ヒカルの碁 OA 中盤4~ヨセend
黒73
「まずは、おめでとうと言おうか」
と、椅子に座るなり塔矢アキラは言った。
ここは彼の父親が経営する碁会所である。
受付の市河から、進藤ヒカルが来ていると携帯電話で知らされ、急いで駆けつけたのだ。
アキラが息せき切って店に入ると、市河はフロアの奥まった一角を指差した。
その位置からは後姿しか見えなかったが、一部が金色の頭髪はまさしく進藤ヒカルのようだ。
足早にそちらの方へ向かうと、ヒカルは沈んだ面持ちで黙ってアキラの顔を見上げた。
念願かなってプロ入りを決めたというのに、どういうことだろう。自分と打ちにやって来たのではないのか。
疑問を持ちつつ彼はヒカルの正面に座り、最前の祝いの言葉を述べた。
「ここに来たということは、僕と打つためと思っていいんだろうな。願掛けはもう済んだのか?」
それを聞いて、やっとヒカルは口を開いた。
「願掛け・・・、ああ、願掛けね。・・・それはまだだけど」
願掛けというのは、以前ヒカルが「塔矢アキラと今は打てない」理由を誤魔化す時に使った方便だ。
そのせいで、ヒカルと打つのを待たされているアキラとしては、どうなったのか確認するのは当然と言えた。
一方ヒカルにしてみれば、方便とはいえ「佐為と会う」という願いはある。しかしそれは果たせていない。
「一体いつになったら終わるんだ? プロになったら早々に僕と対局することだって有り得るんだぞ。そうしたら君はどうする気だ?」
ヒカルは肩をすくめた。
「心配性だな。オレが不戦敗するとでも思ってるのか」
アキラは「やりかねない」という目でヒカルを見た。
「そんなことはしねェよ」と、ヒカルは小声で言った。
「・・・・・」
どうも様子がおかしい。
アキラの知っている進藤ヒカルといえば、いつも強気で自信満々、思わせぶりなことを言い、やることは支離滅裂。どうにも理解に苦しむ人物だった。
ただ、いつも「元気一杯」な少年ではあったと思う。
それが、今日はどういうわけか顔色が悪く、覇気がない。
(まさか、また女がらみじゃないだろうな)と思ったが、声に出しては別のことを言った。
「・・・・・具合でも悪いのか?」
「別に」
とりつくしまもない。
アキラは気を取り直して話題を変えることにした。
「プロ試験の最後は波乱の展開だったね。君と越智君が合格を決めた後、最後の一人は四敗の三人がプレーオフで」
「・・・・・・・・」
「結局、外来の門脇元学生三冠が合格したってネットで見たけど。聞けば、進藤は門脇さんとは親しいんだって?」
「・・・・・」
ヒカルはそれを聞いて更にガックリと項垂れた。
プレーオフは、プロ試験の後、三人を集めて後日行われた。
その結果、ヒカルの願い空しく和谷は破れ、伊角も負けを喫し、門脇がプロ入りを決めたのだった。
ヒカルはそれを知ると矢も楯もたまらず、和谷の家に向かった。行ったからといってどうなるものでもなかったのだが。
玄関から出てきた和谷は憔悴した顔をしていたが、それでも気丈に笑顔を見せた。
「また来年があるさ」と言い、「おまえは先にがんばれよ」と励ました。
ヒカルは泣いた。そして「ごめん」と頭を下げた。責任を感じていたヒカルが思わず発した言葉だったが、これは和谷には届かなかったようだ。
暫くの間、和谷はヒカルを見つめていたが、やがて苦い顔をして言った。
「ごめんって・・・・じゃあ、オマエ辞退してくれんのかよ」
「・・・・和谷」
急に低い声になった和谷にヒカルは顔を上げた。
「つまんないこと言うんじゃねェよ! 今、オレ一杯一杯なんだ。悪いけど、今日は帰ってくれ」
そう言うと、和谷はヒカルの鼻先で玄関のドアを閉めた。
ガチャンという鍵を閉める音が拒絶の証のように今でも耳に残っている・・・・・。
行くべきじゃなかったのだろう。だが、何か言わずにはいられなかった。
後悔と自責の念で、自分の合格の喜びなど、完全に吹き飛んでしまった。
そんなことを思い出して、落ち込むヒカルをアキラは上から見下ろした。
「まさかとは思うが、院生の友達がプロ入り出来なかったので落ち込んでるんじゃないだろうな」
ヒカルは上目使いにチロっとアキラを見た。
「・・・・・・」
「一体何を考えているんだ。仲良しごっこをしているんじゃないんだぞ」
ヒカルはふてくされたような目でアキラを睨んだ。
ただ和谷が負けただけなら、こんなに気落ちすることもないだろう。試験の結果は自己責任だからだ。
だが、ヒカルが関与していなければ門脇参戦もなく、和谷が合格していただろうと思われるからこそ、こうして落ち込んでいるのではないか。
という想いがヒカルにはある。
「・・・・・怒鳴るなよ。とにかくオレは予告通り受かったから。今日はそれを報告しに来てやっただけだ」
「何をえらそうに。合格はただのスタートラインだ」
この倣岸さが塔矢アキラだ。そしてその言葉は正しいのだろう。ヒカルは漸く小さく笑った。
トップ棋士になり、囲碁の高みを目指す。そのためなら友情だろうが愛情だろうが何と引き換えにしてもかまわない。
キッパリそれだけを考えて生きてきた男が目の前でヒカルを鋭く見ていた。
何とシンプルで分かりやすく、そして厳しい生き方だろう。
しかも、この男は恐らく自分にも同じ生き方を要求しているのだ。
(でも、オレもそんな風に生きていきたいんだよな、これが)
やっぱりコイツだ。と思う。この男が佐為を失った自分を囲碁の高みへの道に引きずり上げていくのだろう。
和谷の不合格でざわざわしていたヒカルの心が段々落ち着いてきた。
そんなヒカルの変化に気付いたのかどうか、アキラが静かに訊いてきた。
「で、願掛けは?」
「それは、まだなんだけど。もう、いいかな、と思い始めたトコ」
それを聞いてアキラの眉が上がった。
「・・・・何だと?」
歴史を変えたくないから塔矢アキラと打つのをやめていたのに、プロ合格者の顔ぶれが変わるほど歴史は変容してしまっている。
その上、佐為も何処かにいるかもしれないとなると、既に打たない意味がない。
「何か、よくわかんなくなっちゃってさ。願掛けはやめちゃおうかと思って」
アキラはムッとした顔をした。
「何ていい加減な」
「そんなこと言ったって・・・。色々あるんだよオレにも」
「・・・・・」
「だ、だから、やめちゃえばオマエとも打てるし」
「・・・・・」
ヒカルの軽さに反し、アキラの表情は次第に険しくなってくる一方だ。
「な、何? そんな怖い顔しちゃって。怒ってんの?」
ヒカルは、そそくさと碁盤の上の碁笥を自分の方に引き寄せた。
「じゃ、そんなワケだから。打とうか」
当然打つだろうと、ヒカルがアキラにもう一方の碁笥を押しやり「ニギれよ」と言った。
しかしアキラは動かない。
「塔矢?」
アキラは自分の方に置かれた碁笥の蓋に手を置いた。
そして碁盤を見つめたまま暫く黙り込んでいたが、やがて顔を上げるとヒカルに言った。
「今日は打たない」
「へ?」
ヒカルは驚いてアキラの顔を見た
「何だよ、あんなに打とう打とう言ってたくせに。天邪鬼だな」
それに対しアキラは憮然として言った。
「君は僕がどんな気持ちで、君と打つのを待つと言ったと思っているんだ?」
「だから、それは」
「願掛けはもういいというなら、その願い事を言ってみろよ」
「えっ」
そんなことは言える訳がなかった。
「・・・・・・・・・」
ヒカルの様子を見て、アキラは深い溜息をついた。
「どうせ言えないんだろう? 君は秘密だらけだからな」
「・・・・・」
「やると言ったのならプロの対局で当たるまではやれよ」
「・・・いいのかよ」
「仕方ない。君がどんな打ち方をするのか、その時見せてもらうよ」
アキラは探るような視線をヒカルに向けた。
「・・・・・」
ヒカルは平静を装ってアキラの視線に耐えたが、内心ヒヤリとしていた。
プロ試験最終日の越智の言葉が甦る。
『君と打つ時、君は棋譜並べをしているような打ち方をすると言っていた』
(コイツやっぱり油断ならねェ)
佐為の碁を打つ時は、あまりスラスラ打たないようにと思っていたが、やはり対局相手には不自然に見えていたらしい。
碁の内容も、弟子とは言っても別人なのだから、区大会での対局や若獅子戦で見た碁との違和感も当然あるはずだ。
感の良いアキラのことである。もしかすると、「願掛け」が佐為がらみだということも予測しているかもしれない。
たとえ佐為本人を知らなくても、その碁の強さや美しさを、アキラがまた見たいと思っているのは知っているし、ヒカル自身の碁との違和感の原因も追求したいだろう。
だから、打とうと言えば、喜び勇んですぐさま対局となるだろうと思っていた。
ところが、である。
流石は塔矢アキラ。一筋縄ではいかないようだ。
拍子抜けすると同時に少々がっかりしたヒカルは、カバンを手に立ち上がった。
それをアキラはじっと見つめていた。
「じゃ、帰るよ」
と声をかけたヒカルにアキラは言った。
「言っておくが、プロは他所事にかまけてどうにかなる世界じゃないぞ」
ヒカルは目を丸くした。
「そんこと、分かってらい」
「君がぐずぐずしてる間にも僕は上に行く。君の力は後日打った時に確かめさせてもらうが・・・」
「・・・・・・」
「忘れるな。次は君に負けはしない」
言われた瞬間、ヒカルは自分の喉がゴクリと音を立てるのを聞いた。
そして、返事も出来ぬまま、その場を後にしたのだった。
白74
「ムリしちゃって! 打てば良かったのに!!」
ヒカルが店を出ていくと同時に背後から聞き慣れた声が降ってきた。
「・・・芦原さん・・・後ろで聞いてないでよ」
驚いた顔を見せまいとアキラは手で口を覆った。
「聞くよ! 聞くに決まってる。面白いからな」
そう言うと、芦原はアキラの後ろの席から回り込んで、先程までヒカルが座っていた席に収まった。
アキラはその芦原の風体を見て、口をへの字に曲げた。
グレーのスーツに白の薄手のニット帽に眼鏡。フレームはピンクだ。
スーツに合わせるにはチグハグに見えるが、後ろを向いていたのでヒカルも気が付かなかっただろう。
芦原の視力が悪いなどとは聞いたことがない。恐らく伊達眼鏡だ。
まさか変装のつもりか? と、思うとドン引きである。
アキラの視線に気が付いて、芦原は帽子と眼鏡を取った。
「最近冷えるようになったよね」
などと言うのもワザとらしい。
「何が面白いんだよ。芦原さんにはカンケーないでしょ」
「進藤君の秘密って何のこと?」
「知らないよ」
「願掛けって?」
「知らないって」
「友達なのに知らないの?」
「別に友達じゃないったら」
アキラはムッとして答えた。
芦原のヘラヘラ顔が今日は一層カンに触った。
この男、これで対局中は精悍な顔付きになる。いつもマジメな顔をしていればいいのに、と思う。
「何で芦原さんが進藤を気にするのさ?」
「アキラが気にするからだろ」
「別に僕は気にしてなんかいない」
「そうかあ?」
この場所で二度負けた後、どれだけヘコんで、進藤を待っていたのかもう忘れたらしい。
だからこそ、ヒカルがここに来た時、あわてて市河が連絡したのだ。
「オレだけじゃなくて、緒方先生も注目しているという子だからね」
と、芦原は言い、「塔矢門下でもないのにな」と付け足した。
「・・・・・」
「・・・緒方先生は、若獅子戦も見に行ったんだろ?」
そう。若獅子戦でアキラが自分の対局が済んだ後、進藤の対局を観戦しに行くと、テーブルの横に緒方が立っていた。緒方も進藤と‘sai’との関係を疑う一人だったからだ。
しかし、その日の進藤ヒカルの碁は、‘sai’の華麗な碁とは到底同レベルに語れないものであった。
あの一局で、少なくとも進藤とsaiが同一人物かもしれないという線は消えたと思うはずだ。現にあの日以来、緒方が進藤ヒカルのことを話題にしたことはない。
「・・・・あの日、進藤は初戦敗退だったからね。もう緒方さんも進藤のことは気にしていないんじゃないかな」
アキラはそれだけを言うと立ち上がった。
「それに、僕はこの一年プロとして進藤に先行しているんだからね。さっきも言ったけど、次は負けないよ」
「・・・・・」
そしてアキラは芦原を残し、店を出て行った。
それを受付の横で盆を持ったままの市河は不満そうに見送った。
「アキラ君、折角お茶淹れかえたのに・・・」
それを聞いた芦原は受付近くの席に移動した。
「まあまあ、オレが二杯飲むからさ」
「いいわよ、アキラ君の分は私が飲むもの」
市河はそう言うと、一番近くのテーブルに盆を置いた。
「それにしても、進藤君って本当に一発合格しちゃったのね」
「だねえ」
「流石はアキラ君のライバルね」
「プロになって対局が始まってみなきゃ、本当にライバルになるか分からないけどね」
芦原は、手に取ったティーカップに目を落とした。
「やっぱり、アキラは碁の強いヤツにしか興味が持てないんだな」
「それはそうよ。アキラ君はお父さんみたいになっていく人だもの」
「ライバルで友達って、アキラにはムリなのかなあ・・・」
芦原が呟くのを聞いて市河が思いついたように言った。
「芦原先生はアキラ君の友達よね?」
「そうだよ」
そう言うと、芦原は口を尖らせた。
その数日後。
「進藤先輩、プロ試験合格おめでとございます!!!」
という、小池囲碁部長の発声とともにクラッカーの破裂音が葉瀬中の理科室兼囲碁部室に響き渡る。
それに対してヒカルは、控え目に「おう」と小さい声で応えた。
「こらっ、学校にクラッカーは持ち込み禁止だって言ったでしょ!」
直後に叱ったのは顧問の大菅タマ子だ。学校に火薬物は持ち込み禁止なのだ。
「何のために先生を呼んだと思ってるんだよ。火元確認責任者立会いの上なら、何の問題もないだろ」
と、これは三谷だ。
「そのために私を呼んだわけ?」
「ちがいます、ちがいます!」
あわてて、他の部員がとりなす。
「そうだな。先生からはカンパも貰ったしな」
「そっちなの!?」
「ちがいます、ちがいます!!」
その様子をヒカルはニコニコしながら見ていた。
ヒカルがプロ試験合格を決めて学校に登校すると、学校はちょっとした騒ぎになっていた。
多くの生徒達にとって、囲碁はあまり身近なものではなかったが、「普通でないことを成し遂げた」ましてや、「それがマスコミに出た」というのは、非常にセンセーショナルなことであったのだ。
恐らく一度も碁を打ったことがなさそうな生徒達が、何故か「週刊碁」を学校に持ち込み、ヒカルを指差して「あの人だよ」と囁きあっていた。
それは前回にも経験済みであったため、ヒカルも意外とは思わず、その件で質問されれれば丁寧に答えていった。これも普及活動の一環である。
だが、前回にないことがあった。それは囲碁部でのお祝い会である。
あかりの予告どおり、部員達が菓子やソフトドリンクを部室に持ち込み、合格を祝ってくれるというのだ。
‘進藤君、プロ試験合格おめでとう’と黒板に色とりどりのチョークで書かれ、金色の折り紙で作られた星まで貼られていた。
院生同士と違い、ここではお互いの複雑な想いとは無縁でいられる。
部員達が純粋に喜んでくれているのが伝わってきて、ヒカルは癒された気持ちになった。
「ありがとな」
はにかみながら、改めて礼を言った。
「よかったね」
と、あかりがヒカルに微笑みかけ、それを見て津田久美子がウンウンと頷く。更にそれを金子正子が肝っ玉母さんそのものの、やさしい表情で眺めていた。
「それはそうと、プロ試験受かったんだから高校は行かないんだろ?」
と、三谷が訊いてきた。
「うん」
ヒカルが答えると、小池と夏目が驚いたような目を向けた。
「行かないの?」
夏目が訊くとヒカルはあきれたように言った。
「だって社会人だぜ。 それに囲碁の勉強で忙しいのにそんなヒマあるかよ」
「そっかあ・・・」
「そーなんだよ」
「高校なんて行ったってコイツが学校の勉強をするワケないもんな」
「そうそう」
三谷の言葉にヒカルは頷いた。
「でもなあ、近くで見張ってないと藤崎を誰かに取られたりしてな」
「何?」
ヒカルが隣のあかりを見た。
「三谷君、変なこと言わないでよ」
あかりが三谷を睨む。
「私、高校に行ったら、囲碁部にヒカルを講師で呼ぶんだから」
「金はどーすんだ?プロなんだぜ?」
「えっ」とあかりは一瞬つまり、ヒカルの方を向いた。
「割引して!」
それを聞いてヒカルは思わず噴き出した。
「そんな心配しなくても行ってやるから気にすんな」
「彼女割引かいっ!」
そうして部室が笑いに包まれる中、大菅タマ子はヒカルを微妙な表情で見ていた。
実は前日、ヒカルの母親である進藤美津子の訪問を受けていたのだ。
用向きはヒカルの進路についてである。
ヒカルの希望は進学せずにプロとしてやっていくということだったが、親達にとって、息子が囲碁棋士になるというのは、何処か絵空事のような気がしていたし、何より、まさか一度で合格するとは思っていなかったの
だ。
囲碁のプロの世界が全く分からない親達は、息子の進路問題に俄かに直面することになってしまったのだ。
ここに至り、現実問題として状況を把握しなければならない。
ということで、取り合えず担任でもある大菅タマ子に合格の報告と、プロ試験中の休みなどで世話になったことへの礼を兼ねて学校を訪問したという訳だ。
ところで大菅も名ばかりの囲碁部顧問である。囲碁のプロの世界のことなど何も分からないのは美津子と同じだ。
「奇怪な社会っポイ気が・・・」
「そーなんですよね・・・」
などと結論の出ない会話が繰り返された。
前回の例だと、美津子は囲碁のプロのことについて、同時に合格した和谷義高の母親に話を聞きに行くことが出来たが、今回はそれが出来ない。
「まさか葉瀬中から囲碁のプロが出るなんて思いませんでしたから・・・」
と、大菅は前置きをし、
「区内の私立中に囲碁の強い学校があるので、そこの顧問の先生に訊いてみましょうか」
と言った。もちろん区大会で挨拶した海王中の囲碁部顧問を思い出したのである。
自分が知っている中で、最もそうした情報に詳しそうだと踏んだのだ。
美津子は恐縮して頭を下げた。
その夜、父親の書斎でヒカルは今日何度目かの溜息をついた。
(何で出てこないんだよ、佐為)
プロ入りを決めた後も一向に姿を現さない佐為に焦りを覚えずにはいられない。
プロ試験の結果を見てから帰ってくる気なのだろうと思い、探すのを棚上げしていた彼としては、アテがはずれてしまったのだ。
こうなってみれば、今からでも動き出さねばなるまい。
(何処かにいるのは間違いないんだからな)
棚上げしていたと言っても、囲碁のサイトや掲示板サイトに、情報提供を求める書き込みなどはしていたのだ。
しかし過去に‘sai’と打ったことがあるという人物からの書き込みが数件見られる程度、しかもヒカルが‘sai’を騙って打った時の話であったりして、他にヒカルが望むような情報は得られなかった。
ヒカルは父親のパソコンで、それらのサイトの書き込みを確認した後、いつものワールド囲碁ネットにログインした。
saiはこのサイトでしか打たない。
自分が代わりに打っていたときも、psyと打ったときも、ここで打っていたのだ。
ヒカルはエントリーしている登録名の上を確認していった。
今日も‘sai’はいない。
ヒカルは画面から目を離すと再び溜息をついた。
結局はあの時だけなのだ。
プロ試験中、サイト内で勝ちまくっていたpsyとsaiの、ただ一度きりの対局が実現した。
ほぼ間違いなくプロ。しかもヒカルの見立てでは高永夏だと思われる‘psy’。
そしてそのpsyと対局しているsaiの碁は、まぎれもなく藤原佐為のものだとヒカルは確信していた。
強い相手と打てるなら、手段を選ばない佐為。
強い相手がいるとわかれば、姿は見せなくても、ネットには現われるということか。
(オレが打てば出てくるのか?)
