのことをです。お願いします」

「………」


 反応が無い。

 暫くして、楽人がもう一度聞き直そうかと思った頃、静香はポツリ、ポツリと話し始めた。


「昨日……」


ーーーーー

ーーーー

ーーー

ーー


「先生さようなら~」

「また明日ねー」

「今日もありがとうございました」

「はい、さようなら」


 下校時刻になって、オタク同好会の生徒たちが帰って行く。


 ――未だに、オタクと言うと根暗なイメージを持っている人が多いけれど、実際はかなり違う。

 その多くは下手な陽キャよりも協調性があり、社交的な人も少なくない。

 それは何故かと言うと、オタクが少数派だったことに起因する。

 オタクと言うだけで、犯罪者のように見られた時代があった。

 悲しいことに、凡人は他人を貶めることに安心感を覚える。


 人は昔から、理解できないものを恐れた。

 世界中で生まれた自然信仰がその証。

 しかし、人は知識を得ることに因って増長した。

 理解できないものを恐れるのではなく、否定するようになった。


 《よくわからない→でも自分は正しい→だから相手が悪い》


 オタクもそのエゴの標的になったに過ぎない。

 彼らはオタクであることを隠し、普通の人を演じた。

 やがてオタクが増えていき、オタクへの批難が減って来ても、疎んじられないように気を付けた。

 自分を律して相手に合わせるのだから、そう(・・)なっていくのは必然だった。


 ……私もそんな一人だった。

 でも臆病だった。

 だからユントロが来てくれた時、これはチャンスだと思った。

 オタク同好会に協力して、彼女たちを……過去の自分を助けてあげたかった。

 多分、それは上手くいっている。

 今日だってそうだ。


「お待たせ~」


 彼女たちと一緒に帰るために、下校時間を待っていた生徒たちが居る。

 切っ掛けはユントロだけど、彼女たちは他のことでも繋がっていく。


「羨ましいなぁ……」


 思わず漏れた言葉に気付いて、慌てて口を塞ぐ。

 もう周囲には誰も居ないことを確認して、ホッと溜め息を吐く。

 預かった部室の鍵を持って職員室に戻り、私も家路に就いた………。



 * * *



「ただ~いま~」


 アパートの鍵を開けて家に入る。

 中から返事は無い。

 誰かが待っている訳では無いけれど、気分の問題だった。

 でも今は同居人が居る。


「ユントロ、ただいま」

「ウユーン」


 ペット用の持ち運びケージから、ユントロが返事をした。


 ピンポーンッ


 ケージから出してあげようとしたところで呼び鈴が鳴った。


「少し待っててね」

「フィユーン」


 ユントロは一度教えたことは理解する。

 親馬鹿かもしれないけれど、下手な子供よりも賢い。


「は~い、今出ま~す」


 そう言って玄関を開けると手に何かが触れて、


 バチバチバチバチッ


 全身が痺れて身体に力が入らなくなり、その場に崩れ落ちた。

 来客は私を無視して部屋に上がり、


「みぃーつけたっ♪」

「ウュュュ……」


 ユントロのケージを持ち上げた。


(……待って……)


 ゲシッ


「ざまぁ♡」


 来客は声が出ない私を蹴って出て行った。



 * * *



 数分後、動けるようになった私は、直ぐに部屋を出てマンションから飛び出した。

 けれど当然、犯人の姿は何処にも無かった。

 一度部屋に戻って探してみたけれど、やっぱりユントロの姿は無かった。

 ユントロだけが居ない。

 帰って来た時と同じ光景。

 倒れていた私には、犯人の足元しか見えなかった。

 歩いて来たのか、車で来たのかすら分からない。

 分かっているのは、恐らく女性だということだけ。

 でもきっと遠くない。

 そう信じて、ユントロを探して彷徨った。

 道行く人にスマホの写真を見せて、ユントロを訪ねて周った。

 無視された。

 無視された。

 無視された。

 邪魔だと押し退けられた。

 よろめいて倒れた。

 或いはどこかにぶつけた。

 知っていると言われて着いて行ったら、路地裏で押し倒されそうになった。

 保護していると言われて着いて言ったら、ホテルで押し倒されそうになった。

 どうやって逃げ出したのか、覚えてもいない。

 それでも探した。

 身体が動かなくなったら休んで、動けるようになったらまた探した。

 夜も朝も。


 タンタンタンタタ、タタタ、タタ、タタタ~


 着メロが鳴った。

 古いアニメソングだ。

 一般受けしているから、着メロにしてもオタク扱いされなくて済む、お気に入りの一曲。

 発信者は学年主任の真島先生だった。

 その時になって漸く、無断欠勤をしてしまったのだと気付く。

 真面目な先生という仮面を壊してしまったけれど、今はそんなことはどうでも良かった。


「……はい」

『真島です。音無先生、今日はどうしたんですか?』

「……申し訳ありません。気分が優れなくて……」


 ヘタな言い訳だ。

 子供の仮病でもあるまいに……。


『そうですか、それなら……』

『……今どこですか!?』


 男子生徒だろうか。

 聞き慣れない、最近聞いた声が割り込んできた。


「……誰?」

『2年の須磨です。一昨日部室に行った』


 ああ、一昨日同好会で会ったのなら聞き覚えがあるはずだ。


「……それで須磨君が私に……」

『一緒に探しましょう!』

「……何で?」


 知っているの?

