表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PIXI  作者: アプリインポート用
12/13

ヒカルの碁 OA 中盤3

白58



「アナタが進藤をライバル視してるって噂は本当だったんですね」

越智康介は、レッスンプロとして自宅にやって来た塔矢アキラを、忌々しそうに見て言った。

それに塔矢アキラは答えず、黙したまま彼を見返した。



 とある企業の社主である越智の祖父は、昔から暇を見つけてはプロの指導碁を受けるほど碁に熱心であった。

それが孫に碁の才能があると見るや、自分の為というより孫の為にレッスンプロを頻繁に家に招くようになっていた。

それはプロ試験本選が始まってからも続いていたが、最近合格した棋士の方が試験の事情が分かって良いだろうと、今日は昨年合格した塔矢アキラ二段を呼んだのである。



越智は、進藤ヒカルが院生になったばかりの頃、「塔矢アキラと自分はライバルなんだ」と、あるプロに話していたという噂は聞いた。

しかし、そんなのは自信過剰の新人のたわ言だと思っていたし、それから間もなく塔矢が進藤を訪ねて日本棋院の研修部屋に来た時も、単に知り合いなんだろうと思っていた。

しかし、今日の塔矢の様子を見ていると、どうやら彼もそう思っているらしい。


(まさか本当だったとはね)

越智は内心驚いた。


プロ試験に合格したら、噂の塔矢アキラの上を行くプロ棋士になると決めている彼は、本当は指導碁そのものより、塔矢アキラの実力を見てやろうと待ち構えていた。

しかし、レッスンより進藤ヒカルの情報に興味が有りげな様子を見ていると、だんだん腹が立ってきた。


指導碁をダシに進藤の話を聞きに来たとしか思えない。

それで、絶対に負けないつもりで勝負に臨んだのだが、そんな態度ながらも塔矢は自分をあっさりやっつけてしまったのだ。

「本気の対局を望んでいたようだから手をゆるめなかった」と言われても悔しいのは仕方がない。




彼は碁石を片付けながら憮然として言った。

「指導碁はもういいです。今の対局の自分の敗因も分かっているし、アナタを呼んだのはおじいちゃんだしね。

どうせ今日来たのも進藤の話が聞きたかっただけなんでしょ? いいですよ。何が知りたいんですか?」


その言い方から流石のアキラも思うところがあったらしい。気まずそうに咳払いをし、それでも尋ねた。


「先日、進藤君は一敗したみたいだけど、それって・・・」

そこまで聞いて越智は吹きだした。


「そのことですか。アレは相手がどうのってことじゃないです。単に進藤が体調不良で自滅したんですよ」




 それは九月十七日のことであった。いつもは早めに来るヒカルがその日は妙に遅かった。

もう対局開始という頃になって、何と彼は親連れでよろける様に研修センターにやって来たのだ。

建物の中まで付き添ってきたのは母親だけだが、たまたま日曜日だったのを幸い、自宅から研修センターまでは父親が車で送ってきたということだった。


親達は今日の対局は休めと散々説得したそうだが、ヒカルはどうしても受け付けなかったらしい。その代わり、というので親付きである。


母親は休憩室に残り、「我慢できなくなったらすぐ言いなさいね」と息子に言い聞かせていた。普段のヒカルなら「みっともないからヤメテくれよ!」と叫びそうなところだが、この日はそんな余裕もないようだった。

顔は青ざめ、唇は真っ白である。


「風邪か?」

と皆が訊いたのは心配したのもあるが、うつされるのを警戒したこともある。このあたり、受験は奇麗事ではない。

花粉症だという外来の一人が使い捨てのマスクを黙って差し出した。


「・・・・・風邪かどうかわかんないけど」

ヒカルは力なく言いながら、一応受け取った。

何故こんなにダルいのか自分でも分からないと、彼は語った。



その後対局が始まったが、昼食前にはほとんど打ち切るようにヒカルは投了し、院生師範の篠田に挨拶すると、そのまま親に連れられて帰っていった。

あまりにも具合が悪そうな姿に

「あれなら今日は寝ていて次の試験日に備えた方が良かったんじゃないか」

と皆で話し合ったものだ。






「それで?」

「火曜日には、随分元気になってましたよ」

「・・・・・」


アキラは眉を顰めた。

(そんなことで一敗か。体調管理も実力の内だぞ、進藤!)


「・・・・・・・君から見て進藤をどう思う?」

越智は肩をすくめた。

「変なヤツですよ。師匠もいないのに碁を始めて二ヵ月で九段棋士の研究会に出入りして、一年後には院生になって、あっという間に一位。アイツに師匠がいないって本気で信じてるヤツなんかいないんじゃないか

な。

・・・・・でもそんなことボク等よりアナタの方が詳しいんじゃないんですか。以前から知り合いなんでしょ?」


「・・・・・・」

「アナタ、進藤とはどういう知り合い?」


アキラはどう話せばいいのか一瞬躊躇した。

どういう知り合いか、と訊かれたところで実は数回打った程度の間柄である。

しかし、塔矢アキラにとってはそれで十分なのだ。




アキラは暫く考えた後、ようやく口を開くと、越智の質問には答えずに別のことを訊いた。


「彼と対局していて、彼が難しい局面でも不自然にノータイムで打っていると思ったことは?」

「さあ? もともと進藤は打つの早いですからね」


「そうじゃなくて・・・、まるで」



初めから置く場所が決められているかのような置き方。

そうだ、あれは棋譜並べのような・・・。


アキラの脳裡に、出会った頃に碁会所で打った二局と、若獅子戦で観戦した初戦が浮かんだ。

それはレベルは違っても「棋譜並べのような感覚」という一点で何処か似通っていた。同じ臭いがすると言ってもいい。




「・・・まるで、棋譜並べをしているような打ち方をしていると思ったことはないか?」

「はあっ?」

越智はあっけにとられてアキラを見た。

だがアキラは冗談を言っているような顔ではない。真剣そのものだ。

(何言ってるんだ? コイツ)


碁は二人で打つものだ。

片方が決まった手を打ち続けようとしたところで、もう片方がその後の展開を知らない以上、決まった棋譜は成立しない。当たり前である。

出来るとしたらその打ち手は超能力でも持っているということになってしまう。


「それ、どういう意味ですか?」


アキラは再び碁石を取り上げた。

「これは・・・、二年前の彼との互先の一局だ」


アキラはそう言って、ヒカルと出会った頃に打った二局目の碁を並べ出した。

それを越智は黙して見つめる。




並べていたアキラは最後に

「ここで僕が投了」

と告げると、最後の石を置き、挑むように越智を見た。

「・・・・・」

「この碁を考えている風もなく常にノータイムで打つというのをどう思う?」

「・・・・・・・考えている風もなく?」


ただの早碁ではない。

いくら「あの」進藤ヒカルでもそう簡単にこの碁が打てるとは思えない。

というか、これは本当に進藤の碁か?

自分は何度か進藤ヒカルとは打っている。院生手合いでも打った。

その時の感触とは微妙に違和感があるのは何故だろう。

だがそれでも「棋譜並べ」とはどういうことか。


・・・馬鹿馬鹿しい。未来が見えるというわけでもなければ、そんなことが出来るわけがない。



「たしかにノータイムというのは普通じゃない気がしますけど。でも、アナタは普通に打ったワケでしょ? ありえませんよ。たまたまそんな気がしただけじゃないんですか?」


アキラは不満そうな顔をしたが、肩をすくめると引き下がった。元々信じろという方がムリなのだ。

「・・・・・そうか・・・そうだな。悪かった。忘れてくれ」


越智は、そんなアキラの態度にイライラしてきた。

ヒカルのことばかり気にかけている様子が彼には不満だったのだ。


「確かに今の碁はスゴイと思うけど・・・。だけどボクは、必ずしもアイツを勝てない相手だとは思ってない。何でアナタがそんなに進藤を気にかけるのか全然分かりませんね」



越智の言葉にアキラは口元を引き締めたまま何も言わなかった。

それで、更に気を悪くした越智は、イジワルそうにアキラに言った。



「その様子じゃ、アナタまだ知らないんだな」

「?」


「進藤なら今日も負けましたよ」

「なっ!?」

アキラは椅子から、半ば腰を浮かした。


「二敗だって?・・・・・馬鹿な!!」









 そして次の試験日の昼休み。囲碁研修センターの休憩室。

いつものように、院生の数人は休憩室の隅に固まって座っていた。


「しっかし、あの進藤が崩れてくるとは想定外だったな」

小宮が、テーブルに肘をついてボヤくように呟いた。

「合格最有力候補が二敗だもん。・・・試験って読めないって言うけど本当ね」

奈瀬も同意する。


「だけど、まだ二敗だろ。ここまでで全勝は、もう越智だけなんだからな」

飯島はそう言うと後ろを振り返り、外来組で談笑する門脇の方を見た。

「門脇も一敗したしな」


皆の話を黙って聞いていた和谷は頭を抱えると叫んだ。

「やっぱりアレがマズかったのか・・・・? やべえよオレ。進藤にあんなの見せるんじゃなかった」


それを聞いて皆が口々に言う。

「試験中に余計なことするから」

「盤外戦かあ?」


「和谷、グッジョブ!」

小宮は和谷の肩をたたくと右手の親指を立てて見せた。


「そういう言い方ヤメテくれ。そんなつもりじゃなかったんだ」

和谷はそう言うと机につっぷした。

「冗談だって、本気にすんなよ!」

小宮はあわてて手を振った。

「しょうがねェじゃん、集中出来ないのは自分の責任だろ?」


男子達の馬鹿騒ぎに肩をすくめた奈瀬は、伊角に訊いた。

「進藤がネット碁をやっているのは、以前聞いて知ってたけど、そんなにハマってたの?」

「いや、オレはやらないんで、よく知らないんだ。ネット碁ネタで盛り上がってたのは和谷と小宮だろ?」


和谷は苦虫を噛み潰した様な顔をした。

「アイツ先週、体調崩してヘコんでたからさ、元気付けてやろうと思ったんだよ」


つい先日、久しぶりにワールド囲碁ネットに接続した彼は、思わぬビッグカードを目にし、二日前、その碁をヒカルに見せてしまったのだ。

それからヒカルは急に顔色を変え、落ち着きを無くして次の対局を落とした。

全勝するかもしれないと言われていた、合格最有力者の二敗に皆、驚いたものだ。





「だって、ずっと消えていた伝説の不敗棋士‘sai’と今話題の‘psy’の対局だぞ。 

ネット碁やってるヤツなら誰だって気になるぜ。そうだろ?」





黒59



(佐為だ)


ヒカルは自分の部屋の碁盤に置かれた石を見つめた。

それは、数日前に和谷に見せてもらった‘sai’と‘psy’の対局の棋譜であった。


和谷にこれを見せられた時のことを思い出す。




血が、逆流するかと思った。




(ゼッタイ間違いない。オレがアイツの碁を間違えるわけがない。)

ヒカルは盤上の石の流れをもう一度追った。



 ‘psy’が黒、‘sai’が白のこの対局。

序盤で見られる大ゲイマはいかにも佐為っぽいし、それからしばらく後の打ち込んだ後のサバキ方といい、やはり「どう見てもこの白はアイツだろ」と言いたい巧妙さだ。


対する黒も負けてはいない。中盤以降、黒も下方を荒らして来る。

しかし白の読みにうまく凌がれ、その後も果敢に戦いを挑むも善戦空しく敗れている。


この石の流れ。

ヒカルには佐為のものとしか思えなかった。




「・・・・・・」


ヒカルは、北斗杯前の合宿を思った。

北斗杯前の数日間、日本代表三人と団長の倉田は、塔矢家に集まって合宿を行ったのだ。

それは週刊碁の古瀬村記者から、高永夏が秀策をバカにしていると告げられ、怒髪天を衝いていた頃だ。


北斗杯は団体戦である。大将はその時点で一番実績がある塔矢アキラになるのが自然だった。

倉田にもそう言われて塔矢に及ばない自分が悔しく、その為に高永夏と戦えない自分が辛かった。

佐為を侮った高永夏に思い知らせてやりたいのに今の自分にはそれが出来ない。


佐為がいれば。

自分が打つまでもなく、佐為自身が高永夏に秀策の強さを見せ付けるだろうに。


『本因坊秀策がもし生きていたら高永夏なんかやっつけちゃうのに。絶対負けねェのに』


その夜、すぐ傍に社がいるにもかかわらず、そう呟かずにいられなかった。

もし、本当に‘sai’が佐為で‘psy’が高永夏だとしたら、図らずもヒカルの望みは叶ったことになる。




(・・・絶対佐為だ。アイツは消えてなんかいなかったんだ)


ヒカルは石を碁笥に戻すと立ち上がり、窓を開けて空を眺めた。

屋根の上で一部が欠けた月が光っている。




(良かった)

ヒカルは思う。

アイツがこの世にいるって分かっただけでも良かった。

アイツが碁を打ててるって分かっただけでも良かった。


たとえ、今は会えなくても、それでも。




(本当に消えてしまったと思うより、ずっといい・・・・・・)







しかし佐為はヒカルの前からいなくなる少し前、こう言っていた。

『私はもうじき消えてしまうんです!』


・・・・・彼は「消える」と言ったのだ。

消えると言われれば、何しろ相手は幽霊だ。消滅するという意味だと普通は思う。

それでヒカルは、佐為はこの世から消えてしまったのだと思い込んでいたのだが・・・。


(でも何で? どうしてアイツはオレに何も言ってこないんだろう・・・)


佐為は自分の前から消えてからどうしていたのか。


他の誰かに取り憑いていたのか?

だったら、その相手に頼んで、こういう事情だと言ってきたっていいではないか。

それをしないのはやはり、ほとんど打たせてくれない自分に腹を立てていたのか。


そうでなければどういう可能性があるだろう。

藤原佐為としての存在をやめ、次の人生にシフトしていたとしたら。つまり、生まれ変わっていたとしたら。


佐為が消えてから、j時間の遡りを含めて延べ三年近く経とうとしている。あれから生まれ変わったとしたら、今二歳というところか。多少は動けるようになったところで親か誰かに頼んでパソコンを操作してもらって打っているのだろうか。


その場合、佐為は記憶を持ったまま生まれ変わったということになる。

そうでなければあの碁が打てる訳がないからだ。



とにかく佐為に会わなければならない。そして話したい。

お互いのことも、この時間の遡りのことも。


何とかしてこの‘sai’と連絡を取る方法はないだろうか。



そのために自分はどうすればいいのだろう。

'‘psy’が誰かを突き止めることも出来なかったのに、‘sai’が見つけられるだろうか。


分からない。でも。



(絶対に見つけるからな、佐為)


ヒカルの目に水分がたまる。月が見えづらくなったのはうす雲がかかった為ばかりではない。

彼は涙を拭うと窓を閉めた。







 ところで彼は今、もう一つ問題をかかえている。

それはもちろんプロ試験での二敗の件だ。



実はこの二敗、棋譜は違っても対局相手は同じ、大島と福井。つまり前回通りの展開なのだ。

しかし、この二敗はヒカルの狙ったものではない。


今回のプロ試験、もともとヒカル自身は全勝するつもりで臨んでいた。

それは、もはや前回通りの碁が出現するのが減ってきている現状で、前回通りの棋譜を維持する必要性を感じていないのと、やはりプロ試験はヌルくないと思っていたからだ。



対大島戦の負け。体調を崩したのは前回と同じだが、好きこのんで同じように体調を崩すバカはいない。

冗談でなく前回の八割増しで、彼は具合を悪くしたのだ。




 それは前日の夜に遡る。

‘psy’の正体を突き止めることを諦めていないヒカルは、定期的にネット碁のサイトをチェックしていたが、その晩も父親の書斎で‘psy’がアクセスしていないか確認していた。


そして、急に眠気を感じ、そのまま寝入ってしまったのである。


夜中に目を覚ました時、目に入ったのは画面がスクリーンセーバーに変わったパソコンのディスプレイだった。

時計を見ると既に四時を回っている。「やべっ!!」と叫んで立ち上がろうとして、彼は異様な悪寒に襲われてしゃがみこんだ。

体が冷え切っている。そういえば、エアコンを切っていない。

リモコンを掴んでエアコンを切り、パソコンをシャットダウンし、自分の部屋に戻ろうとしたところで今度は激しい嘔吐感に襲われた。必死でトイレに駆け込み、胃液を吐き出す。

前回は腸にきたが、今回は胃らしい。



「・・・・・・どうしよ・・・」

トイレから出たところで壁づたいに床に座り込んだ。


しかし、そうしていても事態は好転しない。

現状における最善を尽くし、活路を見出すのだ。要するに自分のベッドに戻り、眠り、体調を戻す。コレしかない。


ヒカルは殆ど這うように廊下を進み、自分のベッドに倒れこんだ。

父親の書斎と違って自分の部屋は蒸し暑かった。九月中旬の東京は熱帯夜。最悪である。

そうかといって、流石のヒカルも、再びエアコンのスイッチを入れる勇気はなかった。


タオルケットを引き被ってヒカルは目を閉じた。・・・・・目の奥で世界が回っている気がする。

「バカだ。オレってバカ過ぎる・・・」

呟きながら、彼は眠りについた。


そして窓の外が明るくなって目が覚めた時、彼は体調がたいして良くなっていないことに落胆することになる。



後は越智がアキラに語った通りだ。



この一敗は仕方ない、と思ってあきらめたところで、今度は和谷に‘sai’対 ‘psy’の対局を見せられ、動揺しまくって、また負けた。

前日の対伊角戦は、前回心を痛めたハガシの問題もなく、満足する碁が打てた。しかも勝った。

翌日、まさか二敗目を喫するとは思わなかった。



終局後、フクは自分が勝ったことに驚いた顔をしていた。

喜ぶより先に「進藤君、大丈夫?」と気遣ってきた程だ。予期せぬ勝利に彼も動揺していたのかもしれない。

それを聞いて、却ってヘコんだヒカルである。



「大丈夫なワケねェだろ!!」


と、言うわけにもいかず、黙って頷くしか出来なかった。







「もう、負けねェ。負けられねェ」

ヒカルは拳を握り締めた。

プロ試験は絶対に落とせないのだ。


「もし落ちたら佐為に会わせる顔なんてねェよ・・・」


ネット碁をやっている位なら、きっと佐為はプロ試験の経過も知っているだろう。

彼を失望させるのはゴメンだ。




「アイツにまた会う日のために、オレは絶対プロにならなきゃダメなんだ」


決意を新たにするヒカルであった。





白60


韓国、ソウル。


洪秀英は、郊外にあるマンションの一室の玄関の前に立った。

呼び鈴を押そうとしては手を下ろす、という動作を数回行った後、意を決して、ボタンを押した。キンコーンと、電子音が耳を打つ。



ドアが開くと、玄関には、大学生位の女性が立っていた。


「・・・・・秀英君!」

「こ、こんにちは」

彼女は秀英を見ると驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になって彼を招きいれた。


「・・・よく来てくれたわね、今日は永夏、居るわよ」

「ハイ・・・」




 ここは彼の幼馴染み、高永夏の自宅である。家にあげてくれた女性は永夏の姉だ。

彼女は居間に秀英を通すと、永夏を呼びに部屋を出て行った。


秀英は緊張した顔のまま、居間の書棚にビッシリ並んだ碁関連の書物や、これまで永夏が手にしてきた大会の優勝トロフィーを眺めた。

この家に来るのは約半年ぶりだった。これらは彼にとって見慣れたものばかりなのだが、それも遠い昔のような気がする。


かつては秀英の家も同じマンション内にあったので、小さい頃は随分この家に遊びに来させてもらっていたものだ。しかし最近、特に碁のスランプに陥って研究生の順位が落ちてきてからはめっきり顔を見せなくなっていた。