と、思ったこともあるが、佐為は、例え登録名であっても愛弟子の碁なら見破るはずだ。
出てこないといえばpsyもsaiとの対局以来、エントリーしていない。
対局時にチャットで連絡を取り合い、自分の知らないところで打っていたら・・・。
「そんなの冗談じゃねェよ」
ヒカルはつぶやくと奥歯をかみ締めた。
それはヒカルにとって考えたくないことであった。
どうしたら出てくるだろう。
大手合が始まる前には、新初段シリーズがある。
事あるごとに塔矢名人と打たせろとヒカルに迫っていた佐為。
前回は塔矢名人が指名してくれたが、今回はどうだろう?
その時こそ佐為が出てきはしないだろうか。
対局が行われる「幽玄の間」に入ったら、ちゃっかりヒカルの座布団の上に座っているかもしれない。
「なんてな」
ヒカルは呟き、椅子の上に両膝を立てて、その間に顔を埋めた。
黒75
そして、新初段シリーズが始まった。
本日の対局者は新初段、進藤ヒカル。相手となる高段者は名人、塔矢行洋である。
まもなく日本棋院本院の幽玄の間で行われるその対局を観戦するために、緒方精二九段が記者室のドア開けると、桑原仁本因坊の姿が目に飛び込んできた。
「・・・・・桑原先生」
「ほほう、これはこれは緒方君じゃないか、久しぶりじゃの」
桑原は、皺深い顔に満面の笑みを浮かべて緒方を迎えた。
が、(・・・嫌なヤツに会ってしまった)というのが緒方の正直な感想だ。
緒方は、この老年の棋士が好きではない。好きではないというより心情的には天敵ぐらいに思っていた。
院生達が呼ぶ「妖怪ジジイ」というのは実に的確なネーミングだ。つけたヤツを褒めてやりたい、と思う程なのだ。
この妖怪ジジイは、どういうわけか自分の顔を見ると、無駄に嫌味やら揶揄やらホメ殺しやら、とにかくイラッとさせる言葉を撒き散らし、彼と会った日は終日不愉快な気分になってしまう。
周囲に探りを入れると、どうも対局相手には一通りやらかしているらしい。つまり対局前の布石、彼一流の盤外戦というわけだ。
老獪といえば味があるように聞こえるが、要するに傍迷惑な老人なのである。
今日も二人が対局した、過日の本因坊戦のことをネタにゴチャゴチャ言ってきた。いつまでも聞いてやる程ヒマではないので、話を変えることにする。
「ところで、先生はどうしてここに?」
すると、桑原は高笑いし、喫していた煙草の灰をテーブル上の灰皿に落とした。
「その言葉そっくり返そうじゃないか」
と言う。
「今日はたかだか、新初段の対局じゃぞ。いくら名人が打つからといって、緒方君程の者が見に来るようなものじゃない」
「・・・・・」
緒方は黙ったまま、自分もポケットから煙草を取り出し、火をつけた。
新初段は毎年誕生するが、多忙を極める塔矢名人が対局を引き受けるのは数年ぶり。
しかも、対局の条件として進藤ヒカルを指名したというので、一部で話題を呼んでいた。
それでも、タイトル戦の挑戦者たる緒方が個人的に観戦に来るというのを意外に思う者もいるだろう。
緒方がひと息つくのを見て、桑原は言葉を続けた。
「キミはあのガキが、この前キミが言っておった『新しい波』だと思っとるんじゃろ?」
それを聞いて緒方は視線を逸らした。
本因坊戦第二局が行われる前日、緒方は桑原を相手に「若手の中から、古い枠に囚われた往年の棋士達を打ち破り、日本の囲碁界を革新していく新勢力が台頭してくるだろう」と語った。
そして、そんな『新しい波』に立ちはだかるのは、自分でありたい、と言ったのだ。
(それで興味を持ったのか)
と思った。
その『新しい波』は誰かと考えた時、桑原が進藤ヒカルに注目したとしても意外とは思わない。
もともと注目されていた院生であったし、プロデビュー後に二十六連勝を打ち立てて親の七光りの噂を撥ね退けた塔矢アキラがライバルだと公言している少年だったからだ。
強いて不思議と言えば、桑原仁本因坊はそんなことで新初段ごときに注意を払う男ではないということだ。
大方自分が「『新しい波』に立ちはだかる壁になる」宣言などしたので、嫌がらせを兼ねてお手並み拝見とばかりにやって来たというところだろう、と緒方は思った。
「・・・桑原先生は彼の碁を見たことがあるんですか?」
「いいや」
やはりな、と思ったところで、桑原は意味ありげにニヤリと笑った。
「今日来たのはシックスセンスが働いた、というところじゃよ。あやつとは一度この棋院の中ですれ違っただけでの」
「すれ違っただけ?」
「ああ」
「・・・・・」
(何を言い出すんだ、このジジイは)
緒方は煙草の煙をフッと上に噴き上げた。
「『新しい波』とはよく言うたわな」
「・・・・・」
桑原はニヤニヤ笑い続けている。何が言いたいのかよく分からない。
緒方は訝しげに目の前の老人を見た。
「キミは何故名人があの小僧を指名したと思う?」
「・・・・・何かご存知なんですか?」
「カンのいい男じゃからの。何かを感じてのことじゃろて」
「どういう意味です?」
思わせぶりな言い方に、つい問い質してしまう。だが明快な答が返ってくるはずもない。
「キミは感じんのか?」
「だから何をです?」
それで桑原は「そーか分からんか」と言ってヒャラヒャラと嘲笑った。
「だからキミなんぞワシから見ればまだまだ青臭い若造だと言うんじゃよ」
「先生・・・・」
「棺桶に片足つっこむぐらいの歳になると色々視えてくるモノがあるんじゃ」
「・・・・・」
流石は妖怪ジジイ。シックスセンスでモノを語るのである。
お察しの通り、緒方はかなりイライラしてきた。
この手合いは、敬して近寄らずに限る。与太話には付き合うまい。
そして緒方が黙ったまま新しい煙草に火を付けたところで、記者室の扉が開いた。
キノコの様な頭髪の少年が、自分達を見て文字通り飛び上がった。越智康介である。
「し、失礼します」
頭を深々を下げ、部屋の隅の席に座る。モニター画面からは遠いが、トップ棋士の傍に行く度胸は、流石の越智でもまだなかったのである。
そこに塔矢アキラが部屋に入ってきた。
来ることを知っていた緒方が「やあ」と声をかける。
アキラは如才なく、二人のトップ棋士と越智に挨拶をした。
部屋の様子を見て、緒方の横の椅子に座る。
「そろそろ始まりますね」
緒方が呟いたところで、本因坊は、この勝負でどちらか勝つか賭けないか、と言ってきた。
緒方はゆっくりと桑原の方を見た。
(・・・・・いないじゃん)
ヒカルが幽玄の間に入って、最初の感想はそれであった。
ひょっとしたら、と、ほんの少し期待したのだが、そうそう話はうまくいかないのだ。
居たら居たで、大声を出して周囲を驚かせてしまったであろう。
ヒカルは、自嘲気味な表情で、手にした扇子を持ち替えた。
「・・・・・」
ヒカルには、前回、塔矢名人と打ちたいがために碁盤の前に陣取り、必死の形相で名人を睨みつける佐為の姿が目に焼きついていた。それは存分に打たせてやれなかった後悔と共に消せない記憶だ。
もっと打たせてやりたかった、と言ったところで、事情を伏せたままでヒカルが出来たことなど、たかが知れていたのだが・・・。
幽玄の間で、それこそ何度も対局している名人は、慣れた様子で上座に座る。
ヒカルも何ら障害物のない自分の席に着座した。
部屋に入る前、名人はヒカルを自分から指名したのだと言った。
それは前回も同じだったので、驚くには当たらない。
しかし何故、とヒカルは思う。
名人はアキラと打った始めの二回の碁、「佐為の碁」を見たのだろうか。それで自分を指名してくれたのだろうか。
息子がライバル視しているからといって、自分も対局してみようと思う程、名人が酔狂だとは思えない。
そしてまた、今日はどう打つべきか。と、思う。
名人が「佐為の碁」を見て、何かを期待しているのなら、この対局で佐為が打った碁を再現してやりたいという気持ちがないではない。
しかし前回、佐為がヒカルにねだってこの場で打ったのが、これまた只事ならぬ碁であった。
新初段シリーズは、デビュー前の新初段がトップ棋士に胸を借りて対局するという、「週刊碁」主催の企画ものである。新初段とトップ棋士では棋力に差があるため、新初段に逆コミ五目半のハンデが付く。
それを佐為に打たせれば、たとえ名人相手でもラクラク勝ってしまい、ヒカルの評価に誤解が生じてしまう。
それを避けようと、ヒカルが佐為に出した条件というのが、
『十五目のハンデを負ったつもりで打つ』というものだった。
当然そのような碁がまともなものになるはずもなく、棋院の内外で物議を醸すことになったのだ。
今日は、そんな気遣いなどせず、自分の碁を打つ。そうヒカルは決めてきたのだ。
だが。
(それでいいのかな)
と、不意にヒカルの胸に迷いが生まれた。
佐為の碁を再現しなかったために、あのネット対局「sai vs toya koyo」 の存在が消えてしまったら。
思い出す。
代理でパソコンのマウスを動かしているだけのヒカルにも、容赦なく浴びせられたプレッシャー。あの棋譜。
それがこの世界に存在しなくなる。
嫌だな、それは。
と、思う。
さっさと佐為が出てきてくれれば、心置きなく打てるのに・・・。
(佐為のバカ野郎、何で出て来てくれないんだよ)
八つ当たりのような言葉が次々と心に浮かんできた。
ヒカルは碁笥を膝元に下ろすと、思い切って名人に話し掛けた。
「・・・・・先生は・・・」
「ん?」
名人が顔を上げた。
「・・・・・先生は、塔矢二段とオレが最初に打った碁を知っていますか?」
「・・・・・アキラがその時のことを気にしていたのは知っているよ。」
(やっぱり)
と、ヒカルは思った。だが、次に名人が口にしたのは、ヒカルの予想しないものだった。
「私が見たのは、君達が打った中学の大会の碁だ。碁会所で打った二局は知らない。」
「・・・・・」
「それで、君に興味を持ったというわけだ」
ヒカルは、愕然として思わず口を開けてしまった。
(佐為のじゃなくて、オレの碁を?)
それはつまり、名人が自分の碁を認めてくれた、ということではないか。
ヒカルは顔に血が上るのを感じた。
(うれしい)
「・・・・・」
今の言葉が決定打となってヒカルは腹を決めた。
迷うな。今日は、今日こそは、自分の碁を打つ。
出てこない佐為は、今は置いておけ。
係の職員が告げる。
「時間になりました」
ヒカルは既に汗ばんできた手で扇子を握りなおした。
「お願いします」
そして、深呼吸し、黒石を取った。
白76
ヒカルの新初段戦は、特に問題なく粛々と進んだ。
前回は、十五目のハンデを克服するために佐為がとった、一手目における大長考が注目を集めたものだが、今回はそんな必要はなかったのだ。
高段者との対局といえば、時間を遡る前、ヒカルは森下九段と戦ったことがある。
師匠筋と言っても良い人物。しかし勝負になると踏んでいた。
本気で戦っている時の高段者のプレッシャーがどんなものか、まだ知らなかった頃の話だ。
その時、ヒカルは正直言って恐ろしいと思った。
碁盤を差し挟んで座っているだけなのに、猛獣を前にしているような身の危険を感じ、皮膚がチリチリ音を立てているような気がした。
自分には相手にそのような威圧感を与えることは出来ない。
自分には足りないものがたくさんある。と、その日ヒカルは学んだ。
そして今、名人を前にして、
(この人も、森下九段がいうところの「化け物」に変わるのだろう)
と、思う。
今日の名人からは、静かな圧力を感じるだけだ。
油断なく、重厚な存在感。
相手の力量を値踏みしているのか。
前回、ネットでの対局後、名人が佐為との再戦を強く願ったのを思い出す。
目の前にして対局できない佐為はその碁の力だけで名人に存在を認めさせたのだ。
自分もその高みに近づいてみせる。ヒカルは意気込んだ。
対局が進み、ヒカルの手厚い碁に記者室では称賛の声があがっていた。塔矢アキラに続く若手スターの誕生に期待する雰囲気の中、越智は部屋の隅でひとり画面を見つめていた。
名人は逆コミを解消すべく様々な狙いをもって仕掛けてくるが、ヒカルは次々とかわしていく。
落ち着いているな、と越智は思った。当代一のタイトル棋士を前に緊張することはないらしい。
(僕のライバルなら当然だけどね)
越智は独りごちた。視線を画面から離すと、トップ棋士二人が画面を前に意見を交わしている。
「名人は上辺に打ち込まれたのが気に入らなかったようですね」
「そうじゃな、その後カケを考えたんじゃろうが、うまくないと思って断念したのはいいとして、その後も狙いがことごとく外されとる。やはりあの小僧やりおるな」
「左辺からの展開ですね。直後の上辺で黒に受けさせて手を入れるつもりが、進藤はそれに乗らずにツいだ」
「手厚いのう。白は苦しそうじゃ」
桑原はそう言うとヒヒヒと笑った。
「ワシの見込みどおりじゃわい」
それに緒方は答えず、画面に視線を戻した。
その二人が差し向かうテーブルの間には一万円札が二枚、重ねて置かれていた。
対局直前、桑原からの誘いでどちらが勝つか賭けをすることになったのだ。
緒方は、桑原は名人に張るだろうと思っていた。そうしたら自分は「当然名人が勝つでしょうが、ここは祝儀で進藤に賭けましょう」と言い、「アキラ君のライバルだしね」などと、アキラをからかうことも出来るだろうと考えた。
と言って、進藤ヒカルの実力は未知数だ。実のところ進藤が名人に勝ったらそれはそれで面白いと思っていたのだ。
そして財布を出したところ、桑原が先に「ワシはあの小僧に賭けるゾ」と、嬉しそうに一万円札をテーブルに置くの見て驚いた。
「・・・穴狙いですか?」
と、訊いてみたが、桑原は「勝算のない博打はせんよ」といって意味ありげに笑う。
それで緒方は、大人しく名人に張るより他になかった。
彼が名人に賭けるのは当然なので問題はないのだが、桑原の思惑通りになっていることに内心苛立った。
対局はその後、黒が右辺に展開し、さらに上辺への攻めに転じた。
この時点で黒優勢。逆コミ5目半とはいえ、上出来と言えた。
とはいうものの、名人の様子に変化はない。
相変わらず落ち着いた様子で、淡々と、だが思慮深く自分の碁を打っていく。
(あれ?)
ヒカルは名人が白石を置いた途端、違和感を感じて碁盤を凝視した。
「・・・・・・・!」
(やばっ・・・。やっちゃった)
その直前、ヒカルが石を置いたところ、連絡している黒石の逆から白に出られてしまい、打つ手がなくなってしまったのだ。
最前の石は失着だったのだ。
(右辺の方に行けば良かったんだ。ミスった。勘違いしてた)
と、思った所で後の祭りである。形勢は一気に変わってしまった。
(・・・・どうする?)
ヒカルは扇子を握り締めた。手が汗ばんでいるのが気になって仕方がない。
(まだ、大丈夫。大丈夫だ。落ち着け!)
