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PIXI  作者: アプリインポート用
11/13

ヒカルの碁 OA 中盤2

黒43


「もう、あきらめろ。おまえには才能がない」

目の前の男が諭すように告げた。


「・・・・・」


「これ以上続けたって、ムダだって事くらい分かるだろう? それともそんなことも分からないのか」

「・・・・・あと、もう少し」


だが、それを横から見ていた別の声が容赦のない言葉を投げつけてくる。

「信じられない。こんなに弱いヤツ見たことがない」


そしてそれをたしなめる声。

「一生懸命やってるんだから、そんな風に言わなくたっていいじゃない」



手が盤上をさまよう。

だが、それは手元に引き戻された。

「ううう」





「おい・・・」

「だから、もうちょっとだけ待てってば!!」


性懲りもなく盤上を見つめて考え込むのに業を煮やしたその男は、ついに持っていた扇子で机を叩いた。


「いい加減にしろよ進藤!! 何をどうやったって、この対局はもう終わってるんだよ!!」

そう怒鳴ると、加賀鉄男は扇子をバッと開いて扇ぎ出した。


「くううううう・・・・・・」


ヒカルは肩を落として、ついに投了した。

「マケマシタ」

「遅せェ」




加賀は鼻を鳴らして嘲った。

「だーめだ、コイツ全然弱っちいの。プロ棋士志望が聞いて飽きれるぜ。そっちの兄ちゃん達の方がよっぽど指せるんじゃないのか?」

そういうと、横に立っていた三谷と夏目の方を見た。

「そりゃ、コレよりはマシだな」

と、三谷は指で丸椅子の上に置かれた携帯用将棋盤を指差した。

そしてもう一人、昨秋に入部してきた、ヒカルと三谷と同学年の夏目は困ったようにモジモジして愛想笑いをした。この内容を見てコメントの仕様がないのが見て取れる。


昼下がりの葉瀬中の理科室兼囲碁部室。

三月に入り、学期末試験もひと段落、三年生は卒業を間近に控えて今日は登校日になっていた。

そのタイミングを見計ってヒカルが加賀に将棋の指南を頼んだのはつい一昨日のことだ。


「だろう? オレ様に教えを乞うには千年早えんだよ。最後の王手からどれだけ時間かけてんだ。いい加減にしろよな、ガキんちょ」

と、加賀は口の端を上げてせせら笑った。



「・・・・・・いい加減にするのは、おまえだ加賀っ! 囲碁部に将棋部の飛び地を勝手に作るな元将棋部長!!」


いつの間にか加賀の背後に立っていた元囲碁部長、筒井公宏は、将棋盤を前に調子に乗りまくる加賀の頭上に、買って来たばかりのウーロン茶のペットボトルを落下させた。

それをひょいと避けて加賀が椅子から立ち上がる。

「何言ってんだか元囲碁部長。コイツが頼んできたんだぜ? 卒業する前にオレ様に将棋を教えてくださいってよ。な?」

加賀はそう言ってヒカルをの方にアゴをしゃくった。


「ホントなの? 進藤君」

「うん・・・」


「けど、コイツ全然指せやしねーのよ。つーか、おまえ駒の動かし方分かってねェだろ?」

「一応、知ってるつもりだったんだよ」

「成った後の駒の使い方からしてダメダメ」

「もう、いいよ。ちぇっ」

ヒカルは膨れっ面をしてプイと横を向いた。


「でも何でまた・・・」

筒井は聞かずにはいられない。それはそうだろう。進藤ヒカルは囲碁のプロ棋士志望の院生なのだ。それなのに何故ここで将棋を習っているのだろう。

「別に」

ヒカルは気まずそうな顔でそっぽを向いたままだ。


理由はある。ヒカルには将棋で雪辱を果たさなければならない相手がいるのだ。

その名は北島孝一。あの塔矢名人の碁会所の常連の「北島さん」だ。



碁会所は、囲碁だけでなく将棋サロンも兼ねている場合がある。

塔矢名人の碁会所はもちろん囲碁専門だが、実は将棋盤も置いてあったりするのだ。


前回、つまり時間が戻ってしまう前、ヒカルはしばしばその碁会所に行っては塔矢アキラと碁を打っていたのだが、アキラが何かの都合で約束の時間になっても碁会所に現われないことが何度かあった。

そんな時ヒカルは、受付の市河や周囲の客と雑談をしたり、雑誌を読んだりして過ごしていたが、ある日北島がヒカルに将棋の勝負を持ちかけてきたのだ。


ところで北島は度を越したアキラ贔屓である。

その為、アキラのライバルだと言い張るヒカルがどうにも気に入らないと、顔を見れば何かにつけてちょっかいを出してきていた。

それはもちろん、プロのヒカルと、趣味で打っているアマチュアが囲碁で勝負になるわけがない。

それで将棋、というわけだ。

対局はヒカルの惨敗に終わり、その時の北島の喜びようは碁会所の語り草になっている程だ。北島がその後、事あるごとに、

『わしは進藤に勝った! わしに勝てない進藤が若先生に敵う訳がないのだ』

という、意味不明の自慢話をし続けたのだから無理もない。


「囲碁と関係ないじゃん」

と、ヒカルは相手にしなかったが、気分は良くない。

折角時間を遡ったことであるし、ここで加賀に教えてもらっておけば、いずれ来る対決の時に、あの時程無様な負け方はしないだろうと思ったのだ。


だが、そんなことは筒井や、他の部員に話して聞かせたい話でもない。

(やっぱり囲碁だ。オレには囲碁しかねェ!!)

と、一瞬でも囲碁から余所見をしたことを反省したヒカルである。

だが実のところ、囲碁棋士は将棋も強い人が多かったりするのだが、それはまた別の話だ。











「何? ここって将棋部なの?」


聞きなれない声にその場にいた全員が振り向いた。

「あ、金子」

ヒカルが声の主の名を呼んだ。


それと同時に藤崎あかりが椅子から立ち上がった。

「金子さん、違うよ。囲碁部だよ! 来てくれたんだ」


理科室に入ってきた彼女の名前は金子正子。

バレー部員だが、碁が打てるというので、前々からヒカルとあかりが勧誘を続けていた、やはり同学年の女子生徒だ。

バレー部優先という条件付で入部してもいいという話はしていたが、なかなか時間が取れないということで、顔を出すのは今日が初めてである。

金子は運動部らしい精悍な雰囲気と、肝っ玉母さんのようなドッシリ感を持つ、頼りがいがありそうな少女だ。

彼女が入部すれば、今日は休みの津田久美子と合わせて女子部員が三名。囲碁大会への出場が可能になるので、あかりは金子の入部をずっと心待ちにしていたのだ。


前回の大会の時は用事があって断わったのを気にしていたという金子は、次の大会はここで鍛えて参加すると言ってあかりを喜ばせた。


しかしそんな二人を前に、気掛かりそうに

「早い・・・」

と、ヒカルは呟いた。

誰も知らないことだが、本来の時間の流れでは、金子正子の入部は二年生になってからのはずなのだ。







「・・・・・あらあ、何コレ。ヒドイ出来ねえ。誰のよ?」

金子は先程の将棋盤を覗き込んだ。

「これって進藤が指した将棋?」

「・・・・・」

「その通り。これが院生様が指した将棋だ。ちなみに負けた方だぜ」

無言のヒカルの代わりに嬉しそうな声で答えたのは三谷だ。

「へえええ!」

金子は感心したように将棋盤とヒカルを見比べた。


「何でそんなに嬉しそうなんだよ三谷! いいんだよコレは! ここは囲碁部なんだから。さ、将棋なんてヤメヤメ。あかり、碁盤出せよ」

ヒカルはそう言って、将棋の駒を片付け出した。


「まあ、才能なくて悪かったけど、今日はサンキューな、加賀」

一応礼を言うヒカルに、加賀は肩をすくめて扇いでいた扇子を閉じた。

「まあ、何度も指して、玉の囲い方や戦法も覚えていきゃ、もうチッとはマシになると思うけどよ、それよかやっぱりおまえ、囲碁に専念した方がいいと思うぜ?」 


(加賀もたまにはまともなことを言う・・・)

「そうする」

言葉少なく同意したヒカルである。

北島にはイライラさせられるが、気にしなければいいだけのことだ。


あかりと夏目が碁盤の用意を始めたのを横目に加賀は再びヒカルに声をかけた。

「おい進藤、ところで院生はどうなんだ? 」


囲碁部では、つらつらと院生の話をすることもあるが、将棋部の加賀にそんな話などしたことがなかった。

加賀鉄男は、将棋を本格的に始める前は親に習わされて、囲碁もかなりの腕前だ。

院生がどんなものか興味はあるらしい。


「まあ順調だよ。院生手合いも勝ってるしね。今年のプロ試験は通るつもりさ」

「ほーっ! 自信満々だな」

加賀は愉快そうに笑った。


筒井も微笑んだ。

「本当に去年まで、一人で囲碁部を作ろうと躍起になっていたのがウソみたいだ。金子さんも入ってくれて、女子も大会参加出来そうだし、後は・・・」

「後は?」

「男子にもう一人入部してもらわないと。進藤君は大会参加出来ないから」

筒井の目が遠くなった。それに対し、三谷が悪態をつく。

「だーから、コイツが院生になるのが悪いんだよ。中学卒業してから外来受験すりゃ苦労ないのに」

だが、加賀はフンと鼻を鳴らした。

「何だ、そんなことか。だったら話は簡単だ。進藤が変装して偽名で大会参加すりゃ済むだけのことじゃねーか」

(結局それかよ!!)


前述したが、小学六年生の時、賭碁に負けたヒカルは、加賀に命令されて葉瀬中生を騙って大会に参加したことがある。ただしバレて失格したが。

今回は手違いでその時の大会には出場していないが、やはり同じ人物の発想は時は違えど似たものが出てくるものらしい。

「お、それいいな、おい、進藤そうしようぜ」

あっさり賛成した三谷にヒカルはあきれて答えた。

「乗るなよ三谷。ぜってーバレるって」

「それはオマエの変装次第だな」

「イカサマ禁止!」

「盤上じゃないだろ」

「ダメっ!!絶対ダメ」

「フン、何だよケチ野郎。ネットじゃオレの名前騙ってるくせに」

痛いところをつかれてヒカルはぐっと詰まった。


「何の話?」

碁盤の準備が終わって、あかり達もヒカル達のところにやってきていた。

「コイツ夏休み中、オレの姉貴のバイト先のネットカフェでネット碁やってた時、登録名にオレの名前使ってたんだよ」

「へえ、ネット碁! 私もやってみようかな。そしたら進藤、私とも打ってくれる?」

金子も興味を持ったようだ。

「何でだよ! 別にネットじゃなくたってオマエらとはここで打てばいいだろ」

「それはそうだけど、面白そうじゃない?」

彼女はそう言って豪快に笑った。


「でも何で三谷君の名前なの?」

あかりは首を傾げて訊いた。

「・・・ログインする時にとっさにいい名前が思いつかなかったんだよ。三谷に紹介してもらったわけだし、お姉さんも三谷なんだから、ってそれだけ」

「・・・簡単だな」


前回自分は打っていなかったし、自分の名前で打つと塔矢アキラがうるさいだろうという気がしたのだ。もっとはっきり言えば、自分の名前でなければ何でも良かったのである。


「まあ、そんな訳だから、三谷、お姉さんによろしくな」

もう一回、ネット碁を打つ予定があるのを念頭に、ヒカルはそう三谷に断わりを入れた。

だが、三谷は意外な答えを返してきた。


「残念でした。もう姉貴はネットカフェやめたぜ」

「ええっ?!」


(そうか。だから佐為と名人の勝負の時に、三谷のお姉さんはいなかったんだな)

と、ヒカルは当時を思い出して納得した。

前回、ヒカルと三谷は疎遠だったので、そんなことすら確認出来なかったのである。


「そうなんだ・・・」

「そういうことだ。これからはちゃんとカネ払って打てよ」

「・・・・・うん」



話は終わったと見て金子が言った。

「ねェ、入部したんだから、私、早速打ちたいんだけど。誰か私と打ってくれない? 一番強い人は・・・進藤か。どう?」


「いいよ」

そうして、ヒカルは丸椅子に置かれた碁盤の前の椅子に腰掛けた。

その周りを三谷、あかり、夏目が囲む。

やっと囲碁部の本来の活動開始である。





その様子を少し離れた所で加賀と筒井は眺めていた。


加賀が言う。

「おまえの作った囲碁部、ちゃんとカタチになったじゃねェか」

筒井はハッとしたように加賀を見た。


「孤軍奮闘、実際おまえは良くやったと思うぜ」

「加賀・・・」

筒井は少し言葉につまったが、すぐ態勢を立て直した。

「当たり前さ。もっとも一年生が支えてくれたからだけどね」

「ふん」



筒井は感慨深く、彼の後輩達と、たった一年だけ彼が居ることの出来た囲碁部室を眺めた。まもなく彼は卒業していく。

その後もどうか囲碁部が続いてくれますように、と彼は願わずにいられない。





「おい筒井。感傷に浸ってるところ悪いがな」

「何だよ」

「気が付いているかどうか知らんが、オレ達が行く高校な、将棋部はあるが囲碁部はねェぞ」


筒井は目を閉じた。嫌なことを思い出させてくれる。この男は。


「・・・また一から作らなきゃならんとは、おまえも苦労するな」

「・・・・・」


筒井はゆっくりと再び目を開けた。

また一からやりなおし。

いいさ。何度でも作ってやる。そして、また出会おう、素晴らしい仲間と。

彼は握った拳に力をこめた。




白44


四月も半ばの、ある院生研修日のこと。

「カンタンだって、ネット碁なんて」

という和谷の声が、研修会場に入ったヒカルの耳に飛び込んできた。

声のする方へヒカルが目をやると、既に来ていた和谷と小宮が何やら話し込んでいる。



「おはよう」

ヒカルが声をかけると二人が振り返った。

「おはよ。なあ進藤。小宮もネット碁始めるってよ」

と和谷が話を振ってきた。それに対し小宮英二は慌てた様に手を振った。

「カンタンって和谷、オレはパソコンのことなんて何にも知らねーんだぜ。ただイトコが買い換えるんで古いのくれるっていうからさ」


小宮は同じ一組で和谷やヒカルと親しく、昼食もしばしば一緒にとる間柄だ。

前回、プロ試験に合格した和谷が一人暮らしを始めて、若手プロや院生との勉強会を自宅で始めた時も初めからメンバーに入っていた。


「問題ないって。いいか? この進藤でさえ出来るんだ、誰だって出来るさ」

「え、そーなのか進藤? 進藤もネット碁やるんだ。じゃあ大丈夫か」

「そうだろう」

「ちょっと待て。どういう意味だ?」

黙って聞いていれば何を好き勝手なことを言っているのか。

と、ヒカルはストップをかけ、和谷と碁盤を挟んで向かい合わせの席に座った。

今日のヒカルの一局目の相手は和谷なのだ。


しかし和谷は無視して話を続けた。

「機種は?」

「わかんね。とにかく使い方教わったら、やってみるからネット碁のこと教えてくれよ」

「おっけー」

ヒカルですらやっているというのが効いたのかどうか、小宮はとりあえずやってみることに決めたようだ。


「でもネット碁って一般の人向けだろ? 強い人いるのか?」

という小宮の質問に対し、和谷は、「そこそこ居る。プロも時々混じってるしな」と答えた。

そして以前、本名で登録していた一柳棋聖と、まさかの対局をしてのされたエピソードを披露した。



「プロだけじゃないぜ。一ヶ月と少しの間しかいなかったけど、プロより強いと思ったヤツもいたし・・・」

と和谷は懐かしそうに言った。

「プロより強いって・・・プロだろ?」

「皆そう言うんだけど、結局わかんなかったんだよ。ネット碁ファンの間じゃ有名だったんだぜ? オレ去年の夏の世界アマに手伝いで行ったんだけど、その時も‘sai’は誰だって大騒ぎさ」


「サイっていうんだ、そいつ」

「うん」

「そいつの打った碁、和谷は見たか?」

「観戦もしたし、オレも打った。で、のされた」


それを聞いて小宮は笑いだした。

「何だ! オマエ自分が負けたからプロ並みなんて言ってるんだろ」

「ばっ、バカ言うんじゃねェよ、ちげーよ!!」

和谷は顔を赤くして怒鳴った。

「その時の優勝者だって負けてるし、韓国のプロだって負けた人がいるって言ってたんだからな!」

「・・・いや、わかったから。ムキになんなくていいから」

小宮は両手を上げて和谷を諌めた。

むかっ腹をたてて横を向いた和谷は、ヒカルが会話に加わらずに自分達を注視しているのに気が付いた。

「なあ、進藤、そういえばオマエはあの後saiと打ったのか?」


二人の会話を黙って注意深く聞いていたヒカルは、急に話しかけられて、びくっと肩を揺らした。

「あー・・・・っと、そう言えば、オレあの後、一回もネット碁やってないや」

とだけ、おとなしく答えた。


「何だよ、つまんねェな! じゃあオマエは結局saiの碁は見てないんだな」

「う、うん」

佐為の碁はヒカル自身が打ったのだからこれはウソだが、当然ながら白を切った。



「ほらほら、どうなんだよ和谷、本当そいつって強いのかあ?」

ニヤニヤしながら小宮が和谷をつっつく。


和谷はふてくされた顔をして「わかってねェんだよオマエらは」とボヤいた。

その時、ためらいがちにヒカルが口を開いた。


「あのさ、アマ碁大会の後、ホントに和谷はsaiのこと、よく言ってたよ」

和谷は横目でヒカルを見た。ヒカルは少しだけ視線を泳がせながら、ぽそぽそ言葉を続けた。

「オレも他でsaiのことは聞いたし」

「他って?」

「ふ、藤井さんとか」


藤井三段は‘mitani’がネット碁で打ち負かしてしまったプロ棋士だ。

和谷に‘mitani’の正体がヒカルだとバレてから、冴木と一緒に話をしに行ったのだが、確かにその時に‘sai’の話も出た。

藤井自身は打っていないが、確かにすごい打ち手だと思い、観戦は頻繁にしていたのだという。ついでにいうと、内外のプレイヤーからチャットで‘sai’は誰かという問い合わせを随分受けたと言っていた。