何故か。それはプロになって快進撃を続ける幼馴染みと、研究生としてもくすぶっている自分とを比較してしまえば、色々複雑な感情も出てくる。

小さい頃から教えてもらったりしてきたので顔を合わせにくい気持ちもあるし、

そもそも、そんな自分など、もう相手にしてもらえないのではないかという恐怖感もあった。

それでも、と彼は思う。



(これはケジメなんだ)


受け入れてもらえなくてもいい、永夏に今の自分の決意を伝えるんだ。後は自分でそれを証明するまでだ。


秀英は緊張で汗ばんだ手をズボンで拭った。






「よお、まだ生きてたか」

自室から出てきた高永夏がダルそうな声で呼びかけた。


秀英は、緊張に気付かれないよう、精一杯笑顔を見せて挨拶しようとして、そのまま固まった。

「・・・・・いつ髪染めたの!?」


その様子を見て、永夏はニヤッと笑った。

「第一声がソレか」

「あ、いや・・・」


最後に会った時の永夏は黒髪で短髪の典型的な優等生タイプの髪型だった。数ヶ月会わなかっただけでここまで印象が変わるのか。


短髪なところは一緒だが、固めてところどころツンツン立っているし、なにより色が明るいオレンジ系ブラウンだ。一瞬別人かと思ってしまった。



「少し驚いただけだよ。に、似合ってると思う」

「だろ?」

永夏は不敵に笑った。白い歯がキラーンと光る。

「オマエ、雑誌読まないんだな。もうこの頭で何度も写真載ったと思うけど?」


秀英は知らない。そして雑誌掲載後、女性達の人気が鰻登りで追っかけまでいることも。

彼はスランプだったし、夏休みは日本に行ったりしていたからだ。


「なあ、オレ今度は髪を伸ばそうかと思ってるんだけど、どう思う?」

「・・・あ――・・・さあ・・・」


秀英が返事に窮していると、永夏の姉が紅茶と菓子を運んできた。


「お茶淹れたわよ。二人とも座ったら?」

「ありがとう姉さん」

「すみません」

永夏の姉はニッコリ微笑むと、キッチンに戻っていった。


「親父が釜山に転勤になってしまったんだ。お袋はソウルと釜山と行ったりきたりで、ここ暫く留守なんだ」

「じゃあ、お姉さんも大変だね」

「まあな。・・・座れよ」



それで二人は床に座った。

秀英は、いざ永夏を目の前にすると、何と言えばいいのか分からなくなって、口ごもった。

そんな秀英を見透かすように永夏が先に口を開いた。


「噂には聞いてたんだ、オマエのこと。随分クラス落として、最近は棋院にも来てないって」


秀英は少し驚いて三歳年上の幼馴染みを見た。

(気にしてくれてたのか)


「・・・で、ここに来たってことは碁はやめないってことなんだろうな」

「・・・・・うん」


永夏は肩を竦めた。

「そりゃー、そうだよな。小さい頃、あれだけ打ってやって、教えて面倒みて、それで、ちょっと調子が悪くなったら、もうヤメルなんて言ったら、もうオレの前に姿なんて見せられないよな」

「・・・・・」


相変わらずのこの口の悪さ。覚悟はしていたが。


「あ、悪い悪い。今でも小さいか」

身長のことらしい。秀英はそれは横に流して、言うべきことを口にした。


「ボクは碁をやめない。絶対プロになる。それを今日は言いに来たんだ。」


「・・・・・・・決意表明?」

「そうだ」


秀英の瞳の強さに何か感じたのか、永夏は揶揄するのを止めた。



「何があった?」


秀英は何と言おうか、また口ごもったが、遂に口を開いた。


「・・・・・・この夏は、東京にいるおじさんの家に行ってたんだ」

「・・・・・」


「気分転換にさ。初めは観光したり、テーマパークとか行ってたけど、後半はずっとおじさんがやってる碁会所で、お客さん相手に打ったりしてたんだ。そんなある日、アイツが店にやってきた」


「・・・・・アイツって?」


「進藤ヒカル・・・・・日本棋院の院生さ」



変なヤツだった。初めて会ったはずなのに、自分の顔を見ると旧知の人間に会ったかのように声をかけてきた。もちろん日本語なので何を言っているのかはサッパリだ。


声をかけてきたのはコンビニで買い物をしている時。

怪しすぎる。言葉の分からない外国で、妙に馴れ馴れしく近づいてくる人間に警戒しなかったら馬鹿だ。しかもヤツには仲間までいた。

からまれてはたまらない。これは早々に立ち去った方が良さそうだ、と秀英は店を出た。しばらく街をブラブラしてからおじさんの店に行くと、何故か彼らがそこにいた。


そして進藤ヒカルは、店に入ってきた自分を見るなり、さあ、打とう今すぐ打とうと言う。



(何でボクがコイツと打たなきゃならないんだ)

と、思った。


対局を断わると、ヤツは身の程知らずにも「オレに負けるのが怖いんだろう」などと言い出した。


バカか? コイツは韓国棋院の研究生のレベルが分かってないのか?


(吠え面かかせてやる)


彼は勝負を受けることにした。対局が始まり、そして。








「負けた」

秀英は悔しそうに言った。


永夏は黙って全てを聞き、最後に言った。

「・・・・何やってんだオマエ」


「うん・・・物凄く悔しかったよ。アイツは想像以上に強かったんだ。

でも、それでボクは分かった。ちょっとクラス落ちした位で、ふて腐れて投げやりな碁を打って自滅してたことに。本気で打つ感覚を久しぶりに思い出した」


「・・・・・」

「・・・・・だから、ボクはこのままじゃ終われない。絶対ボクはプロになって進藤ヒカルと勝負して勝たなきゃならない。そしてボクの名をアイツに覚えさせてやるんだ」

「・・・・・」

秀英は永夏を正面から見た。


「・・・こんな話、研究生の皆には言えやしないけどさ。永夏には聞いてもらいたかったんだ。・・・・・永夏はボクの目標だから」



永夏はそれまで組んでいた腕をほどいて、額をポリポリ掻き、彼のトレードマークの長い睫毛を瞬せた。


「そうか」



秀英は、大きく深呼吸すると「言ったらスッキリした。ありがとう永夏」と小さく言った。


そんな彼を見ながら、永夏は温くなった紅茶を一口飲むと、何か考えるように、遠い目をした。暫くそうしていて、視線を秀英に向けた。








「秀英。・・・オレもオマエに聞いてもらいたい話がある」


秀英は、驚いて目を見開いた。

「もちろん。どうしたの? どんな話?」


永夏は一瞬、嫌そうに眉を顰めた。





「・・・・・オレが、アマに碁で負けた話だ」




黒61



「・・・・・・・・」

「・・・・・・・・」


秀英は眉を顰めた。

「永夏が? ウソだろう?」


前述したが、高永夏と言えば韓国棋院の若手ナンバーワンのプロ棋士だ。

この年は春蘭杯世界プロ囲碁選手権戦(予選)にも出場している。その彼が何処のアマチュアに負けたというのか。


「だ、誰に?」


永夏は腕を組み直して、うーん、と唸った。

「分からない」

「分からない?」


「そうだ。ソイツのことは、日本人アマらしいということ以外何も分からない。」

「何それ」


「秀英は金成勇キム ソンヨンさんを知ってるか?」

突然聞かれて、秀英は戸惑った。

「ええっと・・・」


永夏は言葉を続けた。

「金成勇さんは、去年の夏に東京であった国際アマチュア囲碁カップの韓国代表だよ。

オレが棋院の研究生になった頃、成勇さんもまだ研究生で、色々世話になったんだ」

「へえ」

「結局彼はプロになるのを断念してしまったが、その後はアマ碁で活躍している人だ。今でも時々メールのやり取りをしているんだが・・・」

「・・・・・・」


「先日、気になる話を成勇さんに聞いたんだ。」

そこで永夏は金成勇から聞いた、日本のネット碁に現われた異様に強いプレイヤー、‘sai’の一件を秀英に説明した。


金成勇は日本に発つ直前、兪七段から、『日本の囲碁サイトで日本人のネットプレイヤーと対局していて負けてしまった。彼は恐らく日本のトップ棋士だと思うから誰だか訊いて来て欲しい』と頼まれた。

しかし日本に行っても誰も彼(または彼女)のことを知らない。それどころか、その場にいた各国代表の多くがその‘sai’と対局して負けているという。

そして誰も彼もが‘sai’の正体を知りたがっていた・・・。


国際アマの会場ではこの話題で盛り上がり、遂にはパソコンが持ち込まれて囲碁サイトに接続したところ、その‘sai’がエントリーしていた。

そこでその場にいた塔矢アキラ初段が‘sai’と対局を始めた。


「塔矢アキラ初段っていうのは塔矢行洋名人の息子だけどな」

と、永夏は注釈を加えた。


そしてその対局は大会中のため、一旦中断されたが、後日に再戦が行われた。それは金成勇もネット観戦したという。


「勝敗は・・・」

「‘sai’が勝った」


秀英は眉を顰めた。

「それ絶対プロだよ。永夏が日本のアマに負けたなんていうからビックリするじゃないか」

「・・・・・」

「塔矢アキラがどの位強いか知らないけど、兪七段といえばリーグ戦にも食い込む実力者だ。それを破る日本のアマチュアなんて、変だよ」


「オレもそう思ったんだがな」

永夏の口調は、彼には珍しく歯切れ悪かった。



「兪先生が、知ってる日本の棋士に聞いても誰も心当たりないと言っているそうだ。成勇さんの東京での聞き込みでも同じ。それに‘sai’は日本のプロの対局時間でもエントリーしているんだとさ。」

「プロじゃないっていうアリバイか」


「それでオレも面白半分で、その日本の囲碁サイトにエントリーしてみたんだよ。ヤツに当たったらラッキーって位の気持ちでな。ま、なかなか当たらずに素人ばかり相手にしてたんだが」


永夏はそこで、紅茶を一口飲んだ。


「自分の仕事の方が忙しくなってきて、もうやめようという頃になって、とうとう、ヤツがエントリーしてきたんだ」

「‘sai’が?」

「そう。で、オレが負けた。」


「日本のプロじゃないのかも」

「確かにな。しかしヤツはチャットで日本語の返事を寄越したそうだ。それにもう一つ」

「うん」

秀英はうなずいた。


「世界アマで、塔矢ジュニアが ‘sai’の正体を知っているようなそぶりを見せたっていうんだ」

「え?」


「後でやっぱり間違いだったって言ったそうだが、どうも臭いというのが成勇さんの意見だ。その時に彼が口にしたのが、」

永夏は、秀英の顔を見た。

「shindoh」



「・・・・・・・え、えええ?」


秀英の脳裡に、東京で会った進藤ヒカルの顔が浮かんだ。

「どうだ。面白いだろう」

永夏はニヤリと笑った。


「う、うそだっ・・・、いくら進藤だって永夏に勝つなんて、そんなっ!」


「本当に‘sai’の正体がオマエが東京で会ったって言う進藤ヒカルだったら面白いよな。デキすぎな位だ」


永夏は不敵な笑みを浮かべながら、長い睫毛を伏せた。

「院生ならアマチュアっていうのは、語弊があるかもしれないが」


どうやら、彼はは自分が得体の知れない相手に負けたショックより、秀英の話に出てきた日本の院生の方に興味が移っているらしい。もはや、状況を楽しんでいるようだ。




「オマエ、さっさとプロになれよ。そしてその進藤とやらの正体を暴いてやれ」

「え――――――っ!!!」


話がドンドン別の方向に走っていき、秀英は付いていけなくなってきた。

「だって、ボクがプロになるっていうのは、その位の覚悟があるって意味で、進藤もプロ試験に勝って、ボクと対局出来るかどうかは別だよ?」

だが永夏は取り合わなかった。


「バカ言うな。ヤツが院生で‘sai’なら、来年にはプロになってるぞ。そして、「あっ」とう間に上がって来て国際棋戦にも出てくる。当然オレはその場に居るが、オマエ、その時、蚊帳の外でいいのか。オマエの覚悟ってそんなもんか」



「・・・・・」

なんということを言う男か。


秀英は口をパクパクさせることしか出来なくなっていた。



その秀英を尻目に、永夏は部屋の隅から碁盤と碁笥をはこんできた。


「オレとヤツの碁を並べてやるよ、オマエも進藤と打った碁を並べろよ。」

「・・・・・・」


秀英は目を大きく開けて固まったまま、幼馴染みの青年を見上げた。



「いつまで固まってるんだ。検討するぞ。・・・オマエの打った碁がヘボかったらぶっ飛ばすからな」


ぶっ飛ばされる気遣いはいらなかった。あの日進藤ヒカルと打った碁は永夏に胸を張って見せられるレベルだったと思う。

そもそも、これは彼に見せるつもりの碁だったのだ。秀英は碁盤の前に座りなおし、永夏が並べ始めた碁を見つめた。














 その頃日本では、隣国でそんな噂をされているとは夢にも知らない進藤ヒカルが、放課後の学校内の廊下を歩いていた。


最近は忙しくて囲碁部にも顔を見せていない。悪いとは思うが、プロ試験が済むまでは顧問は休業である。

だからだろうか。久しく顔を見ない囲碁部員が廊下で声をかけてきた。

「進藤君!」


振り返ったヒカルの視線の先に津田久美子が立っていた。

「・・・・よう」


ヒカルは少々戸惑いながら、挨拶した。

正直なところヒカルにとって、彼女は「藤崎あかりの友達」という位置付けに過ぎず、囲碁ヌキの話をしたことがなかったのである。


その津田久美子は思いつめたような顔で、ヒカルに近づいてきた。

「何?」


「進藤君、最近あかりと話した?」

「・・・あかり? いや、しばらく会ってないよ」


何だ、やっぱり、あかりの話か、とホッとして返事をしたところで、久美子は眉を吊り上げた。

「・・・進藤君、今、すっごく忙しいのは分かってるけど! でも、少しはあかりのところに行って、話してあげてよ!」



一体何の話だ?

クラスが違うので、あかりとは囲碁部以外で会うことはあまりなかった。

自分が知らないところで、彼女に何かあったのだろうか。


「どうしたんだよ、あかり、何かあるのか?」


「えっ」


久美子には珍しく、勢いよく詰め寄ったものの、聞き直されて言葉に詰まった。


「それは、あったというか、別にというか・・・良くある話というか」

「津田、何が言いたいんだよ。全然わかんねェよ」


久美子はどう言えばいいのか自分でもよく分からないらしい。

手を握り合わせたり首を振ったりしていたが、

「いい。やっぱりいい。余計なお世話だった。ごめん、やっぱり何でもない」


「・・・・・何だそれ」


「で、でも、進藤君が少しでもあかりのこと気にかけてるなら、話をした方がいいと思う」


久美子はそれだけ言うと、踵を返して走り去った。


後に残されたヒカルはあっけに取られてそれを見送った。


どんな用件なのかさっぱり分からなかったが、どうもあかりに何かあったらしい。

普段話さない津田久美子が、あれだけ必死に何かを伝えようとしているからには、きっと、話をした方がいいのだ。


明日にでも、あかりに声をかけてみようか、と思ったところで、

「おっと。明日はプロ試験じゃないか」


と思い直した。では、声をかけるのはあさってだなと、思い決め、ヒカルは学校を後にした。





白62


(告白されてしまった・・・・・)


 藤崎あかりは、浮かない顔で教室の窓際を行ったり来たりしていた。

授業も、終業のホームルームも終わって随分時間が経つ。

そろそろ囲碁部に行ったほうが良いと思うのだが、どうも気が乗らない。


囲碁部には津田久美子がいる。この話は避けて通れないだろう。

それに今は碁を打っても集中できるとは思えない。

(サボっちゃおうかなあ・・・)

窓の外には花壇が見える。その美しい配列を見ながら、彼女は今日何十回目かの溜息をついた。

それは恋の予感にときめく乙女の姿というよりは、ただひたすら困惑しているように見える。




 十四歳ともなれば、好きだの付き合ってよだのという話が出てきてもおかしくない。しかし、これまで彼女に交際を申し込んだ者は誰もいなかった。


あかりは、容姿も標準以上に可愛らしかったし、明るい性格で友達も多い。

それなのに何故と言われれば、それはもちろん、彼女に好きな相手がいるというのは学校で周知の事実だったからだ。


しかし、世の中にはチャレンジ精神旺盛な人がいるものなのだ。

その男は、あかりの気持ちを百も承知で「付き合って」攻撃を仕掛けてきた。


それは一昨日のこと。用事があって校庭を通りかかったあかりに声をかけた男子生徒がいた。

その男子生徒のことをあかりは知っていた。というか彼は有名人だったのだ。

あかりの小学校時代からの友人、布川美咲が所属している土木工事部、もとい園芸部の前部長、山里隆弘である。




当然あかりは、気になっている人がいるからと、彼の申込みを断わった。


「進藤君でしょ?」

直球が来た。


「え、別にヒカルだなんて、私は全然・・・」


と、この期に及んでトボけて見せようとするあかりに、山里は微笑んだ。


「でも進藤君は今、就職活動で忙しくて、恋愛どころじゃないんじゃないかなあ」

「就活・・・・・」


少々ギャップを感じるが、プロ試験とは即ち、日本棋院の「棋士採用試験」である。ナルホドこれは就職活動だったのだ。


「そっか。そうね。でも山里先輩も高校受験間近じゃないですか。三年生なんだから」

「どうやら推薦取れそうなんで、心配いらないよ」

「・・・・・それはオメデトウございます」


では、なんと言って断わろうか、まごまごしているあかりを見ていた山里は、

「今日は気持ちを伝えたかっただけだから。あっさり断わらないで、しばらく考えてみてよ。じゃまたね」

と、やわらかい口調で言い、にっこり笑うと、校舎の方へ歩いていった。


その後姿を見て、あかりは見慣れない背中の広さに気が付いた。







 別に悩むことはない。改めて丁重にお断りすればいいだけのことだ。

と、あかりは思っていたが、話は彼女の望みとは別に広がっていたのだ。


「あかり!! ぶちょーにコクられたって!!?」

告白された二十分後、美咲があかりの教室に飛び込んできた。放課後だったのはあかりにとって僥倖だった。教室にいたのは、あかりと津田久美子だけだったのだ。


「そんなこと大声で言わないでよっ」

あかりは慌てて美咲を制した。

「何で知ってるの」

「だって、さっき、ぶちょーが、ウチの部室で」


しゃべったのか。

(随分オープンな人だな)