そう自分に言い聞かせた瞬間、ふいに佐為の顔が目に浮かんだ。花が咲いたような、いつもの明るい笑顔がそこにある。
(そ、そっか。佐為だ。佐為ならどう打つか考えよう。ええと・・・)
しかしヒカルが碁盤に集中しようとすると、頭の中の佐為は、どんどん大きくなって彼の注意を引いてくる。
(私に打たせてください)
実にあっけらかんと佐為が言う。
(・・・・)
(ヒカル)
おねだりする顔が、あまりにも思い出通りの笑顔なので、ヒカルは内心苦笑した。
(バカ言え。オマエに打たせて、ややこしい目に遭うのは、もうゴメンだ)
「・・・・・」
(って何だ。どこかで言ったセリフだな。まずい。何だか集中出来なくなってきた。くそっ、こんな時に何だよ。
あせってるのか、オレ)
ヒカルは頭を振ると、扇子を両手で握り直した。
(集中だ集中・・・佐為になったつもりで、アイツならここをどう打つか・・・)
そして、ヒカルは座り直すと一つ深呼吸をした。
記憶の中の佐為が笑った気がした。
名人、塔矢行洋はふと、周囲の空気が変わったような気がして顔を上げた。
暖房が切れてしまったのだろうか。かなり冷えてきた。横を見ると記録係の女性が寒そうに肩をすぼめながら腕をさすっていた。
目の前の新初段は何も気がつかぬように顔を伏せて盤上を見つめ続けており、その表情は良く分からない。
彼の一人息子と同い年。まだ幼い輪郭。
しかし、
「碁界に子供はいない」という。
この世界に入ったからには、同じフィールドで戦っていく。そしていつかはタイトルを奪い合うライバルになっていくのだ。
(いや、なってもらいたいものだ)
と、行洋は思う。
彼が息子と打った一局がまぐれだとは思わないが、自分で打って素質を確かめるのも悪くない。
最近は自身の対局で多忙を極め、新初段との対局は断っていたのだが・・・。
その進藤ヒカルは、彼の息子がライバルだと語るに相応しい打ち手だと行洋は満足していた。子供らしい姿に似合わぬ、じっくりしていて我慢強く、そして品のある碁を打つ。
師匠が良かったのだろう。
誰か、と息子が訊かれていたが、進藤ヒカルは決して誰にも明かさないのだと言う・・・・・。
白は押されていた。が、状況が変わる瞬間がやってきた。
先程の黒の失着である。
このまま黒に逃げ切られるかと思っていたが、これで分からなくなった。
(さあ、進藤君。どうする?)
行洋はヒカルの様子を伺う。
目の前の新初段は、ピクリとも体を動かさず、ひたすら盤を見つめたままだ。
この日初めての長考。
行洋は和服の両袖に手を入れて腕組みをし、相手の次の一手を待つ。
そして、漸くヒカルが動きだした。
彼は静かに黒石を持つと、これまで手付かずだった右下に向かう。
序盤で打たれた白へツケる。そして、その後両者必死の攻防が始まった。
名人は流石の巧者ぶりを見せつけ、黒を追いまわす。
記者室では、ここでついに白優勢の声があがった。
ヒカルは、扇子を口元に当て、何度も盤面を確認し、右下隅へ。そこで黒は大きく生きることに成功し、かなり形勢を挽回した。だが、まだ白が優位なことには変わらない。
名人に容赦はない。
リードを確実なものにしようと、中央に強気の一手を放ってきた。
アキラはヒカルの次の手を息を詰めて見つめていた。
(さあ、進藤。どうする?)
ヒカルは、今度はさほど時間を置かず、攻めた名人の石をキリに行く。このキリが効果的に働き、その下の白地でもヒカルはうまくシノぐ。それで右辺で黒を生かすことに成功した。
(進藤がお父さんに勝つ・・・)
逆コミ有りだと承知している。それても複雑な思いでアキラは画面を見つめた。
偉大な父だとて、いつか世代交代の波に晒される。そのいつかの相手が進藤ヒカルだとしても何の不思議も
ない。
進藤なら良い、という思いと、先に父を超えるのは自分でなければならないという思いの両方がある。
(これから勝負だ、進藤!)
アキラはテーブルの下の拳を握り締めた。
「逆転か・・・」
緒方のつぶやきに桑原が高笑いで返す。
「小僧め、やりおるわい。のお緒方君」
「・・・・・」
老人のドヤ顔に猛烈な苛立ちを感じて、緒方は口をへの字に曲げた。
「先程の中央じゃな。あのハネは上手くなかった。大ゲイマで白地を増やしつつ黒を逃がせば負けはせんかったろうに、惜しかったの」
「・・・・・・」
桑原はテーブルの上の掛け金を自分の方に引き寄せた。
「この万券はワシがいただくことになりそうじゃな」
緒方は返事をせずに画面に視線を戻した。
大勢が決したあとも対局は続く。が、ついに終局を迎える時が来た。
ここまで、と行洋は思った。そして「ありません」と宣言をした。
俄かに周りが騒めく。
すると顔を伏せていた、新初段の少年が漸く顔を上げた。
行洋はその瞬間、思わず「うっ」と、声を上げた。
ヒカルは、逆に驚いて、きょとんとした顔で行洋を見返す。
行洋の様子に「どうかしましたか」と周囲の者達が口々に声をかけてくる。
「・・・・・」
行洋は何かを確認するように、碁盤と目の前の少年を見比べ、首を一つ振った。
「いや、何でもない」
というと、腕組みをして、スタッフの向けるカメラに目線を移した。
勝ちを収めた新初段の進藤ヒカルは、一緒に写真に納まり、その後は記者達の質問に大人しく答えていった。
名人、塔矢行洋はそんなヒカルに時折気掛かりそうな目を向けた・・・。
一方、勝ったヒカルは、取材を受けながら、喜びというよりは脱力感に襲われていた。
体が酷く重く感じる。
(勝った)
(名人に勝ったよ、佐為)
ヒカルは小さく心の中で呟いた。
黒77
終局後、記者室では桑原の高笑いが響いた。
「やっぱりのう、流石はワシの見込んだだけのことはあるわい」
(すれ違っただけで、いつ見込むヒマがあったんだ?)
と、緒方が思ったのは言うまでもない。
対局終了により、記者室にいた者達は、幽玄の間で始まる検討を見学するために連れ立って部屋を出て行く。越智もそれに続いた。
それらを見届けると、桑原は「それじゃコレは遠慮なくいただくとするよ」と言い、テーブルの上の二万円を取ると札入れに入れた。
緒方はそれにチラと目をやると
「進藤の評価は保留だな」
と言って、立ち上がった。
「若獅子戦との差がありすぎる」
あれから半年以上経っている。それを考慮したとしても不自然という訳だ。
それに対してアキラは呟いた。
「・・・・でも、これは僕が知っている進藤の碁だ」
画面を通してでも分かる。北区の中学生大会で打った時と同じ感触だ。
若獅子戦の時に見られた未熟さは微塵にも感じられない。
そしてまた思うのだ。
碁会所で打ったあの、最強だが棋譜並べのような碁とも違う、と。
このアキラと緒方の会話自体、端から聞いていれば不思議な内容に違いない。桑原が面白そうに口を挟んできた。
「あの前髪だけ金髪の小僧は随分とオモシロイ奴のようじゃな」
それを緒方は黙殺した。「先に出てるよ」と、アキラに声をかけると部屋を出て行く。
記者室にはアキラと桑原本因坊だけが残された。
桑原はアキラに言う。
「皆が理由が分からずとも、アヤツの気配に引き寄せられるのよ。強い者程気になるはずじゃ」
アキラは桑原を見た。何故この老人はそのように思うのだろう。
「僕には彼が分かりません・・・」
「とは?」
桑原はアキラに向き直った。
アキラは、桑原に二年前、進藤ヒカルと打った時のことを語った。
まるで、父親の名人と打っているような力強さを感じたこと、にもかかわらず、それは進藤ヒカルが一方的に棋譜並べをしているかのように感じられたこと。その後、時にわざと弱いように装っているように思えることなどをだ。
「それはまた奇妙じゃな」
「彼には秘密があるようなんです。それが何なのか僕には分からない。でも彼はことあるごとに僕の前に現れて、意味ありげに振舞うんです」
「・・・・・」
「強いなら強いでいい。でも訳も分からず彼に振り回されているヒマは僕にはないんだ」
桑原は面白そうに笑った。
「なら、放っておけば良かろ」
「えっ」
「それがイヤなら、気にしなければいいだけじゃないかね」
「そ、それはそうですけど」
桑原は、昔の事故で不自由になった左目のまぶたを二三度撫でた。
「が、そんなことはムリじゃろうな」
「・・・・・」
「ことあるごとに君の前に現れるということは、その秘密とやらは君にも関係があるのかもしれんぞ」
「ええっ?!」
「・・・というのは、冗談としてもだ」
(冗談なんだ)
どうやら、からかわれているらしい。
「君の前に現れるのは、それがアヤツに必要なことだからじゃよ。それだけ君の存在が重要なんじゃろ」
「僕は彼に勝ったことがないんです。今打って負けるとは思いませんけど、そこまで自惚れる訳にいきません」
「・・・碁は一人では打てぬとな」
「え?・・・はい」
アキラには桑原本因坊が何を言いたいのか分からずに黙った。
桑原はふいに真面目な顔をした。そして
「精進しなさいよ」
と言い、部屋を出て行った。
廊下を歩きながら、桑原は独りごちた。
「塔矢アキラか。選ばれたのは彼か。それとも・・・いやいや、ワシにも機会はあるはずじゃ・・・」
そんな呟きを知る由もないアキラは、記者室で独り、途方に暮れた気分で立ちつくしていた。
時は移り、三月。
「塔矢、今年の新初段の進藤のことだけど」
突然話しかけられて塔矢アキラは驚いて顔を上げた。
倉田厚六段の話はいつも唐突だ。
それでアキラはいつも戸惑ってしまう。何故、顔を合わせるなり進藤の話なんだろう。
この日、日本棋院では各賞の授与式が行われる。
塔矢アキラ二段は「勝率第一位賞」と「連勝賞」を受賞することになっており、会場にやってきたのだった。
ちなみに表彰の他、新入段の授与式も行われることになっており、会場内には当然、進藤ヒカルもいるはずだ。
会場になっている二階の大ホールは受賞棋士はもとより、関係者スタッフで賑わっていた。
「塔矢の大親友なんだってな」
(・・・・・何故そんなデマが?)
あまりの誤解に返す言葉もなく、唖然としてしまったアキラである。
倉田はそんなアキラにお構いなく、自分の話を続けた。
先日、地方の囲碁イベントに仕事で行った際、偶然今年の新初段の進藤ヒカルに会ったことなどを、だ。
「・・・打ったんですか? 進藤と」
「御器曽さんがね」
倉田は、名前だけ何処かで聞いたような棋士の名前を挙げた。
「その碁、見たんですか?」
倉田は「いいや」と首を振った。では何故進藤を気にかけるのか?
「進藤、勝ったんですよね?」
「うん。指導碁で負けが込んでた一般客の碁を引き継いで、ひっくり返した子供がいるって聞いてさあ、見せてもらいたかったんだけど、遅かった」
「・・・・・」
「面白いヤツだと思ってさ! 知ってるかい? アイツ秀策の署名鑑定士なんだぜ」
何時の間にそんなことになったのか。
「・・・・・・初耳です」
「大親友ならそれ位は知ってろよ。とにかく、アイツ面白いよ。じゃなっ!」
そして、倉田は話し掛けてきた時と同じく唐突に去っていった。
「進藤・・・また訳の分からないことをやっているな」
アキラはそう呟いたが、ふと、先日の桑原の言葉が頭を過ぎり、眉を顰めた。
『皆が理由が分からずとも、アヤツの気配に引き寄せられるのよ。強い者程気になるはずじゃ』
倉田もか。と思った。何処に行っても、誰かが進藤の話をしている気がする。
実績もない、ただの新初段に過ぎないはずなのに。
その後、倉田は挨拶しながら会場内を歩き回っていたが、そうこうしている内に件の進藤ヒカルを見つけた。
「あ、進藤だ」
広い会場内でも進藤ヒカルの前髪メッシュはよく目立つのだ。
「倉田さん」
返事を返したヒカルに倉田はびしっと指を突きつけ、「オレのサイン欲しいって言ってももう遅いからなっ」と言い放った。
「・・・・・・・・・いらないやいっ」
と言いつつ、ヒカルは首を傾げた。この辺りの件は一回目と同じだ。
倉田はそのまま立ち去り、ヒカルの横に立っていた門脇が訊いてきた。
「倉田六段じゃないか。進藤君知り合いなのかい?」
「・・・・・まあ」
ヒカルは大人しく答えた。
「やっぱり院生出身だと、プロの知り合いも多いんだな」
「倉田さんは、ホントに偶然、囲碁イベントで会ったんだよ」
「ふーん、お、見ろよ。塔矢アキラだ」
門脇の指差した方を見ると、アキラの姿があった。アキラもヒカルに気がついたようだ。
前回、プロ試験に合格して、同じプロになったと胸を張るヒカルを、完全に無視したアキラに、当時のヒカルは非常に憤ったものだが、今回はどうだろう。
果たして、アキラは真っ直ぐヒカルの方にやって来た。前回と違う展開にどぎまぎしていると、アキラは頓着せずに言った。
「大手合いの組み合わせ表」
「・・・・・」
「後で渡されると思うが、君の初戦の相手は僕になった」
隣で門脇がおやおやとばかりに片眉を上げた。
ヒカルはアキラの顔を見つめた。しばらく躊躇していたが、「ちょっと」と言い、門脇の傍を離れて壁際にアキラを連れて行くと、小声で言った。
「・・・オマエの親父・・・塔矢先生、最近、どう?」
「え?」
それは、アキラにとって思いもかけない言葉だったらしい。
「どうとは?」
訊かれて、ヒカルは非常に困ったように、頭を掻きかき、言った。
「えーっと、えーっと、元気?」
「・・・・・・・」
流石にアキラもあっけにとられてしまった。
大手合いの組み合わせ表で、ついにヒカルとプロとして対局することに、闘志を滾らせていたというのに、この反応は何だ?
(何でお父さんの話なんだ?打つのは僕だ。新初段シリーズはもう終わったんだぞ。それとも全部すっとばして、もうタイトル戦のことを考えているのか。馬鹿なんじゃないのか? いやいや、頼もしいと思うべきなのか?)