「はーん、藤井プロねえ」

その名を聞いて、和谷も当時のことを思い出したようだ。


「ま、他にも色々、話題を振り撒いたヤツがいたよな」

と和谷はヒカルを見てニヤリと笑い、小宮に向き直って言った。

「まあ、とにかくネット碁も結構面白いぜ。試しにやってみろよ。」


「ああ」

と小宮はうなずいた。


小宮が自分の席に行ったところで、ちょうど篠田院生師範が部屋に入ってきた。


皆が自分の席で居住まいを正している。

「始めてください」

篠田の合図を聞いて二人は頭を下げた。

「お願いします」












 その日の対局が終わり、ヒカルが対戦表にハンコを押していると、背後に人が立っている気配がした。

ヒカルが振り返るとやはり同じ一組の奈瀬明日美が対戦表を覗き込んでいた。

「奈瀬、勝ったの?」

「うん」


丈の短い長袖Tシャツにローライズのジーンズパンツと、ラフな格好をした奈瀬は、嬉しそうに微笑んだ。余程良い出来だったと見える。

「一緒に押しとこうか」

「うん」

ヒカルは自分の分に続いて、奈瀬の欄にもハンコを押した。


「すごいね進藤、ほとんど負けなしじゃないの」

奈瀬は対戦表についたヒカルの白丸の列を見て、感心したように言った。

流石のヒカルも全勝ではない。時には新しい手を試してみて失敗することもあるのだ。

「ははは、まあね。奈瀬も二連勝じゃん」


それを聞くと奈瀬は更に笑みを深くした。

「よく訊いてくれたわよ。最近調子悪くってさあ、このままじゃ若獅子戦もやばくなっちゃうと思ってたんで、いい験直しになったわよ」

「良かったな」

「このままバシバシ順位あげるわよー。覚悟しなさい院生一位」

「・・・・・おう」

負けが続けばそれ相応に落ち込むが、勝ちを拾うと途端に元気になるポジティブシンキングの女子高生、奈瀬は調子付くと確かに手強い。油断は禁物である。

「でもオレ負けないぜ」

「私だって負けないわよ」

やはり立ち直っているようである。




 そこにまた別の声がかかった。

「済んだら、どいてくれないか」


越智康介である。

ヒカルより三ヶ月早く院生になり、伊角伸一郎から院生順位一位を奪ったのもつかの間、あっさりヒカルに首位を奪われ、かなりのライバル心を持っているといわれている。今日も当然勝ったようだ。

前回の時の流れではヒカルと同期入段。

確かな棋力とプライド。

このまま順当に行けば、今回もプロ試験を突破するのはコイツだろうとヒカルも思う。


「あ、ごめん。付けとくよ」

「いい。自分で付ける」

「・・・・・・あ、そ」


ヒカルは立ち上がって越智に席を譲った。そのまま奈瀬と一緒に荷物置き場に向かう。

奈瀬がヒカルに耳打ちした。


「越智、相当意識してるわね」

「・・・・・うん」


それはそうだろう。

今のヒカルも気は抜いていられない。自分の力を信じてはいるが、彼とて発展途上の身には違いないのだ。

越智や奈瀬を含めてここに居る院生達、特に一組の上位は皆ライバル。その意識がないと、何が起きてプロ試験を取り落とすか分からない。






「進藤。奈瀬も終わったのか?」

荷物置き場には和谷と伊角が待っていた。

「お待たせ」

「腹減ったな。帰りにマック寄るか?」

伊角の一言に、賛成の声があがり、彼らは部屋を出た。







若獅子戦の日が近づいてきていた。




黒45



「じゃあ、アキラ君は若獅子戦に出るのは初めてなんだね」

「ええ。僕は院生にはならなかったので」



 塔矢行洋名人の研究会の後で、遊びに来ていた後援会長の山根に質問されたアキラは、微笑みながら答えた。

対局や検討を終えて門下生の大方は帰ったが、名人と山根、そして残っていた数人の棋士達で雑談に花が咲く。

 山根は齢七十になったばかり。中肉中背、白髪混じりの品の良い人物だ。

某企業の経営者で、碁も好き、人を育てるのも好きという男で、行洋が若い頃から注目し、後ろ盾になってきた。そして今、行洋がトップ棋士として後継を育てているのを手助けしてもいる。

行洋の一人息子のアキラがプロになるのを心待ちにしていた山根は、四月に入ってプロ生活を始めた彼の様子を見に、足繁く塔矢家を訪れていた。



「もしかすると倉田君と当たるかもしれないな。知ってるかい? 倉田五段」

「はい。この間の免除授与式でお会いしました」

「はっはっはっ! そう、会ったの!? 面白いでしょ? 彼」

「・・・・・・」



 倉田厚五段は若手の最有力棋士として、またその奔放な言動、そして何よりその大食漢ぶりによって知らぬものがない有名人だ。

塔矢アキラと対局したら「面白い」んじゃないかという話は良く振られるので慣れっこである。

プロになった以上、いずれは対局することになるだろう。しかし、

「残念ながら、倉田さんは年齢制限を越えられたそうですよ」

と、いうわけだ。


「え、何、もう二十一なの?」

「オレと同い年なんですよ」

と、これは芦原。

「あ、そう・・・。いや、残念だねえ」

「倉田さんとはまた機会がありますから」


アキラは初対面の時の倉田を思い出しながら答えた。


彼は開口一番

『よっ塔矢! オレ未来の名人の倉田! よろしく!!』

と、現名人の息子に向かって自己紹介をしてきたものだ。

確かに「面白い」人物・・・と言えなくもない。


(もう少しマシな挨拶が出来ないものか)

どうも自分の周りには変わり者が多い気がする・・・と、アキラは自分のことを棚に上げて考えた。

まあ、変人だっていい。心躍る対局が叶う相手なら。

その意味で倉田と若獅子戦で戦えないのは確かに残念だ。




 アキラがそうして考え事に気をそらしたその時、緒方が口を開いた。

「アキラ君は若獅子戦で他に戦いたい相手がいるんだろう?」


「・・・・・」

アキラは少し困ったような顔をして斜め前に座っている緒方を見た。

彼に代わって芦原が答える。

「進藤ヒカル君だろ?」


「進藤ヒカル?」

山根は首をかしげた。頭に手をやり、何かを思い出そうとしているようだ。


「進藤・・・・・進藤・・・・ね。知らないな。何年入段?」

「院生ですよ。進藤君は」

「お」、と声をあげ、山根は手で膝をポンと叩いた。


「院生か。そういえば溝口九段のところの若い人が話してたよ。今年の初めに入ってきた院生でかなり打てる子がいるって」

「それですよ」

芦原はうんうん頷いた。

「何? 友達なの?」


アキラは即答せずに、少し考えてから答えた。

「・・・・・・知り合いです」

「前に中野の碁会所に来たことがあるんですよ」

芦原が注釈を加えた。

「ほう」


「楽しみだろう?」という緒方に、アキラは返答に窮した。

楽しみです。というのは簡単だが、果たして進藤ヒカルが、自分とまともに対局してくれるのかどうか分からないのだ。


二十歳以下の若手プロと院生とで行うトーナメントといっても、院生が勝ちあがれるのはせいぜい三回戦まで。

それでも夏からのプロ試験を占う意味で、年の近いプロと自分の実力差を肌で感じるチャンスに院生は必死で喰らいついていく。


普通であれば、願掛けしているから打たないといっても、それを横に置いて全力を尽くすだろう。

しかし、相手はあの進藤ヒカルだ。

彼が「打たない」と言ったら、本当に「オレはコイツとは打てません」などといって棄権しかねない。




「・・・ええ」

結局、当り障りのない返事をするしかなかった。



「例の子か」

と、それまで黙って皆の会話を聞いていた行洋が口を開いた。


「進藤君は今年のプロ試験を受けるのかね?」

行洋が問い掛けたのはアキラだったが、反応は山根の方が早かった。

「何だ。ユキさんも知ってる子なの?」


ユキさんとは本名の「行洋ゆきひろ」の略だ。

「コウヨウ」という音読みを号として使い始めて長いので、最近では号の方で呼ばれる事が多いが、山根は知り合った頃からプライベートな場ではこの名で呼び続けていた。


「会ったことはありませんが、話を聞いていて興味深い子ではありますね」

と答える行洋に山根が言った。

「アキラ君の知り合いだったら、ここの研究会に呼べばいいじゃないの。なあ緒方君」

「そうですね」


それに芦原がうーんと唸った。

「進藤君ってちょっと変わってるから、大人しく来るかなあ?」

「変わってるの?」

「変わってます」

ヒカルが聞いたら『アンタには言われたくない!』と言いそうである。



「進藤は受けると言っていました。だからプロとして彼と打つチャンスはいくらでもありますよ」

「受かればね」

「・・・・・」

(受からないはずはない。自分にあれだけのことを言っていたのだから)とアキラは心の中で呟いた。



「進藤という子がそれ程の打ち手なら、早晩合格して我々プロの所までやってくるでしょう」

行洋は静かに言った。来れないのならそれまでのことである。




 山根は名人の言葉に、「進藤ヒカル」という院生の、プロ試験の経過を見ていようと決めた。

孫の様に思っているアキラのライバルになるかもしれない。この人物は才能ある人間が伸びていく様を見る

のが好きなのだ。


それからしばらくして、本来の用事であった後援会の資料を行洋に手渡すと、山根は帰っていった。








「不思議な子だな。その進藤君とやらは」

山根が帰ると、それまで聞き手にまわっていた笹木七段が言った。


「だってそうだろ? 院性になる前の実績は全然ないっていう話だし、院生になってからまだ数ヶ月だそうじゃないか。なのに、こうしてプロの間で、彼がプロになった後の来るべき対局について話し合っているなんてさ」

「それはまあ・・・」

芦原は言葉を濁した。



緒方は薄く笑いながらアキラをチラっと見た。

「笹木さんは‘sai’というのを聞いたことがありませんか?」

「‘sai’?・・・いや、知らない」

緒方の問いに笹木は首を振った。

「昨年の夏にネット碁界を騒がした、ネット棋士ですよ」

「それが?」


「内外のプロとも対局して負け知らずというので、随分話題になりました。ところで、そのsaiと進藤君の棋風が似ていると・・・・」

「緒方さん!」

「アキラ君は思っている」


アキラは目を閉じた。

あの日、プロ試験をサボってまで対局した‘sai’は、進藤ヒカルと打った初めの二局と同じ感触があった。しかし中学の大会で彼と打った碁は、saiとはまた違う印象であり、結局のところたった三回の対局では、進藤ヒカルとsaiとは関係があると断定することは出来なかった。そしてまた、ヒカル自身も否定している。


確かにヒカルの話の真偽についてはずっと気にしていた。しかしそれは初戦をサボった一件とも繋がっている話だ。何も父が居る席で話題にすることはないではないか。

アキラは目を開けると、気分を害したのを押し隠し、抑えた声で緒方に言った。


「世界アマの会場でsaiが進藤かも知れないと言ったのは思い違いでしたって、あの後言いましたよね」

「ああ」

「進藤がsaiとは無関係だと言っていたという話もしましたよね」

「聞いたよ」

「じゃあ、・・・・・関係ないんでしょう」


緒方は、ふふんと笑い、胸ポケットの煙草に手を伸ばしたが、途中で手を止めた。

この研究会は、来客時以外禁煙なのだ。彼は手を膝に戻した。


緒方はそれ以上、声を出してアキラを追及することはしなかったが、目で問い掛けていた。

(君は、それを信じたのか?)と。

そしてアキラもまたそれに沈黙で応えた。


緒方は知っている。

あれから、アキラが彼とsaiとのネット対局の碁を何度となく並べていることを。

また、進藤ヒカルとの三度に及ぶ対局も。



「・・・・・若獅子戦の進藤君を見に行こうかと思っている」

「え?」

緒方の言葉に、名人以外の三人が声を上げた。


「saiは確かに魅力的な打ち手だった。それでは進藤君はどうなのか自分の目で確かめてみようと思ってね」


「・・・すごい」と芦原が口の中でつぶやく。


「ネット碁の進藤の登録名は別ですよ。彼の友達もsaiとは無関係だと」

なおも言い募るアキラに緒方は「いいんだよ、そんなことは」とあっさり受け流した。


たまたま同時期に目を引く棋士が二人出てきた。アキラはその二人に繋がりがあるのではないかと、何故か思っているらしい。

その執着振りが面白くてずっと見物を決め込んできたが、その内の一人が「表」に出てこようとしているなら、それを見てみたい。それだけだ。

進藤だろうが、saiだろうが、将来プロとして目の前に現れる者にしか興味はない。



「先生も進藤君とsaiの碁はご存知なんですよね」

緒方は行洋に話し掛けた。


行洋は、中学の大会でアキラとヒカルが対局した時の碁の内容は知っているが、saiの碁は知らない。

アキラがプロ試験初戦をサボった時、事情は聞いたが並べさせるところまではしていないのだ。

「ネット碁にはあまり興味がなくてね」

行洋はそっけなく答えた。


「まあ、そうでしょうね。パソコンで碁を打たれる先生はちょっと想像がつかないなあ」

笹木はその場を取り持つように明るく言った。



「緒方さんが行くならオレも行こうかな。応援するぜアキラ」

「芦原君、来週の名人戦二次予選は鯨井八段だろ、そんなヒマあるの?」

「うっ」

笹木の一声に芦原は胸を押えるマネをした。

「・・・そうでした。じゃあ、応援は緒方さんにお任せします。がんばれよアキラ」

「・・・・・はい」






そのやりとりを視界の隅に入れながら行洋は腕を組み直した。

何かが始まろうとしている。そんな予感がした。


 


白46


そして若獅子戦当日の日本棋院。

塔矢アキラが会場に入っていくと、真っ先に進藤ヒカルが目に入った。

今日の初戦で対局するのはプロ十六名と院生十六名の合わせて三十二名に過ぎないが、観戦者、スタッフ、記者などで、会場にはかなりの人数が集まってきていた。

その中でも、ヒカルの金色の前髪は良く目立つ。


(来たか・・・)

アキラはホッとして息を吐いた。

もしかすると、すっぽかすのではないかと危惧していたのだ。

院生達と一緒に居たヒカルの方も彼に気付いたようで、遠くから「よう」と挨拶するように右手を上げた。アキラも頷いてそれに答える。

それで充分だった。アキラはそのままヒカルと言葉を交わすことなく、プロ達が集まっている方へ歩いていき、先輩達に挨拶して回った。




 今日のトーナメント戦でヒカルとアキラは早くも二回戦で当たることになっている。

それが事実上の決勝戦になる、と思う程にはプロになってからの経験がないアキラだが、本気の勝負ともなれば、それに近いものになるはずだと思う。

実のところ一度も進藤ヒカルに勝ったことがないアキラは「今日こそ進藤に勝つ!」と思い定めてやって来たのだ。プロを含め他の参加者達には目もくれなかった。



だが、アキラ自身は今日の参加者達から注視されていた。

プロになりたての彼だが、その実力は噂に違わないということが知れ渡った結果と言える。

現在院生一位のヒカルも注目されていたが、そこはプロとそうでない者との差というもので、他の院生達に紛れてしまっていた。


アキラは談笑しているヒカルを見た。緊張も気負いも全く見られない。

自分はやはり相手にされていないのだろうか。それとも・・・。





「塔矢アキラがオレを見てる・・・」

ヒカルの隣に立っていた本田敏則が、半ばひきつりながらつぶやいた。


今日、アキラとの第一戦に臨むのは本田である。

分の悪い相手ではがあるが、この際、全力で当たるより他にない。

しかし、何故あの塔矢が自分を睨みつけているのだろうか。

プロテストで散々やっつけたはずの自分を・・・。


しかし周りの院生は(見てるのは本田さんじゃなくて進藤だと思うけど・・・)と、無情にもあっさり結論づけた。

本田は自分のことで一杯一杯なのだろう。

指摘するのもめんどうなので、皆、口々に励ましてみた。


「がんばりましょう、本田さん」

「お、おう。そうだな」

本田が右手をぐーにして頷いた所で、開始のアナウンスがあった。


「ただいまより第九回若獅子戦を開催します」




そして、各人に、一回戦の席が割り振られる。

ヒカルの相手はプロの村上信一二段。

前回の筋書きでは負けた相手だ。

しかしプロになった後、再戦した大手合では雪辱している。


「進藤、村上ニ段なんて眼中にないんだろ」

和谷がヒカルに耳打ちしてきたが、ヒカルは

「・・・・・どうかな」

と短く答えるに留めた。





 対局者がそれぞれ着席し、それを十七位以下の院生をはじめとする観戦者達が取り囲む。

そして「始めて下さい」の合図とともに対局が始まった。


第一戦は必ず院生対プロ。そして院生が黒を持つのが若獅子戦の決まりだ。

対局前の挨拶の後、ヒカルも黒石を取り上げ、初手を打った。

対局時計を押すと、すばやく村上二段の様子を伺う。


村上が二手目を打つと、ヒカルは盤上を見て、自分に何かを納得させるように小さく頷いた。






 この日は取材のため、「週刊碁」の記者、天野も会場を訪れていた。

天野は現在四十五歳のベテラン記者だ。気さくな人柄、公平な記事の書きぶりで高段者達からの信頼も厚く、インタビューを受けるときに天野を指名する棋士も多い。


今日は若獅子戦の取材で来たのだが、特に塔矢アキラ初段に注目していた。

プロになる前はプロを目指している名人の息子として。そしてプロ試験合格後は新初段シリーズ、そして今は順調に勝ち星をあげ続ける囲碁界期待の星として、天野はアキラの取材を一手に引き受けていた。もし、彼が今日優勝するとすればこれまでの取材記録から記事の扱い方も変わってくるだろう。


しかし、今日はもう一人、取材をしたい人物がいた。

プロではない。院生の進藤ヒカルだ。


囲碁を始めて、まだ一年半。院生になるまでの実績はなく、森下九段の研究会に通っている以外に決まった師匠はなし。というのは関係者の間では既に有名な話だ。

にもかかわらず、今年の一月期に院生になって、ほぼ負けなしで順位を上げ、現在は院生一位が定位置になっているという彼の生い立ちや、プロ試験、そしてプロ後の抱負などを聞いておきたい。取材は遅かった位だ。

しかも今日の二回戦は塔矢アキラとの対局が予定されている。

結果によっては同い年の二人に一緒に話を聞いてみようか、などと天野は考えていた。




 天野が会場の隅で、一緒に来ていたカメラマンと出場棋士のスナップ写真の相談をしていた時、会場に入ってきた人影に気が付いた。


「おい、緒方九段だ。」

「ですね」



緒方は先日、塔矢名人の研究会で話していた通りに会場にやって来た。

誰かを探すように場内を見渡すと、ゆっくりと歩き出す。

やがて、あるテーブルの前で足を止めた。



「・・・・・進藤君と村上二段のテーブルだ。てっきり塔矢アキラを見に来たと思ったのに・・・。どういうつながりなんだ?」


どういうつながりも何も、緒方はヒカルを見るのはこれが初めてだ。

会った事はなくとも、芦原から色々話を聞いていたので、ネームプレートを確認するまでもなく、見つけるのは容易だった。

先程と同様、やはり目立つ頭は探すのに便利なようである。



 前回の時間の流れでは、ヒカルは院生十六位で出場したこともあって、全く注目されていなかったが、流石に院生一位ともなると、彼らのテーブルの周りには院生が数人集まって観戦していた。彼らは緒方の姿を見るやいなや、頭を下げて見やすい場所を譲った。



空気が急に動いたのを不審に思ったヒカルが、顔をあげて横を見ると、もろに緒方と目が合ってしまった。


「わっ」


驚いて思わず声を上げてしまい、あわてて自分の口を塞いだ。そして、肩をすくめるように小さく頭を下げた。



緒方は前回もこの会場でヒカルの対局を観戦していたが、その時のヒカルは対局に非常に集中していたため、全く気が付いていなかったのだ。もちろんその後にアキラが観戦していたことも知らない。


緒方に対して、若干の苦手意識があるヒカルが気持ちを落ち着けようと手を握りこんだ時、村上が石を置いた。

ヒカルは改めて盤上を確認し、そして次の手を打った。







 その後、対局は順調に進んでいったが、緒方が予想したような展開にはなっていないようだった。


「・・・・・」


進藤ヒカルが打つのを見ていて、他の院生達とそうレベルが違うとは思えない。

結論を出すのは早いが、塔矢アキラがライバル視するだけの力量をこの碁からは感じることが出来なかった。


中学の大会で塔矢アキラと打ったという一局。

高段者の対局と遜色ないその碁を見た時と、今の違いはどうだ。

一年間で下手になった、とは考えにくい。とすれば、一年前の碁はまぐれか。

たまたま生まれた名勝負だったのだろうか。



不機嫌そうな顔で、しかもたいして時間も使わずに打っていたヒカルだが、ある時、自分の手番で黒石を取り上げると、チラっと緒方の方を盗み見た。


(何だ?)