あかりは、少し引いてしまった。



「部長って、‘元’部長でしょ。三年生なんだから」

「だって、今でも実権握ってるの山里さんだもん」


久美子は、あかりに訊いた。

「あかり、それでどうしたの」

「・・・断わったよ」

美咲は、肩を竦めた。

「でも諦めなかったでしょ。あの人しぶといもん。あのしぶとさで、普通なら絶対許可されない校庭改造に取り組んできたんだよ。やり手だよ」


「でも、花壇や植木とあかりのことは別だよ」

と、久美子は反論した。

「だって、進藤のこと百も承知で言ってきた訳でしょ。こうと決めたらあきらめないよ」


あかりは「そうなんだ・・・。弱ったな・・・」と、呟いた。


「どうするの、あかり」

「どうするって、私のよく知らない人だもん、付き合えないよ」

「だよね」

久美子は頷いた。

それに対して美咲は顎に手を置き、暫く考えていたが、あかりの方に顔を向けると、あっさりした口調で言った。


「あかり、とりあえず付き合っちゃえば。何事も経験だよ」

「ちょっと、適当なこと言わないでよ」

あかりは美咲を睨んだ。


「モノは考えようだよ。山里さんって、三年の女子の間じゃ人気なんだよ。背も高いし顔もイケてるし、成績もいいって。進藤はチビッ子だしさ」


「ヒカルだって、三年生になったら伸びるよ!」

あかりは、つい言い返してしまった。


「何で、そんなこと分かるのよ」


久美子と美咲の声がハモった。同時に突っ込みを入れられたあかりは、少し困ったように、顔を横に向けた。


「ヒ、ヒカルがそう言ってたから。オレは三年になったら背が伸びるって・・・」

言っていて、顔が赤くなるのが自分でも分かった。



久美子と美咲は顔を見合わせた。

(ダメだ、こりゃ・・・)

と目で語り合った。


美咲は、

「・・・分かったよ。ごめんごめん。じゃあ、ドキッパリ部長をフりな。後は部員みんなでなぐさめとくからさ」

と言って、あかりの肩を二度ほど、ぽんぽん叩いた。


あかりは、赤い顔で小さく頷く。


教室を出て行った美咲を見ながら、久美子は自分に何か出来ることはないかと、考えていた。












「で、昨日進藤君に言ったの。あかりと話をしてって」


時間が戻って、場所は囲碁部室である。


今日は集まりが悪く、まだ久美子と金子しかいない。それを良いことに久美子は山里の一件を同じ囲碁部員、そしてヒカルと同じクラスの金子に訴えたのだった。


「ふうん、で、進藤は?」

金子は鷹揚に久美子に訊いた。久美子は悔しそうな顔をした。


「今日あかりに訊いたら何にも言ってこないって。あの人何なの? どういうつもりなのかな」

金子は笑った。

「そりゃあ、何にも考えてないんだろうね」

「何それ!!」

「だってあいつバカじゃないの」

金子正子。結構辛口である。


「院生なのにバカなんてアリかな」

「それとこれは別」

金子はそう言うと、折りたたみ式の碁盤を広げて、丸椅子の上に置いた。これがこの部の通常の対局スタイルなのである。


「どっちにしても、進藤は今日、プロ試験でお休みだから藤崎さんと話すのはムリね」

「電話でもメールでも連絡は取れるよ」

「いやあ・・・」

金子は苦笑いをした。


「進藤って、一度に色んなことが出来るような器用な人じゃないと思うよ」

「・・・・・そうなの?」

「うん。私はそう思う」


久美子は金子の顔を見た。この落ち着いた雰囲気を持つ囲碁部仲間は、クラスでも頼りにされているという。

それだけあってクラスメートのことは良く見ているのかもしれない。

久美子は一つ質問してみた。


「進藤君って教室ではどんな人?」

「一見普通。でも実は変人」

バッサリである。


「表面的には誰とでもうまくやれるし、結構ハキハキものを言うから、囲碁で休みが多い割にはクラスで浮いてないよ。でも自分の世界がガッチリあって、そこには誰も入れない感じ。バカだけど、私達から見て確かに囲碁は天才だからね。天才は変人っていうでしょ」

「どういうところが?」

金子は指を一本立てて見せた。

「津田さんだって知ってるじゃない。突然訳わからないこと言い出したり、予言ぽいこと言ったり」


予言か。久美子はあかりの言葉を思い出した。

「進藤君、三年になったら自分の身長が伸びる予言をしたって」

「それはどちらかというと願望だわね」

「・・・そっか」



他の部員はまだやってこない。二人だけの理科室兼部室は、会話が途切れると時計の音がやたらと大きく響いて聞こえた。





「津田さんて、藤崎さんのこと一生懸命なのはいいけど、自分はどうなの?」

「えっ」

自分のことを訊かれるとは予想していなかったので、久美子は驚いてしまった。

「気になってる男子はいないわけ?」


「・・・や、やだな。私はそういうの、いないから」

金子はにやにやしながら、うろたえる久美子を見た。


「津田さんは、人のことより自分で好きな人見つけた方がいいんじゃない?」

会話の風向きが変わってきた。どうやらからかっているらしいと見て、久美子はそっぽを向いた。


「私は、まだそういうのはいいよ。そういう金子さんはどうなのよ」

「私、彼氏いるよ」

「ええええええええええええええ!!!!!」

今度こそ久美子は飛び上がって叫んだ。


「何でそんなに驚くのよ?」

そう訊かれても、咄嗟に言葉が返せない。意外だったからとは尚言えない。

久美子は横目で金子を見た。


一言で言えば、ドッシリ。

カワイイとか可憐とか軽やかとかいう形容がどこにも見当たらない、金太郎頭の肝っ玉母さんそのものの女子生徒がそこに居た。


「え、いや、その、別にそんなことないけど」

金子は更ににやにやしながら「分かっているわよ」とでも言いたそうに口の端を上げた。


何と言ってフォローしていいのか分からない久美子だったが、数秒置いて我に返った。

これは事件である。問いたださなければ。


「だ、だだだ誰!?」

「言っても津田さんには分からないよ。この学校の人じゃないし」

「何処の中学?」

「中学生じゃないけど」


(高校生か。やるな)

と、久美子が思った瞬間、

「実は大学生なんだよね」

という返事が返ってきた。

「えええええっ!!!」


うっかりまた叫んでしまった。と同時に悟った。

(そっか。金子さんの大人っぽさはその辺に理由があるのか)


そんな久美子の様子を見て金子は手を振った。

「誤解しないでよ。もう、すっごいガキっぽい人なんで、あんまり年の差とか感じないんだよね」

彼女はそう言うと、少し遠い目をした。


「どうやって知り合ったの?」

「どうやってって・・・バレー部の練習を見てくれたOBの先輩だよ」

金子はバレー部と囲碁部を兼部しているのだ。


「それはそうと」

と言って、金子は一度咳払いをすると、話を戻した。

「人のことばかり気にしなさんな。津田さんは進藤のこと怒るけど、藤崎さんだって、ちゃんと進藤に告白してないんでしょ。それじゃ、どうしようもないじゃない」

「これだけみんなが知ってて、進藤君があかりの気持ちに気がつかないなんて有り得ないよ」

「だから進藤はバカなんだってば」

「・・・・・」

「普通なら、藤崎さんに気がないからって思うところだけど、進藤に限っては、碁以外のことは本当に何も考えてないんだと思うね」




「どうすればいいかな」

「だーかーら! 放っときゃいいんだって。周りが下手に口を出すと上手くいくものもいかなくなることがあるんだから。広く暖かく見守っておけばいいのよ」


久美子は上目使いに金子を見た。

(やっぱりこの人、大人っぽい・・・)



「さ、時間がないよ。他の人来ないみたいだから、二人で始めよ」

金子はそう言うと、碁笥の蓋を開けた。




黒63


そしてその翌日。


登校したヒカルは早速あかりを探したが、見つからないうちに予鈴が鳴ったので、仕方なく自分のクラスに向かった。


自分の席に着いた途端、前の席の男子生徒が「おい」と声をかけてくる。

「何?」

「おまえ、二組の藤崎と付き合ってたよな」

「・・・付き合ってねェけど」

しかし相手は聞いていなかった。


「・・・・・おまえが碁の試験でバタバタしてる内に、三年の男子からコクられたらしいぜ」

「・・・・・・」

「ボヤボヤしてるからだ。バーカ」

それに言い返そうとして口を開きかけたところで担任の教師が教室に入ってきた。週番の「起立!」という声が教室に響く。ヒカルは仕方なく黙って他の生徒と共に立ち上がった。

礼をして着席すると、そのまま朝のホームルームが始まる。



担任の話す連絡事項を聞き流しながらヒカルは眉をひそめた。

(何の話だ。それがオレと何の関係があるっていうんだよ)

そう思うと同時に、それをわざわざ聞かされることを不愉快に思った。



小学校時代から、『あかりと付き合っているだろう』と何十回訊かれたかわからない。

そして、ただの幼馴染みだとその数だけ答えてきた。事実その通りだったからだ。


からかわれるのも鬱陶しいので、小学校も高学年の辺りから多少は距離を置くようになっていた。

しかし、だからといってあかりを嫌いになったわけでもないし、無視し合うのも不自然だ。

自分としては、ごく自然に応対してきたつもりだったが、何故か周りは自分とあかりをカップルにしないと気が済まないらしい。


(あかりも気の毒に。オレと噂になってたら、好きなヤツが出来ても付き合えねェよな)


一昨日、津田久美子が、あかりと話をしてくれと言っていたのもこの件がらみか、と流石のヒカルにも見当がついた。


(めんどくせェな)


ヒカルは担任の話を聞くフリをしながら腕を組んだ。


(しかし、あかりがソイツのことを好きなら、幼馴染みとしては応援してやるのが義務というもんだよな)

とにかく話を聞いてやろう、と彼は思った。




 しかしどういう訳か、その日、どうしてもヒカルはあかりを掴まえることが出来ない。

あかりのクラスに行ってもタイミングが悪く、会うことが出来なかった。


それで囲碁部に出れば居るだろうと思い、放課後を待って久しぶりに部室へ向かった。


廊下を歩いていると、例の桜の木が目に入った。

そういえば、この木のことで、あかりと話をしたんだよな。と思って窓に近寄り下を覗くと、当のあかりが居た。

そして、その隣に何処かで見た男子生徒。



(アイツか。あかりにちょっかい出してるヤツって)


ヒカルは眉間に皺を寄せ、目を細めてその男子生徒を見た。誰だったか。

「土木部長じゃねェ、園芸部長・・・・・だっけ」


そういえばクラスの女子が彼のことを「かっこいいよね~」などと言っていたのを聞いた事がある。



あかりが男子生徒に何か話し掛けている。

あかりの表情は陰になっていて分からないが、それに答えている園芸部長の顔は良く見えた。

落ち着き払ってにこやかに応対している。

確かに女子生徒にかっこいいと言われてもおかしくない程度に顔は良い・・・気がする。背も高い。


ヒカルは暫く二人の様子を眺めていたが、やがて窓から離れると再び囲碁部室の方へ歩き出した。

不安なような、イライラするような、変な気分だった。






 囲碁部室の扉を開けると、三谷が夏目と碁盤を挟んで対峙していた。

観戦していた小池が振り向いて声をあげる。

「あ、進藤先輩」

「オッス」

ヒカルはそれに答えて手を上げた。


彼は三人の近くに来ると手近にあった丸椅子を引き寄せて腰掛けた。

それを横目で見て三谷は口を尖らせた。

「院生サマにお見せするような内容じゃないぞ」

ヒカルは「つまんねェこと言うなよ」と言いながら、どれどれと碁盤を覗く。


三谷はそう言うが、なかなかいい碁だと思った。展開も面白い。対局相手の夏目も随分腕をあげたようだ。


だが、三谷には叶わない。この碁はもう勝敗が決まっている。


夏目はヒカルが来ても何も言わずに腕を組んで、次の手をあれこれ考えていたが、ふいに顔を天井に向けて

ひとつ息をつくと「負けました」と言った。


「ありがとうございました」


二人は挨拶すると、同時にヒカルの方を見た。

何となく微妙な表情である。

「何だよ」


夏目が遠慮がちに口を開いた。

「・・・・・進藤君、ここに来てる場合じゃないんじゃないの?」

「・・・プロ試験のことなら、大丈夫だよ」


「そうじゃなくって、その」

夏目が口ごもるのを、三谷が引き継いだ。

「藤崎が三年の男にひっさらわれそうなんだろ。噂になってるぞ」

「・・・・・・」


(またその話かよ)


ヒカルはうんざりして肩をすくめた。

「みんなオレにその話振るけどさ。あかりだってもう中ニなんだし、男が出来たっておかしくねェだろ」


夏目は遠慮がちに言った。

「・・・・・進藤君、本当にそれでいいの?」

「だから何が!」

ヒカルはだんだん腹が立ってきた。


「ホントうぜェな。確かに心配だよ。小さい頃から知ってるヤツなんだからな。じゃあアイツにコクったヤツと話しつけて、変なヤツなら付き合うのやめさせるよ。それでいいんだろ!」

「保護者かい・・・」

「そうじゃないなら、オレに何を期待してるんだよ!」


ヒカルの剣幕に他の三人は押し黙った。



しばらくして、最初に沈黙を破ったのは三谷だった。


「ふん・・・馬鹿馬鹿しい。オマエと藤崎のことなんか知るか。オレには関係ないし」

「・・・・・」

「だがそれで囲碁部の中がギクシャクするのは迷惑だ。練習だって大会だってあるんだからな。オマエも一応まだ囲碁部員のつもりなら少しは気を使えよ」

「・・・・・分かったよ」

ヒカルも渋々うなずいた。



三谷は首を傾けて顎をポリポリ掻いた。

「なんかシラけちまったなあ。夏目、検討する?」

「あ、うん」


それで二人は再び碁盤に向きなおったが、ふと、三谷がヒカルの方を見た。


「進藤、時々、家で藤崎と碁の練習をすることがあるって言ってなかったっけ?」

「・・・・家が近いからな。それが何だよ」


「藤崎に男が出来たら、ソレ、出来なくなるな」

「えっ?」

「普通、自分の彼女が他の男の部屋に一人で出入りするのは嫌なもんじゃないのか」


三谷はそう言うと、碁盤の一箇所を指差して「ココがさあ」と夏目に話し出した。

それを受けて夏目も身を乗り出す。

傍でずっと黙って様子を見ていた小池だけが、気掛かりそうにヒカルを見た。





ヒカルは、固まっていた。

「・・・・・・・」


(何だって?)


パソコンの一件以来中断しているが、時々あかりはヒカルの家に来ては碁を見てくれるようにせがんできた。

気晴らしにもなるので、よほど忙しくないときはヒカルもそれに付き合ってきたのだ。


それは、佐為がいた頃からの習慣のようなものだった。


当時ヒカルは自分の碁のことで精一杯で、あかりの相手など面倒臭がっていたが、佐為はあかりをいつも歓迎していた。

ヒカルとしか打つ機会のなかった彼は、初心者のあかりとでも打てればご満悦だったのだ。


それが分かるから、ヒカルはあかりが来ると佐為に打たせてやっていた。

碁盤を挟んで静かに流れる時間。

今では、その情景は三人で作り上げたヒカルの大切な思い出の一つとなっている。


だからヒカルは今でも、あかりが家に来れば指導碁を打ってやっていた。

そうしていると、佐為がいたあの頃に戻ったような気分でいられたのだ。



しかし。

あかりが園芸部長と付き合い出せば、もうそれは出来なくなる。

家に来ることもなくなるだろう。



(そんなのダメだっ!!!)

ガタッと音を立ててヒカルはいきなり椅子から立ち上がった。


「進藤先輩?」

小池が声をかける。


ヒカルは「ゴメン、用事思い出した」と言うと、足早に囲碁部室兼理科室を出て行った。



それを見送って、残された面々はしばし無言だったが、やがて三谷がつぶやいた。

「世話焼けるヤツ」

それを受けて小池が言った。

「進藤先輩、結構カワイイところがあるんですねェ・・・」






 ヒカルはあかりを探した。

廊下の窓から先程二人が居た場所を見たが、そこにはもう居ない。

(アイツと行っちゃったのか?)