 そう続けようとしたけれど言葉にならなかった。

 まさか、という思いがあったからだ。


『あー……』


 返答に迷う声を聞いて、疑った自分が恥ずかしくなった。

 学年主任の電話に横入りして慌てる彼は、待ち構えていた犯人とはちぐはぐ過ぎる。

 それなら、本当に何で、彼は一緒に探そうと言い出したのだろう?

 その答えは直ぐに、彼自身から齎された。


『気になるからですよ!』


 主語も何も無い率直な言葉。

 教師として注意したい気持ちにもなる。


「……須磨君には関係無いでしょう?」

『心配だからです。……力になりたいんです』


 だから「何が」心配で「何の」力になりたいと言うのか……。


(?!)


 その可能性(・・・・・)が脳裏を過って、顔が熱くなるのを感じた。

 まさか、そんなこと(・・・・・)が現実にあるはずはない。

 ……でもそれ(・・)以外に、どう解釈できると言うの?

 それ(・・)なら学年主任の前で言えないのも納得がいく……。


「――町3丁目の郵便局」

『! 分かりました。直ぐに行きます!』


 待ち合わせ場所を指定した。

 もし違ったとしても、彼が本気で協力しようと思っていることには変わらないはずだと、自分に言い訳をして……。


ーー

ーーー

ーーーー

ーーーーー


 音無静香の話は、教師らしく要点を抑えた内容だった。

 家に帰って直ぐに来客があり、スタンガンを使ってユントロだけ攫って逃げた。

 一晩中人探し……もといペット探しをしていて、睨まれたりホテルに連れ込まれたりした。

 詳細を省くと、それだけだった。

 その割りに時間が掛かったのは、彼女が言葉を選んだから。


(やっぱり犯人はネカマでは無くて本物の女性。思ったより計画的だったみたいだな……)


 ユントロが静香の下に現れてから、まだ三日も経っていないこともあり、楽人は犯人の行動力に感心した。


(それにしても、ホテルに連れ込まれてよく無事だったなぁ……。相手が酔っ払いだったんだろうか? それとも、先生がこう見えて、実は武術の達人だったりとか……無いな。運が良かっただけか)


 楽人は静香の足元を一瞥した。

 彼女の靴を履いていない方の足は、ストッキングの底が破れ、肌は土埃で汚れていた。


「ありがとう。お陰で状況が分かった」

「……そう。それじゃあ……」


 楽人が礼を言うと、静香はフラフラと立ち上がった。


「ちょ、待って先生!」

「?」

「ちゃんと食事摂ってる? 少し休んだ方がいいよ」

「……休みなら、今取った……ユントロ(あのこ)が寂しがってる時に、私だけ食事なんて……」

「――ストップ!」


 楽人は立ち上がって、静香の両肩を押さえた。

 意外にも、彼女は素直に腰を下ろした。


「力になるって言ったでしょ? 俺も手伝うからさ。俺が考えを纏めるまで待ってよ、先生」

「………」

「その間に、これでも食べてて」


 楽人は駅の売店で買った、御茶のペットボトルの蓋を開けて、静香の手を取って無理矢理持たせた。

 彼女がペットボトルを受け取ると、彼はその膝の上に売店の袋を載せた。

 袋の中には、おにぎり、サンドウィッチ、ゼリー飲料や焼き菓子などの栄養食品、ウェットティッシュが入っている。


 ぐいっ


 静香は静々とお茶を飲み始めて……直ぐに咽た。

 急に渇いた喉へ水分を流し込んだから、身体が驚いたのだ。


「えぅっ、ひぅっ……」


 彼女は泣きそうな顔になるが、水分が不足していて涙も出ない。


「大丈夫ですか?」


 楽人が彼女の背中を擦る。


「落ち着いて、ゆっくり飲んでください」


 彼が手を添えてゆっくり飲ませると、


 こくっ…こくっ……


 今度は咽ずに、少しずつ飲んだ。

 それから少しすると、静香は焼き菓子の袋を開けて、モソモソと食べ始めた。


(ハムスターみたいだ……)


 楽人は微妙に失礼なことを考えながら、その様子を見守った……。



 * * *



「――考えは纏まった?」


 楽人が静香の食事を見守っていると、暫くして彼女が顔を上げた。

 彼女の顔色は幾分マシになっていて、目の奥には先程より生気が伺える。

 それに対して、彼女の膝に載った売店の袋の中は、食べ終わったゴミだけとなって哀愁が漂っていた。


(……そう言えば、俺が考えを纏めるのを待ってもらうという話だった)