と緒方が思う間もなく、ヒカルはその石を上辺の白模様の中、8の四に打ち込んだ。


周りの観戦者の何人かが顔を見交わすのが目に入った。

ヒカルの表情は動かない。



(・・・・・それはうまくないだろう)


案の定、村上は即座に白8の三にツケてきた。


それで、黒がこの白模様に地を作るのは難しくなった。

打ち込んだ黒に得はなく、却って白地が強化されてしまったのだ。




つまり悪手である。


 


黒47


今日の若獅子戦、やはり注目度の高い棋士のテーブルは観戦者が多い。例えば若くとも知名度の高い人気棋士。

そして、一般には知られていなくても、知る人ぞ知る因縁の対局だ。

伊角伸一郎と、プロ初段の真柴充の組み合わせが、それと言えた。



 真柴は塔矢アキラ、辻岡忠男と共に今年プロになったばかり。昨年までは院生であった。

彼が院生だった頃、院生でプロの最有力候補と言われていたのは伊角伸一郎。

真柴は一組の上位ではあったが、それ程注目されていた訳ではない。


試験は水物という。昨年のプロ試験において、塔矢アキラが初戦の一敗のみでプロ入りを決めた他は、三敗組の争いになった。そこで三敗で踏みとどまったのが真柴と辻岡。伊角はあと一歩のところで大事な一局を落としてしまった。


それ自体は良くある話だ。

自分の実力以上の力を出しきって、上位者を押えて合格することもある。そこまではいい。

しかし、真柴は何を思ったか、自分が受かったのが意外だと言われ続けたのが気にいらなかったのか、今日の若獅子戦の前に、背広姿でやって来て伊角にこう言ったのだ。


「さっさとプロ側に来て下さいよ。プロになると院生の時のあのイヤな切羽詰まったカンジがなくなって伸び伸び打てるんです。プロはいいですよぉ」


それにカチンと来たのは伊角よりも寧ろ周りの院生達だ。

「何だ今の言い草!」

「プロになったと思って威張りだしてカンジ悪りィ」

「わざわざ、背広着てきちゃってさ、立場違うってアピールしたいのかよ」


皆でひとしきり悪口を言ってから

「勝って下さい、伊角さん!!」

と、伊角にお願いする有様であった。


それを見て越智は

「・・・・・人のことより自分のことだよ」

と言ったものだが、確かに人のことを心配している場合ではないだろう。




 そういう訳で、伊角対真柴のカードは、意外にも会場内で観戦者が最も多いテーブルとなった。

観戦者の殆どが院生という真柴にとっては気分の良くない対局環境になったが、これは自業自得であろう。

しかも真柴は「プロの自分が院生の伊角さんに負けたらカッコ悪いからリキが入る」などと口にして、更に周囲の院生の怒りを買う始末であった。



次に多いのは塔矢アキラ対本田敏則。これは塔矢の実力を測りに来たプロの観戦者達でテーブルの周りは埋まった。


ヒカルと村上二段のテーブルはその次だが、前出の二局以外は、観戦者もほぼバラけた印象だ。




対局は進む。







 先程、悪手を打ったはずのヒカルは、無表情で淡々と対局を進めていた。

早碁が好きなタイプらしい、と緒方は見た。ヒカルは持ち時間を殆ど使っていない。

それにつられたのか、村上の打つ手も早い。


そうして、しばらく盤上を見ていた緒方はあることに気が付いた。

村上の手も止まる。


「・・・・・」

先程悪手と見た黒8の四。

打った時点では確かに失着だったはずが、その後の展開で村上はその一手の為に何手も打たされ、しかも上辺と中央の白が上手く連絡出来なくなっていた。

黒が白を誘い込んだ結果、悪手が好手に化けたという訳だ。


(まさか、初めからこれを狙っていたのか?)

そうだとしたら、たいしたものだ、と思う。

その手を打つ前に自分に向けられたヒカルの視線を緒方は思い出した。



「くっ・・・」

村上は額に汗を滲ませ、ジャケットを脱いだ。それをテーブルの脇に置くと、座りなおして盤上に視線を向け、改めて挽回する手を探し始めた。




 その後も相変わらずヒカルは、持ち時間を使わず、たいして考えている風でもなく、碁を進めていった。

しかし、反対に村上は時間をかなり使って打つようになっていたので、彼らの碁がヨセに入る前に、他のテーブルの対局は次第に終わっていった。同時に残った対局の観戦者は増えていく。



越智康介も自分の対局を終わらせると、進藤ヒカルのテーブルに向かった。


院生がプロに勝つことは難しい。

だがこの大会でプロの上を行くことを自分に課している越智は、まず一勝を収め、目下最大のライバルであるヒカルの対局の行方を見に行くことにしたのだ。

そしてテーブルの近くまで行くと、そこにいた緒方をみて瞠目した。



(何故、緒方九段が?)


確かに進藤ヒカルは院生の有望株かもしれないが、リーグ入りしている九段棋士がわざわぜ見に来るとはいかにも不自然だ。村上二段を見に来たのだろうか?

それなら、同門で師匠の息子である塔矢アキラの対局を見ている方が余程納得できる。

一体これはどういうことなのか。


「ちょっとゴメン」

と、他の観戦者を押しのけて、前に出た越智は盤上を見た。


「・・・・・・・」


(見慣れない石の並び。どういう手順だ?)

と、越智が思った時、ヒカルが自分の方を見た。すぐに視線を盤上に戻す。


(・・・おかしい)


進藤ヒカルの対局時の集中力は、越智も一目置くほどのものだ。

院生研修の時、大地震がきても火事に遭っても気が付かないのではないかと皆にからかわれたこともある。

その進藤が、ギャラリーが動いたくらいで気を逸らすのか?






 対するヒカルは

(越智まで見に来たのか)

と心の中で肩を落とした。


前回の、つまり本番時は必死だったので周りのことを気にする余裕はなかったのだが、こんなにギャラリーはいなかったと思う。

(やっぱり、色々変わってきてる・・・・・)


最近、どう考えても前回と違う展開で物事が進むことが増えてきている。

自分自身が遠慮なく打っているのだから仕方がないとも言えるのだが、だからといって真剣に打つ機会がなければ、勉強も進歩もあったものではない。

碁の最大の勉強とは「打つ」ことに尽きるのだ。


そのために、多少のズレは目をつぶろう、と思ってずっとやってきたのだが・・・。


だが若獅子戦は公式の記録が残る。影響度もこれまでとは違うだろう。

ここで思いきり優勝狙いで戦って、後でどんなズレが出るか分からない以上、くやしいが前回通りの碁を打って負けることにヒカルは決めていた。

もし村上が前回と違う手を打ってきたら、その時はキッパリ実力を出し切ろうと思ったが、そうはならなかったのだ。



(塔矢は怒るだろうな)

願掛けのためにワザと負けたとアキラは誤解するだろう。

自分のせいだが、気分は良くない。

そういう訳で、そのうちアキラがこの対局を見に来るのではないかと、周りが気になっていたのである。


ヒカルは盤上に視線を戻して思った。

(・・・まだ、勝てる)

まだ、互角。

前回はそこからヨセで押されまくって、負けたのだ。


(オレが、ヨセを間違えなければ・・・・・)



ヒカルは左手の人差し指を噛んだ。その手に扇子はない。


初めての長考に観戦者達は固唾を飲んで見守っている。





 その時だった。少し離れた場所で椅子が倒れる大きな音がした。

同時に誰かの怒号。

「コノヤロオッ!!」

「和谷!!」

碁笥がテーブルから落ち、石が床にバラバラッと音を立てて散らばった。


会場内の人々の注意が騒ぎの方に向けられる。

回りに立つ観戦者の数人がそちらに向かったおかげで、ヒカルにも観戦者の立つ隙間からその様子が見えた。


和谷が真柴に馬乗りになって殴りつけていた。それを篠田院生師範が羽交い絞めにして止めている。


(何やってんだアイツ)

ヒカルはあっけにとられてその様子を見ていた。

(そうか、そういえば前ん時も、和谷が何かやらかしたんだった)


対局で忙しく、取っ組み合いの現場は見ていないが、後で和谷が院生師範にコッテリ絞られたのは記憶にある。

確か、真柴が伊角に負けて、悔し紛れに『プロ試験に受からなきゃ、こんなところで勝っても意味はない』というようなことを言ったのだとか。



何故そんなことを言ったのやら。

プロになった真柴は真柴なりに焦りでもあるのだろうか。


後年、伊角がプロ試験に合格した時、真柴は

『プロに来たら上がってくのはえーだろーな・・・実力あるからあの人』

と言っていたのをヒカルは聞いている。



しかし、焦りがあろうが、結果を出せなかろうが、とにかく真柴はプロになった。

少なくともプロ棋士としてのスタートは切れたのである。


そうだ。とにかく重要なのはプロ試験であって、今日は目をつぶった方がいいのだ。


(若獅子戦だって勝ちたいけどな・・・)



そこまで考えて、ヒカルはまた和谷達の方へ目を向けたが、今度は観戦者に視線が遮られた。そのまま顔を上に上げる。


(・・・・・・)



塔矢アキラの顔がそこにあった。そして目が合ってしまった。

「・・・・・」

(・・・・・・やっぱり来ちゃったか)

そそくさとヒカルは視線を盤上に戻した。





 さて、第一戦の対局はあらかた終了し、もはや残った対局は数組だけとなっていた。

ヒカルと村上の対局はその後も続く。

残り時間が少なくなったためか、今度は村上二段の手も早い。


アキラはヒカルらしからぬ甘いヨセを不審に思った。

(ヨセだけじゃない・・・)

全体的に碁のレベルが低い気がする。しかしそれでいて石の並び方が良く分からない。


このままだとヒカルは負ける。

(何があったんだ?)

アキラは初めの方から観ていたらしい緒方に問い掛けるような視線を向けたが、緒方は盤上を見るばかりであった。


 そうして対局をしばらく見ていたアキラはふいに違和感を覚えた。

(あの時と同じだ)


あくまで真面目に、迷いなく、深く考えている風でもなく、ただひたすら決められた場所に石を置く。




(まるで棋譜並べ)


アキラはヒカルと出会ったばかりのころに打った二局を思い出していた。

あの、神の一手をさえ思わせた対局で、ヒカルはこのような打ち方をしていたのだ。

あの時は全力で挑む自分が、真剣に相手にもされないのかと、ショックを受けたものだ。


今日、進藤ヒカルは同じような打ち方をしている。

そして、恐らくは負けようとしているのだ。


(何のために? まさか僕と打つのを避けるためか)


この打ち方の謎は解けないが、とにかく「今は塔矢とは打てない」とヒカルは言っていた。願掛けのために。

聞いてはいても不愉快だ。

何の願掛けだというのだ。打ちたい相手と戦わずに何が棋士か!


アキラは踵を返して、観戦者達の輪から離れていった。

緒方九段も、程なくテーブルを後にする。








「ありません」

さびしげなヒカルの声を皆が聞いたのはそれから数分後のことである。

打掛2



自分は夢を見ている。と、アキラは思った。


何故か、これは夢だという自覚があった。






気が付くと、彼は木造の、時代劇に出てくるような建物の中にいた。

彼が立っていたのは並んだ部屋の外周を取り囲む、板敷きの渡り廊下の片隅だ。


その場所は静まり返っていて寒くも暑くもなく、光は淡く辺りを照らしていた。



以前にもこんなことがあった気がする。

何時だろう。

もしかすると、それはやはり夢の中の出来事だったかもしれない。




 渡り廊下から外の庭が見えた。遠くの方に和服を着た人々がゆらゆら見え隠れしているが、それはアキラが日常見慣れた和服ではなく、いわゆる時代劇で役者が着ているような時代がかったものに見えた。



まあ、夢だからな。と、ミもフタもないことを考えながら廊下を歩いていると、ある部屋の奥の方に人影があるのに気が付いた。



畳の上に碁盤が置いてある。その前に座す一人の青年。

狩衣に立烏帽子。髪は長く伸ばし、伸ばした先で一つに束ねている。



あっ、とアキラは思った。この男には見覚えがある。

いつか夢の中で見た男だ。


その青年の碁盤を挟んだ向かいには若衆髷の少年が座っていた。自分より若干幼く見える。十歳位だろうか。

そして前回と同じく青年が少年に碁を教えているようだ。


下を向いているので少年の顔は見えないが、もしやと思ってアキラは少年が顔を上げるまで待つことにした。



しかし少年はなかなか顔を上げようとはしない。


待っている間、ずっと様子を見ていたが、どうにもこの少年は行儀が悪いようだ。

胡座をかいたり、立て膝を立てたり落ち着きがない。袖の中に手をつっこんで二の腕をポリポリ掻いたりしている。

とても人に教えを乞いているようには見えない。

自分が父に打ってもらっている時のことを考えると、有り得ない態度だった。





 ずいぶん時間が経ってアキラがいい加減待ちくたびれた頃、やっと少年は不機嫌そうな顔を上げた。

(・・・・・やっぱり)


少年はやはり進藤ヒカルの顔をしていた。





(・・・・・・一体何だろう、この夢)

先日の若獅子戦の二回戦で進藤ヒカルと戦えなかったのが気になっていて、またこんな夢を見てしまったのだろうか。



対局が終わり、どうやらヒカルは青年に負けたらしかった。

口を尖らせて、ふて腐れている様子だったのが、しばらくすると青年に文句を言い始めた。何を言っているのかまでは分からない。

音が反響してよく聞き取れないのだ。


ヒカルがぶうぶう何ごとか言い募っているのを、青年は気にした風でもなく、にこやかに聞いていた。

そして、ヒカルをなだめるように何かを言うと、閉じた扇で盤上の一点を指し示し、解説を始めた。

初め不機嫌そうに聞いていたヒカルだが、次第に表情が変わり、今度は熱心にあれこれ問いかけ始めた。青年もそれに応じて、質問に穏やかに答えている。


最後にはヒカルも深く納得したように頷き、笑顔を見せた。




微笑み合う二人を見て、アキラは焦燥感を抱いた。


(待て! 何を二人で納得しているんだ。僕にも、僕にも碁の内容を見せてくれ!!)


彼は二人に向かって叫ぶと、部屋の中に入っていった。

しかし、ある程度まで近づくと、それ以上アキラは二人に近づくことが出来なくなった。まるで見えない壁があるように、そこから一歩も先に進めないのだ。


しばらくその見えない壁と格闘していたアキラだが、どうやら無駄らしいと悟ると、あきらめてヒカルに呼びかけた。


(進藤! 進藤、聞こえないのか!? )


しかし、アキラの叫びも空しく、ヒカルは笑みを浮かべたまま青年から目を離そうとはしなかった。


(進藤!! その人は誰だ!?)


ヒカルは動かない。


その代わり、烏帽子の男がゆっくりとアキラの方に顔を向けた。


(・・・・・)


途端に強烈なプレッシャーがアキラを襲う。







前に見た通りの暖かく、やさしく、美しい笑み。


それなのに。



(・・・・・ううっ)