それば大変だ、早くあかりを見つけなければ。と、ヒカルは焦った。つい少し前までは応援してやろうと思っていたのに、随分な心境の変化である。


彼が立っている場所の少し先に体育館へ行くための通用口がある。ヒカルはそのドアを開けて外へ出た。


そこから校庭を見渡す。

すると、彼が今居る場所から見て校舎の反対側のベンチにぼんやり一人で座り込んでいる女子生徒が見えた。あかりである。

ヒカルはホっと胸を撫で下ろした。




ヒカルはゆっくりとあかりに近づいていき、俯き加減に遠くを見ている彼女の前に立った。


「あかり」

あかりは少し肩をゆらした後、ゆっくりと顔を上げた。

「ヒカル?」


探し出したのはいいが、咄嗟になんと声をかけたら良いのか分からずにヒカルは口ごもった。それでしばらくその場であかりの顔をみていたが、とり合えず視線の位置を合わせるためにその場にしゃがんだ。


一方あかりはヒカルの突然の出現に心臓が止まりそうだった。

そして同様に何と口にしたらいいのか分からなくて黙り込んだ。パソコンの一件以来、あまり会話を交わしていなかったこともある。


「・・・あかり、三年の男子から付き合ってくれって言われたってホントか?」

口をついて出た言葉は直球、ストライクゾーンど真ん中である。


あかりは小さく頷いた。

「・・・・・うん・・・」


「ど、どうすんだ、返事はしたのか」

「・・・・・」


断わりの返事はした。だが、どうしても納得してくれない。

しかも、断わっている最中にも結構面白いことや為になる話をしてくるので、つい聞いてしまって決定打が打てないでいた。

山里は顔だけではなく、中身もかなりハイレベルな男だったのだ。

『とりあえず付き合っちゃえば』と美里が言うだけのことはある。


「あかり、ソイツのこと好きなの?」


あかりはヒカルの顔をじっと見つめた。

このバカ男は本当にどうしようもないと思った。本当に自分の気持ちに気がついていなかったのだ。彼女はだんだん投げやりな気分になってきた。


「だったらどうするの?」


あかりは小さい声でヒカルに訊いた。


「・・・・・・・」


ヒカルは返事が出来なかった。自分でも意外な程の打撃を受けた気がして一瞬息が止まった。

「・・・・・・どうって、オマエが好きなら、・・・オレにはどうしようも・・・ないよ」

「ふうん・・・」

あかりはヒカルから目をそらしてつぶやくように言った。

「・・・・・」

「山里さんていうの。いい人だよ。前から私のこと見て、いいなって想ってくれてたんだって。話もうまいし面白いし。付き合ったら大事にしてくれそうな気がする」


その様子をみて、ヒカルが何か取り返しのつかないことが起きようとしている予感に背筋がざわめいた。



「待てよ、オマエ本当にその山里のこと好きなのか?」

「何で?」

「だって好きじゃないのに、付き合うなんて変だろ。間違ってると思う」

「そうかな。でもヒカルには関係ないでしょ」

ヒカルは右の拳を握り締めた。

「関係なくない。幼馴染みのこと心配するのはあたりまえだろ」


あかりは制服のスカートの皺を手で伸ばしながら、校舎のすぐ脇に植えられた若い桜の木を見た。そのまま視線を戻さず言う。

「幼馴染みだって。ヒカルはいつもソレだよね。」

そしてあかりはベンチから立ち上がった。ヒカルも一緒に立ち上がる。


「あかり」

「今、好きじゃなくたって、そのうち好きになるかも知れないじゃない。

付き合うかどうかは自分で決めるよ。ヒカルはいつもみたいにほっとけばいいじゃない。バカっ!!」


あかりはそう言うと、脇に置いてあったカバンを手に取り、校門に向かって駆け出した。


ヒカルは、あかりが去り際に見せた泣き出しそうな顔にショックを受けてしまい、追いかけることも出来ずにその場に立ち尽くした。

白64


その日のプロ試験は大方終わり、残っているのは数組になっていた。


その内の一組が対峙する碁盤の周囲に、声もなく囲む受験者達。

それはもちろん成績上位陣のうちの一人が戦っていたからだ。

上位陣の勝敗は今後の展開を左右する。勝ち続ければ、他の者達の合格の可能性が消えてゆき、負ければ望みが繋がるのだ。

そして、彼らが見に来たのは、当初合格最有力と見られていた一人の院生だった。


彼は、完全に無表情のまま碁盤を見つめている。

今は相手の手番。静かに次の手を待っている・・・ように端からは見えた。

相手の長考が続く。緊張の時間。だが、ついに「ありません」の声が彼の耳に入ってきた。


一気に緊張が解かれ、周囲から溜息が漏れる。彼らの合格の望みがまた少し遠のいた瞬間だった。

ヒカルは、緊張した顔を崩さなかった。低い声で礼を言うと、検討することもなく、すぐに「片付けるよ」と断わって碁石を碁笥に仕舞いだす。そしてそれを止める者は誰もいなかった。



片付けが済み、勝敗表にハンコを押すと、ヒカルは黙したまま部屋を出た。

そこで行きなり肩をドンと押された。

ヒカルが驚いて振り向くと奈瀬だった。


「さー、終わった終わった。みんな帰ろ」

みんなと言われて返事をしたのは、和谷と小宮だけだったのだが。

「あれ、伊角さんは?」

「さっき本田さんと出ていくの見えたよ。先帰ったんだろ」


カバンの紐を肩にかけながら、奈瀬は鼻歌を歌っている。

「奈瀬、元気いいな。今日は勝ち?」

と、小宮は余計なことを言った。

「うるさいよ」

と急速冷凍された声で言われて、和谷の方を向くと「バカ。今日は対椿戦で負けたんだよ」と解説が来た。

「げ」


「ヒゲに負けたっ!!悔しい! 絶対にアイツにだけは勝つつもりだったのに!! ちょっとあんた達今日は付き合いなさいよ!」

「ひいいい」


こうなったら、付き合うほか男達に残された道はないのだった。







 結局四人で連れ立って研修センターを出、バスで総武線の駅に向かった。

幕張本郷駅の階段を上がり、改札の手前にあるプロントに入る。

うまい具合に奥の禁煙席がキープ出来た。それぞれ飲み物を買って席についたところで小宮がさり気なく口を開いた。


「進藤さあ、さっきのアレ、負けてたな」

ヒカルは嫌そうな目で小宮を見た。

「・・・・・」

「小宮君、それ言っちゃあ」

奈瀬が小宮を止める。だが和谷も小宮に同意した。


「オレなら見逃さない。立山さんは見落としが多いらしいな。バカだよな。折角逆転出来たのに」

「・・・・・」

ヒカルは少し顔を赤くして口をへの字に曲げた。


今日のヒカルの対局相手は外来の立山孝ニだった。

昨日の今日である。

気持ちを落ち着かせることが出来なかったヒカルの今日の碁は、自分でも最悪の出来で、立山にうまく打ちまわされ、かなり際どい展開になった。

後半挽回して僅差でリードしたものの、まだ相手に逆転の手があることに気付き、手に汗をかいていたのだ。

が、なかなか立山がその手を打ってこない。まさか気が付いていないのか、と思ったところで

(気付くなよー、気付くなよー)

と必死で念じた。


結果、何とヒカルの念力は通じたらしく、「ありません」でこの度の対局は終了。

ヒカルは何とか勝ちを拾ったのある。


だが、周囲の微妙な空気は感じていた。観戦者で気が付いていた者もいたはずだ。


「・・・・・今日はまずい碁だったよ。やばかった・・・」


ヒカルは神妙に白旗を揚げた。


「すっげえ追い上げだったじゃないか。見てる方には面白い碁だったけどな。調子悪いのか?」

「そういうワケじゃないけど、ちょっと気になってることがあって・・・」


小宮の問いにヒカルは答えるかどうか躊躇したが、結局白状することにした。相談に乗って欲しい気持ちもあったのだ。

そして。







「えええええええええええっ―――!!!」

と、店に奇声があがり、何事かと他の客達が一斉に振り向いた。


何時いかなる時でも他人の恋愛は最大の娯楽のひとつである。

ご多分にもれず小宮と奈瀬の二人はこの話に食いついてきた。


「進藤が!! 進藤がそんな悩みを持つなんて!!どーしたことだそりゃ!!!」

「おとなになっちゃって――!!」

「その幼馴染みって、なんて名前?」

「あかり・・・」

「あかりちゃん!! あかりちゃんかあ・・・。あかりちゃんはかわいいのか?どんな顔だよ」

「べ、別に。普通だよ」


ご想像通り、たちまちヒカルは後悔した。何故この二人はここまでヒートアップしているのだろう。会ったこともないのに。


「じゃあ、奈瀬と比べてどうよ。どっちがカワイイ?」

「えええ・・・?」


ヒカルは途方に暮れた顔で奈瀬の顔を見た。奈瀬は、客観的に見てかなり容姿レベルが高い。彼女よりかわいい、もしくは美人となれば話は更に面白い。


「わ、わかんないよ、そんなの。だって奈瀬はカワイイというよりコワイじゃないか」

「ちょっとアンタ・・・」

「わはは、そりゃそーだ」

「小宮」

奈瀬が小宮をはたく。「まあ、アレよ。進藤にとってカワイければいいんだから」

と、話を元に戻した。


「それでその後、そのコのこと追いかけなかったの?」

「追いかけないよ。だって、オレにはどうしようもないもん」


奈瀬は、不満そうに声を荒げた。

「何でよ! だって進藤そのコのこと好きなんでしょ?」

ヒカルは頭を抱えた。

「いや、だって、あかりは幼馴染みなんだから、そういうのとは違うんだって」


奈瀬と小宮は顔を見合わせた。

「何言ってんの、幼馴染みを好きになっちゃいけないって誰が決めたのよ」

「そ、そりゃそうだけど」


小宮は「あーりえねェ~」と、ぼやいた。

「アンタそのコのこと好きなんだと思うよ」

「・・・そうなのかな・・・」

「じゃなかったら、何でうろたえて、調子を崩すのよ」

「うろたえてって・・・」


「鈍感なヤツ。大体アンタ何? それでホントに現代の中学生なの?」

「見ての通りだけどさ」

「自分の気持ち、分かんない?」

「こ、心って難しいよな」


こういう話で一番ちゃちゃを入れそうな和谷は、めずらしく聞き手に回って腕を組んだまま三人の会話を聞いていた。



「もしかして、今までそのコとでも他の女の子とでも、好きだと思ったり、ときめいたりとかなかったの?」

「え?」

ヒカルは奈瀬を見た。


「そ、それは・・・」

それはヒカルにはあまりにも酷な質問であった。





 ヒカルとて健康な男子中学生であるからには、それなりの感情の芽ばえはある。というかあったはずなのだ。

だが、彼にはあえてその感情を押しつぶさなければならない事情というものがあった。

もちろん、それは彼に数年とり憑いていた、とある幽霊のせいである。



佐為は、とり憑いた当初、あかりがヒカルのことを好きなんじゃないかと言い、ヒカルをけしかけようとしていた。

そしてやはりヒカルは「あかりはただの幼馴染み」と言い、佐為を黙らせてきたわけだが、

そこは流石に「ヒカルの心」に棲んでいる幽霊のこと、ヒカルよりヒカルのことを分かっていたのかどうか、ある日彼はこんなことを言い出した。


『ヒカル、あかりちゃんが好きなら、やることはひとつですよ』

ヒカルは佐為を睨んだ。

『オマエ、何回おんなじこと言わせるんだよ、あかりは幼馴染みだって言ってるだろ』

『ふふふ。私にはみーんなお見通しなんですからね。いいですか、ヒカル。夜になったら、あかりちゃんの家に行って、あかりちゃんの部屋へお邪魔するんです』

『・・・・・』

『そして、想いを遂げるんですよ!』

『・・・・・想いを遂げるってオマエ・・・』

要するに、家宅不法侵入及び婦女暴行のお薦めである。


ヒカルは半眼になって、佐為を睨みつけた。

『オマエはオレを犯罪者にする気か?』


佐為は不思議そうな顔をした。

『えええっ? 何でですか?』

『そんなこと出来るわけねェだろ。バカかオマエ』

『私の時代は、それが普通です。学校で習ったでしょ?』

『そんなの寝てたから知らねェよ。ていうか何だよ。まさかオマエ、生きてた時そんなことしてたのか?』


『だ、だって、それが普通だったんですよ。その前に歌を送ったりもしましたけど・・・』

『犯行予告かよ!! 第一オレに歌をどうしろって!? 』


それを聞いて流石の佐為も黙った。

『確かにヒカルが和歌を詠むのは夜這うより難しそうですね・・・』

『オマエ、もう黙れよ』

『そう言えば虎次郎も、私がこの話をすると賛成してくれませんでした・・・』

『良かったな。虎次郎がマトモで』


『男女の理に時代なぞ関係ないものを・・・』

佐為は不満そうにいつまでも口の中でぶちぶち言っていた。


それがうるさくて、ヒカルは言い聞かせるように言った。

『もし、そんなことして捕まったら、オレ、きっともうプロにはなれねェんだからな』

『えっ!』

『もちろん塔矢の親父と打てる日も来ない』


みるみる佐為の顔色が変わった。

『ダメ――――!!! ヒカル、そんなの絶対ダメですっ』

ヒカルは、これで佐為を黙らせることが出来たと、一瞬ホッとした。だがヒカルの思惑通りに事は運ばない。


『ヒカル、打ちましょう! ヒカルがプロとして一人前になって、私とあの者を打てるようにしてくれるまで、女の子は禁止です!!』

『はあっ!?』

『厳禁ですっ!!』


『ちょっと待て、どうしてそうなるんだ―――!!!!』







そしてそれ以降、ヒカルが少しでもいいなあ、と思う女子と出会う度、心に棲む居候に邪魔され続けてきたのだった。


だが佐為は、あかりだけは、何故か傍に居る事を認めてきたのだ。

それは、ヒカルが「幼馴染み」と断言してきたためか、いつかは何とかしてやろうと思っていたからか、単に佐為があかりを気に入っていたからか、それは本人に訊かなければ分からない。


とにかくそんな事情で、佐為がいる間、ヒカルが女子に想いを寄せる余地はなかったということだ。

そして佐為がいなくなってからは、それこそ、「それどころではない日々」であったため、この手の話は全てスルーしてきてしまったのである。



 ヒカルはやるせない顔で奈瀬を見た。

「オレは、とにかく碁を始めてからは碁ばっかりで・・・。」

「ふーん、で、突然、目の前が開けちゃったワケ?」

「う、うーん、まあ・・・そうなの・・かな?」

ヒカルは顔を赤らめながら、頭を掻いた。

「・・・・・」


その時、小宮がいきなり立ち上がった。そして、

「オレ、ちょっとコンビニで買い物」

と言って、足早に店を出て行った。

「あ、あたしも」

と奈瀬もその後を追う。何故か二人とも口を押さえて何かを我慢している風だ。

大方、大爆笑したいのを我慢しているのだろう。

(ちぇっ、笑いものにしてろよ)


ヒカルは口をとがらせながら、二人を見送った。

そして、視線を戻すと、険悪な気配に気がついた。

「和谷?」


ずっと腕を組んだまま黙っていた和谷が、険しい顔で口を開いた。


「オマエ、ふざけんのも大概にしろよ」



黒65


「え?」


ヒカルは和谷の顔をマジマジと見た。

バカにされるかもとは思っていたが、怒られるとは思わなかったのだ。



「オマエなあ、今オレ達はプロ試験中なんだぞ。真剣勝負で星の潰し合いやってんだ。

それを何で、よりによって今、女なんかにひっかかってるんだよ」

「べっ、別にひっかかってなんかねェよ」

和谷は舌打ちした。

「バカ。ひっかかってるんだよ。じゃなかったら何だよ今日の碁は」

「・・・・・」


和谷は既に飲み終わったジュースの氷をストローでガチャガチャかき回した。


「以前オマエに言ったよな。去年のプロ試験の初日、塔矢アキラがプロ試験すっぽかしてネット碁やってたって話」

「あ、うん」

「あれでオレはスッゲーむかついたんだ。本当ならアイツが一敗して喜んでいいはずなのによ。オレ達が必死でやってるプロ試験をこんなに軽く考えてるヤツがいるってのが許せなかったんだな」

「・・・・・」


そこで和谷がストローを氷の中に突き刺した。残った氷がガチっと締まった音をたてる。

「以前、伊角さんがオマエと塔矢が似てるって言ったことがある」

「え?」

「そんときゃ、変なヤツってところがって話だったんだが、他にも色々似てるのかもな。

今日の話聞いてて、そう思った」

「オレ、別に軽くなんて見てねェよ! そんなこと決まってるだろ!」



歴史通りだから、という訳じゃない。一日でも早くプロになって棋士としてスタートを切りたい。

そして、塔矢アキラに追いつき追い越し、少しでも佐為の高みに近づかなければならない。佐為と会った時に恥ずかしくない自分であるために。



「・・・オレは今度でプロ試験は四回目だ。もういい加減受かりたいんだよ。何年も合格出来ない気持ちなんてオマエに分かるか、バカ」


「・・・・・」

「絶対受かる、オレは。今度こそ」

和谷が今度は独白のように呟いた。

それを聞いてヒカルはもう何も言えなくなってしまった。

前回は一発合格し、今回も当然それを狙う。

そんなヒカルには、何年も挑戦し続ける思いや苦労は、想像出来ても自分のものではない。


それに、確かに今日は落ち着きをなくしていたし、それを見ていた和谷には、浮ついていると見えたに違いないのだ。そしてそれが彼には不快だろうということは、流石のヒカルにも分かる。


それから何となく気まずく、ずっと黙り込んでいた二人の元へ、隣のコンビニに行っていた奈瀬と小宮が帰ってきて、それを潮に四人はJRのホームへ向かった。








 ところで藤崎あかりは、学校でヒカルと話をして家に帰ってきてからというもの、自分の部屋に閉じこもり、気分は地の底まで沈みこんでいた。


頭を過ぎるのは最後のヒカルとのやり取りだ。

何であんなことを言ってしまったのか分からない。

もう駄目だ。絶対ヒカルに嫌われたと思う。


あの直前、山里に言い寄られて、ここにヒカルが来てくれないかと密かに期待していたのに。そして「あかりは自分が好きなんだから手を出すな」と言ってくれたら。


と、そこまで考えて、あかりは首を横に振った。あのヒカルがそんなことを言うわけがないではないか。妄想もいいところだ。

そんなことを考えていたとヒカルが知ったらきっと嘲笑うだろう。


だが、山里と別れた後、ベンチに座り込んでいた自分のところにヒカルは来てくれた。

その時、本当はものすごく嬉しかったのだ。

恐らく自分が三年生に告白されたことを聞いて、心配して来てくれたんだろうに、あんな八つ当たりのようなことを言ってしまうなんて。


全く最悪だ。自分は何をやっているのだろう。そう思うと涙が出てくる。


(いっそのこと、あの時、ヒカルが好きだって言ってしまえばよかった)

そうしたら、例え玉砕していても、こんなウジウジしていなくてもよかったかもしれないのに。


(だめ。それでヒカルに引かれでもしたら、もう、囲碁部にも学校にも行けない! ヒカルの顔も見られないよ)



学校で、自分とヒカルのことが噂されているのは知っている。自分が囲碁部にいるのも、囲碁がやりたい訳ではなく、単にヒカル狙いだと言われているのも知っている。

そういう風に見られるのは、本当はすごく嫌だった。


でも、囲碁部にいれば、たまにはヒカルが来てくれるし、自分が囲碁部員だから時々はヒカルの家で指導碁も打ってもらえるのだと思えば嬉しかったのは確かだ。


それだけで今までは満足だったのに。

こうなると山里が恨めしく思えてくる。彼が告白をしてこなければ、今まで通り楽しく一緒にいられたのだ。

あかりはベッドに座りこんで頭をかかえた。



ところで、あかりの部屋は、間仕切りがあるとはいえ、部屋の作りとしては姉のかおりとの二人部屋である。

当然、あかりが閉じこもっていれば、かおりは締め出される道理だ。

姉は妹の様子がおかしいのにすぐに気が付いた。

時々、部屋のドアをノックして「あかり、どうしたの。大丈夫?」などと訊いて来た。


返事もしないでメソメソしていたあかりが、ようやく部屋から出て行くと、かおりはもう何も訊かずにコンビニの袋を手渡し、

「あかり、これあげる。早く元気だしな」

と言い、一階に降りて行った。


あかりが袋の中身を見ると、プリンが一つ、スプーン付きで入っていた。

「もう。子供じゃないのに・・・」


あかりは、思わず吹き出した。しかし、姉の気持ちが嬉しくてまた涙が出てきた。






 落ち込んでいて、部屋に閉じこもっていたくても、朝になれば学校に出かけなければならない。

ヒカルと会った翌日は、プロ試験のためにヒカルと顔を合わせることもないので、まだ気楽だった。

しかし、そのまた翌日は却って緊張して家を出ることになった。


どんな顔をして話せばいいのだろう。

いや待て。話せればまだいい方だ。もしかすると、もう口を利いてもらえないかもしれないではないか。


(今日はヒカルにも山里さんにも会いたくない)


あかりはそう思って、その日は殆ど教室から出ずに過ごし、放課後になると、急いで帰ろうとホームルームが終わるや否や校舎を出た。そこで、自分を呼ぶ声がする。


振り向くと山里であった。嬉しそうに手を振っている。

(ああ、会っちゃった)

