同行者:音無静香
次の目的地、音無静香の住む五階建てのマンションには、数分足らずで到着した。
免許を持っていない彼女は、就職する際に職場にも駅にも歩いて行けるマンションを選んだ。
そのため、高校に近い楽人の家からもそう離れていない。
「俺とサーニャで行って来るよ」
共同住宅のエントランスに大勢で押し掛けると、他の住民の迷惑になりかねない。
そう考えた楽人は、父親に車を近くの道路脇へ停めて貰って、サーニャと二人だけでマンションへ向かった。
ブーンッ
二人は自動ドアを抜けてエントランスに入る。
楽人がエントランスのインターホンで静香の部屋番号を入力すると、直ぐに反応があった。
「おはよう、須磨君。今下に行くわ。少し待っていてちょうだい」
プツンッ
静香が少し早口で挨拶をすると、直ぐにインターホンが切れた。
間も無く、鍵の掛かった半透明の自動ドアの奥で、エレベーターが上昇を始める。
やがてエレベーターのドアが開き、中から静香が出て来た。
彼女は直ぐにエントランスの方を見て、楽人の姿を認めると、逸る気持ちを抑えて軽く手を振った。
楽人がそれに気付いて手を振り返す。
静香は気持ち早足でエントランスへ向かい、鍵の掛かった自動ドアを内側から開けた。
「お待たせっ、須磨君」
彼女は待ち切れないとばかりに、自動ドアが開き切る前に潜りながら挨拶をする。
その声は抑え切れない気持ちで弾んでいた。
「おはようございます、音無先生」
楽人が一瞬遅れて挨拶を返す。
静香の背後で、自動ドアが静かに閉まった。
(綺麗だ…)
楽人は自分の心臓が早鐘を打っていることに気付き、目の前の静香や背後のサーニャに聞こえないかドキドキした。
それほどに、目の前の彼女は楽人の心を奪っていた。
その服装は一言で言うと静謐。
白いブラウスは身体のラインがシルエットとして浮かび、前面のボタンに沿うように飾られた胸元のフリルは、呼吸で僅かに上下する豊かな胸とともに緩やかに舞い、柔らかい袖は手首の辺りで細く窄められ、袖口のフリルがふわりと広がっている。
贅沢に生地を使った深い蒼のスカートはハイウエストで、胸の下から腰の上までをコルセットのように包み、裾は僅かに丸く絞られて歩く度に節度を持った広がりを見せた。
襟元の深紅の細いリボンも、スカートの下に垣間見える黒いレースのアンダースカートも、高過ぎない白いハイヒールも、全てが音無静香の魅力を引き立たせている。
また、化粧も悪く無かった。
普段あまり化粧をしない女性が、一朝一夕で良くなるはずも無い。
早々に理想を諦めた彼女は、普段のスキンケア重視のナチュラルメイクに、ほんの少し血色がよく見える工夫と、濡れても落ちにくい海メイクを調べて頑張った。
そう、オタク趣味でデート経験も無い喪女なので、誘われるまで海メイクを意識することが無かったのである。
香水は海で維持することが難しいので、彼女は最初から諦めて、海に行ったら落ちる前提で適量を――学校に行く時よりは遥かに多く――使うに留めた。
服装や化粧に比べると、肩から下げている大きめのトートバッグは凡庸だった。
センスは悪く無いし、中が見えないようにファスナーが付いていたり、単なる長方形では無かったりと、作りもしっかりしているように見えるが高級品では無い。
どちらかと言うと安物。
給料の大部分をオタク趣味に費やしてきたシワ寄せがバッグに来ていた。
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海に誘われて喜び勇んだ彼女は、まず服装で躓いた。
選べるほどお洒落な服を持っていないので、コーディネート以前の問題だったのである。
適当に買っても上手くいく自信が無かったので、ネットで彼の気を引けそうなコーディネートから調べ始めた。
喪女故か。
或いはオタク故か。