思わず声がもれる。




・・・何故自分はこんなにもこの男が恐ろしいのだろう。

分からない。


威圧感。そして、禁忌に触れたような恐怖。












そうだ。

これはこの世ならざる者。














その言葉が頭に浮かんだ時、アキラは目を覚ました。



「・・・・・・・・」


彼はゆっくりと目を開けた。

見慣れた壁が見えた。




彼は自分の部屋の自分の布団の中にいた。

時計を見る。午前四時二十三分。


やはり今のは夢だったのだ。




しかし、アキラは敢えて声に出して言ってみた。

「今のは何だ」


そうしないと、今の「夢」が夢として消えてしまうような気がしたのだ。

アキラは布団のなかで仰向けになったまま、暗い部屋の中で天井を睨みつけた。








「あの男は誰だ」


白48


若獅子戦翌日は、いつもの院生研修日であった。

昼食の為に棋院近くのマクドナルドにやって来たヒカル達は、それぞれカウンターで注文した後、店内の窓際の一角を占居した。



この日のランチメンバーはヒカルの他、和谷、伊角、本田、奈瀬、福井そして小宮。

それぞれ食べ始めると、自然と昨日の若獅子戦の話題が出てきた。


小宮がポテトをつまみながら言った。

「それにしても、昨日の真柴さんの顔は見ものだったな」

奈瀬も同意して頷く。

「伊角くん、良くやってくれたわよ。マジすっきりしたもん、私」


それに対して伊角は頭を掻きながら苦笑いをして答えた。

「でもオレ、二回戦はダメだったしな」

「まあ、それはそれ。とりあえず、真柴をやっつけてくれたところが嬉しい訳よ」

「そゆこと。あの人何か勘違いしてるよな」


そこで和谷が自分に指差してアピールした。

「オレもがんばったろ?」


だがこれには誰も同意しなかった。

「オマエは腕力でがんばるな」

「ははは」

笑ってごまかす和谷に福井ことフクが訊いた。

「和谷くん、あの後、先生に怒られた?」

「おう。すっげー怒られた」

「馬鹿じゃん?」

「棋士は碁で勝負でしょ」

それに和谷は反論した。

「組み合わせで真柴さんに当たらなかったんだからしょうがないだろ」




 そこで伊角は、ぼけっとしてコーラのカップについたストローを噛んだまま、周りの会話に参加しないヒカルに気が付いた。

「進藤、まだ落ち込んでるのか」

声をかけられたヒカルは、面倒くさそうに目線だけ伊角の方に向けた。


「・・・・・別にそんなんじゃないよ」

「元気出せって。勝つ日もあれば負ける日もあるんだからさ」


和谷も言う。

「そうさ。結局一回戦勝ったのは伊角さんと越智と足立さんの三人だけで、二回戦も勝ったのは越智一人だったんだからな」

「それも寂しいけどね」

「なあ」


ヒカルはまた黙り込んでしまった。


「・・・・・」


「・・・・・」


「だーかーらっ、負けたのはオマエだけじゃねェっつってんだろ! いい加減落ち込むのやめろよ、進藤!!」


「・・・・・うん」


本田が言った。

「進藤って、プロ相手に勝って当然って思ってるところあるよな」

それを受けてフクが言う。

「進藤くんって負け慣れてないんじゃない?」


流石のヒカルもこれには呆れて口を開いた。何千局と打って、ついに一度も勝てなかった相手がいるのに何を言う。

「冗談じゃねェよ。森下先生の研究会じゃ、プロの先生相手にしょっちゅう負けてるって」



「進藤でもまだ、プロには力及ばずってことなのかな」

本田の言葉にヒカルは言った。


「でも、あの一戦は大事な対局になったよ」



今回はただの棋譜並べだったかも知れない。

しかし、一回目に打った時は、負けはしたが、「この一局で自分は強くなった」と確信できる、そんな対局だったのだ。

佐為と打っている時とは違う。

レベルが近い相手とのギリギリの真剣勝負。こんなワクワクする対局をしていたら、自分はまだまだ強くなれる。

そう思えた一戦だった。




―――――― ただ今回は、最初から負けると結果が分かっている碁だっただけだ。


そのために、自分と打ちたいと思っている塔矢アキラを失望させてしまった。

そして自分も塔矢アキラと本気の勝負が出来るチャンスを失ってしまった。


・・・・・それが悔しい。


ヒカルはテーブルの下で拳を握り締めた。







「話変わるけどさあ・・・」

小宮が言った。


「和谷と進藤には前に話したけど、オレ、イトコにパソコン貰ってさ、ネット碁っていうの? やってみたんだよ」


ヒカルと和谷は小宮の方に顔を向けた。


和谷が訊く。

「何だ、自分で設定出来たのか?」

「うん、まあ何だ。コツさえ掴めば出来るもんだな。設定の仕方も画面開けば書いてあるしな」


「何の話?」

奈瀬が聞いてくるのに、和谷は以前小宮がパソコンを手に入れるのを期にネット碁デビューを目論んでいた経緯を説明した。


「へーっ、ネット碁」

「対局してみた?」

本田の問いに小宮は答えた。

「みたみた。 本当にいろんな人が打ってたな。」

「段位別なの?」

「うん。他の人が打ってるのを観戦するだけっていうのも出来るし、結構面白かったよ。ああいうのもアリだよな」

「だろ?」

和谷は嬉しそうに言った。

「すごく強いって言われなかった?」

そこはそれ。院生様なんである。小宮は照れて頭を掻いた。


「言われた。まあ、オレ院生なんで当たり前なんだけど」


ネット碁のプレイヤーは殆どアマチュアなので、当然そうなる。

ただ、トップクラスになると、先日の世界アマに出てくるような実力者を始め、お遊びでプロが打っていたりするので侮るわけにはいかないが。


「でさ、前に和谷が言ってた、ええっと‘サイ’だっけ? オレはまだ打ててないけど、観戦はしたよ」




「!・・・・・・・・」

心臓が一瞬止まったかとヒカルは思った。




「saiが居たのか?」

和谷が小宮に尋ねる。

「居た。居るのは大体夜だけど、打ちまくってた」


ふーん、と和谷は関心なさそうに鼻を鳴らした。


「で? 強かった?」

それに対して小宮は、「はあ?」と声を上げた。


「強かったよ! そもそもプロより強いってオマエが言ったんじゃないか」

和谷は手をブンブン振った。

「そうだけどさ。saiはあのサイトで有名だったから、消えてからも名前を騙るニセモノが沢山いたんだよ。その中の一人かと思っただけさ」


「有名って何で分かるんだ?」

と本田が訊いた。

「分かるさ。去年の世界アマの出場者がsaiは誰だって訊きまわってたもんな。それに」

和谷は一度言葉を切り、効果を確かめるように次の言葉を口にした。


「あの塔矢アキラだって、プロ試験サボってまでsaiと打ってたんだぜ」

「えっ、初日の塔矢の休みってそれか!?」

小宮の問いに和谷は大きく頷いた。


これには事情を知っているヒカル以外の全員が息を呑んだ。

ネット碁のためにプロ試験をサボるなど、常識では考えられない。


ここにいる全員、何のために院生をやっているのか。

ただのお稽古事ではない。

彼らの唯一最大の目標。プロになるために院生でいるのだ。

そして、その過程としてプロ試験がある。


それをサボるとは塔矢アキラは、一体何を考えているのだろう。

彼にとって、プロ試験はそんなに軽いのか。


騒がしい店内で、彼ら七人、しばし沈黙した。






最初に沈黙を破ったのは奈瀬だった。

「そのサイってプロじゃないの?」

これに和谷が答えた。

「皆おんなじこと言うな。違うよ。大手合いの日だっていたんだから」




だが、それに対して小宮が首を傾げた。

「大手合い? ・・・いいや、それは関係ないだろ」

「え?」

「だって、ソイツの国籍って韓国だったもんな」


「・・・・・・・・」




ヒカルと和谷は顔を見合わせた。

「何だって?」


「仮にサイが韓国のプロだったとしても、対局スケジュールは日本と違うと思うぜ」


「それは、そうだ・・・けどさ」


(そんなワケあるかよ!!)


ヒカルは心の中で叫んだ。

何しろ佐為は千年も日本人をやって来たのだ。今更国籍を変更する訳がない。最も幽霊に国籍もへったくれもないが。


ヒカルの目の前で、フクが手にしていたオレンジジュースをズズーーっとすすり上げた。

「あああ、終わっちゃったあ」


だが、ヒカルと和谷はのん気なフクに気遣う余裕はなかった。


「それは、多分saiじゃ、ないと思う。saiは日本国籍で打ってた」

和谷が言った。

ただし、ネットの世界でのプロフィールは匿名性が高い。名前、性別、国籍。全てが本当とは限らない。



「サイってどういう字?」

伊角が訊いた。


「サイ? ‘psy’」

小宮が答えた。


「ピー、エス、ワイ? 違うよ。saiはエス、エイ、アイだ」

和谷はホッとしたように言った。

「別人だ! 何だよ、脅かすな」



殆ど口を挟まなかったヒカルもホッとして半ば笑って言った。

「オレもびっくりした。大体、ぴーから始まるんじゃ、サイじゃないじゃん。ぴーから始まるのはパピプペポだろ?」


しかし、それに対して小宮も伊角も奈瀬も本田も同意してくれなかった。


奈瀬は言った。

「進藤って、多分英語、苦手だと思う」

「ええっ」


何故それを!! とばかりにヒカルは胸を押えた。


本田が言う。

「ピーから始まるからってパピプペポとは限らんよ。例えば、映画の「サイコ」は‘PSYCHO’だろ」

「心理学の‘PSYCHOLOGY’とか」

「超能力の‘PSYCHOKINESIS’とか」

「他にも‘PHYSICAL’とか‘PHYSICS’とか」


和谷とフク以外の全員から畳み掛けるように指摘されて、ヒカルは「あー、」とか「うー」とか返事をするしかなかった。


和谷は「みんなっ、進藤を責めんなよ、コイツ馬鹿なんだからさ!」

と良く分からない庇い方をしたが、ヒカルは(絶対、和谷も分かってねェ!!)と確信していた。

フクはヒカルより年下なので分からなくても仕方がない。



それはさておき、サイ違いで紛らわしいが、気にはなる。


(久しぶりにワールド囲碁ネットを見に行ってみるかな)

と、ヒカルは思った。




考え事をしていて、また手元が留守になったらしい。

伊角がヒカルに声をかけた。

「進藤、食べ終ってないのオマエだけだぞ。さっさと食べちゃえよ」

時計を見ると、そろそろ休み時間も終わりだ。

「あ、うん」

ヒカルは残ったチーズバーガーを口に押し込んだ。




黒49


ところで、帰宅したヒカルはインターネットを利用するにあたって、一つ問題があるのに気が付いた。


財布の中を見てみたら残高が127円だったのだ。

「・・・・・金がねェ・・」



棋院への交通費には親からもらったお金で地下鉄の回数券を買っているが、いつもの六本木のネットカフェに行くためにはそこから自腹だし、祖母の家に行く作戦もあまり多用すると怪しまれる。そうかといって、ネットカフェに行きたいからお金下さいと言って親が出してくれるとも思えない。


交通費だけではない。家の近くのネットカフェに行ったとしても、やはりタダという訳にはいかないだろう。




(早く社会人になりてえな)


プロになればお金が入る。しかしそれまでは、ヒカルも何かと不便なお子様稼業なのだ。

何か手を考えなければならない。






 悩みは尽きず、月曜になって学校に行ってからも、休み時間中ああでもないこうでもないと考えながら、廊下の窓の桟に手をついて校庭の木を眺めるヒカルであった。

風に揺れる若葉の木漏れ日が美しい。もう季節は初夏に移ろうとしているのだ。



「あれ?」

ヒカルは窓越しに目の前の木の枝をマジマジと見つめた。

(・・・・・こんなトコに木なんてあったっけ?)



答えは背後からやってきた。

「ソコの桜って、この休み中に植えたんだってよ」


ヒカルが振り向くと藤崎あかりが立っていた。


「植えた?」

「そう。美咲って園芸部だから、さっき教えてもらったの。休み返上で作業だったって」

「だって木だぞ? どうなってんだあの部。いよいよ土木工事部か?」

「まさか生徒には出来ないよ。業者が来て植えて、その後のこまごまとした作業を園芸部がしたんだって」

(へえ・・・)

ヒカルは改めて目の前の桜の木を眺めた。青々と茂った葉が目の前で揺れた。


「春にはここから花見が出来るね」

「・・・そうだな」


(植えてすぐ咲くものだろうか)と、ヒカルは思った。

前回にこの場所に桜が植えられることはなかったので、どうなるのかは分からない。


卒業するまでに花が見られるといい。佐為は桜の花も好きだった・・・。




ヒカルは小さく溜息をついた。

感傷はいい。何れにせよ、また歴史が変わってしまったということだ。





 そんなヒカルの気持ちを知ってか知らずかあかりは言葉を続けた。

「そうだ。もうすぐプロ試験が始まるね。いつからだっけ?」

「・・・オレは今回予選免除なんで八月からだな」

ヒカルの言葉にあかりは怪訝そうな顔をした。

「・・・・・今回って、ヒカル受けるの初めてじゃないの?」


「えっ?」

いかんいかん、ウッカリしていた。

ヒカルは言い直した。

「・・・初めてだよっ」

「夏休み中でもネットで確認してるからね、がんばって」

「おう」


あかりの言葉に、(そうか、インターネットでも確認出来るもんなあ・・・)とぼんやり思ったところでヒカルは動きを止めた。



「あかり、今、ネットで確認するって言った?」

「え?」

「ネットって、何処で見てるの?」


ヒカルの声が俄かに真剣味を帯びる。世間話のつもりで軽く言ったあかりはちょっと引いてしまった。


「何処でって・・」

「オマエまさか!」

「ええっ?」

ヒカルがあかりの二の腕を掴んだ。

あかりは心臓が一瞬止まったような気がした。


何だこの展開は。

ヒカルが出した大声に周りの生徒達がチラチラこちらを見ているのが横目に入る。

ヒカルが、更にずいっとあかりに詰め寄った。


「ヒ、ヒカル?」

「あかり、パソコン持ってるのかっ!?」



あかりは一瞬何を言われたのか分からなかった。






「・・・・・・・・・はい?」

「だからパソコンだってば」


今やものすごく真剣な目で、今や学校の廊下で両肩を掴まれて詰問される藤崎あかりである。



「持ってるけど・・・・・」



その言葉にヒカルの表情がみるみる喜びに溢れてくる。その顔にあかりは思わず見とれてしまった。

(か、かわいい・・・・)

ヒカルはあかりの肩を離すと、ニコニコして言った。

「貸して」


「・・・・・え?」

「だから貸して。パソコン」


「貸す?」

「うん。どうしても使いたい用事があるんだけど、オレ持ってないんだ。だから」


ヒカルはニコニコしたままだ。

こんなヒカルの顔を見るのは何年ぶりだろう。それを思うとあかりとて期待には答えたい。しかし、あかりはうーん、と首を傾げて唸った。


「ダメ?」

ヒカルが訊いてくる。

「ダメというか・・・そのパソコンってお姉ちゃんと共用だし、それに、」

「うん」

「・・・ノートじゃなくてデスクトップパソコンなの。だから、はいどうぞって貸す訳には・・・」


口ごもりながら言うあかりに、ヒカルは「なーんだ、そんなことか!」と半ば笑いながら明るく答えた。


「そしたら、オレ、オマエん家行くよ! それなら問題ないじゃん」



「・・・・・・・」


あかりの心臓が今度は勝手に爆走を始めた。

(・・・・・うっそ)


「オマエん家って行くの、そういえば、すっげー久しぶりだよなあ、オマエはウチに来るけど、オレがオマエん家に最後に行ったのって小学四年の時だっけ?」


(・・・・・うっそ)


あかりが口をぱくぱくさせていると、始業のチャイムが鳴った。


「あ、チャイム鳴ったぞ。それじゃ行く日は放課後、囲碁部で決めようぜ。じゃな」


ヒカルは片手を上げると、鼻歌まじりに軽い足取りで、さっさと自分のクラスに帰っていった。




「うっそお・・・・・」

あかりが固まっていると、少し離れたところで様子を観ていた津田久美子が、足早に近づき、体当たりしてきた。

「きゃっ」

あかりは思わず悲鳴を上げたが、久美子は構わずあかりの肩を叩いた。

「あかりっ、やったじゃない!!」

「・・・・・ええっ?」

「進藤君のことだよっ! 良かったね!」

その言葉を聞いて、あかりの顔がみるみる赤くなる。

「・・・・・やだ、そんなんじゃないよ!!」


「何言ってるのよ」

久美子はあきれたように言った。


はっきり言って、「藤崎あかりが進藤ヒカルにラブっている」というのは、学年で知らぬ者のない有名な話だ。

クラスは別だが、休み時間や移動教室の際にヒカルを見つめる目を見てれば、誰が見てもバレバレなのであった。

そうなると当然、ヒカルの方もからかわれたりするので、もちろん本人も噂は知っているのだが、当のヒカルは「バカなこと言うなよ、あかりは幼馴染みなの!」の一点張りで取り合おうとはしない。

普通なら、それでも少しは気にしそうなものだが、ヒカルは佐為に会うことと、碁のことで頭が一杯で、それ以外のことに気が回らないのだ。

考えてみれば、結構かわいそうなあかりであった。



ところがである。

何やら話し込んでいたかと思うと、満面の笑顔で「オマエの家に遊びに行くからよろしくね~」などという声が聞こえてくれば、これはもう、カップル成立だと周囲が思うのも無理はない。

中学生たるもの、主な興味の対象といえば、ファッション、芸能ニュースか受験じゃなければ恋愛に決まっているのだ。


久美子は報われないあかりを間近で見てきて、この二人を何とか出来ないものかとずっと気にしていたので「良かったねえ、あかり」と、しみじみと言った。


「だ、だから違うって・・・」

小さい声で反論していても、久美子はうんうんと、頷くばかりであった。



白50



その後のヒカルの行動は早かった。

放課後、あかりが囲碁部に行くと、既に待ち構えていたヒカルは、明日あかりの家に行くことを一方的に通告すると、さっさと帰っていった。

そして翌日、訳知り顔の久美子に送り出されて、ヒカルとあかりは藤崎家へ並んで向かうことになったのである。



 藤崎家はヒカルの家から徒歩十分程のところにある、洋風の一戸建て住宅だ。

道を曲がって、家の門が見えると

「うおー、懐かしーな」

と、ヒカルは声をあげた。

あかりの母親が趣味で作っているコンテナガーデンの横を通り抜け、玄関の扉を開けると、家には母親も、姉のかおりもいてヒカルを出迎えてくれた。


「・・・・・。えーと、こんにちは・・・」

「いらっしゃい」

勇んでやってきた割には、母親と姉を見て緊張してしまった風のヒカルがあかりには可笑しかった。

しかし、四年ぶりに来たというのは表向き。実はヒカルがこの家にやって来たのは八年ぶりなのである。

「ヒカル君、ちょっと見ないうちに随分大きくなったわねえ」

という、あかり母のお決まりの言葉に、ヒカルはあかりの方を見た。

まだ若干あかりの方が背が高い。

「いや、まだまだです」

と、ヒカルは小さい声で返事をした。



「ヒー君、パソコン使いたいんだって?」

「うん・・・」


かおりは右手を上げておいでおいでをして、ヒカルを呼んだ。

ヒカルがかおりの傍に行くと、かおりは口をヒカルの耳元に寄せてささやいた。

「使うのはいいけど、有料エロサイトとか見やがったらコロすよ」

「ぶっ」

ヒカルは吹きだした。

「かおりねーちゃん、相変わらずだなあ」

かおりは、笑いながら「ごゆっくりー」と声をかけ、そのまま玄関から出て行った。ちょうど出掛けだったのだ。

しかし、それで緊張が解けたらしい。「まいったな」と言って頭をかきながらもヒカルは思わず笑ってしまった。




 さて、あかりの部屋に入るとヒカルはぐるりと部屋を見回した。

「部屋の作りが変わってねェ?」

最後に来た時は姉妹の二人部屋だったが、来ない間に部屋の間に一部仕切りが取り付けられており、それぞれ独立した部屋になっていた。


「うん、お姉ちゃんも私も勉強するには別々の方がいいからね。パソコンはお姉ちゃんの机の上なんで、こっちだよ」

あかりはそう言って、デスクトップパソコンのある姉の机を指差した。

「おー、すげえすげえ」

ヒカルはパソコンを見るなり駆け寄り、うきうきとかおりの机の前に座った。

あかりが横から電源を入れる。

「サンキュ」

ヒカルはワールド囲碁ネットに接続し、いつもの登録名‘mitani’でログインした。

その様子を机の横から見ていたあかりはヒカルに訊いた。

「変なの。何で登録名が三谷君なの?」

「進藤でもヒカルでもまずい訳があったんだよ」

そう言いながら、ヒカルは画面を見つめた。




 一旦パソコンに向かうとヒカルはひたすら無言であった。打つでもなく、ただ他のプレイヤーの接続状況と碁のチェックをしている。

しばらく一緒に画面を覗き込んでいたあかりもそのうち退屈になってきた。

ヒカルの邪魔になるのも悪いので、自分のテリトリーに戻って塾の宿題を片付けることにした。





 それから約二時間、お茶やトイレ休憩はあったものの、二人はたいした話もしないまま時は過ぎた。

勉強もひと段落してあかりが自分の机で伸びをしていると、背後にヒカルが立っているのに気がついた。

「わっ、びっくりさせないでよ」

「・・・・・あかり、ありがとな。今日はもう帰るよ」

そう言われて、あかりは時計を見た。

「・・・あ、うん、もう六時だもんね」

「明日、また来る」

「・・・・あ、そう」


ヒカルは来た時とは打って変わり、うかない顔をして部屋を出て行った。

モタモタしている間にヒカルが母親に挨拶している声が聞こえる。あかりはあわてて後を追った。


「ヒカルっまたね」

玄関先であかりが声をかけると、ヒカルは「おう」と小さく返事をして帰っていった。


その様子にあかりの母親も少し気になったようだ。

「ヒカル君、どうかしたの?」

しかし、あかりは「さあ・・・」と答える他なかった。






 翌日、学校に行くと、早速久美子が事情聴取にやって来た。

「どうだった?」

「どうだったって・・・何もないよ」


だが、久美子の表情は疑わしそうだ。

「本当かなあ」

「本当だよ。ヒカルはパソコンで調べものをして、それだけで帰っちゃった」

「でも何か話とかしたんでしょ?」

「・・・あんまり・・・・・」

あかりは肩を落とした。少しも期待しなかったといえばウソになる。

だが、これ以上はない位、色めいたことは何もない訪問だったのだ。


「そのうちうまくいくから、元気だしなよね」

他に言い様もないらしい久美子のなぐさめを聞いてあかりは自分のクラスに向かうのだった。

(そうだよ、ヒカルは今日も来るって言ったしね)