と、ぼんやり思っていたら、近くで誰かが走ってくる音がした。


「あかり!」


聞き慣れた男子生徒の声が近づいてきて、いきなり腕をつかまれた。

驚いて顔を上げる。

「えっ?ヒカル」

息を切らしてあかりを掴まえたのは今日、一番会いたくなかった進藤ヒカルその人だったのだ。

「勝った!」

「何がよ?!」

「先手必勝!!」

ヒカルは意味不明に叫ぶと、あかりの腕を握ったまま、校門の方向へ走り出した。

当然、あかりは引きずられる形になる。

山里があっけにとられた顔で、振った手を上げたまま固まっているのが目の端に見えた。


「痛い! 何よヒカルったら何処連れて行く気?」

しかしヒカルは答えず、周囲の生徒達を押しのけながら、そのまま走り続け、学校から1ブロック程離れたところで漸く止まり、あかりの腕を放した。


二人とも息が上がっていたが、先に態勢を戻したのは、ヒカルだった。

この時点で二人の身長差はほぼ同じ位。しかしやはり男子生徒の方が体力があるということだ。


「悪い悪い。アイツに先に持ってかれちゃうかと思ったら焦っちゃってさ」

「・・・・・は?」


何の話だか、またもやあかりにはサッパリである。だが、構わずヒカルは話を続けた。

「今更だけど、あかり今日、これから空いてる?」


本当に今更である。


「どうしたの急に」

「・・・今日、あかりに来てもらいたいところがあるんだ」


あかりは、どうしたものかと躊躇した。昨日あんなに落ち込んでいたのは何だったのか。

「来てもらいたい所?」

オウム返しに訊き返すと、ヒカルは珍しくためらいがちな顔をしてあかりの顔を覗き込んだ。


「うん、オレのじいちゃんの家に、一緒に来てもらいたいんだ」


「・・・・・」

それは意外だった。何故ヒカルの祖父の家に自分が行くのか良くわからない。

小学生の頃は、お爺ちゃんっ子のヒカルに連れられて時折行っていたが、ヒカルが蔵で倒れた一件からは、一度も行っていない。


「どうしたの?」

の問いが出るのは当然だった。だがヒカルは更に困ったような顔をして、「ダメ?」

と訊くのみである。

良く分からないが、何か理由があるのだろう。これで関係が修復できるなら良しとするべきだ、ということで、結局あかりは同意したのである。




 それからヒカルがあかりを連れて行ったのは祖父の家というより祖父の家の蔵であった。

かつてヒカルがいきなり倒れたあの蔵である。


あかりはヒカルに連れられて蔵のに立つと

「懐かしい」

と思わず呟いた。


「そう?」

ヒカルは扉を開け、戸のすぐ横のスイッチで白熱灯をつけると、木の階段を上っていった。

その慣れた様子から、ヒカルが頻繁にこの場所を訪れていると知れた。

古い木造建築特有の臭いと湿った空気が肺に入ってくる。人気のない建物の中はシンと静まり返っていた。


あかりが恐る恐る後について二階に着くと、ヒカルは部屋の真ん中辺りに置いてある古い碁盤の前にしゃがみこんだ。


「あかり、この碁盤覚えてる?」


ヒカルは碁盤を指差してあかりに訊いた。



白66



あかりはヒカルの傍に寄って碁盤を上から覗き込んだ。

かなりの年代もののようだ。

碁盤の良し悪しなど良く分からないが、恐らく良いものだろうと思われた。


この碁盤を覚えているかと訊かれても、以前来た時は、倒れたヒカルのために慌てて大人を呼びに行ったので、そんな細かいところまで覚えていない。

覚えているのは、倒れる直前にヒカルが「誰だ?」と大きな声を出したことくらいだ。



「覚えてないよ。前来た時は、ヒカルが倒れてバタバタしてたし」

それを聞いてヒカルは顔を上げ、あかりを見て微笑んだ。


「うん。あかりはその場にいたんだよな。」

「・・・・・」

「だから、今日ここに呼んだんだ」

「え?」

ヒカルは掌で碁盤の埃を拭きながら言葉を続けた。

「何であの時あかりがいたのかなあって、オレは思ったんだ」

「・・・・・」

「まあ、オレが連れてきたからなんだけどさ」

そりゃそうである。


ヒカルが何を言おうとしているのか、あかりには分からなかったが、何か大切なことなのだろう。あかりは息をつめて次の言葉を待った。



「知ってるか? オレが囲碁を始めたのって、あの時からなんだぜ」

「・・・・・」

そう言えばそうだ。あの日までヒカルが碁を打つところなどあかりは見たことがない。話にも出たことはなかったと思う。


ヒカルは頭を掻き掻き言った。

「あかりはオレのスタートの立会い人なんだよ。だから・・・」


そして、ヒカルはふいに顔を赤くして目をそらした。

「だから、この後もそうかなと思ったんだけど、さ」


「・・・・・」

「オマエに彼氏が出来ると、そういうワケには行かなくなるのかと急に気になってきてさ」

「・・・・・」


「そ、それで」


「・・・・・」



ヒカルは、そこで大きく、息を吸った。

「笑うなよ。もし、もしな。オレがオマエのこと好きかも知れないって言ったらどうする?」


あかりは思わず口を開いた。今ヒカルは何を言ったのか。

「・・・・・」

「へ、変? 今更」

ヒカルは慌てたように、言い足した。


今朝は、(もうこの先、ヒカルとは話も出来なくなるかも)と思って家を出たあかりである。

今のヒカルの言葉には驚いてしまって咄嗟には声も出ない。

なので、何度も小さく首を横に振った。



「オマエがどうしても、アイツが好きなら、しょうがないけど、まだOK出してないなら、一応、ダメもとで言っときたかったんだ。後で後悔したくないし」


こんなことが起きるなんて想像もしていなかった。あかりの目に涙が溜まってそれが光った。


「あ、オマエ泣いてる! 泣くほど嫌? 怒ったのか?」

よっぽど恥ずかしいらしく、今やヒカルは顔から耳まで真っ赤だ。それを見て、あかりは噴出した。


「嫌じゃないよ。・・・ヒカルってホントに馬鹿だよねえ・・・」

「え、馬鹿?」

それを聞いて更にヒカルはうろたえた。



今を置いて自分の気持ちを伝える時はないだろう。その言葉は自然に口から出て行った。


「私はヒカルのことずっと好きだったよ」



「そうか、そうだよな、やっぱり好きだと・・・え、好き?!」

驚いたヒカルを見て、あかりは微笑んだ。

「うん」


「オマエ、オレのこと好きなの?」

「うん」


「・・・・・え―――・・・」


それを聞いたヒカルは気が抜けたらしく、そのまま横倒しに倒れた。



「・・・うっそお、オマエいつの間に・・・」

「ヒカルがニブいんだよ」

あかりはイタズラそうな目でヒカルを見た。

ヒカルは、頭が真っ白になった体である。


「そっか、やっぱりオレは鈍いのか・・・」



そして、ヒカルは起き上がるとガックリと首を垂れ、佐為の碁盤に突っ伏した。

「聞いたかよ、あかりオレのこと好きだってさ」


「・・・・・誰に言ってるの?」

「碁盤」


何故碁盤に?


「この碁盤って何なの?」

ヒカルは碁盤から体を起こしてあかりを見た。そして言うか言うまいか悩んでいる風だっが、ようやく口を開いた。

「あかりは聞く資格があると思うから、秘密を教えてやる。この碁盤は碁の神様の使いみたいなヤツが宿っていたスゲえ碁盤なんだ」


「・・・・・・」

「秘密だからな」


あかりは何と返事をすれば良いか分からず、ただ目を丸くして碁盤を見つめた。

「秘密?」

やっと訊き返すとヒカルは厳かに頷いた


「秘密は分かったけど、宿ってたって、今は?」

「もう引っ越した。」

「は?」

あかりは首をかしげた。

(そういうもの?)


「何処に引っ越したの?」

「それを探しているんだ」

腕を組んだヒカルは大真面目だ。


「神様の使いみたいな人・・・って」

しかし、碁盤に宿れる位だから人間ではなさそうである。


「オレに黙って何処か行っちまってよ。ひでェだろ?」

ヒカルは口を尖らせてぶうぶう言い出した。

「だから時々こうやって、ヤツの古巣を見に来ているんだ」


で、空家(?)になった碁盤と何事か語らいあっているらしい。


「・・・・・・」



大丈夫か、この男。


というのが、普通の反応だろう。

想いが通じて嬉しい時に、また良く分からないことを言われたものである。

しかし、からかわれている気はしない。

そして、どう反応すればいいものか悩む間にも、不安そうに自分を見つめるヒカルの様子も気になった。


「それって、前にネットで探してた人?」

碁の神様もどきの引越し先をインターネットの囲碁サイトで探していたのだろうか。古典的なのか現代的なのかよく分からない。

「それは別件」

「・・・・ふ、ふーん」


疑問は沢山あったが、あまり追及せずにあかりは頷く。


「よくわかんないけど、見つかるといいね」

「おう」

あかりの言葉に、ヒカルはホっとしたように、何度も頷いた。



ただの冗談。

の割りにはヒカルの様子は真剣すぎるようで少々気になったが、彼の機嫌の良い様子を見ると自分の返事は正解だったようだ。


二人は微笑みながら見つめあった。

「・・・・・」

「・・・・・」



「・・・・あの・・」

どちらからとも無く、声をかけたその時、

階段を上がってくる足音が二人の耳に入ってきた。


「おーい、ヒカル、お茶が淹ったぞ」

祖父の平八がひょいと顔を出した。

あかりが首を伸ばして声がした方を見る。


「あ、ヒカルのおじいちゃん」

「あかりちゃん、碁を始めたんだって? ワシと一局どうかな」


ヒカルとあかりは顔を見合わせた。

「はい、お願いします」

あかりはにこやかに応じ、ヒカルは渋い顔をして天井を振り仰いだ。








 そして次の月曜日。


「すみません」

あかりに頭を下げられ、山里隆弘は「うーん」と首を捻った。

数日前とくらべて明らかにあかりの様子が違う。朗らかで、顔色も良いようだ。


「・・・進藤くんと何かあった?」


「・・・・・」

「はあ、まあ」

あかりは、照れたように微笑んだ。


山里は口を尖らせた。

「目の前で拉致られるとは思わなかったもんなあ」

「すみません」

「君があやまることじゃないよ」

しかし、あかりはもう一度深々と頭を下げた。


「すみません、山里さんとはやっぱりお付き合いできません」


随分キッパリな振り様に聞こえるかも知れない。だが、お断りの口上もこれで五回目ともなれば、遠まわしな断りが出来なくなるのも仕方がないだろう。


山里は溜息をついた。

「分かった。今まで振り回して悪かったね」


あかりは首を横にぶんぶん振った。


「じゃ、ね」

山里はそれだけ言うと、後ろを振り返りもせずに校舎の方へ歩いていった。

ヒカルとは違う広い背中を見送って、あかりはもう一度頭を下げた。







 校舎の角を曲がったところに園芸部所有の花壇がある。

山里はそこにしゃがみこんで、風に靡くコスモスを見つめた。今の彼の表情を隠してくれるはずの、少し長めの前髪も風に散らされ、あまり役たっていないようだ。

そこに声がかかった。

「振られたね」



山里が顔を上げると、白髪に隈取のヤマンバ少女が立っていた。山田サヤカである。

「うるさい。そんなナリで声かけるなよ」

「何よ、せっかく幼馴染みがなぐさめてあげようと思って来てあげたのに」

「幼馴染みか・・・」

山里は大きく溜息をついた。


「ちっくしょ。進藤の大嘘つき野郎が。何が幼馴染みだよ」

山里は、忌々しそうに言った。

サヤカはそんな山里をニヤニヤ笑いながら見下ろした。


「隆弘がバカなんだよ。あそこは進藤がどう言っていようがキマリだって言ったじゃん。そう思ってなかったの隆弘だけだよ」

「そうさ。俺だけは信じてやったのに裏切りやがったんだ。進藤め」


サヤカは山里の隣に並んでしゃがみこんだ。

「気安く座るなよ。お前が横にいると、深夜のコンビニの前でしゃがんでる気がしてくる」

「わ、へんけーん、ていうかコンビニの前に座って何が悪いの」


山里は横目でサヤカを見た。

「何でこんな子になっちゃったかねえ・・・。昔近所に住んでた頃はお前だって可愛らしかったのに。引越し先

が悪かったんだな」


この二人。実は幼馴染みである。

サヤカが小学三年生で引っ越すまでは近くに住んでいたので、当時は殆ど兄弟の様な関係だったのだ。引っ越した後は小学校が変わり、会うこともなかったが、サヤカが中学生になって中学校の学区が一緒になったため、久しぶりに交流が再開したのであった。


「そのキテレツな化粧と髪型はいつまでやる気だ?」

「見かけで人を判断するの、良くないって知らない?」

「見かけは重要だ。そのナリを民族学か民俗学的見地から実験的にやってるってのなら俺も見方を変えてやるがな」

「ミンゾクミンゾクって何よ。そーいう風にいちいちコ難しいこと言ってると最終的に女の子にはモテないんだよ」

「うるさい。今、俺は傷ついているんだ。傷口えぐるな。」

山里は、近くにあった小石で足元の硬くなった土をガリガリ削った。


サヤカは「どうして幼馴染みは付き合わないって決め付けたのよ」と訊いた。


「・・・俺とサヤカは幼馴染みだが、俺はオマエと付き合いたいと思ったりしないだろ? つまり幼馴染みは兄妹みたいなもので、好きになることはない。と、俺は実感したんだな。だから、藤崎さんと進藤もくっつくことはない、と思った訳だ」


「・・・・・どう反応すべきなのかな。ここは怒るところよね」

「何で? サヤカ俺が好きになっちゃった?」

「は――!? バッカじゃないの? ちょっと女の子に騒がれてると思って自惚れてる?」


山里は膝に顔を埋めた。

「本命に好かれなきゃ意味ねー」

「・・・・・」


サヤカは少し言葉につまって山里を見た。

「・・・・・あかりの何処が良かったの?」

顔を上げた山里は少し考えるそぶりをした。

「・・・・・ 目かな」


「・・・・・・何それ」


「藤崎さんて、本当に進藤のことばかり見てるじゃないか。あの直向きな目が気に入ったんだよ。いつもあんな風に気遣ってもらえたらいいなあと思ったんだ。だから進藤にその気がないなら俺が立候補したっていいじゃないかと」

「・・・・・はあ」


「・・・・・でも、流石に進藤にはやられた。噂通り行動が読めないヤツだな。お前、小学校の時から知り合いなんだろ、アイツってどんなヤツ?」

「・・・・え?」


「アイツの年輪ってちょっと他とは違うからさ」




黒67


サヤカは口をヘの字に曲げた。


「変なこと言い出さないでくれるかな。造園マニアでオカルトマニアか」


だが、山里は真顔だった。

「人も木と同じさ。人は輪切りに出来ないし、したって分からないけど、その人間なりの生きてきた年輪ていうのはあるんだよ。もちろん一年に一つじゃないけどな」



(そういえば)

と、サヤカは額に手を置いて思う。

かつて、この男は出会う人ごとに、その人間の『人生あてごっこ』なる遊びをしていた。

当時は人相見のようなものかと思っていたし、(子供が他人の人生の何を語る?)と思っていたものだ。中学生になってもまだやっていたらしい。


「進藤は違うわけ?」

サヤカはめんどうくさそうに訊いた。


それに対し、山里は言いにくそうに口ごもった。

「うまく言えないけど・・・、何となく、二重になっているところを感じるんだ。そんなヤツ見たのアイツが初めてだ」

「言ってること全然分からないんですけど」

「一人だけど、二人居る」



山里は難しい顔をしてサヤカを見た。。

「二人居る。・・・いや、居た。かな? 人生が二重になっている」

「多重人格者?」

「・・・・・・分からん」



サヤカはついに溜息をついた。

「ちょっと、マジやめてくれない? キモすぎだって。」

「・・・・・・」

山里は黙したまま、考え込んでいた。


「隆弘って、あかりが好きだったのに何で進藤を気にするのよ」

「バカだな。敵を知り己を知るだろ」

「の、割りには結構あっさり引いたよね。いつもはしつこいのに」

山里は、ジロリとサヤカを睨むと「俺、もう行くわ」と言った。

「・・・怒ったの?」

「これでも落ち込んでるんだって。この心を慰めるために花壇のレイアウト変更を行う。これから部室で打ち合わせだ。じゃな」

「え、また?」


山里は校舎の方に歩き去る。

サヤカはそれを見送り、あきれたようにつぶやいた。

「打ち合わせって、三年生は部活引退してるくせに・・・」







 そして、次のプロ試験の日の朝。

幕張本郷駅でバスに乗り込んだ和谷はヒカルを見つけた。


座席は既に埋まっており、ヒカルは窓の外をぼんやり見つめて立っていた。


あれからもヒカルは調子が戻っていないようで、翌日曜日もやっと勝ちを拾っているような状態だった。

これ以上何を言えるでもなく、和谷はその日、ほどんど口も利かずに帰宅したものだ。



今日も気まずい気持ちのまま、声をかけづらいと思っていると、ヒカルが先に声をかけてきた。

「おはよ和谷」

「・・・おう」

和谷がヒカルの隣に立つと、間もなくバスは発車した。


ヒカルを見ていて和谷はすぐに異変に気が付いた。

ヒカルが日曜日と打って変わって妙に明るい。屈託ない様子を不審に思い、和谷は思い切って例の件を訊いてみた。

それに対してヒカルは黙ってVサインをして見せる。


和谷は場所も忘れて食って掛かった。

「あああ? 何だとオマエ!!」

「声大きいってば」

ヒカルはニヤニヤ不敵に笑っている。一昨日の落ち込んだ様子とはえらい違いだ。

和谷は、あきれて暫く言葉が出なかった。それでもやっとのことで、今度は小声で訊いた。


「オマエ、カノジョとあれから何とかなっちゃったのか?」

「さあね」

「おい」

「・・・・・」

「言えよ。気になるじゃねェか!」


その時、バスがカーブに差しかかり、大きく揺れた。

「わっ」

近くに空いているつり革がなかったヒカルは、代わりに和谷の肩に掴まった。

「悪りい」

和谷は頷いた。そして言った。

「掴まり賃として、事情教えろ?」

「あははは」

それを聞いて流石のヒカルも笑ってしまった。

「くっそお。何でオマエばっかり」

「へへへ」

「オマエなんか今日は負けちまえ」

「やだね」



そして、この後、和谷は完全に復調したヒカルを見ることになる。

全く、人の心とは難しいものなのだ。






 ところで、「人の口に戸は立てられない」の言葉どおり、ヒカルが「女性問題(!)」で不調らしいという話は、あっという間に研修センターを飛び越え、棋院の院生達にまで届いていた。

この手の話は、口から出たら何がどうでも広がってしまうのがこの世の中なのである。


院生らしき子供達が、用事で立ち寄った日本棋院のロビーで「たまたま」その話をしていたところ、とある人物がやはり「たまたま」通りかかった。


「あの進藤君が?」

「合格確実視されてたのに、調子悪いらしいよ」


その人物は彼らの会話を耳にすると立ち止まった。売店で商品をそれとなく選ぶフリをしながら、聞き耳を立てる。

「・・・・・」


院生達はその人物に気づかず、話を続けた。

「まさか、進藤君が恋わずらいで、トラブルなんてな!」

「ヤツもフツーの中学生なのさ」

「これで今年の合格者はわからなくなったな」


やがて、彼らの待ち人が上の階から降りてきて、そのまま連れ立って外に出て行った。




「・・・・・」


その人物、つまり塔矢アキラは、その時持っていた、売り物の扇子をギリギリ握り締めた。

その尋常ならざる様子と、商品を救出するために店員があわてて声をかけようとしたその時、彼を呼ぶ声が聞こえた。

声のした方向には「週刊碁」の天野記者が立っている。

眼鏡と恰幅の良さがトレードマークの彼は、アキラに向かってにこやかに手を振っていた。



アキラはあわてて扇子を元の場所に戻した。眉を顰めている店員に頭を下げると、彼は天野の方に向き直った。


「こんにちは」

「どう?最近」

愛想良く近況を尋ねる天野にアキラは上の空で答えた。

「まあまあです」

「まあまあ? プロになって無敗なのにかい? 流石だね」

「・・・・・」

アキラは軽く頭を下げた。

そして一瞬逡巡した後、彼は質問をぶつけてみることにした。


「あの、天野さんは今年のプロ試験も取材されているんですよね」

「そりゃ経過は把握しているよ。どうして?」

「え」

聞いておいてアキラは沈黙した。何を訊くというのだ。進藤ヒカルの調子をか?