 移動中に考えていた彼は、先程の先生から聞いた話で、心はもう決まっていた。


「俺にいい考えがある」


 どこかで聞いたような言葉になったのは、相手を安心させるため。


「これを見て」

「私のブログ……?」


 楽人が静香に見せたスマホには、彼女のブログの昨日のコメントが表示されていた。


『あたしのユントロを返せ!』『ユントロはお前のものじゃない!』『何様のつもり?!』『死ね!盗人女』『前から気に入らなかった!』『特定した』………


「これらは立派な名誉棄損だ」

「?」


 静香は首を傾げた。

 楽人も聞き齧りなので良く分かっていなかったが、敢えて自信ありげに続けた。


「もしかして、一昨日も同じようなコメントがあったんじゃないかな?」

「……ええ」

「消したの?」

「……他の常連さんに、『見ていて気分が悪いし、こういうのは消した方が良い』って言われて……」


(なるほど。だから昨日のコメントは残っていたのか)


 それは楽人の考えを後押しする情報だった。


「普通にユントロを連れ去られたと言っても、【リアライザー】だから警察の動きは鈍いと思う」

「………」


 楽人が指摘すると、静香は黙ってしまった。

 現状、世間に於ける【リアライザー】の扱いは未確認生物(UMA)と変わらない。


「でも、ユントロが先生の元に来たことや、客観的に見て先生のものだという事実は間違いない。違うかな?」

「……私は……そうだと思いたいです」


 何処か不安げな、けれど確かな意思の籠った、少しだけ強い口調。

 只ユントロを求めて彷徨うだけど、まるで幽鬼(ゾンビ)みたいだった先程までとは違う。

 楽人は自分の知る普段の先生が戻ってきたように感じて、内心ホッとした。


「うん。少なくとも、ブログには同じ考えの人たちが結構居るよね」


 こくり


 静香は少し誇らしそうに頷いた。


「だから、それを『返せ』だの『死ね』だの言われた後に奪われたのは、客観的に見て犯罪だ」

「……だけど証拠が無いから、警察は動かない」

「普通はね。だけど、これを見て」

「これは……!」


 楽人はブログのコメントから、犯人のブログへ画面を移動させた。

 するとそこには、ユントロの写真が公開されていた。

 グッズやゲームの画面ではない、実物の写真。

 更新日時も先生の元から連れ去られた後となっている。


「承認欲求が強いよね」


 楽人は正直、ブログを見た時は本気で呆れたものだが、世の中なんてそんなものだ。

 本当に慎重な人間が多ければ、誹謗中傷も嫌がらせも蔓延していない。

「そこまで分かっているなら、さっさと警察に通報しろ」と言われるかもしれないが、部外者で未成年の楽人が通報をしても警察の腰は重い。

 被害者である先生が訴えることに意味があるのだ。


「警察へ行こう」


 楽人が立ち上がって、静香に手を差し出すと、


「はい」


 彼女は今までで一番ハッキリと返事をして、膝の上のビニール袋を持ち、もう片手で彼の手を取った。

 彼がその手を引いて立ち上がらせようとしたら……、


「――っ!」


 半日歩き回った疲れは、少し休んだくらいで回復するはずも無く、彼女は勢い余って倒れそうになった。


「っと」


 彼が慌てて支えると、正面から抱き合う形になる。

 必然。

 彼女の体重に依って、その胸が強く彼の胸に押し付けられて潰れた。


(……柔らかい)


 普段はスーツに隠れているそれは、彼が驚くほどに――サーニャよりも僅かに――大きかった。

 無論、形と柔らかさでは、フィクション(リアライザー)に敵うはずも無かったが。


(いい匂いもする)


 一日シャワーも浴びていない彼女自身の匂いが、彼の鼻孔を擽った。


「あの……」


 静香が楽人の耳元で、申し訳無さそうに囁く。

 彼は、それで周囲の視線に気付いた。

 それも一つではない。


(あの視線には見覚えがある。と言うか、俺も時々やる)


 それは「見せ付けてくれやがって」という、妬みと呆れの混ざった視線だった。


「もう大丈夫だから……」

「あ、済みませんっ!」


 楽人は慌てて先生を離した。


「……ありがとう」

「ど、どういたしまして……」


 ボロボロの服を正して礼を言う静香と、吃りながら返礼をする楽人。

 道行く人たちは、砂糖でも吐きそうな顔で通り過ぎていく。


(く、空気が重い……)


 楽人が先に居た堪れなくなって口を開いた。


「行きましょう」


 静香は既に立っていたが、もう一度手を差し出した。


「……はい」


 彼女は先程よりぎこちなくその手を取る。

 今度こそ、彼らは近くの警察署へと向かった……。

私にいい考えがある!

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