浜辺:水遊び
「ふぅー…」
一時間後。
楽人は一人、海から出てブルーシートへ戻って来た。
「慣れないことはするもんじゃないなぁ…」
疲れたのである。
僅か数分とは言え、四人相手の大立ち回りをした彼は、海に入る前から心身共にかなり疲弊していた。
「せいやーっ!」
彼が来た方角からは、範子の雄叫びが聞こえて来た。
彼が振り返ると、範子が海面にうつぶせに着水して水飛沫が上がり、サーニャたちが楽しそうにキャーキャー叫んでいるところだった。
「元気だなぁ…」
この一時間、彼らは海で思いきり遊んだ。
まず、海の浅いところまで、パシャパシャと水飛沫を上げながら走った。
水の意外な冷たさに、皆でキャーキャー叫びながら、足を水面から出したり入れたりと足踏みをした。
一足早くそれに飽きた範子が、屈んで両手で水を掬ってサーニャに掛けた。
サーニャが燥いで適当に水を掛け返し、それが範子の横の貴巫女にも掛かる。
貴巫女はアキラにも少し水を掛けてやると、アキラも喜んでバシャバシャと水を跳ねさせ、全員に被弾。
メスリンは当然の権利のように、サーニャを微笑ましそうに見ていた楽人の顔を狙う。
そこからは大乱戦だった。
一頻り燥ぐと、今度は貴巫女がニヤリと笑って、波間に浮かしていたビーチボールを拾って放り投げた。
狙いは違わず、範子の頭の上に落ちる。
範子はサーニャに声を掛けて、ビーチボールをトスで送る。
トスを知らないサーニャは、ビーチボールを空中でキャッチしてしまい、範子が腹を抱えて笑う。
近くの楽人がサーニャに、放り投げてどうするか見ているように言う。
サーニャがビーチボールを放ると、楽人は貴巫女にトス。
メスリンがボールを欲しがり、貴巫女がトスをすると、メスリンは器用にサーニャにトス。
サーニャは楽人に声を掛けてトスをするが、逸れて範子の頭頂部を再び直撃。
範子は笑うと、今度はアキラの方に軽く放り、アキラが必死に手で弾くと、誰も居ない所に飛んで行ったそれを、楽人がダイビングレシーブをして輪に戻す。
いつの間にか輪になり、繰り返す内にサーニャやアキラも上手くなっていった。
その内、アキラが疲れたと見た楽人が、範子に遠泳勝負を挑む。
範子がそれを受けて立ち、合図を待たず泳ぎ出す。
楽人が慌てて追って泳ぎだし、貴巫女がサーニャたちに応援を促し、四人で応援をする。
体力万全の範子は男女差を覆し、疲労気味の楽人と良い勝負をして僅差で勝利。
そして疲れを実感した楽人はブルーシートに戻り、彼女たちは水遊びを再開したのである。
アル・ラクスは、その間も今もアキラたちを離れて見守っていて、時折、海水浴客たちに声を掛けられては笑顔で応えていた。
「須磨君?」
楽人が呼び声に振り返ると、パラソルの陰で、正座を崩してお姉さん座りをしている静香と目が合った。
彼女は傍らで丸まっているユントロの背中をのんびり撫でていたが、その内心は激しく動揺していた。
(い、いつの間に?! さっきまで遠くで泳いでなかった? 少し目を離している間に何があったの!? と、兎に角何か話さなくちゃ!)
「…どうしたのかしら? 皆と遊ばないの?」
彼女は動揺を隠そうと、普段より年上ぶった優しい話し方を意識したが、そのせいで余計に声が上擦った。
「ええ、少し疲れたんで休憩です」
楽人は、肩の力を抜いて苦笑いをする。
「それよりも、音無先生は泳がないんですか?」
「私も……少し疲れちゃったかな…」
(じ、じろじろ見たら変よね。でも脇腹くらいなら……ああ、やっぱり丁寧な鍛え方しているわ。魅せるための筋肉と違って…)
(視線を外した? 見てるのは……ああ、蹴られた辺りか。痣にはなってないはずだけど気にしてるのかな? 心配してたもんなぁ…)
「済みません。俺が心配させたせいですよね」
楽人は静香に気苦労を掛けて疲れさせてしまったと思い、丁寧に頭を下げて謝った。
立っているので、それでも彼女より頭の位置は高い。
(え? どういうこと? なんで私謝られているの? …はっ! これはもしかしてチャンスなのでは!?)