困惑しきったアキラの表情に更に困ったヒカルだが、言いにくそうに続けた。
「先生、忙しいんだろ。体調に気を使って誰か必ず付いてろよ」
「・・・・・気遣いありがとう」
という以外、何を言えというのか。
完全に気を殺がれたアキラは、ヒカルを見つめた。
ヒカルが新初段シリーズの後、父親と会ったという話は聞いていない。
何故そんなことを言い出したのか、アキラにはさっぱり分からなかった。
そして、その後ヒカルは何も言わず、気まずそうにアキラの傍を離れていった。
白78
その後もアキラは、ヒカルの思わせぶりな言葉を不審に感じながらも、日々の仕事や勉強に明け暮れ、また来るべきヒカルとの対局に思いを馳せていたが、いよいよ明日がヒカルとの対局という四月のある夜、事件
は起きた。
アキラが日本棋院での用事を済ませて帰宅し、玄関を開けると、家の中から母親の鋭い声が聞こえてきた。
いつも朗らかで優しい物言いの母である。その声の様子から異常を感じてアキラはカバンを玄関の横に置くと、声のする方へ走った。
座敷の襖を開けると、父の行洋が胸を押さえて倒れこんでいた。肩をさすりながら、母の明子が、大きな声で夫の名を呼んでいる。
明子は襖が開いた音を聞いて顔を上げた。
「アキラさん、救急車を呼んで。早く!!」
アキラは、言われるまま、部屋を飛び出て電話のある玄関に走って戻った。受話器を取り上げて、あっと声を上げた。
「救急車って何番だ?」
119番がすぐに頭に浮かばなかった。つまりその位彼は慌てていた。
「・・・あ、そうか」
思い出して番号を押した。押しながら指が震えているのに気が付いた。
しっかりしていると見られている塔矢アキラも、囲碁以外の部分では普通の中学生に違いはなかったのだ。
先方から住所氏名や電話番号等の他、容態や心肺停止状態か否かについて訊かれたが、父親が倒れているところを見ただけで、詳しい状態は分からなかったため、再び座敷に行き、母親に呼吸と心音の状態だけ訊いて、それを伝える。
座敷に戻り、どうしていいかも分からず、母親の傍らに座った。
行洋は胸が酷く痛むらしかった。苦しそうに時折うめく。
時間の流れがいつもと違って感じる。いやに遅いような気もするし、救急車のことを考えれば早く進んでいるような気もする。
だが実際には、幸いなことに救急車の到着は早かった。搬送先については、比較的家から近い中央武蔵病院の受入れが決まった。院長が行洋の中学時代の友人だったため、明子が待っている間に電話を入れておいたのだ。
準備が出来ると、明子とアキラは行洋に付き添って救急車に乗り込んだ。
救急車の中は狭かった。走り出すと、サイレンの音が鳴り響く。
街で見かけることがあっても、自分がそれに乗る日が来るなどと、アキラは考えたこともなかった。
父の行洋は、苦しそうに目を閉じたままだ。明子はずっと夫の手を握っていた。
その握られた手からアキラは目を離すことが出来なかった。
(この手が、もう二度と碁石を持てなくなったらどうしよう・・・)
それは父がいなくなることそのものに匹敵する恐怖だった。
アキラにとっては、塔矢行洋は父親であること、それ以上に囲碁の師匠であり、囲碁界の重鎮であり宝物だったのだ。
だが、今、彼に出来ることは、家族として、父と母に付き添うことだけだった。
その時、行洋がうっすらと目を開けてアキラを見た。
「お父さん」
アキラが声をかけると、行洋は苦しい中、酸素吸入器の覆いの下で口の端を上げて笑って見せた。
その笑顔を見て、アキラの視界は涙でぼやけた。
病院に到着後、医師に告げられた診断結果は急性心筋梗塞。つまり心臓の冠動脈が詰まってしまい、心筋が死につつある状態だという。
発症から時間があまり経っていないため、カテーテルを手首から心筋まで通し、冠動脈ステント留置(バルーンで血管を広げた後、ステンレス製の筒を詰まった部分に留置して再狭窄を防ぐ)を行うとの説明を受けた。
心筋梗塞と聞き、胸を開くのだろうと覚悟していたので一瞬安堵したが、危険な状態であることに違いはない。
行洋が治療のためにCCU(冠状動脈疾患管理室)に入ると、母子二人、廊下の長椅子に並んで座った。
「アキラさん、大丈夫?」
息子を気遣う声は、いつもの母のものだった。自分は今でもうろたえきっているのに、明子の意外な強さにアキラは驚いた。
「お母さん、お祖父さんと囲碁関係の方に電話してくるから、ここに居てね」と言い、手帳を持って公衆電話の方へ歩いていった。
母親の姿が見えなくなると、アキラはやっと息をついて周囲を見回す余裕が出てきた。
夜の病院の外来フロアは静かだった。一部を除いて減灯されていて薄暗く、不安が増殖してくる。あわてて彼は頭を振った。
塔矢行洋が倒れたことを連絡すれば、棋界は大騒ぎになるだろう。
特に明日は十段戦第三局が行われる日であった。
現在の十段位保持者は塔矢行洋。挑戦者は緒方精二九段だ。
対局が行われる愛媛へ持って行くはずの荷物は、ほぼそのまま病院へ持ちこまれることになった。今となっては何のための準備だったのか。
(緒方さん、明日はどうするんだろう)
処置が済んでも数日は絶対安静だと医師は言っていた。緒方が愛媛に向かったところで名人が行ける可能性はない。不戦敗だ。
不戦敗といえば、父だけではない。
(進藤との直接対決は流れてしまったな・・・・)
アキラは溜息をついた。
パーティ会場で最後に進藤ヒカルと交わした言葉が頭をよぎる。
『体調に気を使って誰か必ず付いてろよ』
どういうつもりで言ったのか知らないが、棋院かどこかで父の具合の悪そうなところを見たのだろう。家族や門下の者でも気が付かなかったというのに。
進藤ヒカルは不思議発言が多いので聞き流してしまったが、もう少しあの一言を気にかけていれば良かった。
後悔先に立たずである。流石のアキラも少し落ち込んでしまった。
その後不安から物思いに耽っていたが、それもすぐ終わることになった。
母親が電話を終えて帰ってきて暫くすると、祖父母はもとより、門下の者から後援会長、棋院関係者や記者に至るまで、ぞくぞく関係者が押し寄せてきたからである。
タイトル戦最中の名人の急病と入院は、囲碁界にとっても大事件だったのである。
CCUでの処置が終わり、医師から説明のために呼ばれるまでアキラはその応対に追われることになった。
その数日後。ヒカルは名人が入院する病院を訪れていた。
手には見舞いの菓子を入れた紙袋。母親に頼んで用意してもらったものだ。
前回も、名人の急病を聞いて見舞いに来ていたが、その時は手ぶらで来てしまって気まずい思いをしたの
で、今回は準備万端抜かりなしというわけだ。人は失敗から学んでいくものなのである。
名人が倒れた翌朝を振り返れば、進藤ヒカルは前回と同じく棋院にいた。
その日は、プロになって初めての大手合の日だった。既に開始時間は過ぎている。
大広間の与えられた席に座り、来ぬと知っている相手を待つ。
部屋に響く他の棋士達の碁石を打つ音が空しかった。
塔矢アキラには不審に思われる危険をおして警告をした。何かしら養生をした結果、名人は倒れず、アキラはここに現れるかもしれない・・・・。それを確かめたくて、朝は開始時刻の一時間前に来てしまった。が、それも
無駄だったようだ。
やがて前回の展開通り、棋院の事務の人がやってきて彼を廊下に連れ出すと塔矢アキラが来ないことと、その理由を告げた。
分かっていたことではあっても、この事実はヒカルの胸に重く響いた。
時の流れは変わっているようで、変わっていないところもある。
変わらないなら、それならそれで彼にはやることがあった。
面会の受付を済ませ、病棟の塔矢名人の病室の前に立つと、中から複数の人間の話し声が聞えてくる。
声の主は緒方九段、中野の碁会所の市河と常連の広瀬、そして名人か。
(は、入りづらい・・・・・)
ヒカルは躊躇した。が、意を決してドアをノックし、ドアを開けた。
部屋に入ると、正面に応接セットと大きなテレビが見える。ベッドがあるのは突き当たって左側だ。流石は名人、特別室なわけである。
先客の三人はベッド脇のソファに座っていた。その中の一人、市河が意外そうな声をあげた。
「進藤君?」
「こ、こんにちは・・・」
緊張から若干ひきつった笑いを浮かべたヒカルに緒方がバッサリ言う。
「君がお見舞いに来るとは意外だな」
「えっ」
そう言われてしまうとヒカルには返す言葉がないが、新初段シリーズで打ってもらっているので、お見舞いに来るのが変ということはないはずだ。ここは開き直るしかない。
更に笑って誤魔化し「これお見舞いです」と、前回は持ってこなかった見舞いの品を市河に渡した。その時、名人の枕もとにあるノートパソコンが目に入った。
(あった!)
それを見て、ヒカルは自分の脈拍が速くなるのが分かった。
ズバリこれが目当てだったのだ。急に汗が吹き出てくる。
「あ、あのう、具合とか大丈夫ですか・・・?」
と、訊く声も上擦ってしまいそうだ。
そして病状についてのやりとりがあり、前回通り名人は「もう、何ともないよ」と笑って答えた。
その間も、ヒカルの視線は名人の枕もとにあるノートパソコンに向けられている。
「塔矢先生、パソコンするんですか?」
と、思い切って話題を振ってみた。
それを聞いて緒方が、「院長の許可をもらってセットしたんだ。先生もネット碁を覚えれば退屈しないと思ってね」と答えた。
「教わったのは碁を打つことだけなんだ」と名人も楽しそうに受ける。
「以前、先生はネット碁に興味がないと仰っていたので、どうかと思いましたが、嫌でないなら良かったですよ。ここにいても好きなだけ碁が打てますからね。」
「・・・・・」
ヒカルは、思わず拳を握りしめた。
「ネット碁、打つんですね」
「難しくはなかったよ。碁を打つのは得意だしね」
名人は冗談も言うらしい・・・。
そこで広瀬が「我々はこの辺で・・・」と切り出したのを潮に、先客三人は席を立った。
緒方は去り際、ヒカルの様子をじっと見ていたが、ヒカルは全く気付かなかった・・・。
病室にはヒカルと名人の二人が残された。
ヒカルはつばを飲み込んだ。手が震えてくる。まずい。うまくやれるのか。
名人はそんなヒカルに笑いかけ、席を勧める。そして、自分が倒れたためにアキラとの対局が流れたことを謝した。
名人はヒカルに気を使ったらしい。ネット碁に興味があるとみて、自ら話題を振ってくれた。
「そういえば、今朝はネット碁でアキラとも打ったんだよ。入院していても、碁を打てるのはありがたい。碁石の感触が手に残らないのは性分に合わんので、入院している間だけになるだろうがね」
名人の言葉を聞きながら、緊張から喉がヒリつくのを感じる。しかし、ここはどうしても乗り切らなければならなかった。
「先生・・・」
「ん?」
「お願いがあります」
黒79
「お願い?」
「は、はい、あのう。」
話の切り出し方は何度も考えたはずなのに、本人を前にすると、絶対に失敗出来ない緊張感から声が詰まってしまう。
「オ、オレの友達で、ネット碁をやっているヤツがいます。で、そいつは、塔矢先生と、とても、打ちたがっています」
「・・・・・」
黙して聞いている名人を前にヒカルは更に緊張してくる。手に滲む汗と室内の空調の音がいやに気になった。
「ネットでのそいつの名前は、sai。エス・エー・アイでsaiと言います」
「・・・知っているよ」
その言葉にヒカルはゴクリと唾を飲み込んだ。
お気づきの通り、この会話は前回、ヒカルが佐為のために名人に対局を依頼した時とほぼ同じものだ。
前回通りの展開で対局に漕ぎつければ良かったのだが、相手のあることで、そのままの繰り返しにはならなかった。
「以前、緒方君やアキラがそのsaiの話をしてくれたからね」
「・・・・・・」
そこで名人はヒカルを見た。
「君がsaiじゃないのか?」
「ええええっ?!」
ヒカルは飛び上がった。
「ちっ違います!違います違います!! saiは、そのう、友達です。でも、事情があって、そいつのことはナイショにしてもらいたいんです」
名人は黙ったままだ。
ヒカルには、名人の沈黙が怖かった。なので、取り繕うとして、しどろもどろになりながらも、言葉を繋ぐしかなかった。
「saiは、ずっと、先生と打ちたがってたんです。でもアイツはネット碁しかやらなくて、だから・・・」
「君とは友達なんだろう? 名前は? 君と同じ師匠についていた人か?」
「・・・・・すみません、事情があって、言えません。本当にネット碁しかできないんです」
「病気か何かで?」
「・・・・・」
いえいえ、病気どころか、もう死んでるんですよ、とは流石に言えなかった。
答えないヒカルに、名人は少し不機嫌そうに口を歪めた。
「弟子が話していたところでは、そのsaiとやらは、ネット碁を打つ者達の間で随分話題になっていたそうだ。
君もネット碁をするなら、そのことは承知しているんだろう。なのにそのことをずっと黙っていたというのは何故だ?」
「だって、それはsaiのことは誰にも言えないから、です」
「私と打ってほしいと言いながら、私に正体も明かせないというのでは納得できないな」
(駄目か)
ヒカルは固く目を瞑って俯いた。
天下の五冠棋士に対して、この申し出は無礼にして無謀過ぎることは流石のヒカルにも分かる。
というより、前回より少しだけ世間が見えている分、その無茶ぶりは自分でも空恐ろしい程だった。
だが。
前回打たれた佐為と名人とのネット対決は、佐為がヒカル以外の人間と打ち切った最後の碁だ。
それも、佐為がヒカルの元にやってきた頃から、対局を切望していた相手。
佐為の存在を、世に広めるために手を尽くしてきたヒカルが、最後にどうしてもやり遂げなければならないミッションと言えた。
もし、佐為がこの世の何処かに居るのなら、再現すれば佐為は必ずそれを見るであろう。
佐為に現れる気がないとしても、ヒカルの佐為を想う気持ち、その感謝の心は伝わるはずだ。
そしてヒカルは、この碁が再現出来たら、もう佐為を探すのをやめると決めていた。
それは悲しい決断だ。
時間を遡って以来、ヒカルは二年以上佐為を探し続けてきたのだから。
しかし、それも限界だ。
ヒカルは再びプロになった。
これからは、前に進んでいくために過去に囚われている余裕などないはずだった。そして佐為もそれを望んでいると思う。
佐為を思い切るためには、どうしてもこの碁を世に出さなければならない。
もちろん名人が打ってくれても、歴史が変わって再現できないかもしれないが、それでも挑戦だけはしないわけにいかなかった。
時を遡る前のこの場面、名人に対局の交渉をした時は佐為が居た。そして自分の声が聞こえないのを承知で佐為は叫んだ。
『私はここにいる!』と。そしてその想いと存在は恐らく名人に届いた。
だからこそ、対局後に、佐為との再戦を望んでくれたのだろう。
この世の者ではないと名人は知らなくとも、それは希代の棋士同士の「出会い」だったのだ。
今日、この対局を承諾して貰えなければ、このやり直しの世界での名人と佐為の「出会い」はない。
どうしたら、打ってくれるだろう。
ヒカルは、名人の顔を見ながら、必死で考えこんでいた。
(考えろ。何処かに必ず抜け道があるはずだ。オレと佐為の石が生きる道が)
「・・・saiが塔矢と打った碁は見たんですよね? saiの力は知っているんですよね?」
ヒカルの訴えに対し、名人は「いいや」とそっけなく否定した。
見ていないのなら何を言っても無駄だろう。唇を噛んで俯くヒカルに名人は言った。
「いっそのこと君と打つか?」
「えっ?」
それはそれで嬉しいが、別の機会にして欲しい。
弱り切ったヒカルは一か八かの勝負に出た。
「・・・オレは、真剣勝負でsaiに勝ったこと、ありません」
「?」
「というより、saiが誰かに負けるところを見たことないです。アイツはネット碁しか打てないけど、
日本だけじゃなく韓国の高段のプロとやって負けなかった。先生なら、アイツに勝てますよね?」
姑息すぎるこんな手に塔矢行洋が乗るだろうか・・・。ヒカルは泣きたくなってきた。
しかし必死過ぎるヒカルを見て、名人はついに吹き出した。
「ははは。私は負けんよ」
「じゃあ、打ってください。それでアイツを負かしてください」
名人は意地悪そうに笑った。
「そうだな、君がそこまで言うなら気晴らしに打ってもいい。それで負けたら、・・・・・そうだな。引退でもしようか」
(やっぱり、引退かよ!)
前回でも名人は対局直後、引退を発表して世間を驚かせた。そのニュースを知った時の衝撃、記憶が蘇る。
ヒカルは天を仰いだ。といってもこの場合病室の天井だが。
「・・・・・何でそうなるんですか」
名人はもともとフリーになりたいという希望を持っており、佐為との対局はそのキッカケに過ぎなかったことはヒカルにも分かっている。しかし、自分の行動が日本のトップ棋士を引退に導いたというのは、やはり胸潰れることに違いなかったのだ。
引退を思い止めたいが、それが正しいのか分からない。止めても無駄だとも思う。結局ヒカルはそれ以上何も言えなかった。
「・・・・・・」
名人はしばらく押し黙ってどうするか考えているようだった。
ヒカルは次に発せられる言葉をただ待つしかない。
「よかろう。打とうか」
やがて名人は承諾の言葉を発した。
一度決めると後は早い。淡々と前回と同じ対局設定をヒカルに告げた。
つまり一週間後の午前十時開始で持ち時間は三時間。その日は面会も全て断り対局に臨む、と冷たい口調で一方的に告げられてヒカルは内心震え上がった。余計な言葉を差し挟むことは出来なかった。
ただ「ありがとうございます」と深く頭を下げて、彼は病室を辞した。
「やっべえ・・・。緊張した」
廊下に出たヒカルは深く息を吐き出して、その場にしゃがみこんでしまった。
高段者との対局をした後並みの疲労度を感じる。流石は名人のプレッシャーだ。
対局は叶ったが、勝負は完敗と感じた。
遮二無二にかかって行ったヒカルに名人が手心を加えたのだ。
やはりヒカルはまだまだ経験を積む必要があるようである。
座り込んで放心しているヒカルに通りかかった看護師が声をかけてきた。
「大丈夫?気分が悪いの?」
流石は病院だ。ヒカルはあわてて立ち上がると「大丈夫です」と返事をして歩きだした。
あとは、「その日」に備えるだけだ。
「・・・・・・やっぱりそうだ・・・・よなあ」
和谷義高は、自室のパソコンのディスプレイを前に首をかしげた。
彼がプロ試験に落ちてから半年が経っていた。
試験当時中学校三年生だった彼は、家族会議の結果、高校へ進学することになってしまった。
その時点で何とか合格出来そうな学校を中学校の先生に選んでもらったのだ。
今では不本意ながら高校生だ。
去年のプロ試験はプレーオフまで粘り、あと一歩のところで落としたこともあって、不合格の落ち込み方は相当なものだった。
師匠の森下は「ここまでくれば、来年はプロだ」と熱く激励してくれたが、内心落胆しているだろう。それも申し訳なく思う。
また、門下ではないが、師匠の勉強会で一緒の進藤ヒカルに思わず八つ当たりをしてしまい、そんな自分にも腹が立った。その後もヒカルと勉強会では顔を合わせるが、多少の気まずさを覚える。何とか関係を復旧したいものだ・・・、と思いながら、ただ時間ばかりが過ぎていった。
それらを考えると、高校進学は落ち込んだ気を紛らす役にはたったかもしれない。
しかし、それでも高校は彼にとって、万が一プロになれなかった場合の保険でしかない。
ただ行っている、というだけで、全てが無駄な時間のように思えた。
もともと学校の勉強は好きな方ではない。
院生仲間で仲が良い伊角は高校に行くのが苦ではなかったようだが、所詮、伊角は口では何と言っていようと勉強も出来る男なのである。
プロ志望者としての一般論として、高校に行きたくない和谷の気持ちに理解は示してくれても、「勉強も嫌なんだよ!」という切実な想いまでは分かってくれないようで、一抹の寂しさを感じていた。
そういう訳で、心ならずも高校へは通っているがプロをあきらめる気は毛頭なく、日々の生活は囲碁中心なのは言うまでもない。
プロになったら高校は直ちに退学するつもりだ。家族にもそう宣言してある。
今日も高校から帰るなり、カバンを部屋の隅に放り投げ、勉強中の棋譜を取り上げたが、ふと何かの予感に誘われてパソコン立ち上げ、いつものワールド囲碁ネットに接続した。
すると観戦者数が尋常でない数に上っている対局があった。
片方は‘ichiryu’。そしてもう片方は‘toya koyo’。
「一柳先生もそうだけど、名前がまんま過ぎだろ。これってホントに名人か?」
と、呟きながらも見過ごせるわけもなく、観戦に加わる。
塔矢行洋と親しく話す機会などないが、ネット碁をやるようなタイプとは思えなかった。
しかし、碁の内容を見ればどう考えてもアマチュアではない。
「これってマジ? 名人ってネット碁やるのか? 入院中じゃねェのかよ」
疑わしく思っているのは観戦者だけではなく、これは予てからネットプレイヤーとして知られている当の一柳棋聖も同じだったらしい。少々甘いと思われる手を打つと、途端に‘toya koyo’に叩かれていた。
こんな芸当が出来るプレイヤーが一般人にいるわけがない。
「うおお、本人だ。間違いねェ。すっげえ!!」
終局と同時に‘toya koyo’は画面から去って行ったが、こうなるとサイトに行くのをやめることなど出来なかった。
外出している時は無理だが、家にいて時間さえあれば、とにかく画面を確認しに行ってみる。
数日後、接続してみると‘toya koyo’は ‘L・L’と対局していた。
‘L・L’は中国のトップアマの李臨新のことだ。昨年の国際アマチュア選手権の優勝者で、会場には和谷も行っていたので顔は知っている。
その‘L・L’がなす術もなくやられている。相手が強ければ強いほど容赦するつもりはないらしい。
少々イメージと違うが、入院を期に名人はネット碁にハマってしまったのだろうか?