バカなことを。女で調子を崩してプロ試験を落とすような相手など、ライバル失格ではないか。


「・・・去年のプロ試験で対局した人も多いですからね。それは気になります」

と、言って誤魔化した。


しかし天野は、

「昨年は受けてないけど、院生の進藤君は知っているんだよね」

と、最初に進藤ヒカルの名前を挙げてきた。やはり彼の期待度は高いのだ。

「・・・・・はい」


「前評判どおりというワケにはいかないみたいだよ」

「どういうことですか?」

天野は肩をすくめて「それが試験てものだから・・・」と言いよどむ。


「進藤君は有望株だと皆言うね。森下九段の周辺から彼の話はよく聞くし。それで僕も若獅子戦から彼には気を配っていたんだが、その若獅子戦からして彼は初戦で負けてしまったわけだ。プロ試験もあまり調子が出ないようだし、彼の力はどうにも波が激しいようだな」

「・・・・・」

「塔矢アキラに匹敵するって言う人もいるようだけど、君はどう思う?」

「え、」

アキラは言葉に詰まった。


戦歴を見る限り、実はアキラはヒカルに一度も勝ったことがない。

このことが、いつもアキラの心から消えないのだ。彼がプロに上がって来てくれないとリベンジすら出来ない。


(今、打ったらどうだろう)

プロになり、上位者との対局の機会も増えた分、自分は確実に優位に立っている。

(負けはしない)

と思う。

しかし同時に、‘sai’が進藤なら、まだ自分には足りないものがあるような気もする。


(進藤の今の力が知りたい・・・)


そこまで、自分に執着させておきながら。


(何故、女なんだ!!?)

(何がどうなっているんだ進藤!!)




もう長い間進藤ヒカルには会っていない。

直接対決した区の大会からも随分たっているので、あれからの彼の成長ぶりは推測するしかない。

若獅子戦は観戦したものの、あまり参考にする気になれなかった。


プロ試験の勝敗はネットで確認出来ても内容までは訊かなければ分からない。

レッスンで会う越智も、あまり多くを語ってはくれない。



それで記者の天野に訊いてみたのだが、却って天野の言葉はアキラの心に陰を落とすことになったようだ。

こんな時思い出されるのは、最初に打ったあの二局。あの碁を打ち、初めて自分に壁を感じさせた男がプロ試験で立ち往生するのを、どうにも彼は受け止めかねていた。


相手は自分同様、青春真っ只中の中学二年生だという発想は、このストイックな男にはないのである。



天野は笑って

「そんなこと言っても答えようがないか。スマンスマン」

と、頭を掻いた。


たいした情報を得られないと知り、アキラは謝して帰宅の途につく。

だが、腹の中は煮えくり返っていた。


(僕のライバルともあろう者が、女だと!? 惰弱な!!)


彼は棋院の建物から出るや否や、ギリリと奥歯を噛み締めた。


白68


それは十月九日のことだ。


進藤ヒカルは、葉瀬中の理科室兼囲碁部室で部員の指導に勤しんでいた。

プロ試験で忙しい彼だが、ここに来ればあかりも居るし、気晴らしにもなる。


「進藤・・・」

窓の外から、自分の名が聞こえてきた。

ヒカルが振り向くと、本来ここに居るはずのない人物が立っている。


「塔矢! 何でオマエここに?」

つい、驚いて大きな声を出してしまった。

今更だが、前回の時間の流れでは今日、塔矢アキラが葉瀬中に来る予定はない。

そんなことは知ったことではないアキラは、険悪な目つきでヒカルを見た。

「ちょっと、出てこれないか?」

何の話だろうと、一瞬躊躇して、しかし彼は頷いた。

「いいよ」


ヒカルは、窓の桟に足を掛けて外に出た。一階だとこういう時便利である。

「ちょっと出てくるな」

ヒカルが教室の中に声をかける。あかりは黙って頷いた。

アキラは、眉を顰めてあかりを一瞥すると、踵を返して歩きだした。


彼らが立ち去るのを葉瀬中囲碁部の面々は、教室の奥から見送った。

「・・・相変わらずムダに目つき悪いなアイツ」

ボヤいたのは三谷祐輝だ。

それを聞いた三谷以外の部員全員が(アンタがそれを言うか)と思ったのは言うまでもない。

金子が視線を移すと、不安そうな顔をするあかりが目に入った。手を伸ばして肩をポンと叩く。

「大丈夫よ、藤崎さん」

「うん・・・・・」

あかりはもう一度頷いて、誰もいなくなった窓の方を見た。





 さて、そのヒカルだが、アキラの後について歩きながら少々緊張していた。

(気まずい)

思えば、間近に塔矢アキラを見るのは例の若獅子戦以来である。


当時、前回通りの棋譜にこだわっていたヒカルは初戦敗退。

傍で観戦していたアキラは、怒っているように見えた。

(当然だな)

と思い、ヒカルは空を仰いだ。


アキラは自分との勝負を望んでいる。

しかしヒカルは、プロになるまで彼と打つ気はない。

彼との再戦は、出来ればアキラがヒカルの碁の中に佐為を見つけた一年後の秋の日を望んでいるのだ。


ヒカルが二度目の時間を生きているなどとは思いもよらないアキラは、二回戦での自分との対局を回避するために「逃げた」と考えただろう。

仕方がないとはいえ、そう思われるのはヒカルにとって悔しいことであった。

それで、若獅子戦の後はかなり落ち込んだ彼である。



こだわる自分がバカなのか。どうせ時間の流れが崩れていくなら、打っておけば良かったのではないか。

そもそも、佐為はこの世に生きて、何処かで打っているかもしれないというのに。

それなら、前回の時間の流れも何も関係ないはずなのに。


だが、何故か『それをしてはならない』という気がして仕方がなかったのだ。

せめて、何処かにいる佐為の手がかりが得られれば別なのだが・・・。



 ようやく秋めいてきた日差しの中、ヒカルの前を歩くアキラを生徒達が珍しそうに見ている。学ランの黒い制服の間で、海王中学の白い制服は非常に目立った。


そして校舎の脇にある、例の桜の下まで来たところで、アキラは止まり、ヒカルに向き直った。



「調子が悪いそうだな」

「・・・いーや、絶好調だぜ」

えへん、と、ふんぞり返るヒカルをアキラは睨んだ。


「二敗でか?」

アキラはずばり切り込んできた。

「まだ、二敗じゃん」

本心は知れないが、ニヤニヤしながら、軽く返事を返してくる進藤ヒカルに、アキラは切れそうになるのを必死で押さえた。


「もう、二敗だろう? 大体、君は誰に負けたっていうんだ。大島に福井? どちらも上位陣にも入っていない人達じゃないか。君は何をやってるんだ」

「・・・うるさいなあ、そういうこともあるんだってば。勝負ってそんなもんだろ?」

「僕ならそんな落とし方はしない」

「・・・・・あっそ」


アキラはイラつくのを押さえるため、拳を握り締めた。

「君はプロ試験より気にかかっていることがあって、集中出来ていないと聞いた」

「・・・・・」

「それで、不調だと」

アキラは言いにくそうに言うと、ヒカルから目を逸らした。


流石のヒカルも言葉に詰まった。『プロ試験より気にかかっていること』というのがあかりの一件だと分かったからだ。


(誰が、そんなこと吹き込んだんだろ?)

ヒカルもこの話が院生達の噂になっているのは知っている。

そこで、ふいにあることを思い出した。


「越智がそう言ったのか?」

ヒカルの問いにアキラは驚いた。

「レッスンのこと知ってたのか」

「あ、いや・・・、ちょっと小耳に挟んだんだよ」


前回、越智がプロ試験時にアキラをレッスンプロに招いていた話を、ヒカルは越智自身から聞いていたのだ。

ふうん、とアキラは納得した。

ヒカルの言うとおり、実は昨夜、越智家に赴いたアキラは、ヒカルの「恋煩い」の件をぶつけてみたのだ。


しかし。

『アナタって、何しにここに来てるんですか?!』

と怒鳴られ、

『そんなに気になるなら本人に訊いたらいいでしょ。ボクには関係ないし。そもそも、そんなに親しいわけでもないんだから』

と、言われてしまえば、それ以上訊くことも出来ない。

そのため、彼は直接ここに来るしかなかったのである。

何故学校かといえば、ヒカルは、断固として自宅の住所も電話番号も教えてくれないからだ。



「・・・・・越智君じゃないよ。しかし他所事に気を取られて不調とは、一体君はプロ試験を何だと思っているんだ?」


回りくどい言い方に、ヒカルも腹を括った。

「・・・・・塔矢ってさ、付き合ってる女子とかいねェの?」

返事は返ってこなかった。その代わりイヤな目で鋭く睨まれ、ヒカルは気まずそうに肩をすくめた。


「僕には、そんなことに気を取られている余裕はない。君こそ、よりによって大事なプロ試験の最中にお気楽なことだな」

「いや、それが全然お気楽じゃなかったんだってば」

だが、ヒカルの言葉をアキラは聞いていなかった。


「君が言ったんだぞ。僕が合格したら次の年に君が続くと」


「・・・・・・・・言ったよ」

「合格するんだろうな? 今日はそれを確かめに来たんだ」

「・・・・・するよ」

「絶対だな?」

「ああ」


「本当に絶っ対だな!?」

「ああ!!」

「・・・・・・よし」


(しつけーよ)

ヒカルは心の中で毒づいた。

念押しされなくても、絶対に合格してやる。


今度のプロ試験、ヒカルはこれでも全力でプロ試験に臨んでいる。

門脇が入ったことが原因かどうか不明だが、受験番号も一部変わっているし、棋譜もほとんどの対局で前回と変わっていた。

確かに体調不良やら、‘sai’登場のショックやらで二敗となってはいるが、前回で半目負けした本田にも勝っている。

(もう負けはない)

前回は三敗でギリギリ合格。今回はこのままニ敗で抜けるつもりだ。


現在の上位陣の成績は、全勝ゼロ。一敗は越智のみ。ヒカルと門脇が二敗。和谷、伊角、本田が三敗、次いで足立が六敗、小宮七敗と続く。

十分、合格は望めるポジションだ。


ヒカルは挑戦的にアキラを見た。その時風が吹き、アキラの後ろで若い桜の枝が揺れる。

そこでヒカルは、桜の木の横に広がる、花壇の配置がまた変わっている事に気が付いた。

相変わらずマメな園芸部だなあ、とのんびり考えたことろで、アキラの咳払いが聞こえた。


ヒカルはアキラを見て(無視されまくってた前回とはえれー違いだぜ)と思い、へへへと笑う。

「しかし中学まで来ちゃうとは、オマエって、ホントにオレを気に掛けてるんだな」

だが、それに対してアキラは憮然として答えた。

「バカを言うな。ここに来たのは君が連絡先を教えてくれないからだ」


(それもそうか)

ヒカルは納得した。


「僕はプロとなった君と再戦し、決着をつけたいだけだ。あとは、」

アキラはヒカルを見た。

(‘sai’の正体を見極める)


アキラの表情を見ながらヒカルは問うた。

「あとは?」

アキラは肩を竦めた。

「・・・・・・その結果で君への評価を決めさせてもらうよ」

「何だよそれ。高ピシャすぎだろ!」


アキラはフッと笑い「帰るよ」と言った。

そしてそのまま踵を帰して校門へ歩いていった。


その背中は「ぐずぐずしていないで、さっさとプロに上がって来い」

と言っているようにヒカルには見えた。


(ああ、すぐだ。待ってろ)


ヒカルは負けられない。決して。

一日も早くプロとしてのスタートを切る。

そして、佐為を探すのだ。




黒69


十月二十一日。第二十四戦。

残る対局もあと四戦ともなれば、上位数名を除いて結果は決まっている。

合格ラインから落ちてしまった者達の間では、プロに見切りをつけた者や既に来年を見据えている者など、いっそサバサバした雰囲気になってきていた。

もはや、彼らにとっての興味は「誰が新初段になるか」の一点に尽きた。



 本日の対局前の上位陣の状況は、越智が一敗を守り、ヒカルと門脇が二敗。和谷三敗、伊角四敗。

本田は五敗となり、合格圏から去ったと見られていた。

順当に行けば、合格は越智、ヒカル、門脇。そこに割って入りたい和谷。


そんな中で、今日注目の一戦は門脇対伊角戦。

何故かと言えば、門脇が伊角に負け、和谷が大島に勝てば門脇と和谷が並び、プレーオフの可能性が出てくるからだ。


だが、話はそう簡単ではない。

和谷の次の対局相手は現在上位にいるヒカルであるし、最終戦の相手は彼が苦手とする福井。どちらか一局でも落とせば合格圏内に留まるのは難しい。


そんな状況下、既に四敗の伊角の合格の可能性はかなり低いといえる。

それでも彼の立場から考えると、この対局は決して落とせない一戦だった。

ヒカルの対局は和谷の他に越智が残っている。

ヒカルが連敗し、和谷が福井に負ければ四敗が三人。まだ伊角にもチャンスが全くないわけではないからだ。

人の勝敗でチャンスが左右されるのも試験では良くあること。伊角にとっては最後の望みと言えた。




 午後になり、対局が終わった椿が休憩室に行くと、外来仲間の片桐が椅子に座って窓の外の景色を眺めていた。右手に挟んだ煙草から紫煙が上がっている。

そして椿の顔を見るなり、

「今日はどうでした?」

と声を掛けて来た。

「おう、勝ったぜ。アンタは?」

「勝ち」

「そりゃ良かった」

椿は笑って見せたが、片桐は肩を竦めた。

「ま、勝っても合格出来るわけもなし」

「だからって負けるのはゴメンだぜ」

「そりゃそうだ」

そこで、椿も煙草を取り出して口にくわえた。片桐がライターを差し出す。

「門脇はまだやってますか」

「ああ」

椿は火を点けると煙を思いっきり吸い込み、同じだけはき出した。

二人の煙草の煙が室内にゆっくり広がっていく。


外来組として、帰りに飲みにも行ったこともある三人だったが、運命は合否でその立場を分けさせることになった。

「門脇、受かりますかね」

「たぶんな。だが、アンタが最終戦でヤツに勝てば状況が変わるかも知れん」

片桐は暫く黙していた。

「・・・・・・どうだろう。打ってみなければ分からない」

「気弱だな。合格がないと思って気が抜けたか」

「そういう訳じゃない」

そう言うと片桐は視線を逸らす。

勝って自分に何が残るだろう。結果を明日に繋げる? だが、それはどんな明日なのか。



まるで片桐の心を読んだかのように、椿は続けて訊いて来た。

「で、アンタは来年どうする気だ? オレは今年でタイムリミットだが、アンタはまだ何年か受けられる

んだろ?」

「・・・・・まだ決めてない。」

片桐は再び窓の外を眺めた。葉が落ち始めた木々に夕日が当たって一部オレンジ色に光って見える。

プロ試験が始まった時は夏の盛り。そして今は・・・。

様変わりした外の風景と自分達の境遇を思うと寂しさも募るばかりだ。これが後も数年続くのか。それで受かればいいが、結局ダメだったら。

椿は無表情なままの片桐を見て、煙草を灰皿に押し付けた。

「おい。明日の対局が終わったら、一杯行くか?」

「・・・・・バイクは?」

「飲むと決まってるなら置いてくるさ」

片桐は頷いた。

「了解」

不合格同士、飲んで語りたいこともあるのだ。






 そして対局場。

「ありがとうございました」

の声とともに、和谷と大島は頭を下げた。

無事に勝ちを収めた和谷は伊角の方を見た。

まだ対局が終わっていないのを確認すると、淡々と石を仕舞い、勝敗表に記録を付けるためにすぐに席を立つ。付け終わると和谷はそのまま伊角の方へ向かった。

他の対局はほぼ終わっている。彼らの周りは観戦者で一杯だった。

しかし伊角と門脇の表情を見る限り、観戦者のことなど全く注意を払っていないことは明らかであった。

和谷は伊角に近い場所に、少々強引に割り込んで座った。

少し押すことになった者に軽く頭を下げると、それは進藤ヒカルだった。ヒカルも小さく頷く。


 この対局で門脇が負けて三敗になってくれなければ、和谷の合格の可能性は恐らくない。

だからどうしても、伊角に勝ってもらいたいのはもちろんだが、それとは別の気持ちもあった。

院生の中で一番仲が良いということもあるし、兄のように慕っているということもある。

そして、伊角が院生でいられるのも今年が最後だということも忘れていない。

合格に一番近いと言われ続けてもう何年経っているだろう。

(でも、ゴメン伊角さん、やっぱりオレがプロになりたい)

(合格したい)

(頼むから勝ってくれ)

和谷は複雑な気持ちを抱いたまま、盤に目をやった。




 そして、ヒカルもまた。

(この前の日曜日、伊角さんは本田さんに負けた)

ヒカルは気掛かりそうに伊角を見つめる。

あれで、伊角の合格は極めて難しくなってしまった。


前回は、対ヒカル戦でのハガシの一件のせいで、伊角はプロ試験半ばで調子を崩し、合格出来なかった。

今回は、そのハガシもなく、上手くやってくるだろうと思っていたのに。

何故か、伊角はヒカル戦のあと、前回と同じように和谷と福井に敗れていた。

(和谷はともかく何でフクに?)