あかりは自分を納得させるように小さく頷いた。





 それからヒカルは毎日放課後、あかりの家にやって来てはパソコンで他人の対局を見て過ごしていた。

そして数時間後、決まってがっかりした表情で帰途に着く。

ヒカルが来る度(今日こそは!!)と思うあかりだったが、画面をみつめるヒカルの熱心さに、なかなか声をかけられないでいた。



 ところでその間、ヒカルは姉の机の上にあるパソコンを占拠している訳である。

姉は高校生。ずっと机が使われているのは何かと問題がある。姉本人はともかく勉強をしてもらいたい親が気にし出した。

「ヒカル君、まだパソコン使いたいの?」

夕飯の時にそれとなく訊かれて、あかりも困ってしまった。





 そして、その翌日、ぶつぶつ言いながらパソコンの画面を見つめるヒカルに、意を決してあかりは声をかけた。

「ヒカル、ずっと画面眺めてるばっかりで、全然打たないけど、何見てるのよ」

「ああ?」

存在をすっかり忘れていたかのような顔をして、ヒカルは首だけあかりの方に向いた。

「・・・・・何見てるわけ?」

「・・・何回おんなじこと言わせるんだよ。ちょっと気になる打ち手がいるんで、そいつが碁を打つのを待ってるんだってば」


随分気の長い話である。


「それで? その人は現われたの?」

「・・・・まだ」

「ふうん」

あかりは画面を見た。多くの登録名が並ぶ。国籍もJPNが多いが様々だ。




そして暫くそのまま沈黙が続いた。

何か話さなければ、と思ったあかりは、あることを思いついて、それを口にしてみた。


「・・・・・ねえ、待ってるだけなら、私、その間にちょっと打ってみてもいいかな」

「え、オマエ打つの?」

一応囲碁部員である。そんなに驚くことはないではないか、と、あかりは思った。


「いいじゃない、やり方教えてよ」

ヒカルは少し目線を外に向けて何か考える風だったが「まあ、オマエのパソコンだしな」と言って、席を譲った。

しかし、あかりが座ってマウスを持ったところでヒカルはストップをかけてきた。


「ちょっと待て。オマエが打つんなら、登録名変えろ?」

「・・・・・ヘボじゃ不満?」

「そう言う訳じゃないけど、どうせ打つんなら自分の登録名があった方がいいだろ?」

そう言うとヒカルは横から手を出して、一度ログアウトして再接続した。


「何にする?」

「そうねえ・・・」

「‘natsume’は?」

(バカか? この男は)

「何で夏目君だよ!?」

ヒカルはうーんと唸って天井を見た。

「・・・さあ・・・部長だから?」

「関係ないじゃない」

「じゃあ、‘koike’」

小池仁志は今年の春に囲碁部に入部してきた一年生である。

「やだよ!」

「嫌われたもんだなあ。じゃあ‘tsuda’か‘kaneko’か好きな方を選べよ」

それなら‘shindou’でもいいではないか、とあかりは思ったが、流石にそれは露骨すぎて口にしかねた。

「あのねえ、囲碁部員の名前じゃなきゃいけない訳?」

「・・・・・あ、それもそうだな」


やはり、この男は少しおかしい様である。


「だったら、何か自分で考えろよ」

あかりは暫く考えて、そして、一つの名前をあげた。

「じゃあ、じゃあ・・・‘light’にする」


「ライト?」

「うん、あかりの意味でlight」

「ほーっ」

自分の名前の英語読みということもあるが、ヒカル転じて「光り」も同じである。これはいい考えだとあかりは思った。


「ライトねえ・・・」


ちょっとワクワクしながら、画面を見ていたあかりだが、打ち込まれた文字を見て眉をひそめた。


「ちょっとヒカル、‘right’って何?」

「ライトだろ」

「あかりのライトだよ! それじゃ‘右’じゃん!!」


ヒカルも眉間にシワを寄せて、画面を見た。

「・・・・・似たようなもんだろ。たった一文字じゃないか」

「・・・・・」

一文字違えば意味は大違いである。

あかりは少々不安になってきた。。

「ヒカル・・・・・やっぱり少しは学校の勉強もした方がいいんじゃ・・・」

「うるせェな」

「だって、やっぱり高校受験とかあるんだし」

それに対して、ヒカルはニヤリと笑って答えた。

「オレ受けね―よ」

「えええっ!!!」

あかりは驚いて思わず大きな声をあげた。

「ヒカル高校行かないの?」


「バカ言ってるぜ。オレは来年プロになるんだぞ? プロと言えば社会人。学校なんてもう行かなくていいんだ」

プロで高校生もいるが、そんな都合の悪いことは絶対に言わないつもりのヒカルである。


(ヒカル、一度でプロ試験に合格する気なんだ・・・)

あかりは、改めてヒカルを見た。

プロの世界など無縁でも、プロ試験にまつわる悲喜劇は、囲碁雑誌等で見て何となく知っている。

何度も受けて、やっと受かるような試験ではないのか。

(塔矢アキラに勝つ位なんだから、確かに実力はあるんだろうけど)


正直、あかりの実力では、プロ試験に合格出来る実力のレベルがどういうものか見当もつかない。


あかりが言葉を失っている間にヒカルは‘r’を‘l’にして再接続した。

「じゃ、やるか」

ヒカルはやり方を説明しだした。



それを聞きながら、あかりは横目でチラとヒカルを見た。

高校に行かないというのには驚いたが、とにかく今日は、二人並んで、パソコンに向かっている。


(これって、少しは前進?)



ヒカルが自分をどう思っているのかは分からないが、少なくとも明日は久美子に報告できることが出来たな、

とあかりは思った。




黒51


「あ、投了してきた!」

「うん」



あかりがネット碁を始めて三日目。

始めた時は自信がなかったが、やってみるとそこそこ勝てるので、あかりはだんだん面白くなってきた。

今も、相手が投了してきたのが嬉しくて、ヒカルにガッツポーズをして見せた。



「ヒカルが変なこと言うから全然ダメかと思ってたけど、私でも結構勝てるのね」

それを聞いてヒカルは苦笑いをした。


「それは、オマエに合ったレベルで打ってるからだよ。それに囲碁部ではオレが教えてるんだから勝てるのは当たり前だろ」

「うわ、すごい自信」

「オレ、自分でも教えるのは上手いと思うぜ。現に囲碁部の奴ら、みんな棋力アップしてるしな」



囲碁部顧問のタマ子先生は、囲碁そのものには全く不案内である。

皆に何とか教えられる実力があるのは、三谷と金子くらいだが、三谷はサボりが多いし、金子はバレー部と兼部なので、あまり来られない。


前回は囲碁部に出入り禁止になっていたので、そんな状況の中で運営されている囲碁部を心配しつつも手が出せなかったヒカルは、今回は時間が取れる限り協力しようと考えていた。


ヒカルの師匠、藤原佐為は最強の打ち手であるとともに、非常に優秀な教授者でもあったので、自分が初心者だった時に彼がどういうやり方で教えようとしていたかを思い出すと、

囲碁部で教える時の参考になる。


「進藤先生だもんね」

あかりはからかいの笑みを浮かべた。

「プロ試験に受かったら、それ洒落じゃねェからな」

(その為にもプロ試験は落とせねェ)

とヒカルは思う。





「さて、終わったんだから、エントリー表見せろよ」

「うん」


ヒカルはパソコンの前に座ると、画面を切り替えて現在エントリーしているプレイヤーのリスト画面にした。

そしていつものように画面をスクロールして、お目当ての登録名を探す。

といっても‘psy’の段位が低いわけもないので、九段か十段を中心に探せばそれで終わりだ。

あかりの家でパソコンの画面を眺めて何百回更新しても、例のヤツは現われない。

小宮の言うように夜、つまりもう少し遅い時間を狙うべきだろうか。しかし流石にあかりの家でそれは出来ない。

今日も多分ダメだな、とヒカルは半ばあきらめていた。しかし。



「あっ、居た!!」

「えっ」


画面上に‘psy’の名前があがっていたのだ。


ヒカルとあかりは呆然と顔を見合わせた。

プロ試験前のこの忙しい時期、この家に通いに通って十日。そろそろ断念しようかと思い始めていた、その矢先のことである。


「・・・・・ヒカル、観戦しなきゃ」

「お、おう」



あかりに促されたヒカルは、唾を飲み込むと観戦ボタンを押した。

(どんな碁だよ?)

すると碁盤が現われ、その時点までの碁が一手ずつ高速表示されていく。

この時点で手数は九十二手。psyは白番で十段格。相手の黒は九段格だ。


「・・・・・・・・」


小宮が言った通り、確かにpsyは強かった。というより、黒は相手になっていない。

(だがこの白。佐為じゃないけど、誰かの碁に似てる・・・・・)


碁の流れを見つつ、ヒカルは頭の中のライブラリーから、該当する棋士を近似検索していく。


「・・・・・・・・」


嫌な予感がした。


一方、画面を見つめるヒカルの顔がにわかに険悪な表情になっていくのをあかりは不安な気持ちで見つめていた。


「ありえねェ・・・・・」

「ヒカル、心当たりあるの?」


ヒカルもあかりの顔を見た。

心配そうな顔をしている。もしかすると自分は顔色を変えているのかもしれないと、ヒカルは自分の頬に手を当てた。

時計を見る。もう七時をまわっていた。

画面に視線を戻すと、黒が投了するところだった。


会話するかと思いきや、psyはたちまちプレイヤーリストから名を消した。

「早えーよ」

ヒカルは小さく舌打ちすると、ログアウトした。

「ヒカル・・・」

あかりが再び声をかけるのに応えるようにヒカルは立ち上がって言った。


「帰る」

「えっ?」

「これ以上見てても、今日はもう、ヤツは打たないと思う」

ヒカルはそう言って、自分のカバンを取り上げた。

そして、あかりの母親に声をかけると、いつものように玄関から出て行った。


それを見送って、あかりは自分の部屋に帰りながら、

(今日はヒカルのお目当てのプレイヤーが現われて良かった)

と、ぼんやり考えた。

(明日も現れるといい。そしてヒカルが対局出来るといいのに)








 そのヒカルは、日が暮れて薄暗くなってきた道を自宅に向かって歩きながら、先程の碁を頭の中で反芻していた。



‘psy’は 韓 国 の プレイヤー と し て 打っている、と小宮は言っていた。


psyの碁を見ていて、韓 国 流 の 打 ち 手 であることはすぐにわかった。

だからといって、psyが誰かなどすぐに特定できるものではない。

プロでなくても、ものすごく強いアマチュアなどいくらでもいるのだ。

ヒカルが何日もかけてネット碁のサイトを見ていたのも、実のところ「サイ」繋がりから来る単なる興味でしかなかった。


それに例えプロだとして、中韓の棋戦もそれなりにチェックはしているとはいえ、今だヒカルもそれほど海外の棋士について詳しいわけではない。



だが、それでもこの碁から、ヒカルはある人物を思い浮かべずにはいられなかった。



無駄に尊大な態度。ヒカルを含む公衆の面前で何の脈絡もなく秀策を見下すかの態度を取ったあの男。






「高永夏・・・・」



ヒカルは口の中で小さくつぶやいた。





 高永夏コ ヨンハ三 段 は 韓 国 の 若 手 ナンバーワンの呼び声高い棋士である。

プロになったのは十三歳の時。プロになったばかりの頃は成績が低迷するも、すぐにメキメキと頭角をあらわし、タイトルを取るのも時間の問題だといわれている。

国際棋戦もこの年、第三回春蘭杯世界プロ囲碁選手権の出場者に選ばれる程の実力者であった。



そして運命の平成十四年五月の日中韓ジュニア北斗杯のレセプション。

彼はヒカルの顔を見ながら壇上でこう言い放ったのだ。

『本因坊秀策など、もし今現れてもオレの敵じゃない』と。


その日だけではない。

週刊碁の古瀬村記者によれば、その前にもインタビュー時に『本因坊秀策なんかたいしたことない』と語ったのだと言う。


本因坊秀策といえば、まさに棋聖である。過去の偉人として尊敬をもって扱われるべき存在だ。・・・・・というのは本当だが、理屈でもある。

碁の布石や定石も日進月歩である以上、『敵じゃない』と言えば、そういう面が全くないとは言い切れない。

しかしヒカルの頭の中では「秀策」イコール「佐為」なのである。

ヒカルにとっては、



『藤原佐為など、もし今現れてもオレの敵じゃない』

『藤原佐為なんかたいしたことない』


と言われたのも同然であった。


(何だとお! よくも佐為を馬鹿にしやがって。許せねェ!!)


と、ヒカルは佐為に代わって、どうしても高永夏を倒さなければならないと思いつめるに至ったのである。





 実は高永夏の最初の発言は、稚拙な翻訳に端を発する誤解だったのだが、この時点でヒカルはその事情を知らない。

しかも、それを知った高永夏が面白がってレセプションでの発言につながり、ヒカルの誤解は解けることなく放置されてしまったのだ。


北斗杯の直前、以前からの知り合い(今回はまだ出会っていないが)の洪秀英ホン スヨンに、「永夏は小さい頃から知っているが、彼がそんなことを言う訳がない、誤解だ」と言われた。

「彼は本当に碁に対して真摯だし、勉強家だし、尊敬している友人なんだ」とも言っていた。


そうとも。だから秀英にとってはいい人でいい兄貴分なんだろう。そこまでは否定しない。だが、自分にとっては・・・・・

ヒカルは再びあの日の高永夏の顔を思い浮かべた。

「・・・・・」


(やっぱりイヤな野郎だぜ―――――― っ!!!!!!)






 その北斗杯では団長だった倉田厚六段に頼み込んで、大将にしてもらったのに半目及ばず高永夏に負けを喫した。

そして、その直後に・・・・・・・それが何故だか全く分からないのだが、小学六年生の時点に逆戻りしてしまったのである。




「何でアイツが、今ここに出てくるんだろう、っていうか、psyって本当にアイツなのかな」

そういう気がするというだけで、ヒカルにも断定は出来ない。


過去の碁だということもある。

ヒカルが知っている平成十四年五月時点の碁と比べれば、棋風も変わっていないとは言い切れない。先ほどのネット碁では、黒との実力差もあって、psyの白は力半分で打っているということもある。


「psyが高永夏だったとして、前回もアイツはワールド囲碁ネットで打っていたんだろうか」

これも今となっては確認の取りようもない。



分からないことだらけであった。








 そのようにあれこれ考えているうち、ヒカルは自分の家に着いた。呼び鈴を押して玄関を開けてもらう。

いつものように、ヒカルは靴を脱いで家にあがろうとした。が、それは出来なかった。それを阻むように母親の美津子が立ちはだかっていたからだ。



「・・・・・何?」

「ヒカル。アンタあかりちゃんの家で勉強していたんじゃなかったの?」



白52


勉強していたんじゃないのかと、帰るなり母親に問い詰められてヒカルは困った。


「う・・・勉強・・・してたよ」

「何の?」

「だからパソコンで、」

「碁を打ってたのよね」

(知ってるんじゃねェか!)



「・・・・・打ってたんじゃなくて他の人の碁を見たり、あかりに教えたり・・・・・」


美津子は呆れたように首を振ると、

「今日、スーパーであかりちゃんのお母さんに会ったのよ。アンタずっとかおりちゃんの机を占領してるんだって?」

「だ、だってそれは、かおりがいいって言ってたんだし」

「良い訳ないでしょ! かおりちゃんは受験生なの! 一日だけならともかく二週間もだなんて、お母さん話を聞いてすごく困ったんだからね」

ヒカルは内心舌打ちした。

(なんだよ、あかりのお母さん、ウチの親に言う位ならオレに直接言えばいいのに)


「もう、いいからあがんなさい、晩ごはん出来てるから」と言って、美津子は台所に方に行ってしまった。

機嫌の悪い母親の対応に少々不安を覚えながら、ヒカルは自分の部屋にカバンを置きに行った。

あかりの家に行くのに、勉強すると言っておけば文句は言われまいと思ったのだが、そううまくはいかなかったらしい。






 その後ダイニングキッチンに入っていき、食卓につこうとしてヒカルは立ち止まった。ヤバイと思った。そこに彼の父親が座っていたからだ。

彼は食事の前の晩酌を始めていた。そしてヒカルの顔を見ると「よう、お帰り」と声をかけてきた。



「・・・お父さん、早いね」

ヒカルは努めて平静を装い、自分の定位置の椅子に座る。

美津子も、エプロンを取って座ると「いただきましょう」と言った。


今日の献立は肉じゃがとヒジキの煮物、あじのたたきとサラダに味噌汁に御飯。和風である。

「・・・・・いただきます」

と、気分も和風に地味目なヒカルは小さい声で言った。言いながら、どうやってこの場を乗り切ろうかと、頭の中を回転させ始めた。

しかし、かわいそうな位ヒカルの頭脳は囲碁専用に出来ているようで、良いアイディアは全く浮かんでこない。結果、ヒカルはただ黙々と箸を動かすのみであった。



その不自然に静かな食卓で、最初に口を開いたのは正夫だった。

「こうやって、三人で夕飯食べてると、日曜日みたいだな」

ヒカルは少々ほっとして受けた。

「ホントだね」

食卓が(少しは)和んで良かったと思ったのも束の間、美津子が先ほどの話を蒸し返してきた。

「ヒカル、もうあかりちゃんのところでパソコンをお借りするのは遠慮しなさいね」


(せっかくpsyが出てきたところなのにそれはねェだろ)と、思ったヒカルは、不満そうに母親を見た。


「・・・あかりのお母さん、迷惑だって言ったの?」

「・・・まさか、そんな言い方はしないわよ。大人はそういうことは上手に言ってくるものなの! でも、ご迷惑になってることは確かなんだから。分かるわね?」


(分からねェよ)

そう言いたいのは山々だが、父親の前であまりブーブー言うのもまずい気がしてヒカルは黙した。雰囲気から察するに、この話は自分が帰宅する前に親達の間で話し合われたと思われる。叱られたくなければ迂闊なことは言わぬが花だ。


しかし困った。ここであかりのパソコンが使えなくなるのは痛すぎる。またネットカフェ通いに逆戻りするしかないのだろうか。しかし予算不足は解消されないままだ。

(じーちゃんに頼って何とかならないかな)

などと、仕舞いにはムシのいいことを考え始めた。



考え込むヒカルは、端から見るとふて腐れているように見える。

返事をしないヒカルに向かって美津子は更に続けた。

「ヒカルが囲碁に熱心なのは悪いことじゃないってお母さんだって思うわよ。でも限度ってものがあるでしょ。

アンタ囲碁を始めた頃は成績も上がっていたし、勉強もがんばるんだろうと思っていたのに、最近は囲碁以外はしないって感じじゃないの」

「・・・・・」

「まだ中学二年だって、のんびりしてるのかもしれないけど、すぐ高校受験なんだから少しは考えないとね」

「・・・・・」



何だか話が非常にイヤな方向に向かってきたようである。

ヒカルは答えないまま、一刻も早く食べ終って自分の部屋に退散しようと、箸を動かす手を早めた。


「お父さんも少しは言ってやってよ」


その美津子の一声で、それまで聞き役に回っていた正夫が口を開いた。


「ヒカルはパソコンを使いたいのか?」

「・・・・・・」

(あいたたた――!!)結局お父さんにも怒られちゃうのかとヒカルは暗澹たる気分になった。



「ええと、ええと、あかりの家で勉強をすると言ったのは、それは・・・」

「そんなことは訊いていない。お父さんは使いたいのかそうじゃないのかって訊いてるんだ」

「あ、そっか。ええと、ええと、使いたい・・・よ」

使いたいかどころか、家のパソコンが使えれば、わざわざ、あかりの家に日参する必要もないのである。しかし、それは父親が仕事で使っているという理由から出来なかったのだ。