童貞を殺す服に狙いを定めたけれど、有名どころは人気があり過ぎて、何処も売り切れ状態。
そもそも、通販で買えても二日後に間に合うかは怪しく、少し遅れたら普段着で行くことになりかねない。
そこで他に必要な物も調べて、翌日、街に繰り出した。
目星を付けておいたデザインに近い衣服や水着を探し、試着し、買い揃えた頃には、流行のバッグを探す時間も、何十万もする高級バッグを買うお金も残っていなかった。
その結果が、やや流行遅れの売れ残り二流品である。
服装に合うバッグが見つかっただけ幸運だったと言えよう。
勿論、ローンやリボ払いで高級品を買うことは出来たが、真面目な彼女は借金に強い抵抗があった。
当然、生活費に手を付けて月末ピンチ……なんてことにも縁が無い。
裕福な家の子が一人暮らしを始めると、金銭感覚がおかしくて破滅するパターンが多いけれど、幼い頃から親に隠れて小遣いでオタク趣味を遣り繰りしてきた彼女は、金銭感覚も悪く無かったのである。
もし彼女の親が甘やかしていれば、今頃は『現役高○教師AVデビュー』か、『週末デリヘル嬢登録』コースだったかもしれない。
ともあれ、それらを以て、音無静香はどこかの令嬢と言っても通じそうな上品さを醸し出すことに成功していた。
全ては努力の結晶(一夜漬け)である。
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(いい匂いだ…)
楽人は学校で見慣れた女教師の、学校よりも清楚でありながら華やかな服装と、強いけれど押し付けがましさの無い品の良い香りに陶酔した。
もし彼が独り身なら、即座に恋に堕ちていたことだろう。
しかし悲しいかな。
現実は相思相愛の理想の彼女という強大な防波堤が、彼の理性を外部の誘惑から守っている。
喪女の一念惜しくも届かず。
外面だけ――化粧と服装――で堕とすには、遅きに失したと言える。
せめて助けられた翌日であれば、勝機があったかもしれない。
「素敵な服ですね。よく似合っています」
楽人は素直に静香を褒めた。
最近、現代日本人の慣例的な比喩が通じないサーニャと話している時間が長く、素直に褒めることに慣れていたことが大きい。
「――ありがとう」
楽人の事情など知る由も無い静香は、素直に喜んで花が咲くような笑顔になった。
クイッ、クイッ
サーニャが後ろから楽人の服を引っ張った。
「紹介します」
楽人は一番重要なことを思い出して横にズレる。
「俺の【リアライザー】のサーニャです」
ペコリ
「初めまして、サーニャです。音無先生のことはガクトからいつも聞いています」
サーニャも二度目と言うこともあって、あまり緊張しないで自然に挨拶ができた。
「え?」
静香はいきなり視界に現れた、想い人の【リアライザー】に戸惑った。
実際は楽人の陰に完全に隠れていた訳では無いのだが、浮かれていた静香の目には楽人しか映っておらず、背後の人影に何となく気付いても、それが関係者とは想像もしなかったのだ。
(え? どういうこと? なんで? 【リアライザー】? 須磨君に? 海に行くのに? 二人切りじゃなかったの?)
困惑した彼女の脳裏に、一昨日の電話の内容が蘇る。
≪ええ。実は明後日、家族で海に出掛けるんですが、宜しければ音無先生も一緒に行きませんか?≫
≪…嬉しいお誘いだけれど、ご家族の旅行に私なんかが御一緒しても良いのかしら?≫
思い出して見れば、彼は確かに「家族で」と言っていた。
何なら、彼女自身もしっかりと気付いて返事をしていた。
浮かれている内に記憶が美化されていたのである。
「ガクトから聞いていた通りの、綺麗で優しそうな人ですね♪」
グサッ
静香が自分の勘違いに気付いて恥ずかしくなっていたところに、サーニャの純粋な尊敬の眼差しと言葉が突き刺さった。
(そんな話したっけ?)
