翠先輩は覚えていない
野々宮翠が目を覚ましたのは、午前十時を少し過ぎた頃だった。
最初に感じたのは、喉の渇きだった。
次に頭痛。
それから、自分の頭の中に鉛でも詰められたような重さ。
「…………」
目を開ける。
見慣れた天井があった。
自分の部屋だ。
そこまではいい。
問題は、どうやって帰ってきたのかが分からないことだった。
「……ん?」
翠は枕へ頬を押しつけたまま、眉を寄せる。
昨夜、大学の友人たちと飲みに行った。
それは覚えている。
宮坂がいて、悠人がいて、他にも何人かいた。
カシスオレンジを飲んだ。
美味しかった。
次にピーチサワーを頼んだ。
唐揚げも食べた。
悠人に水を飲めと言われた気もする。
そのあたりから先が、妙に曖昧だった。
「…………」
翠はゆっくり身体を起こした。
「いった……」
頭の奥が鈍く痛む。
額を押さえながら周囲を見る。
昨日の服のままだった。
ブラウスもスカートも着ている。
靴だけは脱いである。
枕元には、半分ほど減ったペットボトルの水。
ベッドの横にはゴミ箱。
机の上にはスマートフォンと鞄。
鍵もその隣へ揃えて置かれていた。
自分でやった覚えはない。
「……誰だ」
いや、誰かはなんとなく分かる。
翠はスマートフォンへ手を伸ばした。
画面を点ける。
通知がいくつか溜まっている。
その中で一番上にあったのは、悠人とのメッセージだった。
『翠先輩もちゃんと寝てください』
その下。
『ワン』
「…………」
翠はしばらく画面を見つめた。
「……ワン?」
自分が送っている。
間違いなく自分のアカウントだった。
送信時刻は昨夜の十一時過ぎ。
まったく覚えていない。
「…………」
もう一度見る。
『ワン』
「なんで?」
訊いても誰も答えない。
翠はベッドの上で膝を抱えた。
少しずつ嫌な予感が大きくなる。
記憶の最後を探る。
飲み会。
笑っていた。
宮坂が何か言っていた。
悠人に寄りかかったような。
水。
誰かが帰る話をして。
「…………」
そこで途切れている。
「まずいな」
独り言が妙に大きく響いた。
とりあえず水を飲む。
喉へ流し込むと、ようやく少しだけ人間へ戻った気がした。
スマートフォンを持ち直す。
悠人へ聞く。
そう考えて、指が止まった。
なんとなく怖い。
先に宮坂へ聞いた方がいい気がした。
宮坂なら笑い話にしてくれる。
たぶん。
翠はメッセージを送った。
『昨日のボク、どうやって帰った?』
既読はすぐについた。
『高瀬が送った』
「……やっぱり」
予想していたはずなのに、声が漏れた。
続けて送る。
『どのくらい酔ってた?』
少し間があった。
『かなり』
『どのくらい?』
『五杯飲んでジョッキ倒して高瀬に寄りかかってた』
「…………」
翠は目を閉じた。
「五杯?」
二杯までしか覚えていない。
自分の知らない自分が三杯分いる。
さらに画面が震える。
『あとワンワン言ってた』
「待ちたまえ」
反射的に声が出た。
『それは嘘だろう』
『マジ』
『捏造はよくない』
『高瀬に聞け』
「…………」
翠はスマートフォンを伏せた。
ベッドへ倒れる。
頭が痛い。
別の意味でも。
数秒後、また震えた。
嫌な予感しかしない。
それでも見る。
『あと坂口と帰ろうとしてたけど』
「……坂口?」
『お前、あいつの名前分かってなかった』
翠の指が止まる。
『高瀬のことは分かったけど坂口は「誰だっけ」って言ってた』
「…………」
『だから高瀬が止めた』
少しだけ、頭痛とは違う冷たさが背中を通った。
坂口。
顔は分かる。
同じ学年だ。
何度か講義でも見ている。
話したこともある。
それなのに昨夜の自分は、誰なのか分からないまま一緒に帰ろうとしたらしい。
『宮坂くん』
『ん?』
『ボク、本当にそんな状態だったのかい?』
今度は返事が少し遅かった。
『うん』
『高瀬いなかったら普通に危なかったと思う』
「…………」
翠は画面を見たまま、しばらく動かなかった。
昨夜の記憶はない。
だからこそ、怖さだけがあとから来る。
自分では平気だと思っていた。
楽しかった。
まだ飲めるとも思っていた気がする。