「じゃ、お父さんのを使えばいい」

「ええ?!」

ヒカルは驚いて箸をテーブルに落としてしまった。

「どうしたの急に。使っていいの?」


美津子も驚いて夫の方を見た。

「待って。あなたのパソコンは仕事用じゃないの?」

「いや、それがさ」と正夫は言った。

「最近は会社の情報管理がきびしくてさ、家での作業が出来なくなったんだよ」


わが国で個人情報保護法が全面施行されたのは平成十七年四月だが、その他の企業情報漏洩防止等の理由で、施行の数年前から社外でのデータ管理や作業を禁止する企業は多かったのである。


「だからって、そんな簡単にいいの? この子ますます勉強しなくなるじゃない」

「碁の棋譜を管理するのにパソコンが必要なんじゃないかって会社の後輩が言っていたんだよ。そういう理由で使うんじゃないのか?」

話を振られて、ヒカルはどぎまぎしながら、答えた。

「そう! そうなんだよ!!(良く知らないけど)絶対必要だってば!」

棋譜管理に関しては、まだ考えていなかったが、パソコンユーザーになれば使うだろう。

やり方は和谷に聞けばいい。そう考えて、ヒカルは言い切った。


「お父さんが使ってない時だけだぞ」

「うん!!」


てっきり叱られるのだろうと思っていたら、この展開である。

碁に関してのみ、自分の運は限りなくいいらしい。というか流石は碁の神様にいいように振り回されているだけのことはある。と、ヒカルは今だけ天に感謝した。


「そういうことなら、もうあかりの家に通わなくても大丈夫だよ。明日あかりにそう言うから」

と、ヒカルは満面の笑みを浮かべて答えた。

対照的に美津子は夫の顔を睨む。ヒカルはそれを見ないようにして父親に言った。

「ね、お父さん、ごはん食べ終ったら、早速使っていい?」

「・・・いやに張り切るなあ」


「ヒカル、今度の試験、成績落としたらお母さん、考えがあるからね」

「オレにも考えがあるから平気さ」

母親の言葉にヒカルも負けずに言い返した。

(そして、永久に学校の成績がカンケーない世界に行くのさっ)


と、パソコンが使えることになった嬉しさに心を踊らすヒカルは、それから、あっという間に食事を終えると、

「先にお父さんの書斎に行ってるね」と席を立った。




ヒカルが二階に上がっていく音を聞きながら、美津子は正夫を咎めた。

「あなたはヒカルに甘すぎよ。少しはあの子に勉強させなきゃ」

「でも、これで藤崎さんの家にかかっている迷惑は解消されたんだろ? いいじゃないか、今はそれで」

「パソコン使うなら、その分学校の勉強もしろって、ちゃんとあなたから言ってやって頂戴!」

美津子はそういうと、後は黙って食事を再開した。






正夫の書斎は二階に上がって、廊下の突き当たりの三畳間だ。

何のことはない、いわゆる納戸を書斎がわりにしているだけのことである。

どんなに小さくても自分のスペースが欲しいという、男のささやかな願望の結晶がこの机が一つとオーディオセットだけが置かれた部屋なのだ。


正夫は書斎に入ると、先に来て待っていたヒカルに向かってニヤリと笑ってみせた。

「ヒカル、お父さんの城に来たな」

「えへへへ」

ヒカルはニコニコしながら、父親が机に座りやすいように場所を譲った。

正夫はオフィスチェアに座って、机に上に鎮座するデスクトップパソコンの電源を入れた。


「おまえ、使い方は知ってるんだろ」

「うん」


そこで、正夫は息子に、作ったデータの保存場所の指定やら、Eメールのアカウントの切り替えやらの注意事項を伝えた。

「開けちゃダメなところは、制限入ってるから無理にいじるなよ」

「囲碁関係とメール以外は使わないから大丈夫」

「使い終わったら、電源落とすの忘れるな」

「うん」


正夫はヒカルが早くパソコンを使いたくてうずうずしているのを見ながら言った。

「ところで、ヒカルは本当に囲碁のプロ試験を受けるつもりなのか」

「えっ?」

急に訊かれてヒカルは驚いてしまった。

院生試験に受かったところで、この問題はクリアされたと思っていたのだ。


「も、もちろんだよ。オレはプロになるんだってば」

「おまえが毎日碁の勉強してるのはお父さんも知ってるけどな」

「うん!」

「高校はどうするつもりなんだ?」



いきなり直球が来た。


「・・・・・・プロになったら行かないよ」


正夫は腕組みをして、うーん、と唸り、上を向いた。


「やっぱりか。ひょっとしたら、そういうつもりなんじゃないかとは思ってたんだ」

「そ、そりゃあ、そうだよ。だってプロって社会人だもん。学校なんて行っていられないよ」

「それとこれとは話が違うぞ。社会人でも学校に行っている人はたくさんいる」


つまり勤労学生という訳だ。ますます話はヒカルにとってマズイ展開になってきたようである。


「オレは碁に専念したい。だから行かない」

「・・・・・ふーん」

「・・・・・・・・」

「学校の勉強がイヤだから、という訳じゃないんだな」

正夫はこれを微笑みも、冗談めかしもせずに真顔で訊いて来たので、ヒカルは後ろめたい気持ちになってきた。碁に専念したいのは本当だが、興味のない勉強から解放されたい気持ちも少なからずあるのだ。


「・・・・・学校の勉強は確かに苦手だけど、でも碁のプロは中途半端でやっていける世界じゃないんだ」

とだけ答えた。

「それはそうだろう」

正夫も短く言った。そして、「まあ、実際にどうするかはプロ試験の結果の後だな」と言い、続けて、「目先のこ

とだけじゃないぞ。簡単に決めずに良く考えておけよ」と言った。


ヒカルは小さく頷くと、パソコンの画面に向き直り、いつものネット碁の画面を開いた。

手馴れた様子でプレイヤーリストを検索する。・・・・・やはり、今日はもうpsyは打たないようだ。


「・・・・ お父さん、ちょっと打ってみない? 教えるよオレ」

ヒカルはそう誘ってみたが、正夫は小さく笑って言った。

「・・・・ お父さんはなあ、おまえ位の年の頃、お父さん的に一生分打ってしまったんで、もう碁はいいんだ」


その言葉に、碁好きの祖父と父親との間の攻防戦が想像出来てしまったヒカルは引き下がることにした。

「あー・・・そ、分かった」

「今日は後ろで見てるから、好きに打ちなさい」

「はーい」


そしてヒカルはいつもの登録名でログインし、対局してもらうプレイヤーを選び始めた。




黒53


その翌日、学校に行った藤崎あかりは地の底まで落ち込んでいた。

昨日の夜までは幸せだったのに、この落差は何なのか。

もうヒカルに合わせる顔がない。絶対に嫌われたと思う。



「お母さんの馬鹿・・・・・」


あかりは教室に向かう廊下を歩きながら、昨日の夜から何十回目かの言葉をつぶやいた。

「どうしたのあかり」

後ろから声がかかる。津田久美子だ。

あかりは振り返るとジト目になって言った。

「・・・・・私、もうだめ」

「な、何があったの・・・」

あかりは久美子の耳元近くに顔を寄せ、小声で打ち明けた。

「昨日、ウチのお母さんが、ヒカルのお母さんにパソコン使うのそろそろ遠慮してくれって言っちゃったんだって」

「え―――――っ!」


「やっとヒカルのお目当ての人が昨日出てきて、ヒカルすごく喜んでたのに、ねえ、こんな時に言わなくてもいいのに」

「それで?」

「ヒカル、きっとおばさんに怒られたと思う。だってお姉ちゃんの机でやってることも言ったらしいもん」

「あらら・・・」

「・・・実は前から、いつまで使うのか訊けとは言われてたんだけど、ほら、私もつい楽しくなっちゃって・・・・・」

と、いうか下心があった訳だ。



「・・・・・いやあ・・・でも、それは進藤君だって分かってると思うよ。とにかく会ってあやまっちゃえば許してくれるよ」

「そうかなあ・・・」

「そうだよ。そもそも、あかりの方が貸してあげてた訳だし、文句言われる筋合いじゃないよ」


あかりは浮かない顔で久美子を見た。筋合いなどは関係ない。単に惚れた弱みなのだ。



せっかく二週間も自分の部屋に来てくれていたのだから、この間にもうちょっと何とかしようがあったはずなのに・・・・・と、あかりは落ち込んでいた。


だが、そういう雰囲気には全くならなかったし、それにあかりの方も折角これまで幼馴染みとして親しくしてきたのに、告白なんかして関係が崩れることが怖かったのだ。

あかりはオープンなようで、結構奥手なのである。





 その時だ。あかりは突然背中を叩かれた。

久美子が口を押えるのが一瞬見え、振り向くと、全身から嬉しさ一杯といったオーラを発した進藤ヒカルが立っていた。

「!?」

「おはよっ、あかり!!」

あかりは驚いてしまって、声も出せずに立ちつくした。


「おはよう、進藤君」

かわりに久美子が返事をした。

「おーっす、津田」

(・・・・・・・)


あかりはヒカルの様子を観察した。機嫌が良い。何故だ?

「聞いてくれよ! オレ、お父さんのパソコンを使っていいことになったんだ」

「・・・・・え?」


「あかりのお母さんがウチの親に言ってくれたお陰だよ! いや、助かった。今までありがとうな」

「・・・・・・・う、ううん」


「じゃな」

ヒカルは、それだけ言うと、自分のクラスの方へ行ってしまい、あかりは二の句も継げずにそれを見送った。


「・・・・・」

「・・・・・あかり、進藤君怒ってなくて良かったじゃん」

「・・・・・」





今、ヒカルは何と言っていたのか、あかりは心の中で反芻していた。


『お父さんのパソコンを使っていいことになったんだ』 だって。


(何よそれ!?)

(おじさんのパソコンが使えるようになったら、もう私はいいわけ?)

「・・・・・」

(失礼すぎ)

あかりは段々腹がたってきた。


客観的に見れば、『今までパソコンを使わせてもらってきたけど、自前で調達できるようになったので、もう借りなくても大丈夫。ありがとう!』 という、ただそれだけのことなのだが、下心満載の乙女心からすると、それだけではすまないらしい。


あかりは拳を握り締め、ヒカルの立ち去った廊下の先に向かって叫んだ。

「何よっ、ヒカルのバカっ!!」

「あ、あかり・・・落ち着いて」

久美子のなだめる声が耳に入ったが、あかりの怒りはその後しばらく収まることはなかった。







 さて、その無頓着大王進藤ヒカルは、父親のパソコンが使えるようになってから毎日定期的にpsyチェックが出来るようになった。


チェックしてみるとpsyは数日ごとにエントリーしているようだ。

何のことはない。ヒカルがあかりの家に日参してパソコンを覗いていた時と時間帯が合わなかっただけのことなのだ。藤崎家にとっては要らぬ迷惑だった訳である。




 psyの碁の内容を見ていて、よくもまあ素人相手に容赦なくバッサバッサとやっつけるものだ。と、ヒカルは自分のことを棚に上げて感心していた。


一体どういうつもりで、psyはこのサイトにエントリーしているのだろう。

psyが高永夏かどうか確認したいヒカルだが、何局観戦しても対局者とのレベルの差がありすぎて判断はつかなかった。

それなら自分で打てば何か分かるだろうと、対局を何度も申し込んでみたが、タイミングが合わずに今だ対局は叶わないままだ。

ネット碁仲間でもある和谷に意見を求めても、「海外の棋士までチェックしてねェよ。psyよりはsaiの正体の方が知りたいぜ」と言われてしまって終わりである。




(他にこの件で話ができそうな人物はいないか)

と、考えて思い出したのが、藤井正弘三段。

昨年の夏休み、ヒカルがネット碁でうっかりやっつけてしまったプロ棋士である。

頻繁にネット碁で遊んでいるという話なので、psyについても何か情報を持っているかもしれない。

善は急げで連絡を取ってみようと、ヒカルは以前、冴木に紹介された時に渡された連絡先の書かれたメモを探した。


「あった」

ヒカルはカバンの内ポケットの奥の方にくしゃくしゃに折れ曲がったメモを見つけた。

携帯の電話番号とメールアドレスが書かれている。


ヒカルは折角だからEメールを送ってみようと思ったが、文字を打つのがものすごく遅い自覚があるので、それは次回に譲り、電話をかけることにした。

後年、パソコンと携帯電話で一日百件はメールを打つことになる進藤ヒカルであるが、誰しも初心者の頃はあるのだ。


ヒカルは家の玄関の脇においてある電話の受話器を取って、メモにあるナンバーを押す。発信音が数回鳴ったあと、藤井は電話に出てくれた。




挨拶もそこそこに、ヒカルは本題に入った。

「藤井さんはワールド囲碁ネットに最近いる‘psyピ・ーエス・ワイ’って知ってる?・・・じゃなくて知ってます

か?」

「うん。スペル違いの‘サイ’ね」

(さすが藤井さん)とヒカルは受話器を握り締めた。

「打ったことは?」

「俺はないよ。でも最近注目されてるみたいだから、時々観戦はするよ」


「・・・・・」

「で、俺に何が訊きたいの?」

「・・・psyってプロだとオレは思うんだけど、藤井さんは誰だと思う?」

「・・・・・ああ成程、そういうことか」

藤井はそれから暫く考えているようだった。


「プロかもね。しかしあのサイトは基本的にアマチュア用だろ? プロが力半分で戦っても分からないよ。よっぽどその棋士の特徴が出てれば別だけど」


・・・どうやら、藤井はヒカルと同意見らしい。

「・・・オレはpsyは高永夏じゃないかと思うんだけど」


「・・・・・・ああ、韓 国 で 最 近 台 頭してきた若手ナンバーワンって人か。雑誌で見たことはあるけど、psyがそうかまでは俺にも分からないな」

「・・・・・」

「不勉強で申し訳ない。でもそれがどうかした?」



「・・・ううん、何でもない。ただ気になって。藤井さん、何かpsyのことで情報があったら、何でもいいんでオレに連絡もらえます?」

「ああ、それはもちろん」



ヒカルは電話を切った。お察しの通り、かなり落ち込んでいた。

「ちぇっ、何だよ! 結局何にもわかんないじゃないか。」


口の中でぶーぶー言いながらヒカルは自分の部屋に戻っていった。





 それからも、(オマエは暇なのか!?)とツッコミを入れたい位、‘psy’はエントリーしてきていた。相変わらず‘mitani’との対局はかなわないままだが・・・

しかし、画面を見ながらヒカルは一つ気が付いたことがある。


psyは‘sai’からの申込みは受けることにしているらしい、ということだ。


‘sai’とは言っても、佐為ではないので偽‘sai’だ。

偽‘sai’とは文字通り、伝説の不敗棋士‘sai’を騙って参戦する不埒者のこと。多くの場合はヘボヘボで、期待に胸膨らませた対局者や観戦者の怒りを買っていた。


(コイツひょっとして佐為と打ちたいのかな?)


psyが高永夏だとしたら、それは面白い対局だ。

何しろ、「秀策などもし今現われてもオレの敵じゃない」発言をした男である。

本当に敵じゃないかどうか、目にモノ見せてやりたいヒカルなのだ。


saiは秀策だが、高永夏の知っている江戸時代の秀策ではない。

現代の定石を知った、秀策のハイエンドモデルなのである。そうそう勝てるなどとは思ってもらうまい。



psyがsaiと打ちたがっているのなら、ヒカルが‘sai’でエントリーすれば対局は叶うだろうが、残念ながらそれは出来なかった。


ヒカルは囲碁の実力に関しては、自分にも他の棋士に対してもプロとしてシビアな目を持っていた。

自分の力を信じることと自信過剰は別物であることも(意外なことに)わきまえている。

そして自分が棋士としてまだまだ佐為には及ばないことも良く分かっていた。


北斗杯で後一歩のところで破れた高永夏ともう一度戦いたい気持ちはあるが、佐為を騙ってやっとで勝ったり、ましてや負けるなどということは間違ってもあってはならないのだ。

‘sai’として対局したいなら、あっさり高永夏を退けるだけの棋力がいる。

そう言う訳で、今日も‘mitani’は執念深く、対局を申し込んでは失敗し続けているのだ。




そして今。ヒカルが‘psy’に対局申し込もうとした瞬間、‘psy’はエントリーリストから姿を消した。


「・・・・・・・・」


ヒカルの眉間に皺が寄る。


「何だよ――――――――っ!!! ちょっとはオレと勝負しろよっっっ!!!!!」


ヒカルの怒号が家中に響き渡り、そしてその数秒後「静かにしなさいっ!!!」

という彼の母親の声が階下から聞こえてきた。

白54


本因坊。その名は一世本因坊算砂となった僧、日海が住職を務めた京都寂光寺の塔頭の一つに由来し、江戸時代には幕府碁所四家の筆頭として世襲、継承されてきた。

そして二十一世本因坊秀哉が名跡を日本棋院に譲った後は、実力制本因坊戦として争奪されるタイトルとなって今に至る。



 平成十二年現在の本因坊は桑原仁。

他の棋戦ではタイトルから遠ざかっているものの、本因坊戦だけに限ると既に四期防衛に成功しており、本人もこのタイトルに最も固執していると言われている。

間もなく始まる今年の本因坊戦の挑戦者は緒方精二九段。

国内の若手ナンバーワンが、往年の第一人者に世代交代を問おうとしている、今はそんな頃であった。




 そして今日。桑原本因坊は日本棋院にあって、棋戦の日程の打ち合わせや、常務理事達との懇談や、インタビューなどのスケジュールをこなしていた。

通りかかる関係者が皆、桑原の顔を見て緊張気味に会釈していくのに、彼は鷹揚に応じた。


タイトルホルダーであるからには有名人であるのはもちろんだが、その貫禄、威圧感には定評がある。気の弱い人間だと、碁盤を挟んで座るだけで気力体力を使い果たすとまで言われているのだ。


『対局相手の精気を吸い取って生きているらしい』


というのは棋院内限定の都市伝説だが、そのせいか院生及び若手プロの間の隠れたあだ名はズバリ、「妖怪ジジイ」である。

ちょっとサルっぽい風貌と難しい気性と、盤外での駆け引きのイケズっぷりから少々(?)ネガティブ評価されてしまうということだろうか。

だがその反面、ひょうひょうとしたキャラクターに人気もあるのだ。


ところでこの男、本人が老人っぽく振舞うこともあって、ものすごく年寄りだと思われているが、実際にはまだ古希に二年ほど余裕がある。

確かにその年齢で棋戦のハードスケジュールをこなすのは大変だろうが、健康なので問題はないし、ヨボヨボに見える分、周囲が気を使ってくれるので丁度良いらしい。




 昼も過ぎ、知人と遅めの食事の約束があった桑原は、エレベーターで一階に下りていった。

ガーっという音と共に扉が開くと、ロビーは子供達で一杯だった。

昼食を終えた院生達らしい。

桑原に気付くと、それまで声高におしゃべりしていた彼らは一斉に黙り、あわてて頭を下げた。桑原もそれに応える。そしてそのまま出口の方へ歩いて行こうとし、しかし、ふと何かが気になって後ろを振り返った。