名人が声をかければ、病室で碁を打ってくれる棋士などいくらでもいるだろうに。
和谷には訳が分らなかった。しかしチャンスではあるので、彼も何度か‘toya koyo’に対局を申し込んでみたが、残念ながらそれは叶わなかった。同じことを考える人間は多く、‘toya koyo’が現れる度に全世界から対局申し込みが殺到していたからだ。
誰も想像しなかったに違いない。
まさか塔矢行洋名人が、あるアマチュア棋士とのネット対局に備えて、ネット碁に慣れておくために「練習」をしていたなどとは。
白80
「あら、あかりちゃん、いらっしゃい」
学校帰りのヒカルが、あかりを連れて玄関にいるのを見て、母親の美津子は笑顔で声をかけた。
「おばさん、こんにちは」
あかりも笑顔で挨拶を返す。
「でも、どうしたの? 今日は部活じゃなかった?」
首をかしげる母親にヒカルはぼやいた。
「囲碁部の他のヤツらは用事があるんだってさ! オレとあかりだけならウチで打ってた方が、近所なんだし、あかりも帰りが楽だろ」
「すみません、おばさん」
頭を下げるあかりに美津子はあわてて首を横に振る。そして、後でお茶とケーキを持っていくと請け合った。
ヒカルの部屋に入ると「ごめんね、いそがしいのに」と、あかりはまた謝った。
「いーよ。六月の大会がオマエ中学最後だろ。ちっとは棋力の底上げしないとな」
言いながら、ヒカルは碁盤の前に座った。向かいにあかりも座るように促す。
あかりは「はいはい」と慣れた様子で座り、
「二月の冬季大会は、女子は二回戦で負けちゃったけど、次は優勝出来るようにがんばるからね」
と、ガッツポーズをして見せた。
「そーだな」
ヒカルは腕組みして囲碁部の影の監督らしくうなずく。
ちなみに男子は準々決勝まで勝ち進んだ。負けた相手は宿敵(?)海王中学校ではない。
決勝まで進めば海王中と戦えたのに、と三谷は悔しがり、「オマエがプロになるのが悪い!」とヒカルを罵倒した。
部員でもプロ入り決定のヒカルは当然参加出来ない。
顧問の大菅タマ子と葉瀬中の校長と一緒に観戦していただけである。実質は監督のようなものであった。
従来と異なり、その時校長がついてきたのは、自校からプロ棋士が誕生したので興味を持ったのと、状況把握の為と、その他の大人の事情の為である。
結果的に校長の世話係タマ子先生と解説員進藤初段のような体裁になってしまい、ハッキリ言えばやりにくいことこの上なかった。
大会という位であるから、囲碁ファンの集まりとも言える訳で、むしろ観戦している新初段進藤ヒカルの方が出場者より注目の的であった。
誰彼を問わず、すれ違う人たちから「おめでとう」と声をかけられ、至る所で携帯で写真を撮っている音が聞こえていた上、サインを求める気の早い者もいた。
久しぶりに会った海王中の囲碁部顧問の尹をはじめ、強豪校の顧問達からも祝いと激励の言葉をもらった。
その様子を見て校長とタマ子先生は、やっと「これはスゴイことなのかも知れない」と思ったらしい。
校長は「遅くなったけど、今度、全校集会の時にみんなに言いましょう」とヒカルの肩を叩いて請け合った。
創部時の状況を思えば葉瀬中囲碁部は随分出世したものである。
小池は大会後「進藤先輩のおかげで春には新入部員が大勢来ますよっ!」と明るい展望を語っていた。
結果として見学者は多かったものの今のところ入部者はなく、ヒカルは苦笑いをする他なかったのだが・・・。
結局のところ「スゴイ」のは進藤ヒカル個人の話であった。当然ながら大会に出場する部員達は別に頑張らなくてはならない。
「三谷もサボってばっかりいないで部活に来ればいいのにな」
「三谷君、意地張って今でもヒカルに教えてもらうの嫌がるもんね」
ヒカルは首をすくめた。
意地っ張りは、三谷の個性だから仕方がない。それに『進藤センセー』などと三谷に言われたら、それはそれで引きそうな気がする。
「嫌なのはしょうがねェよ。あれこれ言わなくても打てばアイツは勝手に学習するし。ちゃんとその分強くなるからな」
「それはそうだよね」
「ただ、全然部室に来ねェ」
「ヒカルだって何時も来られるわけじゃないんだから、ヒカルが部活にいる時に来てくれなきゃね。だって、他に三谷君の相手できる人いないんだし」
今でもヒカルを除けば、葉瀬中学校のエースは三谷である。その次に強いのは金子だが、その金子も自分では三谷の練習相手にはならないだろう、と言っていた。
結果、馴染みの碁会所に入り浸っているらしい。三谷曰く、その方が強くなるという理屈だ。
碁笥の蓋を開けたあかりは、碁盤を指差して訊いた。
「ええと、九子置いていい?」
「おう」
ヒカルの了解を得て、あかりはいそいそと石を置いた。そして
「よろしくお願いします。進藤センセイ」
と頭を下げた。
「おう」
ヒカルは頷いてあかりを見つめた。
あかり改めて黒石を取り上げると、碁盤の上に置いた。
明日は塔矢行洋名人とのネット対局を取り付けた日であった。
前回も塔矢行洋との対局前日にこうして、この部屋であかりの指導碁を打ったのだ。
佐為の気が散るだろうと思い、断ろうとしたヒカルに佐為は「私、打ちたい」と言う。
あかりと打ってピリピリした気持ちを落ち着かせるのも悪くないというのだ。
今となっては、ヒカルも成程と思うことがある。
交際するようになって指導碁の数が増えて分かったのだが、あかりと打つと確かに気分が落ち着くような気がするのだ。
学校で、あかりのことを癒し系だという声をよく聞くが、その通りなのかもしれない。
目の前のあかりは、「えーと、えーと」と呟きながら碁盤を見つめている。
前回は全く感じなかったのだが、そうしている姿は非常にかわいらしく、あの時告白して本当に良かったと思うのであった。
「何、ニヤついてるの?」
あかりがヒカルの顔に気がついて、上目づかいに訊いてきた。
「別に」
指導碁中だ。ヒカルは、あわてて真面目顔を作った。
そして、翌朝、ヒカルは塔矢名人との対局のために六本木のネットカフェを訪れていた。
今は父親の書斎でネット碁を打てる環境にあるが、前回通りの碁を再現するため条件を同じにしたかったのだ。
店内を見回すと、幸い当時打った時のパソコンが空いていて胸をなでおろす。
受付のカウンターに行き、三谷の姉がいないか一応確認する。三谷が言った通り、やはりアルバイトはやめていた。三谷姉がいれば無償で使わせてもらえたのだが、今日は全てにおいて「前回と同じ」であることが重要だったので、むしろ望むところだ。ヒカルは受付係に希望の端末を伝え、手続きを終えると早速席に向かった。
パソコンを立ち上げると、早速いつものワールド囲碁ネットにアクセスする。
まだ‘toya koyo’はいない。
壁にかかった時計を見ると、九時五十五分だ。ヒカルはゴクリと唾を飲み込んだ。そのまま暫く待つ。
数分でも不思議なほど長く感じられ、自分の心臓の音が気になった。
そして十時。
(来た・・・・・)
画面に‘toya koyo’が現れていた。
その日、緒方精二九段は車で塔矢行洋の入院している病院に向かっていた。
塔矢名人は、二日前に入院中なのを押して彼との十段戦の対局をこなしていたので、その後のお見舞いというわけだ。タイトル戦中とはいえ、その辺りは弟子の立場を忘れない男だった。
緒方が名人の部屋に着くと愕然として立ち尽くした。部屋には面会謝絶の札がかかっていたからだ。
(容体が悪化したのか?)
とにかく事情を訊こうとナースステーションに向かおうとした時、ちょうど名人の病室から看護師が出てきた。
「塔矢先生・・・何かあったんですか?」
あわてて呼び止める緒方に看護師は振り向いた。
通常、容体など身内でなければ教えてもらえないところだが、一番弟子として頻繁に出入りしていたのが功を奏して看護師は気軽に教えてくれた。
「この札なら心配いりませんよ。今、すごく集中してパソコンで碁を打たれてます」
「ネット碁ですか?」
「そうです。一日邪魔されずに打ちたいから面会謝絶の札を出してくれって」
「・・・・・」
「食事も手つかずで・・・。病院食も治療の一部なんですから食べてくれないと困るんですけどね」
そして立ち去り際「身内の方からおっしゃってください」と何故だか緒方が注意されてしまった。
緒方はとまどっていた。ネット碁を名人に勧めたのは彼自身だが、名人は「手すさび」だと言い、「性に合わない」と言っていた。それが、ここ暫くは頻繁に打っているらしい。そういう噂を聞いてはいたが、入院中に面会を断ち、食事も取らないで打つなど、只事ではない。
「誰と打っているっていうんだ・・・」
面会謝絶の札を出すように依頼したということは、予め約束をしていたということだ。
夫人が知っているかもしれない、と緒方は携帯を取り出したが、思い直して車に向かった。
名人はネットに詳しくない。接続しているのは緒方が教えた「ワールド囲碁ネット」で、登録名は彼が設定した‘toya koyo’以外にない。ならば訊くのは後にして、今はその対局を観戦した方がよい。碁を見れば相手の見当もつくかもしれない。彼は、愛車を急発進させて自宅へ向かった。
「これか」
緒方は、自宅に戻るなり、パソコンを立ち上げ、件のサイトに接続した。
一見して尋常ではない数の観戦者数の対局が目に入る。
‘sai’ vs‘ toya koyo’だ。
「saiだと?」
その名を見た時、緒方は驚きより「やはり」という気持ちの方が強かった。
普通の棋士なら、わざわざ入院中に、ネットで、しかも人を遠ざけてまで打つ必要などない。
世界アマの後に打たれたsaiと塔矢アキラのネット碁対局を緒方は観戦している。
この‘sai’はその時のsaiであると緒方は確信した。
既に対局は終盤に入っていた。わずかに黒の名人が優勢に見えたが非常に細かい碁になっている。
名人とこんな碁が打てるのはプロでなければsai位だ。
いつ、どうやってこの対局の約束をしたのだろう。
名人はパソコンを使わないし、携帯も持っていない。つまり電子メールでのやりとりは考えにくい。
おそらく緒方が病室にパソコンを持ち込んでから、昨日までの間の見舞客の誰か、または十段戦第四局で出会った誰かがsai本人、またはsaiに対局を取り持ったのだろうと思われた。
緒方は目を細くして画面を見つめる。
アキラがかつて、進藤ヒカルがsaiではないかと疑っていたのを思い出す。
彼は後にそれを否定したが、内心、まだ何か引っ掛かっている様子だ。
だが、画面上に現れた碁盤の白は若獅子戦で観戦した進藤ヒカルの碁とは別人のものに見えた。
が、棋風は似ていると思う。進藤ヒカルの関係者ということは十分に考えられる。
「sai・・・一体誰だ?」
思わず呟いた。
緒方は暫くの間、画面を見ながら考え事をしていたが、やがて携帯電話を取り出すと芦原弘幸の番号を押した。
ヒカルは興奮していた。
そして同時にほっとしていた。
ついに始まった名人と佐為の直接対決は、ヒカルの望み通り前回と同じ展開を辿っていたからだ。
ネット碁なのにもかかわらず、画面から感じられる迫力も前回通り。
今日は『棋譜並べ』のような碁、とは絶対に思われたくない。そこは細心の注意を払わなければならないと思っていたが、名人からのプレッシャーから手が震え、打ち間違えないように必死で、そんな疑いをもたれるような心配はなかった。
あの時、佐為の考えも名人の考えもヒカルには見えたように思えた。あの日の佐為の思考を辿って打とう。
あとは師匠の藤原佐為の渾身の碁をここで再現しつつ、この対局の中心で巨匠同士の戦いを再び体感すればいいのだ。
そして、その対局相手の塔矢行洋名人。
彼は病院の自分の個室で進藤ヒカルが打つ、藤原佐為の碁と対峙していた。
行洋は藤原佐為を知らない。
本人も碁も。
彼が知っているのは、インターネットの囲碁サイトでプロに勝つ程強く、息子や弟子たちが興味を持っていて、息子がライバルと目する進藤ヒカルという新初段の、ネット碁しか出来ない「友達」だということだけだ。
いくら入院中とはいえ、何故進藤ヒカルの申し出を受けたのか、自分にもよく分からなかった。
ただ、何か、予感がしたのは確かだ。
彼は自分の実力と同じくらい、自分の運と勘を信じてもいた。
先日「友達」の為に必死に頼み込むヒカルを見て、どう断ろうか考えていた。しかしその時、この勝負は必ず受けねばならぬと彼の勘が教えていた。
だから受けた。
受けたからには全力を尽くす。そのつもりで、ネット碁の練習までしてこの日を待った。
そして今。行洋はsaiが、対局するに不足のない棋士だと知った。
国名は「JPY」だが、やはり思い当たる棋士はいない。
誰なのだ?と、多分にもれず行洋は思う。勝ったら進藤ヒカルは教えてくれるだろうか。
ヒカルは友達と言ったが、子供の打つ碁ではないと思う。恐らく師匠筋だろう。
ここまでの対局。中盤では白のsaiに良いように展開していると見せかけつつ、盤上進むうち、いつの間にか形勢は名人の黒に傾いていた。
かなり細かい。黒はこのまま手厚く打ち進めば良いようで、この白はそれでは済ますまい、と行洋は思った。
その時、何故かひやっとした空気が首筋を通り過ぎた気がした。
病棟は温度管理に気を使うものだ。不審に思い、行洋は窓の方を見た。特に開いている様子はない。
パソコンの画面に目を戻す。
画面を通して、対局相手の気迫や威圧感が伝わってくる。それはずっと感じているものだ。しかし。
何故だろう。
今、それに独特の冷気が加わったような気がした。
この感覚には覚えがある。
(ああ、そうだ)
これは新初段シリーズで進藤ヒカルから感じたものと同じだ、と行洋は思った。
黒81
塔矢行洋にとって、アキラは自慢の息子であった。
生まれてきた時は、必ず囲碁棋士になって欲しいと思っていたわけではない。しかし、ほんの小さい時分から将来を期待するに充分すぎる程の才能を見せるわが子を見て、彼は喜んだ。
教えれば教えるほど吸収し、生真面目な性格で、自分のことを尊敬してくれている。そして囲碁以外では優しい子供であった。
小学校にあがる頃には、同じ年頃でアキラに敵う子供はいなかった。それで他の子供たちの才能の芽を潰さないように息子に大会に出るのを禁じた。そしてプロや院生の弟子たちと研鑽をつませ、頃合を見てプロ試験を受けさせるつもりだった。
プロになれば、その後は自分の足で未来を切り開いていくだろう。
その息子が、自分の経営する碁会所にふらりとやってきた小学生に二回連続で負けたという。
聞いた時は信じられなかった。
進藤ヒカルは、息子が初めてライバル心を剥き出しにした最初の人間となった。
進藤と対局するために、中学校の部活に入りたいと言い出した時は正直驚いた。
プロ低段の弟子には負けることも少なくなった息子が、中学校の部活とは。部員の子供たちに迷惑にならなければよいと気をもみ、妻に学校の顧問に電話をかけさせたりもした。
しばらくすると中学校の大会があり、アキラは希望が叶って進藤ヒカルと対局出来、そして負けた。
まさかと思った。
居間に息子を呼び、その時の碁を並ばせた。
息子がまずい碁を打ったわけではないと知り、安堵した。
しかし。
相手の進藤ヒカルに違和感を覚えた。
これ程打てる子供が全くの無名だったというのもあるが、出てくると同時にプロや関係者が一斉に彼に注目し出した、その登場の唐突さにだ。
記者の天野はその件について「謎です」と言う。と同時に取材先で彼の話が出ることは多いと認めた。
ただ、才能はともかく危うい碁を打つことも多く、不安定な部分があるという。「アキラ君のライバルと言えるかまだわかりませんよ」と語っていた。
子供にはよくあること。しかし、院生になったと聞いた頃に棋院で見かけた進藤ヒカルは、子供らしい風貌をしている割に妙にもの慣れていて、とても棋院に出入りし始めたばかりの子供には見えなかった。
子供と大人が入り混じる年頃と言えばそれまでだが、進藤ヒカルはこれまで行洋が面倒を見てきたどの子供とも違っていた。
どこが、と言われれば、自分にもはっきりと言えない。
強いて言えば、雰囲気が、としか言いようがない。
それで、新初段シリーズで彼を指名する気になったのだ。
どんな子供か興味があった。
新初段シリーズの対局が始まってすぐは、これまで打ってきた新初段とそれ程違いがあるとは思えず、先日の違和感は気のせいかと思った。
しかし対局が進み、黒の進藤ヒカルが失着を打った頃から、奇妙な感覚が名人を襲った。
相手から突然、凍るようなプレッシャーが彼に押し寄せたのである。
対局相手が桑原本因坊なら、然もありなんというところだが、目の前に座っているのは中学生の新初段である。
それで手が止まる名人ではないが、その時の異様な感覚は今でも体が覚えている。
今、パソコンの前に座っていて、一瞬感じたのはその時の感じに良く似ていた・・・。
行洋は汗ばむ手を握り締めた。
その瞬間、白が気合いの一手を打ちこんできた。
その時、アキラは若手棋士達との勉強会に参加中であった。
アキラは入段後、同門棋士達の紹介もあって、様々行われている碁の勉強会に積極的に参加しているのだ。
父親と親しい高段者の老練な碁を見るのは非常に勉強になるが、若手棋士達の若い視点からの取り組みに参加するというのも十分意義のあることだったのだ。
そして今日も、親しい棋士に誘われてやってきたのであった。
息抜きで雑談が始まった時、入院中の名人がネット碁にハマっているという話で盛り上がった。
それで今も参加しているか見てみようということになった。
果たして、ネット上では‘sai’ vs‘ toya koyo’対局の真っ最中である。アキラは全身の血が逆流するかと思った。
何故、父とsaiが対局しているのか全く分からない。
だが、他の棋士達はタイミングの良さに大喜びし、直ちに観戦に入った。当然ながらアキラもその輪の中に入る。
その時、自分の携帯の着信音が鳴った。
(何だこんな時に!)とアキラが怒りを覚えつつ出ると、芦原であった。
「あ、アキラ、今どこ?」
いつもながらの能天気な声が癇に障った。
「・・・勉強会中です。どうしたんですか?」
ちょっと低めの声で応対すると、芦原は意地悪そうに言う。
「あ、機嫌悪そうだな。いいのかい?ビックニュースがあるのに」
「何です?」
「今、ワールド囲碁ネットで、」
「saiがお父さんと打ってるんでしょ?」
携帯電話が一瞬沈黙した。
「なーんだ知ってたのか」
「芦原さんもネット碁打つの?」
意外だった。パソコンは苦手と聞いていた気がする。
「そうじゃないよ、緒方さん情報。でもせっかくだからアキラにも教えてやろうと思って」
親切な男である。一応礼を言うと、芦原はその緒方から頼まれ事の最中なので、といって早々に電話を切った。
緒方もこの対局を見ている。普段ネット碁を打たない人達までこの対局に注目しているのだろうか。と、アキラは思った。
画面で見る限り、観戦者は既に尋常ではない数になっている。恐らく世界中のネットプレイヤーがこの対局を見ているのだろう。
何故父が、と思うと腑に落ちない。
そう言えば、父の行洋は今日、ネット碁に集中したいから病院には来なくていいと、母に言っていたらしい。
そして、去年の夏にネットから姿を消していたsaiと対局している。
これが偶然であるわけがない。
(お父さんはsaiを知っているのか?)