そう思うと、ヒカルは息苦しくなるような気がしたものだ。

ハガシの件が無くても、やはり三連敗する運命だったということだ。

これだけ歴史にズレが出てきても、変わらないこともある。

それで三敗。「もう負ける訳にいかない」と、その後そう言っていたのに、やっぱり歴史通り、本田にも負けてしまった。

(でも、この対局で伊角さんが勝たないと、和谷が合格出来ない)

それは絶対に困るヒカルだ。

門脇参戦で、前回と違った様相を呈してきた今年のプロ試験だが、それでも合格者だけは変わって欲しくない。

前回の合格者は越智、ヒカル、和谷。

佐為がどうのという問題ではない。


(和谷が落ちたら、オレのせいだ)


そう思わずにはいられない。時間を遡り、以前の経験を持っている自分が居なければ、こんな展開にはなっていないはずだ、と。

その考えは殆ど恐怖に近い。

しかし、和谷が合格するためには、ヒカルが和谷に負けなければならない。

そして前回通りの合格者を再現するためには、目の前の対局で門脇が負けた上で、ヒカル、和谷、門脇の三敗同士でプレーオフをするのだ。そしてヒカルと和谷が勝ち抜ける。これしか手は残されていない・・・と思う。


(・・・・・でもそんなことって出来るのか?)




 目の前の対局は、黒が伊角で白が門脇。

この日、ヒカルの対局は早めに終わったため、観戦を始めたのも早かった。

その時から、この碁は細かかった。ヨセ勝負だが、まだどちらが勝つのか分からない。

中央が決め手だが、ダメ場だったと見た。ダメ場なら目算が難しいし、手を出しにくい。そうかと思っているとあっと言う間に地が出来ていたりする。門脇は随分がんばったようだ。



一進一退。観戦者も息を呑んで見守っていたが、遂に決着がついた。二目半差。


「・・・・・ありがとうございました」

「ありがとうございました」

観戦者が一斉に溜息をつく。同時にざわざわと小声で話し出した。


だが対局者の二人は暫し無言だった。

やがて門脇が碁盤の一点を指差した。

「・・・・・ここでノゾキを打たなかったのが痛かった」

伊角もそれを受けて左辺の一点を指差した。

「打たれた手はちょっと弱かったですよね。おかげでオレはここで得をしました」

「あと、ここで切っておけば良かったのかな」

「・・・そこは判断が難しいですね」

「・・・・・・・じゃあこっちは?」

などと二人は暫く検討を続けていたが、暫くして門脇がおもむろに腕を上げて伸びをした。

そして伊角に言った。

「も、いいから、伊角は勝敗表付けてきちゃえよ」

「は、はい」

伊角はそれを聞いて、立ち上がった。

門脇は、周りの観戦者に言う。

「・・・・・これ、片付けていいか?」

手前にいた院生の一人の「やっときます」の声に「よろしく」と小声でいうと、門脇も立ち上がった。その時、彼はヒカルの方を見た。

「・・・・・・」

何か言おうとしたらしい。だが、思い返したように、そのまま彼は部屋を出て行った。

(門脇さん・・・)

門脇を見送り、後ろを振り返ると、和谷が俯いて拳を握り締めていた。ガッツポーズである。

「よし!」

和谷は顔を上げるとヒカルに向かってニッと不敵に笑って見せた。

「負けねェぞ、進藤」

だが、ヒカルにはとても返事をする余裕はなかった。

和谷に勝てば合格者のメンバーが変わる。しかしプロ試験でワザと負けて、プレーオフで勝つなど、流石のヒカルもそこまでの博打は打てない。そこまでプロ試験をなめていない。

彼も必死なのは同じなのだ。


だが、和谷は屈託なかった。伊角が帰ってくると「サンキュー伊角さん!感謝感謝!!」

などと言っている。「別にオマエのために勝ったんじゃない」と言い返しながら、伊角も嬉しそうだ。

そのまま残った者達で再び検討が始まる。居たたまれなくなったヒカルは一人立ち上がり、部屋を出た。

そして荷物を持ち、帰ろうと玄関を出たところで、門脇を見つけた。



「やあ、進藤君」

門脇もヒカルに気付いて機嫌よく声をかけてきたが、心中穏やかであるはずがなかった。

「門脇さん・・・」

「参っちゃったよなあ。今日が勝ち抜けのキモだと思ってたのに、伊角にやられちまったよ」

「・・・難しい碁でしたね」

「・・・・・まあね」


二人は連れ立ってバス停の方へ歩き出した。

「君は合格するんだろうな」

「・・・・・はい」

ヒカルは、門脇の顔を見上げて言った。


合格者は三人。これは変わらない。そしてメンバーは変わっても、その中には必ず自分が居る。

それだけは絶対に譲れない。


佐為に再会する日のために。

塔矢アキラと勝負するために。

プロの世界で高みを目指すために。


誰が何と言おうと勝ち抜ける。


ヒカルの目の強さを見て、門脇は苦笑した。

「こんなに小っさくても勝負師の顔してんだもんなあ」

「・・・・・」

(そりゃそーだよ。ホントはもうプロだもん)

というヒカルの心の声は、門脇には届くことはないのだが。


門脇は続けて話し出した。

「前に棋院で打ってもらった後、本当言うとオレは今年受けるかどうかすごく迷ったんだ」


そして彼は、ヒカルと打って自分の自信が揺らいだこと、一年鍛え直して来年チャレンジしようか、申込み最終日まで悩んだこと、などを口にした。

「・・・・・」

(でも、結局門脇さんは今年受験することを選んだ。佐為と打った前回は来年にしたのに・・・・・オレじゃ力不足だったんだ)

ヒカルはほろ苦い気分でそれを聞いていた。



そこで二人はバス停に着いた。時刻表を見ると、バスが来るまで、あと数分待たなければならないようだ。


「それでも、今年受けることにしたのは、君とまた打ってみたかったからさ」

「え?」

「たとえ今年受からなくても、君と打てるならそれでいいと思うことにした。もう会社も辞めちゃってたしな。君と打って、久しぶりにワクワクしたっていうか。笑うか?」

ヒカルは目を丸くして首を振った。

「ううん」

「あれで、久しぶりに真剣勝負の昂揚感を思い出したよ。それでオレにとってプロ試験のレベルの基準は君になった。だから今年受けたんだ。きっと来年じゃ君はいないからな」


何を言い出すんだろう、この男は。ヒカルは肩を落とした。

「も―――っ!! 勘弁してよ門脇さん。それなら別にプロ試験じゃなくたって、いつだって打ったのに」

と、つい言ってしまった。

「ダメダメ。真剣勝負じゃなきゃ。」

門脇は笑って答える。

「プロになってからだって、打てるのに」

「そんな話は合格してからだ」

ヒカルは言葉につまった。この時点でこの話は少々痛い。


「・・・・・また君と打って、面白かったがやっぱり負けてしまったしな。あと越智君にもな」

「・・・・・」

「今日で三敗か。ギリギリだ」

「・・・・・はい」

門脇はそこでニヤッと笑った。

「君も上位組との対局が残ってる。まだ結果は分からないよ。オレだって合格するつもりなんだからな」

「はい」



 ヒカルは小さく溜息をついた。

和谷と越智。どちらも楽に勝てるとは言えない相手だ。わざを負けるなど、それこそ奢り、いや囲碁に対する冒涜だ。佐為はきっと怒るに違いない。

ヒカルは再び門脇の顔を見た。


もしかすると来年、新入段者免状授与を一緒に受けるのはこの男かもしれない、と思う。

それなら、それで仕方がない。

運を囲碁の神様に任せることにヒカルは決めた。




白70


(イライラする)


 越智康介は勝敗表に結果を書き込みながら、口元を歪めた。

今日も勝ったものの、気持ちは晴れなかった。

後ろを振り返ると、対局中の進藤ヒカルが目に入る。

対局相手の表情からいって、彼の勝ちは間違いなさそうだ。

それはそうだろう。元々進藤ヒカルは合格最有力と言われた男だ。

アクシデントで二敗したとて、調子が戻ればそう易々とは崩れまい。

そんなことは分かっている。分かっているのだが。


進藤を見ると反射的に思い出してしまうのだ。



『今日の進藤は?』


と、レッスンの度、当然のように尋ねてくる塔矢アキラの顔を。


一体彼は何しに家に来ているのだろう。レッスンのため?


(いいや、違うね)

ライバル情報が欲しくて来ているのだ。しかも料金を払っているのは祖父の方だ。

それである日、とうとう怒りを爆発させてしまった。

塔矢アキラは、おかしい程自分の剣幕に目を丸くしていた。


もう、いい加減にしろと言って何が悪い。

それで流石にまずいと気付いたのか、その後進藤ヒカルのことを訊いて来る事はなくなった。


ところが、それはそれで不気味で落ち着かない。

レッスンを受けている最中も一手打つごと、『そんな手で進藤に勝てると思っているのか!』

と、思われているような気がしてならないのだ。


何のためのレッスンか。却って迷いが増えるばかりだ。祖父に言って塔矢のレッスンをやめようか。

そう何度思ったか知れない。

だが、塔矢アキラは、進藤戦攻略に関して絶対的な自信があるらしい。

指摘してくることも的確だし、利用出来るものは利用するべきだと思う。

(だから我慢してやっているんだ)


自分が進藤ヒカルに勝てないとは思わないが、ここに来て、合否を別にしても進藤に負けるのは絶対にゴメンだった。


要するに彼は悔しかったのだ。同年代のカリスマである塔矢アキラが自分を通して進藤しか見ていないことに。

何はともあれ、進藤に勝つ。

勝たなければ何を語っても塔矢アキラは耳を貸さないだろう。

その上で、自分の存在を見せつけるのだ。プロになって自分をライバルと認めさせてやる。


そうして、もの思いにふけっていると

「おーい、記録付けたいんだけど?」

と、後ろから声がした。振り向くと和谷と門脇が後ろに居た。どちらも勝ったらしい。

越智は肩を竦めて場を譲った。

「どうぞ」




 越智は部屋を出ると、携帯メールで祖父に今日の結果を送った。

それが済み、顔を上げると丁度和谷も部屋から出てきたところだった。


「和谷は落ち着いてるんだね。次に進藤に負ければ一巻の終わりなのに」

「ここまで来たらジタバタしたって仕方がねェよ。そういうオマエこそ余裕そうだな」

「そんなことはないよ。最終戦は進藤が相手だからね。真剣勝負さ」

そう言うと越智はポケットに携帯を仕舞った。

「・・・へえ、そんなもんか」

そこで越智の脳裡に再び塔矢アキラの顔が浮かんだ。


右の拳を握り締める。

「・・・ボクは進藤の強さを確かめたいんだ」

「・・・確かめたいって、院生手合いで打って、オマエ知ってるじゃねェか」


越智はジロリと和谷を見た。


「キミは進藤と仲がいいけど、進藤の本当の強さを知ってると思うかい?」

「・・・どういう意味だよ?」

和谷はあきれて越智を見た。

何を今更だ。師匠の研究会でもプライベートでも進藤ヒカルとは数え切れない程打っている。


「君は知っていた? あの塔矢アキラが進藤に一度も勝ったことがないって」

「・・・・・」

それは初耳だ。和谷は言葉に詰まった。

越智は効果に満足したように、皮肉な表情で和谷を見た。


「・・・和谷と進藤の一戦楽しみにしてるよ。がんばって」

その越智の口調にムカついた和谷は、越智に背を向け、舌打ちして休憩室に入っていった。




「ふーん、そうか。進藤君は塔矢アキラに負けたことがないんだ。流石だ」

「うわっ!」

後ろから声がして、驚いて和谷は振り向いた。そこに門脇が立っている。

「まだ居たんですか!?」

「ずっと居たよ。酷いな」


「・・・・」

門脇は、今まさに合格を争っている人物だ。和谷は首をすくめるように頭を下げて、そそくさと帰ろうとした。

しかし。

「進藤君って和谷君と同門ってわけじゃないんだってな」

後ろから声が追いかけてきて、人のいい和谷はつい振り返ってしまった。


「違います。進藤が習っていた囲碁教室の講師が、オレの師匠の森下九段門下の白川七段で、白川先生が研究会に連れてきたんですよ。それが一昨年の一月位かな」

「ふーん」

門脇は受けて、顎に手をやった。それで話は終わったと思い、再び和谷が背を向けたところで「じゃ、もしかして最初は塔矢名人のところで習ったのかな」

という門脇の呟きが聞こえてきた。で、面倒くさかったが、もう一度和谷は振り返った。

よりによって塔矢門下だと。有りえない。


「そんなワケないっス。アイツが塔矢アキラに会ったのって白川先生の教室に行くようになる少し前だし、プロに習ったのも白川先生が初めてだって」

そこで和谷は少し声のトーンを落とした。

「・・・・・進藤はそう言ってます」

「その前は?」

「一人で、本で覚えたって。あとアイツの爺さんが打てるんで」

(と、言ってもあの爺さんに習って、塔矢アキラと勝負になるわけないけどな)


門脇は視線を斜め上に流して、尚考え込んでいた。

「受験の申し込みをした日、オレ一回、進藤君に打ってもらったんだ」

「・・・・」

それが? と思い、和谷は首を傾けた。


「その時、帰り際に碁を始めて何年かって、訊いたんだ」

和谷はハッとした。

「何年って言ってました!? 」


「のべで五年だってさ。のべっていう位だから、一回やめてたんだろうな」


「・・・・・のべで五年・・・」



「だから、元はそれなりの師匠についていたのかなって思ってさ。塔矢アキラと因縁があるみたいだから、名人か塔矢門下のプロに習ってたのかと思っただけさ。どうも、本人はこの手の話はしないらしいから、君なら知ってるのかと思ったんだ。悪かったな」

「・・・・・・い、いえ」

悪かったどころではない。情報をもらったのはむしろ和谷の方だった。


のべで五年ということは、一番遅くても小学三年生の時には始めていた事になる。中断していたなら、もっと前だ。

(あの野郎・・・・・)

何で嘘をついてまで隠したいのかサッパリ分からない。

とっちめてやりたい気分満々だったが、どうせ、『その頃から本で勉強を始めたんだ』位のことを言って切り抜けるんだろう。


ヒカルにしてみれば、一五歳まで行ったところで十二歳に時間が戻っているので、のべで五年と、バカ正直に答えただけだ。

どうせ分かるまい、と思ったのだが、まさに口は災いの元である。

これで、またいらぬ誤解を受けてしまった。




「アイツの師匠って気になりますか?」

「そりゃ、なるだろ。傾向と対策ってヤツだ」


和谷はチロリと門脇を見た。

傾向と言っても、既に門脇はヒカルに敗れている。

彼はプレーオフにヒカルが入ることも考慮に入れているのだろうか。

それはつまり、次回、自分が進藤ヒカルに勝つ可能性があると門脇は踏んでいるということだ。


「オレ絶対進藤に勝ちますから」

和谷はキッパリ言い切った。







 その夜、和谷は自宅のパソコンに向かってネット碁を楽しんでいた。

もちろんエントリーしているのは、(例外を除けば)アマチュアだが、気楽に打てるので気分転換になる。

普段はそれなりのレベルで登録している者と対局するのだが、今日はそれも気にせず、適当に対局相手を選んだ。今、対局を終えた相手は‘light’という。


チャットで、「ヘボデスミマセン」とあやまってきた。

相手はそう言うが、初心者なりに筋の良い碁だった。恐らく講師について習っているのだろう。

短く励ましの返事を返し、エントリー表に画面を戻したところで、目を疑った。

「‘sai’だと!?」


画面上に、昨年夏にネット碁界で名を馳せた不敗棋士の名があがっていた。しかも対局中だ。

「また戻ってきたのか? か、観戦だ。観戦!!」


あわてて画面操作を行い、観戦モードで画面を開く。


「・・・・・」

「・・・・・」

「・・・・?」


和谷はひと息ついて、叫んだ。

「ばっきゃろおおおっ!! 誰がsaiだよこのヘボ野郎!! 伝説の棋士の名を騙ってんじゃねェ!!」

直後、隣の部屋から「義高っ!! 近所迷惑だろ。静かにしな!!」という母親の声が飛んできた。


「くそっ、今日はオシマイだ。寝よ」


それで、和谷はパソコンを落として、照明も落とし、布団に入った。



(saiか。もう出てこないのか?)

saiといえば、進藤ヒカルは随分こだわっていた。

韓国のphyとsaiの棋譜を見せた時のうろたえぶりは、今でもはっきり覚えている。

関係があるのかどうかは不明だが、その直後の対局を進藤は落とした。



(アイツ、saiと関係でもあるのかな・・・)


確かにどちらも秀策の影響が強い。

もしかすると、進藤ヒカルの秘密の師匠はsaiなのだろうか。


昨年、‘sai’が現われた頃、そのことをヒカルに尋ねたことがある。

その時は即座に否定していたが、表に出てこないネット棋士が師匠だったら、成程、人には言えないのかも知れない。


(・・・バカくせえ。ネット棋士だからって人に隠さなきゃならないワケなんかあるかよ)


進藤ヒカル。

あけっぴろげなようで、時々孤独そうな目をする。秘密が多い。謎めいている。


越智の言葉が甦る。

『あの塔矢アキラが進藤に一度も勝ったことがないって』


進藤ヒカルと塔矢アキラがお互いライバル視しあっている、というのはもはや有名な話だ。

しかし、ヒカルはその辺りの詳しい話をほとんどしなかったので、これまでどの位打ったのかはもちろん、どの程度親しいのかも和谷はよく知らない。






昨年のプロ試験で、一度だけ塔矢アキラと打った。

初戦のサボりでムカついていた和谷は意気込んで向かっていったが、全く歯がたたなかった。

その塔矢アキラに進藤ヒカルは負けたことがないという・・・。



不安が序々に胸に広がっていくような気がして、和谷は拳を握り締めた。

「・・・・・」


落ち着かなければ、と思う。今年の自分は去年の自分とは違うはずだ。

(オレはずっと進藤と打ってきた。ヤツの碁は他の受験者の誰よりも知ってるはずじゃないか)



和谷は寝返りを打って、目を閉じた。




黒71


いよいよ和谷戦を明日を控え、進藤ヒカルは学校からの帰り道を藤崎あかりと歩いていた。

『好きだ!』宣言をしたとはいえ、特に進展があったわけでもなく(それどころでもなく)、しかし付き合っているからには登下校は一緒にするべきだというヒカルの主張により、二人は並んで学校から帰っているのである。