先程まで桑原が乗っていたエレベーターに乗り込んでいた院生の一人が、彼を静かに見ていた。そして桑原が自分を見ているのに気がつくと、小さく微笑んだ。

それを不審に思ったらしい他の院生が「進藤」と呼びかけるのが聞こえたところでエレベーターの扉は再び閉まった。




桑原は暫くそのままエレベーターを見つめていた。

それに気が付いた売店のスタッフが「どうかされました?」と声をかけてくる。それに応えて「今のガキ・・・」

と言いかけて、しかし桑原は口を閉ざした。


そして、ふいにニヤリと笑うと「覚えておこう」と、呟き、そのまま出口に向かっていった。







 時は移る。

さて、そんなタイトルホルダーになるにも、まずはプロ試験である。

ここに将来のタイトル戦を夢見る一人の青年がいた。

彼は棋士採用試験の受験申込みの書類を手にして意気揚揚と日本棋院にやってきた。


彼は院生出身ではなく、プロ試験を受けるのも初めてだったが気後れなどはなかった。

彼には輝かしい実績があったのだ。

元、学生名人・学生本因坊・学生十傑。

門脇龍彦二十六歳である。



大学卒業後に一般企業に三年程勤めたが、会社勤めは囲碁ほど面白くなく、はっきり言ってもう飽きてしまった。

(やっぱり囲碁がいいよな)、という軽い気持ちで受験を決め、就職氷河期真っ只中の平成十二年にあっさり会社をやめた。

今でも語り草になる程の強さを誇った元学生三冠は、プロ試験に絶対の自信があったのである。

失敗するなど夢にも思わない自信家の彼は、学生時代の囲碁部の仲間や友人に宣伝しまくったものだ。それを喜んだ昔の仲間がホームページに書き込みを行ったりしたために、一部関係者にも噂が流れているよう

であった。




 棋院の建物の中に入ると学生の大会の時の思い出が一気に甦る。

最後に来たのは学生名人戦の時。あの日の自分はヒーローだったよなあ、などと当時の余韻に浸り、今度はプロの世界で本物の名人になった自分を思い描いた。

売店に立ち寄り、扇子を買った。『オレ様のプロ試験申込み記念』というわけだ。

(後で値がつくかもな)

などと果てしもなく調子のいいことを考えた時、エレベーターの扉が開き、一人の少年が飛び出してきた。

そういえば今日は院生研修の日だったことを思い出した門脇は、その少年を呼び止めた。

「キミ、院生かい?」


前髪だけ金髪メッシュにしたその少年は振り向き、門脇の顔を見ると「あっ」っと声をあげ、「かっ」と続けそうになってあわてて口を押えた。

もちろん『かどわきさん』と言いそうになったのを止めたのである。この時、前髪メッシュの少年、進藤ヒカルは門脇と初対面のはずだったからだ。


「そっか、今日だった」

と小声でつぶやくヒカルに門脇は「何?」と訊いたが彼は「ううん何でもない」と手を振った。



「プロ試験もうすぐだね、受けるの?」

と門脇が訊くと、ヒカルは頷いた。

「少しウデに覚えがあるんだ、これから一局打ってくれない?」


門脇は目の前の院生を見て、折角だから肩慣らしをさせてもらおうと思ったのだ。

院生と打てばプロ試験の大体のレベルが測れるというものである。

ヒカルは「いいよ」と機嫌よく承諾した。そして二人は一般対局室へ向かった。



空いているテーブルを探しながら、

「キミ、院生順位は?」

と門脇が訊くと、ヒカルは「へへへ」とあいまいに笑って頭を掻いた。


(たいしたことないのか?)

と、席についた門脇は、チロっとヒカルを見ると「ニギるよ」と言って石を碁盤に置く。

ヒカルも石を二つを置いた。それで門脇が白、ヒカルが黒と決まった。

その瞬間、ヒカルは何故かホっとしたように、うんうんと何度も頷いた。


「お願いします」と双方挨拶をした後、先番に決まったヒカルは、黒17の四、右上スミ小目に石を置いた。

(行くぜ!!)

俄かに真剣になった門脇は白16の十六、星に打つ。



異変はそこで起きた。

目の前の院生が「えええっ!!」

と、突然悲鳴のような叫び声をあげたのだ。


「うわっ何だよ、脅かすな!!」


見るとヒカルは椅子から腰を浮かせて、口をパクパクさせている。

「何、どうしたんだ?」

血相を変えたヒカルに門脇が声をかけると、ヒカルはようやく口を閉じ、ストンと椅子に座った。


「・・・・・・・・・・・」

そのまま碁盤を見つめて暫く考えている。


(長考? 長考なのか?)

まさかここで「負けました」などと言い出すんじゃないだろうな、と心配になってきた門脇は、盤上よりもヒカルの様子を伺った。


やがてヒカルは、ゆっくり顔を上げると「あのう・・・・」と門脇に言った。


「や、やり直さない?」

こわばった笑顔を見せて言った言葉に門脇はひっくり返りそうになった。


「・・・・・何だって?」

「打ち直さないかなあって」

「・・・・・・・・・・」

「ね?」

「オレにハガせっていうのか?」


石を置きなおすのはハガシと言って反則である。ヒカルはあわてて手を横にぶんぶん振った。

「違うよ、違うってば。最初から打ち直さない? オレが先番なのはそのままでさ」


(何だよ、そりゃあ)

まだ双方一手ずつしか打っていない。

門脇は開いた口が塞がらないまま、ヒカルを見た。

碁盤と門脇を交互に見ながら途方に暮れた風の少年の姿に、彼は人選を誤ったと思った。


(コイツ本当に院生か?)

そういえば、さっき院生かと訊いた時、そうだとは答えなかった気がする。

たまたま来ていた見学者か、ジュニア囲碁教室の生徒か何かだったのだろうか。


(やれやれまいった。こりゃ肩慣らしどころじゃない。指導碁の方がいいんじゃないか)

と、門脇は思った。

こちらから声をかけた以上、自分からやめるわけにもいかないし、しばらく待ってもらって、先に願書を受付に出してきた方がいいかもしれない。


「あのさあ・・・せっかく始めたんだから、このまま打っちゃおうぜ。まだあんまり上手じゃなくてもお兄さん平気だからさ、でもその前に・・・」

大人らしく、やさしく言いかけた門脇に、ヒカルは遮って「ダメならいい。分かったから」

と、がっかりしたように言った。


そして自分のカバンから扇子を取り出し、椅子に座りなおすと、もう一度盤上を確認してから黒石を取り上げた。



 その瞬間、門脇は目の前の少年の雰囲気が一変するのを感じた。

突然襲い掛かるプレッシャー。

(な、何だコレ)


これに近い感覚に覚えがないわけではない。

そう、それは、かつて戦った学生タイトル戦の決勝の時。あの頃、自分を入れて三強といわれた学生のトップ同士が何度もタイトルを奪い合った。学生最後の年、三冠を収めたのは自分だったが、皆必死だった。

その時の真剣勝負の感覚。ずいぶん長いこと忘れていた。

そうだ。自分が入っていこうとしているのはこういう世界だったではないか。



だが何故? この少年は一体何だ?











 前髪メッシュの少年は異様に強かった。

院生どころじゃない。プロじゃないのか、と門脇は疑った。

本当に院生だとしたら、そのレベルは自分が思っていたのと大違いである。こいつは大変なことになった。

自分はプロ試験を甘く見すぎていたのだろうか。





 対局相手の少年は半分開いた扇子を顎につけたまま身じろぎもしない。そのまま門脇の方に問うような目を向けた。


(ここまでだ)

門脇は頭を下げた。

「負けました」

「ありがとうございました」


頭を下げたまま、今度は門脇が動けなくなった。

(負けた・・・完璧にやられた・・・・・)



「・・・・・・おまえ、ほんとに院生か?」

それだけやっと口にした。


「うん」

少年は短く応えた。

「年は? 名前は?」


少年、つまりヒカルは石を手早く片づけながら、小さく笑った。

「オレは進藤ヒカル。年は十三だよ」

「そ、そっか・・・・・」


しきりに感心した風の門脇を他所に、ヒカルは扇子をカバンに仕舞うと立ち上がった。

「じゃあね」


立ち去ろうとするヒカルを門脇はあわてて呼び止める。

「待てよ、碁を始めてどれくらいになる?」


ヒカルは立ち止まり、指で数え始めた。

「えーと、えーと」


「・・・・・・?」


「のべで五年くらいかな」

ヒカルは答えると、踵を返して駆け出した。



それを、門脇はあっけにとられて見送った。


「のべって何だよ、のべって・・・・・」




(変な奴)

それが門脇龍彦の進藤ヒカルに対する偽らざる感想であった。





黒55



 (何だよ門脇さん、前と全然違う碁じゃないか!!)

棋院前の坂道を駆け下りながらヒカルは心の中で叫んでいた。


碁の内容はいい。門脇の碁は布石も面白かったし、その後の展開も良かった。自分も満足出来る碁だった。


だがそれではダメなのだ。今日の対局は特別だったのだ。

前回、院生研修の帰りに門脇に声をかけられたヒカルは、当時ヒカル以外に対局する機会のなかった佐為に打たせたのだ。


それは通りすがりの、それっきりの碁のはずだった。



まさか声をかけてきた「おじさん」が、学生タイトルを総ナメにしてきた実力者で、プロ試験合格の有力候補だとは思わなかったのだ。


門脇は、ヒカルが驚くほど強かった。

自分で打っていたら負けていたかもしれない。その門脇を佐為は鮮やかにやっつけてしまったのだった。

それはヒカルだけではなく門脇にとっても忘れがたい碁となった。それを後に門脇自身がヒカルに語っている。


『あの一局でオレはひと回りほども年の離れた君に尊敬とあこがれを抱いたんだぜ』


それ程までに門脇の心に刻み込まれた佐為の碁。

そう。つまりヒカルにとっては門脇に見せるため、必ず再現しなければならない重要な対局だったのだ。


「藤原佐為の碁を世に知らしめる会」の会長兼唯一の会員としては、絶対外せない碁だったのに。



(さっきの対局。白の二手目は左上スミ小目だったはずなのに。そうしたらオレは右下スミ小目に打って・・・・・・・・それなのに)




「何で星なんだよ!!」

ヒカルは悔しくて思わず大声を出した。たまたますれ違った通行人が彼を振り返る。




JRの駅を通り過ぎ、皇居外堀にかかる市ヶ谷橋の上から、すぐ下にある市ヶ谷フィッシュセンターを見下ろす。

薄暗くなってきても釣堀は盛況のようであった。


梅雨の湿った風が絶え間なく吹きつけてくる。もうすぐひと雨くるのかもしれない。

ヒカルは乱れたトレードマークの前髪を右手で押えた。

そしてぼんやりと釣りに興じる人々を眺める。





(もうダメなのか・・・・・)

先ほどの碁。

二手目が予定通り4の三、左上スミ小目だったとして、その後、門脇のどの手が違っていても佐為との碁は崩れる。

いくらヒカルが佐為の碁を再現したくても、碁はあくまで対局者同士の共同作業だ。

要するに、今日の碁は佐為の碁として成立しない運命だったということなのだろう。


これまでも様々、前回と違う展開はあったものの、佐為の碁だけはなんとか再現出来ていたのだ。しかしそれも叶わない程に歴史はずれてきているのか。


もう、あの美しい佐為の碁をライブで人に見せることは出来ないのだろうか。

実際に打って見せなくては、人々にあの感動を完全に伝えることは出来ないのに。


結局のところ、今日は正真正銘、進藤ヒカルと門脇龍彦との対局だったということだ。

それで満足するしかなかった。


「ちぇっ・・・・」

ヒカルは舌打ちすると、駅の方へ歩き出した。












「あ、あった。ここだここ」

和谷義高は渋谷、道玄坂沿いにある雑居ビルの案内板を見て伊角慎一郎に声をかけた。


この二人、それぞれに馴染みの碁会所はあるものの、一年ほど前から暇を見つけては違う碁会所を渡り歩いていた。

受付で申し入れて、強い人と対局させてもらう。

それは院生研修や師匠の研究会、囲碁塾とはまた違った面白さがあった。

そして打った後、そこで知り合った人に他のオススメの碁会所を紹介してもらうという訳だ。


今日やって来た「囲碁サロン道玄坂」も先日訪れた池袋の某碁会所で紹介してもらった店である。



エレベーターで六階にあがり、店内に入ると煙草の匂いと石を打つ音が二人を出迎えた。

受付で「オレ達ここにいる中で一番強い人達と打ちたいんですけど」と和谷が言うと、受付の中年の女性は顔を和谷の顔に寄せて「ナマイキな口を叩くガキはあたしゃ嫌いなんだよ」と言って口を尖らせた。

伊角がフォローしようと口を開きかけた時、店の奥の方から男の叫ぶ声が聞こえてきた。


「くっそおおおおっっっ!!! 今のはナシだっ!! もう一局だ、もう一局打つぞ!」

「ちょっと河合さん、次が控えてるんだから遠慮してくれよ」

「そうだ。次はワシだ」


騒ぎの方に顔を向けた受付の女性は顔をしかめて「また始まったよ」と、うんざりしたような声を出した。

(雰囲気が良くない店は嫌だなあ)、と伊角が思った時、聞き慣れた声が同じ方向から聞こえてきた。


「そうだよ、それに何度やったっておんなじだよ。河合さんは今日はオシマイ!」

「なーんだとうっ?、進藤! このヤロ!!」


「・・・・・・進藤?!」

和谷と伊角は顔を見合わせ、声のした方へ向かった。


そしてその先には、サングラスをかけた痩せぎすの髭男に羽交い絞めにされた進藤ヒカルが居たのである。



「あっ、和谷と伊角さん、た、たすけて」

「・・・・・・・何やってんだ進藤・・・」


「オマエらは何だ、進藤の知り合いか?」

髭男が和谷と伊角にかみつく。二人は三歩後退した。

「河合さん、ともだちだよっ!院生仲間っ」


それを聞いて周囲の客達がどよめく。

「院生?」

「進藤君の友達だってさ」


河合も拳でヒカルの頭をグリグリやりながら二人に訊いた。

「院生って 本当か?」

「・・・・・・・・はあ、まあ」


やっと河合から逃れたヒカルはグシャグシャにされた頭髪のまま、二人の元に逃げ込んだ。

「ここって進藤の行き付けなのか?」

伊角の問いにヒカルは頷いた。


「オマエん家からずいぶん遠いけど・・・・」

「まあ、そうなんだけどさ」



確かに遠いがそれは仕方がない。実は前回この店にヒカルを連れて来たのはこの二人なのだ。

それまで殆ど大人と打ったことがなく、プロ試験の予選で萎縮してしまったヒカルを大人慣れさせてやろうと、このタイミングで連れて来たのだ。


その後ヒカルはこの店が気に入ってしまい、行き付けの碁会所として入り浸ることになった。言わばここはヒカルのホームグラウンド的な店なのである。


時間を遡って、全てのやり直しを余儀なくされているヒカルだが、この位は許容範囲だろうと時間軸を前倒しで時々訪れているのである。

そんなことをやっているから、歴史がずれてしまうのだと言われればそれまでだが、ヒカルも息抜きできる場所がないとやっていられないのだ。



「伊角さんと和谷はどうしたの?」

と、ヒカルは一応聞いてみた。


それに答えて和谷は碁会所めぐりの経緯を説明した。


「ここには強い人がいるって、教えてもらったんだ」

それを聞いて常連客の堂本がフフンと鼻を鳴らした。

「どこの誰だか知らないが、良く分かってるじゃないか」


ヒカルは店内を見回した。

自分がいて、常連のおじさん達がいて和谷と伊角がいる。懐かしい風景にヒカルは嬉しくなって微笑んだ。

そして一つ提案した。


「せっかく院生が三人揃ったんだから、団体戦をしてみない?」

「団体戦?」

ヒカルは頷いた。

「伊角さんが大将、和谷が副将、オレが三将。で、ここにいるお客さんチームに二子か三子置いてもらって対局するんだよ」


和谷と伊角はまた顔を見合わせた。

「・・・・・・へえ。面白そうだなそれ」

聞いていた客達も参加しようと次々手をあげた。


「そりゃいい、オレに打たせろよ」

「いいやオレだ」

「ワシが次に進藤君と打つはずだったんだ」

「もうそんなのチャラだよ」


その様子を見てヒカルはマスター(席亭)に声をかけた。

「マスター、オレ達が勝ったらこの二人の席料マケてあげてよ」

「いいともいいとも」

マスターは機嫌よく請合った。


小さくて元気一杯、ついでに自信満々で生意気なヒカルは、碁会所のおじさん連中のアイドルであった。事実ヒカルと打ちたくて頻繁に顔を出す客までいる。

そんなヒカルをマスターは非常にかわいがっていて、席料は常にタダ。

プロになったあかつきには後押ししてやろうと思ってもいた。ヒカルの友達なら、どのみち大歓迎である。



和谷が笑ってヒカルに言った。

「団体戦なんてオマエもたまにはいいこと思いつくな」

「えっ?」

ヒカルは驚いて和谷の顔を見た。

元はといえばこの団体戦は前回の和谷のアイディアである。

気まずそうに頭を掻いて「ははは」と笑って誤魔化すしかなかった。

「でもオマエ三将でいいのいか?」

「・・・・・・うん」

「オマエが考えついたんだから大将だっていいんだぜ」

「・・・・・・オレは三将が好きなの!」

「・・・・・・・・・・・・へ?」

和谷は(またコイツは意味不明なことを)と、胡乱な目でヒカルを見た。



そうこうしている内に相手チームのメンバーが決まった。大将が碁会所のマスター、副将が河合、三将が「次に進藤と打つはずだった」曽我である。


(微妙にメンバーが違うんだよなあ・・・)

と、ヒカルは思った。

前回はマスター、曽我、河合の順番だった。しかし河合とはつい先程打ったばかりで、また打つのはいかにも不自然である。

ヒカルは先日の門脇との対局を思った。

(やっぱり、どんどんズレていくんだな)


一瞬ぼんやりしたヒカルを和谷が後ろから小突いた。

「何ボケっとしてんだ、進藤。自分で言い出しておいて負けたら承知しねェぞ」

「あ、うん」


促されてヒカルは三将のテーブルに着いた。

(まあ、いいか。佐為の碁とは関係ねェし・・・)




店内の客の大方は対局をやめ、ヒカル達のテーブルの周りに集まってきている。

それぞれの盤に黒石が三つ置かれ、「お願いします」の声とともに団体戦が始まった。





白56



そして平成十二年八月二十八日、プロ試験本選初日の朝。

進藤ヒカルは千葉市幕張の囲碁研修センターに向かった。


ヒカルはバスを降りると、研修センターの建物を見上げた。

数年後には売却されてしまうこの場所は、プロ試験のための戦いを繰り広げるヒカル達にとっては、合格してもそうでなくても忘れがたい場所になるはずであった。



次々と受験生がやって来る。

院生や、外来受験者。

初日の緊張からか、皆、表情が固い。


ヒカルが入口に立っていると、次のバスが来て、和谷が降りてきた。

互いに手をあげて挨拶を交わす。

「おーっす、進藤」

「おーっす・・・」


和谷は近くまで来ると「顔、こわばってるぜ」とヒカルの顔を指さした。

ヒカルは浮かない表情のまま「そう?」と応じた。

和谷はそのまま建物の方へ向かおうとしたが、ヒカルはそのまま動かない。

「・・・オレ中に入るけど、オマエ誰か待ってるの?」

不審に思って和谷が訊くと、ヒカルは

「いや、オレも行くよ」

と、和谷の後を追おうとして最後に後ろを振り返り、そこで動きを止めた。


「・・・・・・・」



ヒカルの目の前で、知った顔がヒカルに気付いて手を振っている。

「・・・・・・・進藤?」

和谷も立ち止まって、ヒカルの視線の先を見る。

その男は彼らに近づくと、朗らかに声をかけてきた。


「やあ進藤君。この間はどうも。プロ試験、お互いがんばろうな」


ヒカルは少し青ざめた顔でその青年を見上げた。

本来ここに居てはならない人物。ヒカルの恐れていたことが現実になってしまった。


「・・・・・・・・・おはようございます。門脇さん」







 門脇龍彦は前回、佐為との対局にショックを受け、一年自分を鍛え直すと言ってこの年の受験を見送っていた。

そして今回、門脇と対局したのは進藤ヒカル自身。

今回もヒカルが勝ったが、門脇に受験を思い留まらせるには至らなかったということだ。


門脇が予選に出ていると知った時、ヒカルは頭を抱えた。

門脇は強い。予選は通るだろう。

それでは本選は?