だとすればどうやって知り合ったというのだ? 十段戦の時でなければ、見舞い客の誰かか。
その時、碁会所の市河が病院で見舞いに来た進藤に会ったという話を思い出した。
(進藤・・・進藤もこの対局を観戦している?・・・あるいはまさか)
画面を見ると、二年前のネット対局が目に浮かぶ。そして、画面上のsaiは、最初に会った頃の進藤ヒカルと何故かダブるのだ。
そこまで考えて、アキラは首を振った。
進藤とsaiが同一人物というのはあり得ない。そう結論付けたはずだ。
(明日、病院に行って、お父さんに確かめよう。答えてくれるかどうかは分からないが・・・)
本当は約束していたとしても、偶然ネット上にエントリーしていただけだと言われればそれまでなのである。
今は他の棋士達とともに、画面上に展開される碁を注視するより他なかった。
名人の手が止まった。
ネットカフェで、ヒカルは背筋を伸ばした。
佐為の渾身の一手。これで黒良しと見られた碁の形勢が白に傾いた。
当時の碁を並べているだけとはいえ、ヒカルはその時の佐為の気合いに引きずられるように気が張っていた。
今、自分はネットカフェに居るはずなのに、何故か他の気配を感じなかった。
激しい戦いの中にありながら、静かだった。自分と佐為と碁盤と塔矢名人。この場にはそれだけしかなかった。
話せなくとも佐為はこの碁の中にいる。そして今自分も佐為と一緒に居る。それが実感出来る。
それが嬉しい。
(佐為はすげェよ・・・そして塔矢先生も)
佐為が消えてからも、そして時間を遡ってからも、何度この日の碁を並べたか分からない。
(かっこいい)
自分もこんな対局をしていきたい。何度もそう思った。
続くヨセ。全てが前回通り。ヒカルが指摘した逆転の手も名人は打たなかった。
もう、棋譜は動かない。
全てが終わろうとしていた。
そしてついに黒は投了した。
ヒカルは祈るように目を瞑り、心の中で祈るようにつぶやいた。
まだ近くに佐為の気配が残っている気がする。
あの日の佐為が浮かべた感無量の表情、そして笑顔はまだ目に焼き付いている。
(終わったよ、佐為)
これが前回、世界が知った藤原佐為の最後の碁。
(佐為、どこかで見ていてくれた?)
誰かの中で。でなければ生まれ変わって。あるいは、昔のように自分の後ろで・・・・・。
そして、ヒカルが期待を込めて恐る恐る後ろを振り向こうとしたその瞬間、彼の両肩が後ろから何者かに押さえつけられた。
「えっ?」
そして次の瞬間、聞き覚えのある声がヒカルの耳元で響き、彼は文字通り凍りついた。
「おまえが!」
「・・・・・」
「おまえが、saiだったのか!」
ヒカルは身動き出来なかった。押さえつけられていることもあって、ディスプレイ画面を落とすこともパソコンの電源を切ることも出来なかった。
喉が干上がった気がする。それでもやっとのことで声を絞り出した。
「緒方先生・・・」
それから、ヒカルはほとんど引きずられるようにして、インターネットカフェを出ることになった。
塔矢アキラならいざ知らず、何故緒方九段がここに現われたのか全く分からない。
緒方は道の路肩に停めている車に乗るように言ったが、それは断固として拒否した。このまま緒方の車に乗ったら、拷問された揚句に東京湾に沈められるか何処かの山中に埋められる気がした。いや、そんなことがあるわけないのだが、そういう物騒なことを想像させるような剣幕だったのだ。
緒方も無理強いすると、誘拐犯に間違われると思ったのか、一度開けた車のドアを大きな音をたてて閉めると、近くにあった喫茶店を指差した。
そして、喫茶店の店内。
緒方は店の奥の方へヒカルを追いこんでいった。出口に近いと逃げられると思ったらしい。そして、一番奥の端の席に座るように命令した。
生きた心地もなく身を縮めて座るヒカルにメニューを差出し「何がいい?」と言ったところで答えられるわけもない。
緒方はブレンドコーヒーとオレンジジュースを勝手に注文すると、ヒカルに向き直った。
「・・・・事情を説明してもらおうか」
「じ、事情って?」
ヒカルは、真っ青になりながら訊きなおした。
緒方は、無言のまま煙草をポケットから取り出し火をつけた。抜け目のない緒方は初めから喫煙席を選んで座っていたのだ。中学生に気を使わない男である。
「おまえが、何故、囲碁歴を偽るのか、何故若獅子戦で負けたのか、何故saiであることを隠すのか。・・・・他にもあるが、取りあえず今はそれだけ答えろ」
ヒカルは目をきつく瞑った。目の前の緒方が見えなくなれば、今日のことが全部チャラにならないだろうか、と一瞬現実逃避したくなったのだ。だが、そんなことは無駄なことはヒカルが一番よく分かっていた。
対局は成功したが、下手を打ったのだ。感傷など捨てて父親の書斎で対局すれば良かった・・・。
それからしばらくして、ヒカルは目を開いたが、緒方の顔を見る勇気がなかったので、下を向いたまま、小さい声で答えた。
「囲碁歴はウソじゃないです。若獅子戦は自分のヨセが甘かったから負けました。それに」
前方から押し寄せる怒りのプレッシャーが半端でなく、ヒカルは圧死しそうになりながら続けた。
「オレは・・・オレはsaiじゃないです」
「なーんだとお・・・・」
じゃあ、さっきのは何だ!という緒方の怒鳴り声が店内に響き渡った。
店内が一瞬で静まり返り、従業員と客が一斉にこちらを見る。緒方は右手を挙げて謝罪した。
それから間もなく、店員が恐る恐る注文した飲み物を持ってきたが、双方、口をつけることはなかった・・・。
「これからオレと打ってもらう」
「今日はムリです」
ヒカルは小さく、だが即座に断った。どう考えてもまともな碁が打てる気がしなかった。
「断れる立場だと思ってるのか?」
「だから、オレはsaiじゃないんですってば」
「いい加減にしろ!さっきオレの目の前で打っていたんだぞ、おまえは」
「でもオレじゃない!」
ヒカルは、顔をあげて、緒方を真正面から見た。
「それでもsaiはオレじゃないんです」
緒方は腕組みしたままヒカルを見据える。
ヒカルもまた緒方を見つめた。が、その視線はすぐに外れ、助けを求めるように周囲を彷徨う。
(いない・・・・やっぱり、いないんだな。佐為)
ヒカルはあきらめたように肩を落とした。
そして、言った。
「緒方先生は・・・佐為と打ったのに」
「・・・・・?」
「折角佐為が打ってくれたのに」
「・・・・・・」
「何でだよ。何で酔っぱらってたんだよ、あの時」
「・・・・・・何の話をしている?」
「佐為は緒方先生とだって打ちたがってたよ。だから最後に打ってくれたんじゃないか!」
知らずにヒカルの目からは涙がこぼれていた。それを拭うこともせず、ヒカルはついに言った。
「知りたい?」
「・・・・・・」
「知りたい? 緒方先生。オレと・・・佐為のこと・・・・・」
打ち掛け3
誰かが泣いている。
すすり泣く声が聞こえる。
周囲は薄暗くもやっていてあまり視界が効かないが、この雰囲気には憶えがあると塔矢アキラは思った。
そうだ。何度か見た、あの夢の中だ。
平安時代風の調度の日本家屋の中。
しばらく様子を見ていると人の気配がする。その方向に向かって目を凝らしてみると蹲った人影が見えた。
見覚えがあるその姿は、やはりというか、この夢だからというか進藤ヒカルであった。
今度は平成の中学生らしい普通の恰好だ。翻って自分はといえば、学校の制服だった。
そうして確認すると、修学旅行で民俗村に見学に来ているような気がしてくる。
それにしても進藤の様子がおかしい。具合でも悪いのだろうか。
アキラはゆっくり近づき、声をかけた。
「・・・・・進藤・・・」
返事はない。
蹲ったまま、ひたすら床を見つめている。
傍らにしゃがんで肩に手をかける。
「進藤、どうした?」
声をかけると、俯いていたヒカルは、顔を上げてアキラを見た
目には涙がたまっているし、頬には何度も流れたらしい涙の跡があるしで、流石のアキラもぎょっとした。
中学生になって以降、男の本気の涙など、碁で負かした相手のもの以外見たことがなかった。
状況が分からずとまどっていると、泣きながら進藤ヒカルが掴みかかってきた。
「・・・・・いないんだ。どうしよう、アイツがいない」
「アイツ?」
アキラが訊きなおすと、進藤ヒカルは何度も頷いた。
「アイツが居なくなって、オレ、すごく驚いて、それで、すごく探したんだ」
「・・・・・・・・うん」
「オレがバカだから何処かに隠れちゃったんだと思って、それでアイツに認めてもらおうとオレ、すごくがんばったんだぜ。」
「・・・・・・・・・」
「だけど、いない」
「・・・・・・・・・」
「もう、オレに出来ることはみんなやったのに、それでもアイツいないんだ。」
「・・・・・・・・・」
「何で? 何で? 何でだよ? なあ!」
「・・・・・・・・・」
「どうしよう。どうしよう。どうしよう」
「なあ」と言われても「どうしよう」と言われても困るアキラだった。
それから進藤ヒカルは首を前後左右に振りながら、周囲に視線を向けていた。
それで探し人が見つかるとでも思っているのだろうか。やはり様子がおかしい。
アキラは当惑した。アイツと言われても、さっぱりわからない。そもそも進藤は誰を探しているのか。
そこでふと、かつて夢の中で見た、総髪で烏帽子の狩衣男を思い出して、ダメもとでアキラは訊いた。
「進藤、アイツって誰?」
「え」
ヒカルは驚いたようにアキラを見た。
「アイツ・・・って」
何故そこで驚く? と突っ込みたくなったが、ここで雰囲気を崩してはチャンスを失ってしまう。
アキラは、かつて進藤ヒカルに対して出したことがないような優しい声で言った。
「そうだ。アイツが誰か分かれば、僕も一緒に探せる。」
ヒカルは、少しぼうっとした顔になって考えていたが、急に怒り出した。
「ふざけるな。オマエが知らなくてどうするんだよ!!」
そこでアキラは目を覚ました。
やはり夢だったのだ。
布団の中でアキラはつぶやいた。
「・・・・・・知らないよ。知るわけないだろ」
枕元で目覚ましが鳴っていた。
イライラしながら手を伸ばして目覚ましを止める。
脳裡にはかつて夢の中で見た、総髪で烏帽子の狩衣男の姿が浮かんでいた。彼のことを訊けるかと思ったが・・・。
「バカバカしい。所詮は夢の話だ」、とアキラは忘れることにした。
白82
その日の夜、緒方は行きつけのバーにいた。
常連客もバーテンダーも、険悪なオーラを振りまく緒方を恐れて、極力近づこうとはしない。
「くそっ」
周囲が引いている様子は緒方も気づいていたが、それでも時折、怒りの呟きが口から出るのを抑えられない。
緒方の怒りの理由。
それは昼間の進藤ヒカルとの一件だ。
入院中の塔矢名人を見舞いに病院を訪れると、名人はネット碁に集中しているので面会謝絶だという。
看護師は、対局を邪魔されたくないだけで容体が悪化したわけではないと言った。
ネット碁は遊びと言っていた名人だ。何故そんなに熱中するのかと考えた時、ふと進藤ヒカルの顔が浮かんだ。
つい先日、彼はひとり名人の見舞いに訪れている。
門下でも親しいわけでもないのに、子供一人で来たというのが気になった。新初段シリーズの関わりだというのなら、関係者の大人と来そうなものだ。
そこで以前、中野の碁会所で芦原弘幸に聞いた話を思い出した。
六本木のネットカフェでヒカルがネット碁をやっていると聞いて、アキラが飛び出していったと。当時は
「どれだけ気にしているんだ」
という笑い話だったが、ここに来て笑い話ではなくなってきた。当時アキラは進藤ヒカルこそが’sai’だと疑っていたのではなかったか。
半信半疑で自宅に戻ってパソコンで確認すると、果たして塔矢名人の対局相手は’sai’であった。
緒方は携帯電話を取り出すと芦原を呼び出した。家に居ると聞いて、直ちにパソコンを立ち上げワールド囲碁ネットの’toyakoyo’と’sai’の対局を電話で実況するように命じた。
それから、再び車に戻り、六本木へ車を走らせたのだ。
実況といっても、当時の緒方の携帯にはハンズフリーの機能はなかったし(もちろんWEBも見られない)、耳と肩で携帯電話を挟みながらの運転で事故を起こしてタイトル戦がパーになっても困るため、定期的に電話をかけ直さなければならなかったのだが。
芦原がアキラにおせっかいな電話をかけたのは、この実況のさなかでのことだ。
芦原に詳しい場所を確認したお蔭でヒカルが居たというインターネットカフェはすぐに見つかった。
店内に入ると、すぐさま進藤ヒカルを探す。
オープンスペースにパソコンが並べてあるだけの店内でターゲットを探すのは簡単だった。
相手に気づかれないように、出来る限り気配を消して背後から近づく。ヒカルは集中して画面を見つめており、背後に気を配っている余裕はないように見えた。
それはそうだろう。
画面に表れているのは’sai’と’toyakoyo’の対局画面だったのだから。
観戦用の画面ではない。まさに、進藤ヒカルが塔矢行洋名人と対局をしているのだ。
まさかと思った。塔矢アキラが進藤ヒカルに非常に関心を持っているのをからかっていたし、実際に若獅子戦で彼の対局も見た。中学校での大会の棋譜も見た。
しかし、今戦われている碁との違いはどうだ。棋力も格も違いすぎる。得体が知れないのにも程がある。
盤面は終局に近づいていた。細かいが僅かに名人が悪い。
何ということだろう。「遊び」とはいえ、師匠が互戦で新初段に負けようとしている。
ひたすら盤面の世界に浸るヒカルの背後で緒方は終局まで見守った。
そして。
犯人確保の時が訪れた。
子供のイタズラの時間は終わったのだ。
事情聴取に対して進藤ヒカルは非常に幼稚な言い訳で対抗してきた。
対局を真後ろで見ていた相手に「ボクじゃないもん」攻撃をかけてきたのだ。
相当うんざりしてきたので、少し怖めの声を出したら、やっと事情を話すと言い出したのだが、その内容というのが言い訳としても不出来すぎて、緒方はどうしていいか分からなくなってしまった。
「平安時代の囲碁オバケが現代に蘇って打った碁を再現していた」
・・・・・・緒方からすれば、「???」である。
いや、待て。仮に囲碁オバケが本当にいたとして、何故リアルタイムで打っている碁を「再現」したなどといえるのか。それを問うと、苦し紛れか何か知らないが、進藤ヒカルは、こう言ったのだ。
平成十年の暮れから今年の五月まで自分はその藤原佐為という囲碁オバケに憑りつかれていた。
佐為は、自分の前は本因坊秀策に憑りついており、囲碁棋士としては、秀策本人ともいえる人物である。
そして佐為が消えた後は翌年の五月まで普通に過ごし、新設された「日中韓北斗杯」の大会中突然、佐為と出会った平成十年の暮れに時間を遡ってしまい、それからは二度目の時間を生きている。
「だからオレは、その間に見た碁は知っているし、再現できるんです」
二の句が継げないとはこのことだ。来年までだと?
となれば、
「来年の五月までのことが分かるなら、これから起こることを言ってみろ」
という質問が出てくるのは当然のことだ。
すると進藤ヒカルは青い顔をして言った。
「・・・・・塔矢名人が・・・引退します」
この言葉で流石の緒方も堪忍袋の緒が切れた。
「大人をからかうのもいい加減にしろ!!!」
「嘘をつくにしても、もう少しマシな言い訳を考えろ!!」
怒りに任せて、そんな言葉を子供にぶつけた。
その時だった。
それまで、ただ怯えたような顔をしていた進藤ヒカルの様子が激変した。
今まで必死そうだった青い顔が真っ白になり、完全に無表情になった。
その後は、緒方が何を言っても、もうヒカルの口が開くことはなかった。
不信と絶望しかなくなった瞳を見て、緒方は「しまった」と思った。
仮にも大人なら、子供にこんな目をさせてはいけない。
だが、もう取り返しはつかなかった。
その後は時間ばかりが過ぎていき、沈黙を守るヒカルを持て余した緒方は彼を解放した。
車で家まで送ると言ったが、彼は暗い目で緒方を一瞥すると、それでも先輩棋士に対する礼として頭を下げ、店を出て行った。
自分はからかわれたのだ。
それは間違いない。
(なのに、この後味の悪さは何だ!!)