肝心の楽人は、サーニャの言葉を訝しんだ。
楽人自身、自覚していなかったが、実はサーニャに静香のことを話す時、枕詞のように「綺麗な」とか「優しい」とか表現していたのである。
(綺麗で優しそう……須磨君にそう思われていたのは嬉しい。でも…)
「?」
静香はサーニャを見たが、彼女は不思議そうに小首を傾げるだけだった。
(【リアライザー】ということは、この愛らしい少女は須磨君の恋人? 付き合っているの? もしかして好かれているというのも私の勘違い?)
楽人の気持ちを少しでも知れた喜びよりも、想像もしなかった衝撃の事実に、彼女の心は大きく揺さぶられた。
《世界で一番思ってくれる人の前に現れる》
【リアライザー】はその性質上、人型の異性である場合――時には同性や動物であっても――【共生者】にとって最愛の人と言うのが一般認識である。
オタクである彼女は楽人と同様に、或いはそれ以上に【リアライザー】についてネットで調べていたので、その手の話題や写真を幾つも目にしていた。
(それなら私は彼を好きになったらいけないの?)
強大なライバルの出現で、「先生と生徒が付き合う訳にはいかない」「彼が卒業してからで良い」と自分に言い聞かせていた常識が、彼女の中で薄れていく。
(諦めたくない……手放したくない……だって……だってやっと自分を見てくれる人に会えたのに…)
彼女は親に期待されなかった。
学生時代も眼鏡のオタク少女として、同類以外から浮いていた。
大きな胸に好色な目を向けるような男しか寄って来なかった。
そんな彼女にとって、助けられた後も変に干渉せず、気遣ってくれる楽人は、何時の間にかどうしようもなく大切な人になっていた。
だから助けを求めるように彼を目で追い、最初より横に僅か数十センチ移動しただけの彼が、まるでどこか遠くへ行ってしまうかのように錯覚して、
「嫌…」
不安に駆られて、彼の方へ手を伸ばした。
「あっ…」
慣れないハイヒールが傾いた重心に耐え切れずバランスを崩す。
とんっ
彼女の身体は軽い音を立てて、一歩踏み出した彼の胸に当たり、その腕に支えられた。
「大丈夫ですか?」
彼の心配する声が、彼女の耳元で優しく響く。
「…だ、大丈…夫……?」
と同時に、仄かな香りが彼女の鼻を突いた。
いつもより濃い自分の香水の匂いでは無い。
彼の服と隣の少女からする、ここまで近付いてやっと感じる、その年頃を考えても控え目過ぎる仄かな匂い。
普通、他人の香水は気になるはずなのに、それは嫌な感じがせず、それどころか自分の匂いと混ざり合って心が落ち着く錯覚すら覚えた。
『眼鏡のくせに』
『オタクのくせに』
『胸だけのくせに』
『本気にしたんだ』
『バカが引っ掛かった』
不意に、過去の悪意に満ちた言葉が脳内で再生される。
(…違う。彼はそんな人じゃない)
彼女は心の中で静かに否定する。
今も包んでくれている温もりが、彼の優しさを肯定してくれた。
彼が優しいという噂は、彼女も聞いたことが無い。
あまり他人と関わるタイプでは無いので当然だ。
それなのに、只の一教師に過ぎない彼女を心配し、探し、追って、助けてくれた。
同じ【共生者】と言うだけでは説明が付かない。
彼自身は聞かれれば違うと答えるだろうが、だからと言って、そこに一切の好意が無かったとは彼自身にも言えない。
言えば嘘になるだろう。
(私は何を悲観的になっていたんだろう)
顔を上げた彼女は、横で心配そうに見ているサーニャに気付いて我に返った。
彼氏が目の前で他の女性を抱き止めていても、嫉妬よりも心配をするような優しい子だ。
それに何より、彼女は人間では無い。