静香は楽人の謝った理由が分からなくて戸惑ったが、引け目を感じていることだけは理解できたので、兼ねてからの計画の実行を決意した。
彼女が胸に手を乗せると、その豊かな膨らみが僅かに柔らかく潰れた。
「…それでは代わりに、一つお願いを聞いていただけるかしら?」
それから少し俯いて、上目遣いで、精一杯気弱そうな表情を作って懇願した。
楽人が彼女の言葉に反応して顔を上げると、その今にも折れそうな彼女の弱々しい姿が目に入った。
(何かを望まれている。…俺なんかが?)
彼には他人に好かれる自覚は無い。
人は好かれる人間を尋ねられれば、陽キャなど身近で現実的に好かれている人間を思い描く。
彼が比較にするのもまた、身近な人物。
(俺にはアルクスのような誰もが見惚れる精悍な顔立ちも、誰もが安心感を覚える爽やかな声も、誰もが頼れる逞しい身体も無い。かと言って渡良瀬警部のような気遣いも、高町刑事のような誠実さも、【心眼】のような言葉の重みも無い)
…但し、その対象は常に高潔。
そして断崖絶壁。
彼らに出会う前も、アニメやゲームのヒーロー、母親の尻に敷かれているが頼りになる父親であり、壁が高いことに変わりは無い。
故に彼は好かれるという自覚を持てなかった。
(信じて良いのか?)
頼んでもいないのに、勝手に調子良く褒めたり頼んだりする癖に、思い通りにならないと激昂する人間は多い。
言葉通り取る方が悪いと言えば、双方共に悪い。
しかし、他人から信じる気持ちを奪うのがどちらかは明白。
自分に自信の無い彼は、他人を信じたかった。
いつも信じられる相手を求めていた。
だから静香を信じようと思った。
「俺にできることなら何でも言ってください」
(キャーッ! 今何でもって言ったわよね? 何でもって! つまりあんなことやこんなことをお願いしても良いってことよね?! …うん、落ち着け私)
静香は、内心で勝利の大喝采を上げたが、直ぐに我に返った。
(高望みは駄目よ静香。いきなり高望みをしたって反故にされるだけよ。恋愛ゲームだって少女漫画だって過程をすっ飛ばしてハッピーエンドなんて無いんだから。ここは当初の予定通り…)
彼女は高望みを我慢できたことを、今までのゲームや漫画に感謝した。
何時の時代も、何歳になっても、少女漫画は乙女の心の聖典なのだ。
「…それなら、日焼け止めオイルを塗って貰えるかしら?」
彼女は、ほんの少しだけ顔を上げてお願いした。
ドキンッ
楽人の心臓が跳ね上がった。
真面目に考え過ぎていた彼にとって、そのお願いは予想外で……そして刺激的過ぎた。
彼にとって、母親以外で初めて、魅力的だと認識した年上の――現実の――女性。
…当然、ショタコンお姉ちゃんは彼の中でカウントされていない。
『え? やだよ。そんなの母さんにでも頼めよ』
…なんて言えるはずも無かった。
(音無先生は年下を誑かして楽しむような性格じゃない。だから信じて良いんだよな…)
彼は彼女に好かれていることを認めた。
そうなると問題になるのが、彼女のお願いに対する返事である。
彼は想像してみた。
サーニャがアル・ラクスに頼まれてオイルを塗っているところを。
彼の脳内には、サーニャが寝転んだアル・ラクスの背中に、オイルをペタペタと塗って遊んでいる姿が浮かんだ。
(…健全? 上に乗ったり股間を触ったりしなければセーフか?)
「…ダメ、かな?」
彼が浮気にならないか検討をしていると、静香は胸に当てていた手を祈るように組んで、顔を上げて諦めの入った表情で尋ねた。
「いえ、俺で良ければ喜んで」
(…断る方が変なことを想像しているみたいだしな)
楽人は難しく考えることを諦めて承諾した。
「…ほっ…。ありがとう、須磨君」
音無静香は小さく安堵の溜め息を吐き、ニッコリと微笑んで礼を言った。