「あと二戦なんだから、今日くらい学校お休みしたら良かったのに」

と、あかりがヒカルを気遣う。しかしヒカルは手を振った。

「別に平気さ。オレは毎日対局日だってかまわないくらい絶好調だぜ。学校は気晴らし。オマエも居るし」

それを聞いて、あかりが照れたように笑み崩れる。ヒカルもつられて笑った。



学校は気晴らしというのはヒカルの本音だ。

義務教育だから仕方なく通っている位の気持ちで、本当ならずっと碁に集中したいと思っているのだ。

しかし、ここがヒカルの泣き所で、相変わらず進藤家は囲碁に縁遠い家であった。

息子の希望は叶えてやりたいという親心から、院生もプロ試験も認めてもらっているが、それ以外の理由で学校を休ませてもらうなどの配慮は望めそうにない。

そもそも親達はこのプロ試験も受かるとは思っていないようなのだ。


そんな状態なので、合格後のことも家では全て白紙である。

親の立場としては高校受験を考えて「試験日や特別の対局日以外の休みは認めない」と、院生になった最初に言い渡されている。

ヒカルにしても、この辺のところは前回も似たような状況だったので諦めざるを得ない。

合格したら、前回通り中学を卒業して碁に集中するつもりだ。


「早く合格決めないとな」

ヒカルはつぶやくように言った。

「そうだよ。そしたら囲碁部でお祝いするからね」

それを聞いてヒカルは「えっ」と声を上げた。

ヒカルは少なからず感動してしまった。

プロになって囲碁部に出入り禁止となった前回となんという違いか。

「本当かよ!」

あかりが嬉しそうに頷く。

「どういうお祝い会がいい?」

もう試験が終わったような話し振りにヒカルは苦笑した。

「勝負は終わってみなきゃ分からねェんだぞ」


あかりは立ち止まり、ヒカルの顔を覗き込んだ。

「ヒカルは明日も勝つよ。私は知ってる」

あかりが妙に確信をこめて言うのを聞いてヒカルは飛び上がった。

「何だよそれ! まさかオマエまで未来が見えるようになったのか?」

あかりは不審そうな顔をした。

「・・・オマエまで?」

「あ――、いや。何でもねェ。ははは」

ヒカルは笑って誤魔化した。


「女の子のカンは当たるんだから。ヒカルは合格するよ」

「・・・あー、うん。そうだな」

「でも、だからって油断しちゃ駄目だよ」

と、あかりは念を押してきた。

「おう」と短く返事したヒカルにあかりは満足したように微笑んだ。






 そして、十月二十四日。第二十六戦当日。


試験開始時間となり、ヒカルが対局場に入ると、既に和谷は着席していた。

そして前回と全く同じセリフでヒカルを迎えたのだった。

「よぉ、進藤。早くやろうぜ!」

「・・・・・」

正念場の一局を前に、あえて笑みを浮かべた和谷に対してヒカルはすぐに返事が出来なかった。

何と言えば分からなくなり、暫く立ったまま和谷の顔を見つめていたが、やがて「ああ」と、やはり同じ言葉で返したのだった。


ヒカルが和谷の前に座ると、すぐに開始となった。部屋中から対局時計を押す音と石を置く音が聞こえてくる。

ヒカルと和谷も、

「お願いします」

の挨拶の声を合図に対局を始めた。


対局時計が動き出すと先番のヒカルは、静かに黒石を17の四に置く。

前回での対和谷戦の初手は星。

ヒカルに、この対局で前回の棋譜を再現する気はなかった。

それが崖っぷちからの挑戦者に対する礼儀だと思う。

(そうだろ、佐為)

ヒカルは心の中で彼の師匠に呼びかけた。


佐為が何処かにいるとして、前回と違うこの状況をどう見ているだろう。

あの囲碁オバケは、いちいちリアクションが大きい割には現実主義者だったので、恐らく冷静に観察しているに違いない。

碁に関しては常に本気で勝負しないと後で何を言われるか分からない。

『ヒカルが手加減するなんて、千年早いんですよ』

などと、いかにも言いそうではないか。


打ち始めて、和谷から発せられるプレッシャーに皮膚がチリチリする。

同じ真剣勝負でも高段者と打つ時とは、微妙に違う感覚なのが興味深い。


対局が進み、手付かずだった中央に黒が向かう。だがそこは白がうまく打ちまわして、中央に白地を増やす。

それに大して黒はどうも歯切れが悪い。その後黒はは左辺から上辺へ。



和谷は手ごたえを感じながら、石を置いていく。

(オレは負けねェ!)

パシリと小気味のいい音が響いた。


ヒカルはその石を見て微かに眉をひそめた。

(・・・・・ツケコシか)

瞬時しまったと思った。この切りは直前に回避出来たはずだった。これはよくよく考えて備えないと、黒の形が崩れる。何とかしないと・・・。


ヒカルはトレードマークとなりつつある大ぶりの扇子の先を顎につけて、盤を睨む。ヒカルには珍しく長考となった。

やがてヒカルは半開きになっていた扇子をパシリと音をたてて閉じると、おもむろに黒石を取り上げ、中央に置いた。

(・・・・・?)

それは和谷には疑問手だったらしい。今度は和谷が手を止めた。

(どういうつもりだ進藤。そんなところに置いたら、取られるだけだろ?)

(それとも何かあるのか・・・?)

当然ながら、答えが返ってくるわけもない。和谷はヒカルの様子を伺った。

ヒカルは無表情で盤を見つめている。

(いいさ、遠慮なく抜かせてもらうぜ)

そして数手が進んで、今度は和谷の手が止まった。

(まずい。さっきの手はその後の切りを見てたのか。やっぱりコイツ仕掛けてやがった)

そして、数手進んだところで、とうとう先ほどのツケコシを抜かれてしまった。

(・・・・ちっ)

白優勢のようで、実はそれほど差があるわけではない。一手読み間違えればそれで終わりだ。

(・・・だが、まだ白の方がいいはずだ。この後ヨセで間違えなければ)


和谷の脳裡に師匠の森下九段の声が響く。

『和谷、おまえには素質がある。必ずプロになれる』

(・・・・・)

『おまえは受かる』

(師匠・・・)

『和谷、プロへ来い!』


和谷は膝の上で拳を握り締めた。

視線を上げると俯いて盤面を見つめたまま微動だにしないヒカルの金色の前髪が見える。

また、頭の中に別の声が聞こえてくる。



『和谷くん、プロになったらお祝いに奢ってね。』

そう言って微笑んだ女の子。師匠の娘、茂子だ。

(何でオレが奢るんだ?)と頭にクエスチョンマークが浮かんだ。

『森下門下の伝統だから。冴木さんだって奢ってくれたもん』

『・・・・・』

(それって、伝統といってもオレが二人目か?)と和谷は心の中でツッコミを入れた。

森下門下で一番最近入段したのは冴木だったからだ。

和谷の顔に小さい笑みが浮かぶ。


(いいよ。それで合格できるなら、いくらでも奢るよ。茂子ちゃん。)






さらに時が経ち、ヒカルが息をつくと、そろそろ周囲に対局を終えた受験者達が集まってきていた。

奈瀬と飯島が目を見交わしているのが見えた。

(白が厚くて地もある。やるわね和谷)

(行け和谷、進藤に一泡吹かせてやれ!)

などと、聞こえもしない声が聞こえる気がする。

(そうは行くか)

と、ヒカルは思う。

(オレは最強初段と呼ばれた男だぜ!!)


対局は続く。

白優勢かと思われたヨセ勝負だったが、

(だが、そうでもない・・・)

(白勝ちの図が見えてこない)

伊角と本田が顔を見合わせた。


そしてその後情勢が一方に傾いてくる。

それが分かってきたのが和谷が左上に石を置いた時だ。

置いた後、和谷が一瞬苦い顔をした。

ヒカルがチラと和谷の方を見る。

(その手じゃ弱い)

ついで黒は下辺から連絡、中央に広がる白地を狙う。


その後、白は右辺の黒地に向かった。

(・・・・・どうするかな)

その石を見て、ヒカルは扇子で数度パタパタ扇いだ。冷房は効いているはずだが、妙に暑い。回りの人口密度が上がったせいかもしれない。

この白石を押さえたい気もするが、そうなると白は右上にハネてくるだろう。それは避けたい。

ここはぐっと我慢で左辺に回る。しかし、結局先程のところにハネられた。しかもその後のツギで気が抜けない。


しかし、ヒカルは落ち着いていた。

上辺にも手を入れて黒地を広げていく。

(勝負あったな)

ヒカルは和谷をそっと見た。

(ごめん、和谷)


その後は主に左下から右辺へかけて石が置かれていったが、結局勝敗に影響するような手が打たれること

はなかった。



「負けました」

遂に和谷は観念して頭を下げた。

一瞬ワッと歓声があがり、二人の挨拶の声をかき消した。しかし残った対局者を憚って、後は小声で観戦者から感想が述べられる。


「終わってみれば、するする黒が勝ったというか」

「白がいいと思ったんだけどなあ」

「いや、これは黒が良かったんだって。どうヨセても白は追いつかない」

「でもどちらも悪い手はなかったよ」

「左上スミは他に手あったんじゃない?」

「ここの黒に対してサガリは?」

「・・・オレはこっちで小ゲイマにスべるのががいいと思う。」

「ちょっと、並べてみていい?」


碁盤に指を指して聞いてくる他の受験者に対し、黙り込んだヒカルと和谷は答えなかった。

青い顔をした和谷がのろのろと立ち上がる。


「・・・和谷」

ヒカルが小さく声をかけた。その緊張した声を聞き、瞬時に全員黙った。

「おめでとう、進藤」

和谷はそれだけ言うと、肩を落として、ゆっくりと部屋の外へ向かっていった。

和谷の姿が見えなくなるまで、その場に居た全員、黙って見送るしかなかった・・・・。





白72


そして最終日。


 (こんなハズじゃなかった)

先番の越智康介は、苦しそうな表情で盤上の石を見つめた。


この碁はほぼ黒有利で進み、あとは中央をしのげば勝ちは自分のものだったのに。

進藤ヒカルが打った右上の切り。これが全てだったと思う。その後ことごとく先手をとられて、上辺の黒は形が崩れた。



越智が顔を上げると、対局相手の進藤ヒカルは、無表情のまま碁盤を見つめている。

顎に当てている扇子がカンに触った。



対局前に交わした会話が越智の脳裡をよぎる。

越智が研修センターに着き、玄関を上がったところで、奥から出てきたヒカルとかち合ったのだ。



「越智」

彼は呼びかけてきたヒカルを睨んだ。

「進藤。今日は負けないよ」


挑戦的に言ったつもりだった。だが、

「うん。オレも負けない」

と、気負いなく返され、瞬間カっとなった。


「ボクは毎晩、キミを倒すために塔矢と打ってきた」

ヒカルは、それを聞いて困ったような薄笑いを浮かべた。

「・・・・・・あ、うん。そうなんだってな」


ライバルに鍛えて貰っていると言えば、少しは驚くだろう思ったのに期待がはずれた。

「・・・・知ってたのか!?」

「・・・・・うん、まあ」

「塔矢が言ったのか」

「そうじゃねェけど、まあ、いいじゃん」

(何だよ、二人とも連絡を取り合ってるのか)


ますますイラついてきた越智は、何か言ってやり込めなければ気がすまなくなってきた。


「キミは塔矢アキラに負けたことがないそうだけど、キミ達が打ったのってもう随分前だろ。もし今でもキミの方が強いと思っているなら、それは大きな間違いだからな」

「・・・・・」

「塔矢アキラはプロになってから、まだ一度も負けたことがないんだ。悔しいけどクラスが違う。今でもライバルだと思っているなら、考えが甘いよ」

「・・・・・・」

ヒカルは更に気まずそうな顔で越智を見つめている。

思ったような反応が返ってこないので、越智は更に言い募った。


「で、でも塔矢はボクの力を評価してくれてる。君に勝てば、ボクのことをライバルだって認めてくれるってさ」


ヒカルは、それを聞いて少し眉を顰め、静かに訊いた。

「オレに勝てば?」

「そうさ!」

越智はハッとした。進藤ヒカルはうろたえない。

それどころか、その顔には不敵な笑みが浮かんできていた。

自分に負けることなど、夢にも思っていない。そう言いたげに。



「進藤・・・」

ヒカルは越智を見据えて言った。

「そうだな。確かにオレに勝てば、ライバルと認めてくれるかもしれないぜ」

「・・・・・・」

「オマエはもう、合格を決めている。オマエ相手ならオレも何も気にせず戦える」

「・・・何を言ってるんだ。何を気にするって?」


その問いにヒカルは答えなかった。ただ一言、

「お互い、がんばろうぜ」

と言い、対局場に向かって歩いていった。

その後姿を見送りながら、越智は手が汗に濡れていることに気付いたのだった。






そして、今も手に汗を握っている。

(駄目だ。もう手がない)

越智はギリっと歯を噛み締めた。

悔しい。

進藤ヒカルには合格と関係なく、絶対に勝ちたかったのに。

プロ試験中、彼を指導してきた塔矢アキラに自分の力を認めさせるために。


最後のレッスンの日、彼は彼の勝利を危ぶむ塔矢アキラに一つ約束をさせた。

「ボクが勝ったら塔矢名人の研究会に通わせてもらいたい」と。

塔矢アキラは快諾した。


だが、それももう叶うまい。





「・・・・・ありません」

越智は小さく声をしぼりだした。

「ありがとうございました」

ヒカルも頭を下げる。

そして再び顔を上げた時、越智の顔を見た。


そして、彼の悔しさに歪んだ顔を見て

(この様子じゃ、トイレ直行だな)

と、思った。


『越智のトイレ行き』

というのは、一部の院生の間で知られた話だ。

院生手合いでまれに越智が負けると、彼はすぐさまトイレに行き、その後トイレからは「トントントントントントン・・・」という、謎の連打音が響き渡るというのだ。

その怨念めいた音に、本来の用事でトイレにやってきた者は、恐れをなして回れ右をしてしまうという・・・。


(でもその後、越智は絶対強くなるんだよな)

ヒカルは石を片付けながらそう思った。






「・・・棋譜並べって言った」

「へっ?」

突然越智からつぶやくように発せられた言葉にヒカルは顔をあげた。。


「塔矢さ。君と打つ時、君は棋譜並べをしているような打ち方をすると言っていた」

「・・・・・・」

「でも、今日打って、そんなことないって分かった。アイツ何言ってたんだろ。バカみたいだ。」

それだけ言うと越智は黙った。

「・・・・・」



お気づきの通り、このセリフは少なからずヒカルに衝撃をあたえた。

(バレてたのか)

時を遡り、時間の流れをやり直すため、塔矢名人の経営する碁会所に出かけていって塔矢アキラと打ったあの二局。

当時のことを思い出しながら、佐為の碁を再現した。

ヒカルにとっては打ち碁を並べただけなので「棋譜並べのようだ」と言われればその通り。

必死で打っていたアキラにはその様子が不審だったのだろう。

ヒカルの演技力不足というわけだ。



今日、越智の初手は前回と同じ黒17の十六。

最近は前回の碁に拘わっていないとはいえ、今でも同じ石を見ると前回の棋譜を思わなくもない。

もし今日、前回の碁を再現していたら、アキラの疑いを決定づけるところだった。

もっとも、今朝の越智とのやりとりで、棋譜の再現をする気は全くなくなっていたのだが・・・。

(危っぶねェ・・・)



碁笥を碁盤の上に置くと、越智は立ち上がった。しかしそのまま動かない。

「おい、アレ」

と小声で言い、記録表のある机の方を指差した。

「え・・・」

(片桐さん)

驚いたヒカルが視線を出口の方に向けると、門脇がそこを出て行くところだった。

記録を付けるのは勝者だ。


(それじゃあ、結果はまだわからねェ!)


ヒカルは後ろを振り返る。

和谷と目が合った。和谷は信じられないという顔をしている。余程嬉しいのだろう。その後、泣き笑いのような顔になった。

ヒカルは、その和谷に頷いて見せた。


越智は肩をすくめると、今度こそ部屋を出て行った。


今日、上位三人が勝てば、越智、ヒカル、門脇で合格者は決まりのはずだった。

しかし、門脇は今日の負けで四敗。

和谷と伊角が勝てば、門脇、和谷、伊角の三人でプレーオフとなるのだ。


そして、対局相手からいって、恐らく和谷と伊角の負けはない。


(やった)


まだ、和谷の目はある。


(助かった)

ヒカルは大きく溜息をついた。


来年の入段者が変わったら自分の責任だと思っていたヒカルはどうしても和谷に合格して欲しいのだ。

前回の、合格が決まって嬉し涙を流していた和谷の顔を思い出すと、自分も泣きたくなってくる。





 記録をつけた後、休憩室に行くと、和谷と伊角の対局が終わるまでヒカルは待った。

その間、何を話し掛けられても、合格祝いの言葉をかけられても彼は上の空だった。

親しくなった椿が近寄ってきて「がんばれよ」といってガシガシ髪をかき回していったが「うん」と小さく答えることしか出来なかった。

また、いつか何処かで会うことがあるのだろうか・・・。




「おーい、進藤」

対局が終わったらしい。部屋に駆け込んできた和谷に呼びかけられ、ヒカルは飛び上がった。

和谷の嬉しさ一杯の様子を見ると、四日前とは別人のようだ。


「か、勝ったんだな?」

「おーっ」

ヒカルは胸を押さえて息を吐き出した。


和谷の肩を両手で掴む。

「よ、良かった。ホントに良かった。ああ良かった。助かった」

と、呟いた。

和谷が面食らったのは言うまでもない。

「・・・・・・オ、オレの気持ちを代弁してくれてサンキュ・・・」

「おめでと、和谷」

ヒカルは更に涙目になって言った。


この場合、「おめでとう!」といって祝われるのは進藤ヒカルの役回りのような気がする。

和谷は溜息をつきつつ言葉を返す。

「オレはプレーオフにひっかかっただけで、まだ合格してないんだぞ。分かってんのか?」


「勝ってよ」

「・・・・・」

「絶対合格してくれ」

「・・・・・オマエ、泣いてんのか?」

「泣いてねェよ」

どう見ても、目から水分が漏れている。和谷は当惑した。

ヒカルは手を離すと、目をゴシゴシ拭う。


「とにかく良かった。しげ子ちゃんにケーキを奢るチャンスを拾ったな、和谷」

「そっちかよ!」


やっと冗談ムードになって、座が和んだ。遠巻きに見ていた他の者達も、祝いの言葉をかけるために二人の近くに寄ってくる。

「進藤おめでとう、和谷も良かった」

と奈瀬や、本田、小宮も声をかけてきた。


そこで伊角が部屋に入ってくる。

伊角も首尾良く勝ちを収めたらしい。Vサインを送ってきた。

「あー、伊角さん、おめでとーっ」

和谷は明るく伊角を迎えた。


「和谷、プレーオフよろしく」

と、伊角はドンと和谷の背中を叩いた。

「オレ、記録付けるまで気がつかなくてさ。驚いたよ。門脇さんが落とすとは思わなかった」

「ホントホント。試験ってわかんねーよな」

和谷がうひゃうひゃと笑う。


「じゃあ、これで門脇さん入れて三つ巴の戦いってわけだ」

と和谷が言う。

「そうだな。でも、とにかくまだ望みが繋がってるだけいいよ」

伊角が和谷を見て言う。



楽しげにチャンスを喜ぶのも今だけである。

明日からは、三人で盤上の死闘を繰り広げることになるのだ。



ヒカルはそれを座して見守るしかない。

結果は囲碁の神様のみぞ知るである。

喜び気分も束の間、ヒカルがまた不安な気持ちになってきたところで、職員が休憩室に入ってきた。

「進藤君、棋院の出版部の人が写真撮りと取材に来てるから、行ってくれる?」

「あ、はい」

ヒカルはあわてて席を立った。


「合格者は写真撮りがあるわけだよ」

「行ってこーい」

と、声がかかる。最後に、

「進藤、いいけど、髪がグシャグシャだよ」

「げ」

奈瀬に指摘されてヒカルは頭に手をやった。先ほど椿にやられたままの頭である。

あわてて手ぐしで直しながら、ヒカルは部屋を出て行った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