背中から垣間見える小さな羽と、スカートの下から時折見える細い尻尾が、彼女が【リアライザー】の中でも純粋な人間では無いことを示している。
(彼女に嫉妬するなんてどうかしている)
生物教師である彼女は、自然界の異種交配は子供ができないことが多く、仮に生まれても子供が生殖能力に著しく欠けることをよく知っていた。
漫画やラノベでありがちな、片親の特徴だけ受け継ぐということは無い。
彼らの間に子供ができても、純粋な人間にはならないと思われた。
(私は何を急いでいたんだろう)
一般的な高校生の恋愛は、一年続かないというのは有名な話だ。
彼女は元から、彼が卒業するまで我慢するつもりだった。
(まだ終わってない…。始まってすらいない…。まだ負けると決まった訳じゃない…。愛されないと決まった訳じゃない……)
後ろ向きだけれど、自分に自信の無い彼女にとっては、それでも精一杯の強がりであり、有乎無乎の勇気。
(…私だって初めてなんだから)
音無静香は決意した。
好きという気持ちを諦めないことを。
「ありがとう、須磨君」
静香は楽人の胸を両手で軽く押して離れた。
彼は素直に、彼女の肩を支えていた両手を離した。
彼女の顔にはもう、先程までの今にも倒れそうな弱々しさは無く、けれどそこにあるのは、学校で普段見せるよりも柔らかく甘い笑顔だった。
「…えっと、そう、これ」
楽人は早鐘を打ち始めた鼓動を誤魔化すように、懐から小さな包みを取り出して彼女に差し出す。
彼女が両手で受け取ると、それは小さな金属音がした。
「これは?」
静香は手の上の包みを見て尋ねた。
「先日、山に登った時の御土産です」
「開けてもいいかしら?」
「どうぞ」
静香が小さな包みを開くと、中からは尻尾だけ黄色いピンクの狐のキーホルダーが出てきた。
「ぬんぬ」と鳴くという変な設定のある御当地キャラである。
マイナーな山の割りに人気があり、一つしか残っていなかったため、楽人がサーニャとお揃いで買うのを断腸の思いで諦めた逸品だった。
「ありがとう。付けてもいいかしら?」
「勿論です。どうぞ」
静香はトートバッグのファスナーにキーホルダーを取り付けた。
「かわいいです~♪」
サーニャが手を合わせて羨ましがったのも束の間、
「ウユーンっ!」
足元から独特な鳴き声が聞こえた。
静香の【リアライザー】だ。
ピンクの狸がモチーフのユントロは、ピンクの狐にライバル心でも持ったのか、両前足を上げて二本足で立ち、愛らしい鳴き声を上げていた。
「かっ、かわいいですっ!!」
サーニャの視線がキーホルダーからユントロに釘付けになった。
流石は全作品人気キャラクター投票ペット部門14位。
たかが御当地キャラでは勝負にならない。
(今までどこに?!)
楽人は目を丸くした。
ユントロは狸キャラらしく人払いの力を持っているが、それは原作での話。
【リアライザー】に物理法則を無視した能力は無い。
ただ単純に、ここまで静香の背中にしがみ付いて来て、楽人たちと接触してからは足元に下りていたので、彼らの視界に入らなかっただけである。
何故背中にしがみ付いていたのかと問われれば、原作での移動時はパートナーの腕の中か背中だったからとしか言いようが無い。
「あははは」
静香は今日初めて、心から声を出して笑った。
ユントロを抱き上げると、ユントロはキーホルダーを前足で挟んで頬に当てて抱き込んだ。
「仲間だと思っているのかしら?」
「狐なんだけどなぁ…」
「かわいいとかわいいでもっとかわいいです~♪」
静香が首を傾げ、楽人が呆れ、サーニャの中でかわいいがゲシュタルト崩壊する。
彼らはユントロを愛でながら、エントランスを出て車に向かった…。