それからの緒方は、胸のもやもやを抱えたまま、荒れていた。
気晴らしになるかと思い、夜を待って行きつけのバーに来ても、気は晴れなかった。
こんな話、誰にも話せやしない。
子供の戯言を真に受けたと自分が馬鹿にされるのがオチだ。
タバコを喫おうとして胸ポケットを探ると、先ほど喫ったのが最後の一本だったと思い出した。
苛立ちは、当分収まりそうもない。
黒83
そして、緒方と別れた後の進藤ヒカル。
ヒカルは、喫茶店を出るとそのまま地下鉄の駅に向かい、帰宅の途に着いた。
自宅最寄の王子駅の改札を出ると、雨が降っていた。
降り出してから間もないらしく、灰色の道路が、雨の点々の跡が増えるにつれて黒く染まっていく。
それを立ち尽くして見ていたヒカルは益々気が滅入っていった。その横を人々が次々と傘を取出し、あるいは雨を避けて走っていく。
ヒカルのカバンの中に傘はない。
気持ちが沈み切っていたヒカルは、そのまま歩き出した。
濡れて帰った方が、今の淀んだ気分が雨と一緒に流れて消えるような気もしたし、単純に傘を調達するのがかったるかったこともある。
雨はヒカルの金のメッシュが入った髪をあっという間に濡らし、服の中にも水がどんどん染み込んでいった。
まだ四月。寒くないわけがない。歩いていると次第に体が震えてきた。歯はガチガチ音を鳴らし始め、手もかじかんでくる。
「寒い・・・・・」
心も体も。というか比喩でなく体は冷たくなっていった。
ヒカルは先程の緒方とのやり取りを激しく後悔していた。
何故、緒方九段に打ち明けてしまったのだろう。焼きが回ったとしか言いようがない。
一瞬でも解ってもらえると思った自分が愚かだった。
「話したところで、信じてもらえるわけがない」元々そう考えて、今まで誰にも打ち明けなかったのだ。
相談したところで頭がおかしいか、心を病んでいると思われるのが関の山だ。もしこれが他人の話で打ち明け話をされたのが自分なら、絶対に信じない。
信じてもらえると思ったなら、最初に佐為を見た小学校六年生当時に親に訴えていただろう。
だから緒方が信じないのは当然なのだ。
口から出た言葉は取り返しがつかない。全否定されたショックと、これからのことを考えるだけで身が縮むようだ。
緒方はこの話を誰かに話すだろうか。塔矢アキラに? それとも名人に?
・・・・・最悪だ。
塔矢アキラには、いつの日か自分から話すつもりだった。
今までさんざん自分は‘sai’ではないと言ってきたのに、それは嘘だったと告げられて塔矢アキラは自分をどう思うだろう。
いや、自分などどう思われてもいいのだ。ただ誤解されたくない。自分が‘sai’だと思われるという事は、せっかくインターネット上にだけ存在出来た「藤原佐為」が消えてしまうということだ。
そんなことには耐えられない。
(どうしよう・・・)
雨は沈んだ気持ちを流してはくれなかった。ますます落ち込んだ心を抱えながら、ヒカルは家へと歩いて行った。
完全に濡れ鼠になったヒカルが帰宅すると、家にいた母親の美津子は息子を見て仰天した。
「アンタ何やってるの!!」
無言で玄関に立つヒカルの周りには水たまりが出来ていた。
「・・・・・・」
唇を真っ白にして何も答えない息子に対して、母親のとった行動は早かった。
ヒカルの腕を掴むと、廊下が濡れるのも構わず問答無用で風呂場へ連行したのだ。
蛇口を捻ると勢いよくシャワーから水が飛び出してくる。それが湯になるのを確認して
「とにかく、服を脱いでシャワーを浴びなさい!」
と、強い口調で命令した。
最近あまり叱られることがなかったので、ちょっと驚いてヒカルは頷いた。
それを確認して母親は風呂場から出て行った。
水を含んだ衣服は脱ぎにくかったが何とか体から引きはがし、風呂場の隅に置くと湯を頭から浴びる。
落ち込んでいても、シャワーの湯は温かくて気持ち良い。
震えはあっという間に収まり、突然血行が良くなって指先がちくちくした。
風呂場から出ると脱衣所には替えの下着と服が置いてあったので、着替えてダイニングに行くと母親はドンと音をたてて、カップをヒカルの前に置いた。何かと思ったらホットココアだった。
「・・・・・・」
やはり何も言わずにテーブルの前に突っ立っていると、母親は苛立たしそうに、今から風呂に湯を張ってくるからそれまでココアでも飲んで暖まっていろと、再び命じた。そこでヒカルはやっと
「今、シャワー浴びたから、もういいよ」
と言ってみたら、思い切り睨まれた。
そして風呂に入ったら五分以上、湯に浸かっているように厳命された。
返す返すも「ああしろ」「こうしろ」と言われてばかりの一日だ。と、ヒカルは心の中でぼやいたが、
親からしてみれば、そんな呑気な話ではなかっただろう。
美津子は激怒していたのである。
息子の様子から、何かあったらしい、という事位は分かる。
だが、だからといって何故ずぶ濡れになっているのか。自分の息子は、急な雨で傘がなかったらその辺のコンビニででもビニール傘を買う知恵もないのか。何が社会人なんだか笑わせる。
人がせっかく一生懸命育ててやっているのに、勝手に雨に濡れて風邪をひくなど許せる訳がなかった。
何ごとかショックな出来事があったのかもしれないが、その場の気分で雨に濡れて高熱を出してひっくり反られてはたまったものではない。母親にとっては体調を崩す前に子供の健康を守るのが最重要のミッションなのである。
碁の世界にどっぷり浸かってからのヒカルは、美津子には手が出せないようで戸惑いも多かったが、こと、健康に関しては母親の独壇場であった。
その後おとなしく風呂に浸かったヒカルは、これ以上叱られたくなかったので言われた通り五分数えることにした。
時計がないので声に出して数えていたら、対局の秒読みの様な言い方になっているのに気が付いて途中でやめた。職業病である。
ヒカルが風呂場から出るやいなや、美津子は
「ちゃんと温まったんでしょうね?!」
と確認してきた。
「うん」
「五分数えたわね?」
「大体だけど、うん」
「・・・・・そう。お腹はすいてないの?」
「・・・大丈夫」
そして美津子は息子の様子を見て、今日のところは何があったのかまで問い詰めることはせず解放した。
それで、ヒカルはホッとして二階の自分の部屋へ行くことが出来た。
ヒカルは自分の部屋に入ると壁によりかかって座り込んだ。
「・・・・・あれ」
充分に温まって風呂から出てきたヒカルは、何だか心まで少しホカホカしているのに気が付いた。
先程まで、あれ程落ち込んでいたのに不思議なものである。
そう。進藤ヒカルは、割と単純な子供なのだ。
しかし少し気分が楽になったとはいえ、問題は何も解決されていない。
繰り言のように同じ心配や後悔で頭が一杯になってくる。
彼にとって、緒方に事情を話すのは賭けだった。
実際に佐為として打っていて、それを目撃されてしまった以上、ごまかしは利きそうにないし、それで逃げを打って自分が‘sai’だと世間に広められては困る。
もう佐為の碁のストックはないのだし、佐為の代わりになれると思うほどズルくも自惚れてもいない。
だったらもういっそのこと話してみようと思ったのだ。
それに、バレるのが緒方ならいいか、という気もしていた。
最後に佐為が対局しようとした緒方なら、他の者よりはいいだろう。
と、そう思った。
愚かだった。
緒方は気持ちいい程、全否定で怒鳴り飛ばしてくれた。
そういう結果になるのは想定内だったはずなのに、自分でも驚くほどショックだった。
大量の氷水を浴びせられたような気がした。
『誰も信じてくれる訳がない』
分かっていたはずなのに。
「オレってバカだなあ・・・」
しかし、信じてくれないといってショックを受けて済む話でもない。
『佐為の碁を再現して佐為を生かす。そしてそれを見た佐為に帰ってきてもらう』という作戦は実行され、前者は成功し後者は失敗に終わった。
失敗しても、その後は普通にプロ棋士として戦っていけばいいはずだったのだが、その矢先とんでもないことになってしまった。成功したはずの前者も台無しになろうとしている。
前回は、プロ引退撤回を塔矢名人に確認するため病院を訪問したヒカルだったが、今回はとてもそんな勇気はない。ましてや前回事例では、病院内で緒方九段と遭遇しているのだ。
「行くなんてムリムリムリムリムリだっ」
もう前回通りに時間を進める必要はない。行っても行かなくても名人は引退しようとするはずだ。
それを緒方は引き留めてくれるだろうか。その場合やはり自分のことを持ち出すのだろうか。
「ううううう」
ヒカルは唸ると部屋に大の字になって手足をばたばたし、ついで部屋の隅に転がっていた枕に八つ当たりを始めた。バンバン叩かれて枕の羽が部屋を舞う。
その音に気付いた母親の美津子は階段の下から心配そうに二階を窺うのだった。
しかし気が重いからといって、部屋に引きこもるわけにもいかない。
それから数日間、ヒカルは学校と家との往復のみで過ごし、あかりにも「ちょっと風邪気味」と言って避けて過ごした。そうして、誰からどんな連絡が来るか待ち構えていたが『よお進藤。オマエ‘sai’だったんだってなっ!』という電話はかかってこない。
それで次に囲碁界の様子見に、勇気を振り絞って森下九段の研究会に参加してみた。
部屋に入るなり目に入ったのは、和谷がドヤ顔で並べる盤面に、その場にいる者たちがくぎ付けになっているところだった。
「・・・・・」
(和谷が’sai vs toyakoyo’の対局を並べている・・・)
ヒカルは襖を開けたまま動けなってしまった。
当然、研究会の面々からは「何してんの。早く入んなさい」となる。
最近、少々気づまりな和谷ですら、
「進藤、saiだ。saiがまた現われたぜ」
と、声をかけてきた。
「sai」と言われて一瞬縮みあがったが、どうも自分のことを言っているわけではないと理解し、それでヒカルは恐る恐る碁盤の近くに寄って座った。
和谷の説明に森下九段も他の者も熱心に聞き入っている。
それは前回と同じ光景ではあったのだが・・・。
もし。この面々が「sai」が進藤ヒカルだなどと誤解したら、自分を見る目が変わるのだろうか。
藤原佐為は囲碁の神に選ばれて千年永らえた天才だ。
流石のヒカルでも‘sai’だと思われるのは、気づまりどころか恐ろしい。
前回は得意の絶頂だったヒカルだが、今日は遠慮しつつ(それでも黙っていられず)解説した・・・。
今回ばかりは和谷と打ち解けていなかったのが幸いした。
遠慮がちなヒカルに不審を抱かれずにすんだからだ。
そしてその数日後、学校帰りに「たまたま」前回通り出会った倉田六段と一色碁を打っている時、ヒカルは塔矢行洋名人の引退のテレビニュースを見たのだった。
白84
「ヒカル、大丈夫? この間からなんか変だよ?」
「うん・・・・」
葉瀬中の理科室件囲碁部室のこと。久しぶりにヒカルは囲碁部に顔を出したのだった。
最近ふさぎがちで口数も減ったヒカルをあかりが誘ったのだ。久しぶりの囲碁部はヒカルにとってホームグラウンドだと実感した。そこに居るだけで何となく気分が落ち着く。
「最近体調もあんまり良くないしね。」
「・・・・・この間の雨の時、傘なくて濡れちゃったからな。もう平気だから」
ヒカルは言い訳がましく言った。
母親があれ程気を使ったにもかかわらず、その後体調がすぐれない日が続いた。
といっても風邪をひいたというよりは、疲労がたまっていて抜けない感じだ。原因は名人との対局や、その後の緒方九段の追及のせいだと思われた。
そんなヒカルに三谷が容赦ない言葉を投げつける。
「要するにたるんでるんだよ。体調管理も仕事の内だろ」
「もう治ったってば! それにこの間の対局だって勝ったんだから大丈夫だ」
プロ最初の大手合は対局相手の塔矢アキラが欠席のため不戦勝。その後のプロ二戦目が数日前に行われたのだが、ヒカルは無事勝利を収めていた。
といっても対局内容は相手が前回通りに打ってきたので、負けるわけがなかった
最近での出来事を振り返ると前回通りだったり、違っていたりだ。
「やっぱり塔矢名人の引退発表がショックだったの?」
あかりが心配そうに訊いてきた。
塔矢名人の引退は、実現しないことを願っていたがこれは歴史通りになった。
ショックかと訊かれればその通りだが、引退は名人がその後のプランを含めて元々考えていたことだろうし、対sai戦の敗北はきっかけにすぎないことも分かっていた。
それでも囲碁界にとって四冠棋士のいきなりの引退宣言は事件だった。棋院は大騒ぎになっていたし、森下九段が本人と親しいこともあって、記事を読むと早速塔矢家へ訪ねて行ったそうだ。森下研究会でもこの先の日本の囲碁界を心配して皆があれこれ言い合っていた。
そんな中、ヒカルは外からその様子を静かに見ているしかなかった。
塔矢行洋はこれで終わらない。これから日本のタイトル戦を離れて、より自由な世界に羽ばたこうとしている。
今度もそうなるはずだ。なってくれなければ困る。
「それは関係ねェよ。囲碁界にとっては大騒ぎだけど名人には名人の考えがあるんだろ?」
「塔矢くん、これから大変だろうね」
金子も言葉をついだが
「アイツだってもう独り立ちした棋士なんだから。平気さ。」
とヒカルはあっさり断じた。
そこで碁笥の石をじゃらじゃらと触って遊んでいた三谷がぼやいた。
「塔矢名人ってまだ五十過ぎだろ? 年寄の桑原本因坊がまだ現役なのに、早すぎるんだよな」
「妖怪と一緒にされてもな・・・・・」
桑原本因坊。すでに人間とは思われていない・・・。
「てか、別に棋士をやめるとは言ってないし。碁はじーさんになっても打てるのがいいところだよ。うちのじーちゃんだって、まだ家で打ってるぜ・・・・・あれ?じーちゃん・・・」
そこでヒカルは動きを止めた。何かひっかかる。
何か忘れている。何だ?
椅子を後ろに傾けて、ヒカルは頭を捻った。
「ヒカル、椅子が倒れるよ。何やってるの?」
あかりが心配して声をかけたところで、ヒカルは大声をあげた。
「じーちゃんの家!」
「は?」
その場にいた全員が「?」という顔をした。
「じーちゃんの家のお蔵に泥棒が入る!」
「えええ?!」
“sai”のことが緒方にバレたことと名人の引退のことですっかり忘れていたが、そういえば数日後に祖父母の家の蔵に泥棒が入っていたことを、ヒカルは突然思い出したのだった。
「入ったの?」
「いや、これから」
「これからって何だよ」
「・・・・・・予言?」
時々ヒカルは予言(?)をする、という話を以前、金子は津田久美子から聞いていた。
これがそうか。金子が津田を見ると、彼女も頷いた。
本当にスピチュアル少年なのか?