プロ試験の合格者は三名。

歴史通りなら、この年の合格者はヒカル、和谷、越智である。


しかし門脇がこの年に参戦することで合格者が変われば、それは取り返しがつかない歴史の変動であった。

いや、それどころではない。もし、この一件が原因で和谷か越智がプロになれなかったらどうすればいいのだ。自分のせいではないか。


もちろん、如何なる状況でも、勝ち負けは自己責任である。

自分も、和谷も越智も、前回通りに自力でプロになるべきであって、自分が気にしても仕方がない。

と、考えることもできる。


だが、それは理屈だ。

ヒカルは彼らがプロになった瞬間を見ている。プロとして活躍しているところも見ているのだ。

(勘弁してくれよ・・・)

と思うのも無理からぬことであった。



そして今日、ヒカルの予想通り、門脇龍彦は予選を突破し、この場所にやって来たのだった。


ヒカルは、門脇を和谷に紹介した。

元学生三冠は有名人である。

和谷もネットで門脇の動静はチェック済みであった。

強敵の出現に口元を少々強張らせながらも「よろしくお願いします」と挨拶した。

そして三人は連れ立って、建物の中に入って行った。







「進藤が門脇と知り合いだなんて知らなかったぜ」

休憩室に入り、門脇と離れたところで和谷がヒカルに囁いた。


ヒカルはカバンをテーブルの上に置いて、答えた。

「この間、棋院で一局打っただけだよ。あの人、院生と打ってみたかったらしいぜ」

それを聞いて和谷は頷いた。

「つまりリサーチだな。敵情視察ってやつだ。で、オマエ勝ったのか」

「勝った」


ふーん、と和谷は鼻を鳴らして、他の外来と話し込んでいる門脇の方を見た。

外来は全て予選に出ているので、情報交換もするし、知り合いも増えるというわけだ。

大人の外来の中には声の大きい者もいて、彼等の話し声で休憩室はかなり騒がしかった。


和谷は視線をヒカルに戻して、ニヤリと笑った。

「そーかそーか、オマエ勝ったのか」

(どっちがリサーチしてるんだよ)

ヒカルは肩をすくめた。

そこで、机の少し離れた所で手を振っている伊角に気が付いた。

「あ、伊角さんだ」

「おはよ」

二人は再びカバンを持って伊角の所に移動した。



「久しぶりだな、例の碁会所ぶりか」

「うん、アレは面白い対局だったよな」

「えへへへ」

ヒカルは照れ笑いをした。


「何だ? 例の碁会所って」

傍にいた、飯島が会話に入ってきた。


そこで和谷が説明した。

先月、和谷と伊角で碁会所めぐりをしていたところ、ある碁会所で「偶然」進藤ヒカルに会い、その後しばらく三人で、各所の碁会所でお客さん相手に団体戦をしてまわった、と。



「最後に行った店じゃすごかったんだぜ。進藤が韓国棋院の研究生と対局したんだけど、これが大熱戦だったんだ」

「韓国棋院の研究生?」

飯島は驚いた。


「偶然だよ偶然。親戚が日本にいて、遊びに来てたんだと」

「それで?」

「コイツが勝った」

和谷はそう言って、ヒカルの頭をポンポン軽く叩いた。

「来てた客もみんな進藤が負けるって言ってたけどさ、コイツが勝ってちょっと気分よかったぜ」

「へえ・・・」

飯島は少し、うんざりしたようにヒカルを見た。



ご想像通り、韓国棋院の研究生というのは洪秀英ホン スヨンのことだ。

彼はこの後、歴史通りなら韓国のプロ棋士となり、日中韓ジュニア杯の韓国代表の一人として来日し、ヒカルと再会することになっている。



ところで、この洪秀英は高永夏とは幼馴染みである。

碁会所での対局の後、秀英は泣いて悔しがったが、それが落ち着くと、ヒカルは意を決して秀英と、これまた偶然来店していた、海王中の囲碁部顧問を部屋の端に連れて行って聞いたものだ。

つまり、

「オマエの友達の高永夏は‘psy’という登録名でネット碁をしているか」

と、訊いたのだ。


何故海王中の顧問も呼んだかと言えば、この時点で秀英は日本語が分からなかったので、通訳してもらったのだ。


だが、残念ながらヒカルの望む答えは返ってこなかった。


『それは知りません。永夏さんは忙しいので、そういう時間はないでしょう』

というのが、尹の訳したお行儀の良い返事だった。


だが、口調から察するに実際のニュアンスとしては

『そんなこと知るもんか! 永夏は忙しいんだ、そんなヒマあるわけないだろっ!!』

という、感じだったかと思われる。


ヒカルにとってはどちらでも同じなので、構わないが。



秀英と会った時に確認できるかも知れないと、少し期待していたヒカルは落胆した。

手がかりが消えた。

一体どうすれば‘psy’が誰かを確認出来るのだろう。





ヒカルは、小さく溜息をついて立ち上がった。

「トイレ行って来る」

一言声をかけて、休憩室を出て行った。



ヒカルの姿が見えなくなると、飯島が「あーあ」とイヤそうにボヤいた。

「アイツさあ、進藤って、一人で余裕かましてない? 正直羨ましいよな」

伊角が苦笑する。

「そう言うなよ。人は人。自分は自分だろ」

「そうは言うけどさ、伊角さんも和谷も貴重な本選前にアイツとつるんで遊んでて大丈夫なのか?」

「どういう意味だよ」


飯島は肩をすくめた。

「だって言いたかないけど、進藤って別枠って気がする。プロ試験も合格するか落ちるか気にするんじゃなくて、ただの手続きみたいに思ってる気がする」


これには伊角も和谷も一瞬言葉を失った。


「いくらなんでも、そりゃねェだろ」

「そうかな?」と、飯島は続けた。


「去年のプロ試験で、和谷は言ってたよな。この中でプロ試験に受かるのは二人しかいない。合格者の一人は塔矢アキラに決まってるからって。今年はそれが進藤なんじゃないのか?」


「・・・・・」

「オレ前から思ってたよ。今年も合格枠は二名なんだってな。もうオレも院生のタイムリミット近いのに今年もダメだったらどうしようって。伊角さんだって高三だろ?気にならないのかよ」

「よせよ飯島」

伊角は遮った。これから対局だというのに、何を人の神経に障るようなこと言い出すのか。


「確かに進藤は強いさ。だけどアイツだって人間なんだし、試験は水物だぜ。

進藤は関係ない。オレは今年こそ合格するつもりだ。それに今からそんなに弱気じゃオマエこそ先が思いやられるぞ」


伊角の優等生な返事に飯島は顔を歪めた。

「そう思えるなんていいよな。でも伊角さんが院生一位だったのってもう随分前じゃないか。この間は越智にも抜かされてさ」

「・・・・・!」


流石の伊角もこれにはガチンと来た。だが反応は和谷の方が早かった。

テーブルをバンっと叩いて、声を荒げた。

「おい飯島! いい加減にしろよ」


飯島は胸倉を掴まれそうになるのを身を捩って避ける。その拍子に椅子ごと後ろに倒れそうになったところを誰かが支えてくれた。



「オイ、何だオマエら。喧嘩か?」


無駄にデカイ声が上から降ってきた。三人は一斉に声がした方に顔を向ける。そこに背が高くて体格のガッシリしたガテン系ヒゲ男が立っていた。

「・・・・・・・・」

三人の動きが止まる。



ヒゲ男はフリーズした三人をねめつけた。

「プロ試験初日から何だっていうんだ。これだからお子様は困るな」


「お、お子様って・・・・」

「オマエ達、院生か?」


三人は首を縦に三回振った。


「そーか。オレは外来の椿だ。みんなの迷惑になるから、ここでは静かにしろよ」


三人は再び首を縦に三回振った。


「よし、分かればいい」


そして男は休憩室から出て行った。


それを見送った三人の耳に、他の外来がボソっと呟くのが聞こえてきた。


「アンタが一番うるさいんだよ・・・・・」




黒57


「とにかく、うるさいのよ。予選の時も一人でぎゃーぎゃー大声出して、周りにからんで、みんな迷惑してたんだよね」

「ほう」

「組み分けの時、ウッカリ隣に座っちゃったら、日焼けのアトが痒いらしくて掻くわけよ。そしたら剥けかけの皮がブワーっと、周りに散るの! もうサイッテー!」

「そりゃ確かにちょっとイヤかな・・・」

「こう言っちゃなんだけど、ムサいし気色悪いのよね。寄るなジジイって感じよ」

「嫌われたもんだ」



昼には食事のために打ち掛けとなる。

弁当組以外の、外に食べに行っていた者達も、休み時間の終わりが近づくと再び休憩室に集まってきた。うち院生の何人かは部屋の隅に合流し、固まって座る。


奈瀬は周りに座ったの院生達に言い渡した。

「だから皆いい? あのヒゲジジイには絶対負けちゃダメだからね」

本田が呆れたように言った。

「椿さん限定かよ」

奈瀬は本田を睨んだ。

「別に私以外の誰に勝ったっていいわよ。でも最低あのヒゲには勝ってよね!」

「簡単に言うけど、予選の時、あの人の碁ってどうだったんだ?」

伊角の質問に奈瀬はつまった。実は予選の二戦目で椿と当たって負けているのだ。

「・・・・・・・・うるさいな。忘れたわよそんなの」


ギロギロ睨む奈瀬に小宮がそっぽを向いてつぶやいた。

「女ってコええ・・・」




その時、昼食から帰ってきた受験者が二人、休憩室に入ってきた。

「でも進藤君は仲良しみたいだよ」

フクが入り口を指差す。


入ってきたのはヒカルと椿であった。

ヒカルは椿に何か言い、手を小さく振ると、院生達の方へやってきた。

「ただいま」


和谷が訊く。

「進藤、昼メシ別に行くって言ってたのって、あのオッサンと行ってたのか?」

「うん、奢ってもらっちゃったよ(相変わらず)、いい人だよな、あの人」

奈瀬が「やっだあ」と顔をシカめた。


「食べ物につられるな。何処に食いに行ったんだよ。国道沿いのメシ屋?」

「ううん、海幕の方」

「海浜幕張まで行ってたのかよ! オマエ総武線組だろ?」


囲碁研修センターに行くための路線は、JR総武線または京成線の幕張本郷駅か、海側を走るJR京葉線の海浜幕張駅である。研修センターまでは、それぞれの駅からバスに乗る。

ヒカルは総武線組だ。


ヒカルは両手をオートバイのグリップを握るように前に突き出し、くいくい動かして見せた。

「椿さんバイクなんだよ。後ろ乗せてもらったんだ。メシ食う所、遠いけど海幕に出れば沢山あるよって教えたら、じゃあ行こうって言うからさ」

「そりゃオフィス街だし、いろいろ店も多いけどさ・・・バイクなら時間もかからんか」

「何食った?」

ヒカルは、ニヤリと笑った。

「ラーメンさ!」


「何でラーメン! わざわざ遠出してラーメンかよ!!」

「有名店でもあるのか?」

「知らねェ。いいんだよ、ソバでなけりゃ!! オレはラーメンが好きなんだからいいの!」


ヒカルは蕎麦が苦手だ。前回の予選の時、椿に無理やり昼食のお供をさせられ、蕎麦を奢られて非常に迷惑をした苦い経験がある。

今日、奢ると言われた時、最初に「ソバは苦手」と断わっておくことを忘れなかった。

人生やり直していると、たまには良いこともあるのだ。


和谷が言った。

「碁会所まわりしてる時も思ったんだけど、進藤って結構オッサン受けがいいんだよな」

「おやじキラーかい」

小宮が茶化す。

「嬉しくねェ!!」

ヒカルは大ウケして笑う仲間達を睨んだ。



ところでヒカルは院生仲間と違って、幼い頃から碁会所に顔を出していたわけではないので、大人慣れしていないのが弱点であった。

前回はそのために、外来の大人達も参加するプロ試験予選で、アガって失敗しかけている。

その時のアガリの主原因がムサくて声が大きい椿だった。

しかし、今の内なるヒカルはプロ棋士として、むしろ日常的に大人相手の仕事をしているのでアガる訳がない。

久しぶりに椿に会って当時のことを思い出したヒカルは

(あの頃に比べるととオレも成長したぜ)

と思い、自分から昼食に誘ったのだ。

前回、萎縮して佐為を心配させたのも遠い思い出である。



「さてっと、そろそろ時間だ。戻ろうか」

伊角が声をかけるのを潮に皆席を立った。













 その日の夕方、初戦が終わって門脇が休憩室にやって来ると、まだ数人の外来が残っていた。

「やあ、どうも」

「お疲れさん」


そこでも一番声の大きいのはやはり椿であった。門脇は苦笑しながら椿の向かいの席に座る。外来の二人は予選に出ているので面識があったのだ。


門脇が胸ポケットから煙草を取り出したところで、椿がライターを差し出した。

「どうも」

門脇は遠慮なくライターを借りると、火を付け、深々と煙を吸い込んだ。

「オレはずっと禁煙してたんだ。でもやっぱり本選が始まるとついコレに手が出ちまう」

「ははは、だろうな」


「椿さんが勝ったの、対局中でも挨拶の声で分かったよ」

「声がデカイからオレだって分かりやすいだろ?」

(自覚があるのか)

門脇はチラっと目の前の男を見た。

で、わざと小さい声で

「・・・普通の声でも話せるんだよな」

と、問い掛けると、椿は身を乗り出して「おう」とこれまた小声で返した。

「・・・・・・・・」

そして暫く二人で黙ってスパスパ煙草を吸い続け、その後、門脇が話を切り出した。



「ところで椿さんは院生の進藤君とは元々知り合い? 今日、一緒に昼メシ食べに行ってただろ」

椿は手を振って否定した。

「いいや、メシは向こうから言ってきたんだよ。どうもオレはガキに嫌われやすいんだが、ああいう物怖じしないヤツが居るとホッとする。だがなあ、ええとアンタ、元学生三冠の・・・」

「門脇」

「そう、門脇サン。あの進藤ってガキは結構ヤるんだってな」


門脇は小さく笑った。

「院生一位。去年合格した塔矢名人の息子をライバルだと公言してるヤツさ」

「塔矢アキラを? まあ、言うのは勝手だからな」

「ところが、塔矢アキラの方もそういうつもりらしいんだな」


椿は眉を顰め、腕を組み直して唸った。

この数年の間にプロ試験を受けた者で塔矢アキラの名を知らぬ者はない。

受験するなら彼が受けない年がいいと思う者も居たのである。

その彼がライバル視しているという。実力の程が知れるというものだ。


「それに予選の少し後だったかな、週刊碁にもちょっと名前が出てた。今年のプロ試験を占うとかいう記事で」

「へえ」

「・・・進藤君は今年の合格最有力候補なのさ。それで彼に関しては、知り合いの碁の記者に聞いたり、予選の時に院生の子に聞いたり」

情報収集は怠りないというわけだ。


そこで門脇は大きな溜息を付いた。

「オレ知らなかったもんだから、願書出す前に偶然ロビーを通りかかった進藤君を呼び止めて一局打ってもらったんだ」

「ほお・・・で?」

「・・・・・・・・・・・相当デキる。院生上位のレベルは高いぜ。予選組を下したからって安心しない方がいい」

「別に安心なんかしていないぜ」

椿は、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。いつの間にか声の大きさが戻っている。


「囲碁界の子供は子供じゃない、だろ? 分かってるさ、油断なんかするか」



門脇は椿から視線をはずして休憩室を見回した。もう他の受験者達は帰ってしまって、休憩室に残っている

のは門脇と椿だけになっていた。



椿が語っているのは一般論である。

どう話したところで、門脇がヒカルと対局した時の衝撃を伝えることは出来ないだろう。

本選は総当たり戦である以上、いずれ彼にも分かる事だ。




過日、ヒカルと対局して門脇の自信は揺らいだ。

院生のレベルを測って安心しようとして、自分の奢りに気付かされたと言ってもいい。

塔矢アキラがいない今年、トップ合格も夢ではないと思っていた愚かしさ。


(大丈夫なのか、このまま受けて)

一年、鍛え直そうか・・・。門脇は正直そこまで考えた。

願書を持ってその日はそのまま帰宅し、申込み最終日まで悩みに悩んで、とにかく受けてみることにした。


棋院で進藤ヒカルと対局した時、自分は初め、相手をナメていた。

しかし今度は最初から真剣勝負。それに、もう一度彼と打ってみたいということもある。

子供子供した外見とあの、じっくりした碁のギャップ。



(面白かった)


この辺りの事情をヒカルが知ったら地団駄を踏んで悔しがったに違いない。

『面白くなくていいから、受けるの来年にしてよ!!!』

と、叫びそうである。







 とにかく、こうしてプロ試験は始まった。

試験日は火曜日、土曜日、日曜日の週に三日。受験者は約二ヵ月かけて総当り全二十七戦を戦うことになる。そして上位三名にプロへの扉が開かれるのだ。


その後、ヒカルは下馬評どおり、無敗のまま勝ち進んでいった。





スタートラインは一緒でも日が進むにつれ、差が広がっていく。

そして、その経過を見守る人々。


塔矢アキラもその一人だ。

試験日の度にインターネットでライバルの勝敗を確認する。


だが九月のある日、日本棋院のサイトを見ていた彼は目を疑った。









進藤ヒカルが一敗を喫したのである。




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