三谷がすばやく突っ込みを入れる。
「蔵って、時代劇に出てくる蔵?オマエのじいさんの家には蔵があるのか」
「そう、庭にある」
「何だよオマエん家、金持ちか!!」
三谷にとっては、そこが重要事項らしい。童謡に黄金虫が金蔵を建てる歌がある位だから、蔵は富の象徴と思ったらしい。
そこで、自分が不思議発言をしてしまったということにヒカルはやっと気が付いた。
椅子を傾けるのをやめて座り直すと、尤もらしくに言い直した。
「金持ちじゃねェよ。だけど進藤家は昔からこの辺に住んでるし、じーちゃんの家は戦争中に米軍の空襲で焼けなかったから昔の蔵がそのまま残ってるんだ・・・ってお父さんが言ってた。家は建て替えてるけどな」
「・・・で。なんで泥棒?」
「さ、最近、えっと、怪しいヤツがよく歩いているって話を聞いた。絶対泥棒だって。オレはソイツを捕まえたい・・・」
「近所で被害が出てるの?」
「・・・・・これから出るんだってば」
「警察に言えばいいのに」
「警察は被害が出ないと動かないってテレビで言ってたぞ」
「不審者情報があればパトロールはしてくれるはずだよ」
ヒカルは困った。これから泥棒が入るのは事実なのだが、その前に不審者情報が警察に寄せられているか、警察のパトロールが回っているかなど知る由もない。
とにかく自分の祖父母の家に泥棒が入るなんて気持ちが悪いし、相続した品や思い出の品を盗まれて祖父が怒り、落ち込んでいたのも可哀そうだったし、片づけになっていいと言っていた祖母だって実は大切にしていた茶道具を盗られていた。
泥棒が入ると事前に分かっているなら、何とかしてやりたい孫なのである。
「よし、分かった。オレも行くぜ」
と言って三谷が立ち上がる。
「えっ?」
「オマエだけじゃ返り討ちになるだけだろ。愚かな泥棒に葉瀬中囲碁部の強さを思い知らせてやろうぜ」
「思い知らせる強さが違うんじゃないの」
金子の言葉に三谷は口の端をあげて答えた
「いいじゃないかよ。それに蔵って中がどうなってるのか見てみたいしな」
「・・・・そうねえ、それは私も見てみたい」
金子が突然賛成票を投じた。
学級委員でもある金子が参加を表明したので、驚いてあかりと津田久美子は顔を見合わせた。
「金子さん、いいの?」
「いいわよ。本当に泥棒が来るかどうかはともかく、現役の蔵なんてめったに見学する機会ないしね。社会勉強じゃない?」
優等生的前向きさ全開のコメントである。
それを見て他の部員の面々も次々賛成の手を上げる。
「よし、じゃあ決まりだ。いいな進藤」
「うそだろ・・・・・」
「みんな、がんばろうぜ!!」
「おう!!」
「・・・・・・・言っとくけど、蔵があったってフツーの家だからな!がっかりすんなよ」
にわか警備員の配置日は悩む必要はなかった。実際に泥棒が入った日は分かっていたからだ。
祖父母はその日は出かけているので、庭で張り込みをしていればよい。
むしろ家を空ける言い訳の方がめんどうくさかった。理由としては囲碁部勉強会ということで口裏をあわせることになっている。
そして当日。
この日集まったのはヒカル、三谷、夏目、金子そして小池の5人。
泥棒退治に女子が来るのは危険だと、藤崎あかりと津田久美子は来るのは禁じた。金子が混ざっているのは「私はお目付け役だから」という本人の主張のためだ。金子が来るというのを止められる男子はこの部に存在しない。
「わあ、本当に蔵だ」
夏目がヒカルの祖父の家の蔵を見るなり歓声を上げた。
ピクニック気分で集合したようにしか見えない囲碁部員達の能天気な顔を見ていると不安しか感じない。いっそのこと歴史が変わっていて泥棒が来なければいいと願うヒカルなのだった。
なかなか蔵を見る機会のない子供達ははしゃいでいた。注意しなければそのまま隠れん坊でも始めそうな勢いである。
「オマエ達、遊びに来てるんじゃないんだからな、分かってるんだろうな」
「わかってるって!!」
・・・・・とても楽しそうである。
前回事例の通りなら泥棒は母屋には侵入しない。古びた錠前だけしかない蔵だけに入り、適当に骨董品をさらっていっていた。
勝手知ったる祖父母の家のはずなのに無人の家の庭は何故だか不気味な感じがした。
これから泥棒が来るという予感のせいなのか。
庭への侵入ルートを考えて死角になる場所、すなわち母屋の壁際と縁側前の盆栽が乗った棚の下の二組に分かれて蔵の入口を窺う。
壁際チームはヒカル、三谷、夏目。盆栽チームは金子、小池の布陣だ。
「本当に来るのかなあ・・・」
体格が大きいために壁際チームに入った夏目が、家にあった野球のバットを膝にかかえて呟いた。
それに対して三谷が意地悪そうな顔をして言った。
「来るよな進藤。来なかったら、ただじゃおかねェ・・・。部員全員に放課後マック3回奢りだからな」
やはりそれはビックマックでしかもセットなんだろうか・・・、などと少々気が遠くなりながらヒカルは答えた。
「来るってば・・・・多分・・・。それより少し黙ろうぜ」
住宅地の夜は暗い。しかも聞こえてくるのは虫の声と近所の家のテレビから漏れる音くらいだ。話していないと少々怖いが、話声が聞こえると泥棒に警戒されるかもしれない。
「・・・・・・・」
それから20分程経っただろうか、玄関から庭へ通じる路地の方から微かな物音が聞こえてきた。
(うそ。マジで来たのかよ)
(どどど、どうしよう)
(本当に泥棒か?民生委員だったり、回覧板持ってきた近所の人じゃないのか)
泥棒らしい感じではない。会社帰りのサラリーマンのようなグレーのスーツを着た男だった。
だが、善意の隣人でないことは明らかだった。何故なら入ってきた人物は真っ直ぐ蔵の入口に向かうと鍵に何か細工を始めたからだ。
子供達が本当に現れた不審者に向かっていくか逡巡していたほんの1分にも満たない時間で、その不審者、恐らく泥棒は鍵をあっさり外して音もなく扉を開き、蔵の中に消えた。
「早っ!」
「おいっ、入っちゃったじゃねーかよ」
「ど、どうしよう」
最初に行動を起こしたのは三谷だった。壁際から飛び出すと彼は言った。
「どうしようじゃねえ!早く捕まえてあの鍵を外す技を教えてもらおうぜ!」
「・・・・・オマエは何をしにここに来たんだっ!!」
泥棒をというより三谷を追いかけてヒカルも駆け出す。
それを夏目がバットを構えながら、不安そうについていく。
そしてそれを見ていた盆栽チームの二人。
「大変だ。金子さん、僕らも応援に行きましょう」
隠れていた棚の影から立ち上がろうとした小池を金子が押しとどめる。
「ダメ、しゃがんで」
「えっ?」
「仲間がいる」
「・・・・!」
金子は、先程不審者が入ってきた路地の方を指差した。
何か動く影が見えた・・・・・。
「あいつら、何で一緒に蔵に入っちゃうかな。泥棒一人だったら閉じ込めて警察呼べば良かったのに」
金子がつぶやくと同時にその影が蔵に向かう。今度は紺スーツの男だ。
子供達が居ることを仲間に知らせてそのまま撤収してくれればいいが、ヒカル達が無茶をして怪我でもしたら一大事だ。
「小池君、ちょっと電話するから庭と蔵の様子見てて」
金子は命じると、ポケットから携帯電話を取り出した。
黒85
そして蔵の中。
勢いよく飛び込んだ割には、不審者が居る怖さと暗闇と淀んだ空気で動きがスローになった三谷である。
ひきつった笑いを浮かべながらヒカル達に顔を向け、小声で言った。
「・・・・・さっきのおっさん、居ねェな・・・この後どうする?」
何を今更!と言いたいヒカル達である。だが、ここまで来ては後に引くわけにもいかない。
懐中電灯をONにして辺りを照らす。
一階部分は古くなったタンスなどの家具の他、庭仕事の道具なども置いてあり金目の物があるようには見えない。泥棒が狙うとしたら二階だ。そして二階には・・・。
(佐為の碁盤がある)
前回、佐為の碁盤は盗られることはなかったが、一応無事を確認したいヒカルは階段に向かった。
「ええっ、進藤君、二階に行くの?」
夏目が小声で非難の声を挙げた。
「一階に居ないんだから二階に行くしかねェだろ」
ヒカルが言うと、三谷まで反対し始めた。
「いや待て進藤。本当に悪者がいたら危険があぶないぞ」
「・・・オマエ、本当に何をしに来たんだよ?」
ヒカルは言い捨てると、構わず階段を上がって行った。
「ああ、行っちゃった。」
三谷は、「ううう」と唸りながら暫く逡巡していたが、
「仕方ない。オレ達も付き合ってやるか」
と言ってヒカルを追おうとしたところ、背後から物音が聞こえた。
「・・・」
閉めたはずの扉が静かに開くのを見て三谷と夏目は飛び上がった。
「わあああっ!」
と、叫ぶと二階へ駆けあがった。
彼らが二階に上がると、進藤ヒカルが何か探し物をしている姿が目に入った。
どう見ても人を探しているようではない。
「進藤?」
「ないなあ、じーちゃん、どこかに動かしたのかな」
「おい、やばい、やばいぞ」
三谷が苛立たしそうに言った。
「何がやばいんだよ。やっぱり暗いと見えないな」
ヒカルはそう言うと、階段の横にある電灯のスイッチをつけた。
「わっ!オマエなんてことを」
「眩しいっ」
二人の抗議は尤もで、暗闇に似た状況からいきなり明るくなって暫く周辺が見えなくなった。
目が慣れてくると、そこに侵入者が立っていた。
「出たっ!!」
「ばかーっ!!だから言っただろ!」
男も暫く目をしばたかせていたが、3人に向かって近づいてきた。
「おい、君ら、何をしている!」
先に蔵に入って来たグレーのスーツの男だ。
中肉中背の三十歳台後半位、サラリーマン風に見せているが、本当はどうだかわからない。
ヒカルが前に出て言った。
「アンタ誰?」
男はヒカルの質問には答えず、無表情のまま訊いてきた。
「君らだけ?大人は?」
「そんなこと、アンタに言う必要ないぜ」
「ああ、そうか、居ないんだ」
男は納得すると今度は怒りを込めた低い声で言った。
「君らはどこの子だ。勝手に人の蔵に入り込んで、どういうつもりだ。盗みに入ったんだろう!警察と学校に通報するぞ!!」
泥棒を捕まえるつもりが、逆に叱られて子供達はぎょっとした。
勝手に上がり込んだのは本当なので、後ろめたい気持ちもある。三谷と夏目は震え上がった。
この日に泥棒が入ったことを事実として知っているヒカルだけが踏みとどまった。
「そういうアンタ誰?こんな夜中に人の家で何してるんだよ」
それを聞くと、ふん、と鼻を鳴らして男は言った。
「私は、この家のご主人に依頼されて蔵の中の物を調べに来た骨董商の者だ」
それを聞いてヒカルも含めて子供たちは、「えっ」と声をあげた。
「・・・骨董商?」
「そうだよ、ご主人に留守の間に蔵の中の骨董品の価値を調べておいてほしいと依頼されてきたんだ。」
「・・・・・」
話が聞いていたことと違う。三谷と夏目は顔を見合わせ、ヒカルを見た。
ヒカルは信じられないという顔しか出来ない。
「小父さん、泥棒じゃないの?」
「馬鹿な事を言うな。」
それを聞いて、夏目は胸をなでおろした。
「何だ、そうだったんですか。てっきり泥棒かと・・・」
男は大きくうなずいた。
「今なら誰にも言わずに黙っていてあげるから、分かったらさっさと出ていきなさい」
「はい、どうもすみません。行こう、みんな」
夏目が慌てて帰ろうと促す。それを三谷がさえぎった。
「いや待て。だったら、何で入口の扉を、鍵じゃなくて変な針金で開けたんだよ」
「・・・・・・・」
「こんな夜中、灯りもつけずに主人の留守に調べるなんて変じゃねェ?」」
それを聞いて男の表情が徐々に不穏なものに変わっていった。
「小父さん、本当に骨董屋なら名刺見せろよ」
男は名刺を出す代わりに
「ようし、本当に警察に連絡するからな」
低い声で言うと携帯電話を取り出した。
ヒカルは言った。
「脅したって無駄だ。警察なんてオレは怖くないぜ。だってオレはこの家の関係者だからな。警察が来たって、せいぜい親とじーちゃんに叱られるくらいだ。本当に警察に通報されて困るのはアンタだろ」
「・・・何だと・・・」
「骨董屋だなんてウソだ。そうじゃないなら早く警察に通報してみろよ!」
「・・・・・」
男は黙った。そして通報もしなかった。
それを見て、三谷は後ずさり、自分の携帯電話を取り出した。それこそ警察に通報するためである。
だがそれは出来なかった。
後ろから三谷の腕を掴んだ者がいたからだ。
「痛えっ!!」
後から来たもう一人の紺スーツの男だった。
「今日はだめだな。どうするこのガキども」
「そうだな。でも顔を見られた」
三谷は腕を捩じりあげられ痛みで悲鳴を上げた。
「いっ痛てええええっ!!離せバカ野郎っ!!」
「三谷君っ」
夏目は持っていたバットを振り上げて、三谷を掴んでいる男の腕を狙って振り下ろしたが、あっさりかわされてつんのめって転んでしまった。
「おい、三谷を離せよ!」
ヒカルも叫んだが、大人の男二人に素手で飛びかかる程無謀でもなかった。
取りあえず、投げるものを探した。
蔵ではあるが、物置でもあるので明らかに値打ちがないものは、投げて破損しても許してもらえるだろう。
部屋の隅に積んであったハードカバーの本があったので、それを次々と三谷の腕を掴んだ男に向かって投げつける。
男は避けたが、本の角が少し三谷のアゴに当たってしまった。
「うわっ!痛てえっ、バカやめろ」
「あ・・・ごめん・・」
三谷は「くそっ」と悪態をつくと、男の腕にかみついた。
「痛っててててて!ふざけんなこのガキ、殺すぞ!」
男は叫ぶと三谷を突き飛ばした。
勢いで三谷が壁に打ち付けられる。三谷は痛みでその場にうずくまった。
「三谷!」
怒った男は、棚の脇にあった碁盤に気が付いて持ち上げた。それはヒカルが先程まで探していた佐為の碁盤だった。
思わずヒカルは悲鳴のような叫び声を上げた。
「やめろ!!!それに触るな!!」
碁盤に価値を見出さなかったらしく、紺スーツの男はせせら笑いながら碁盤を「そらよっ!!」と、ヒカルに投げつけた。
三谷も夏目も当然ヒカルがそれを避けると思った。
だが、ヒカルはそうしなかった。
正面から碁盤を受け止めたのだ。
佐為の碁盤は木で出来ていて、それなりに厚みも重みもある。そして、それが不安定な体勢で直撃するとどうなるかといえば、
ヒカルは碁盤ごとふっ飛んだ。そのまま整理棚に背中から激突し、ついで床に崩れ落ちたが、その衝撃で棚にあった桐箱がいくつかヒカルの頭上に降っては床に散らばった。
そして、それでもヒカルは碁盤を離さなかった。というより、しがみ付いているように三谷には見えた。
「進藤・・・!」
「進藤君!」
仲間二人が叫んでヒカルに駆け寄る。「大丈夫か」と三谷が声をかけると俯いていたいたヒカルがようやく顔をあげた。そしてヒカルの顔を見て夏目が悲鳴を上げた。
「進藤君、血が出てる!」
「・・・・・」
碁盤の角が当たったのだろう。ヒカルの目の際の上辺りから血が流れ出していた。ヒカルは額に手を当て止めようとしたが止まらない。滴った血が碁盤に落ちていった。
「わ、やばい。碁盤が」と言って慌てるヒカルを夏目が叱った。
「進藤君、いいから碁盤を置きなよ!」
だが、ヒカルは首を振った。「・・・。無理。絶対やだ」
「バカか!! 何言ってるんだ、いいから離せ」
と三谷が碁盤を取り上げようとするのをヒカルが抵抗した。
「・・・やだってば!」
「バカ野郎、離せ!」三谷が無理やり取り上げると夏目がすかさずハンカチでヒカルの傷口を抑えた。
当然その間、自称骨董商の二人もその場に居たわけだが、子供達が取り込み中の内に退散することに決めた。このままでは警察に捕まった場合、傷害罪まで加わってしまう。彼らの目的は盗みであって人を痛めつけることではなかった。ここは撤退すべき時と判断して子供達が気づかないように静かに後退し、階段を下りて行った。
男二人は蔵の入り口にたどり着き、静かに扉を開けた。そしてそのまま何もなかったように立ち去るつもりだった。
だがそうはならなかった。
いきなり懐中電灯の明かりの一斉放射が彼らを襲った。
「うわっ」
蔵の前に立った彼らに浴びせられた光の奥に、立ちはだかる男達がいた。その数十人以上はいるだろう。
「・・・・・・・・え?」
若い、そして、揃いもそろって背が高く体格の良い男達が1ダース程。
「おっさん達、どこに行くつもり?」
「何だ、おまえら!」
スーツの男達は、明らかに狼狽しながら、それでも虚勢を張って言った。
「わ、私達はこの家の主人に頼まれた骨董商・・・」
「はあああああ―――っ?!聞こえないなあ!!」
一番前に居た青年が大声を上げた。その声と同時に男達が一斉に二人を取り囲んだ。
「な、何なんだよ、これ・・・」
グレースーツの男が思わずつぶやいたその時、庭の奥から警察官が二人やってきた。
「はい、どいてどいて~」と呑気な声を上げながらやって来た警察官はスーツ二人組を前に警察手帳を見せた。
「通報を受けてね、ちょっと署に来て話を聞かせてもらおうかな」
警察官と青年たちの立つ向こう側、この家の前の通りの方からは赤い光が複数点滅しているのが見えた。
今度は流石にスーツ男達も黙った。舌打ちすると観念したように俯いた。
その後、警察官はぞくぞく庭に入って来た。青年達の間をかき分け、警察官が二人、蔵の中に入って大きな声で中に潜む子供達に呼びかけた。
「警察です!もう大丈夫。どこに居ますか?」
警察と聞いて、二階から三谷が顔を見せた。「アイツらは?捕まえてくれた?」
警察官が「捕まえた」と答えると「怪我人を居る!」と三谷は叫んだ。
それからが大騒ぎだった。大勢の大人たちが蔵に殺到してヒカル達三人を保護し、その後、緊急車両の種類が増えた。つまりパトカーに加え救急車が呼ばれたのだ。
ヒカル達が蔵から出てくるとヒカルの祖父母の家の庭は人で一杯になっていた。
「何コレ」と驚く彼らに、庭で控えていた金子が近寄って来た。その後ろには気まずそうな小池が居る。
二人は血染めのハンカチで額を抑えるヒカルを見て驚き、大丈夫かどうか訊いてきた。たいしたことはないとヒカルが答えると、思ったより普通の様子にやっと安心したようだった。
実際ヒカルの傷は大したことはなかった。頭部は少しの傷でも出血は多くなるので子供達は慌てたのだ。あとは軽い打撲をいうところだ。
だが、状況が特殊だったため、救急車で搬送されることになってしまったのだ。
金子の傍らには一人の青年が立っていた。先ほど泥棒に大声を出していた人物だ。
「この人、中田くん。私の彼」
「ええっっ!?」
三人は度肝を抜かれて推定身長190センチの「中田くん」を見上げた。明らかに中学生ではない。多分大学生だ。
そういえば、あかりが「金子さんには大学生の彼氏がいて、バレー部の先輩だよ」と言っていたのをヒカルは思い出した。失礼極まりないが絶対冗談だと思っていた。
人懐こそうな「中田くん」はニコっとヒカル達に微笑みかけた。結構なイケメンであることも衝撃だ。
得意そうに金子が説明を始めた。
「泥棒が来るのが本当だったら中学生だけじゃ危ないからね。中田くんに頼んで大学のバレー部の友達と一緒に外に控えていてもらったんだ。」
「はあ」
「そうしたらホントに怪しい大人が来たから、警察に通報してもらったってわけ」
「・・・・・・・・・・」
「お礼言ってよ」
金子にせかされて、やっと三人は我に返った。
「そ、そうか。ありがとうございました・・・」
「大丈夫かい?ごめんな。怪我をする前に蔵の中に入れば良かった」
中田は心配そうにヒカルの額を見つめた。三谷に借りたハンカチはかなり血に染まっていた。
「いやっ、十分です。助かりました。ホントにありがとうございました」
そこへ救急隊員がやって来て、ヒカルを連れて行こうとした。
「待って、碁盤が」
ヒカルは現場検証の準備が始まった蔵を振り返った。
「オマエ、まだそんなこと言っているのかよ」
三谷が呆れたように声を上げる。
警察が蔵に入ってきて三人を保護した際に皆が困惑したのは、ヒカルが凶器になった碁盤を警察に渡すことを拒んだことだった。「絶対に返す」と約束してもらい、やっと手を離した。
警察も証拠物件なので持って行かないわけにはいかなかったのだ。
ヒカルは、救急車に乗り込む前に囲碁部の仲間に迷惑をかけたことをあやまった。
そして、搬送中は親達への言い訳をどうしようと頭を悩ませていた。
しかし、当然ながら、この話がそんなことで一件落着となる訳がなかった。