その結果が、これだ。
「……やったなぁ」
小さく呟く。
昨日の自分へ言っている。
しばらくして、宮坂からもう一通来た。
『まあ高瀬いたし大丈夫だったけどな』
翠はその文章を見て、少しだけ息を吐いた。
『悠人が送ってくれたんだね』
『そう』
『家まで?』
『たぶん』
「たぶん?」
『そこからは俺知らん』
そこで会話は終わった。
翠は再び悠人とのメッセージを開く。
『ちゃんと帰ったら連絡したまえ』
自分が送ったらしい文章。
その前に何があったのか。
どうやって家へ入り。
どうやってベッドまで来たのか。
何を話したのか。
まるで分からない。
そして最後が。
『ワン』
「…………」
翠は布団へ顔を埋めた。
「最悪だ」
頭痛のせいではなかった。
◇
昼を過ぎた頃には、二日酔いも少しだけ落ち着いていた。
それでも完全ではない。
翠は薄手のニットに着替え、髪を適当に整えて家を出た。
今日は大学へ行く予定はない。
動物園の勤務も入っていない。
本来なら一日寝ていてもよかった。
ただ、悠人には会わなければいけない気がした。
昨夜の礼を言うため。
それと、何をしたのか確認するためだ。
メッセージを送ると、悠人は大学近くのスーパーにいるらしかった。
買い物をして帰るところだという。
翠は最寄り駅から電車へ乗り、大学近くまで出た。
午後二時過ぎ。
休日の駅前は平日より学生が少ない。
代わりに家族連れや買い物帰りの人が目立った。
スーパー前のベンチに、悠人はいた。
買い物袋を足元へ置き、スマートフォンを見ている。
翠に気づくと顔を上げた。
「こんにちは」
「……うむ」
「顔死んでますけど」
「誰のせいだと思っているのかね」
「自分のせいでしょう」
「正論が痛い」
翠は隣へ座った。
いつもなら何も考えず距離を詰めるところだったが、今日は少しだけ間を空けた。
悠人がそれに気づいたかどうかは分からない。
「水飲みました?」
「飲んだ」
「何か食べました?」
「ゼリー」
「食事を聞いてるんです」
「食べたじゃないか」
「昨日冷蔵庫見たから知ってますけど、あれしかないでしょう」
「…………」
翠の顔が止まった。
「今なんと言った?」
「冷蔵庫見たって」
「キミ、冷蔵庫を開けたのか?」
「水取るために」
「…………」
翠はゆっくり額を押さえた。
「そうか」
「なんです?」
「いや」
「プリンとゼリーしかなかったですね」
「言うな」
「食材ゼロ」
「言うな」
「調味料だけ妙にある」
「悠人」
「はい」
「昨日のことを順番に聞こうか」
「いいですけど」
「ボクはどこまで覚えていないと思う?」
「知りませんよ」
「二杯目くらいまでだ」
「ほぼ最初じゃないですか」
「だから困っている」
翠は姿勢を正した。
頭はまだ少し痛い。
それでも今はそれどころではない。
「まず」
「はい」
「ボクは五杯飲んだらしい」
「飲みました」
「ジョッキを倒した?」
「倒しました」
「……本当に?」
「テーブルびしょびしょにしました」
「忘れよう」
「本人が?」
「次!」
「切り替え早いですね」
「ボクはキミに寄りかかっていたらしい」
「ずっと」
「ずっと?」
「かなり長いこと」
「…………」
翠は視線を逸らした。
「酔ってたので」
「それは分かっている」
「俺の肩柔らかいとか言ってました」
「言わなくていい」
「クッション扱いされました」
「もういい」
「ワンワンも」
「それは捏造だ!」
「メッセージ残ってるでしょう」
「消したまえ」
「自分で消してください」
「キミの記憶もだ!」
「無理ですよ」
翠は両手で顔を覆った。
指の隙間からため息が漏れる。
「……まだあるのかね」
「ありますよ」
「聞きたくないなあ」
「聞くために来たんでしょう」
「そうなのだが」
「坂口の件は宮坂から聞きました?」
翠の手が止まる。
「……聞いた」
「ならそこは省きます」
悠人の声が少しだけ落ち着いた。
冗談の調子ではない。
「本当に気をつけてくださいね」
「うむ」
「昨日は俺のことしかまともに分かってなかったですから」
「……そうらしいね」
「翠先輩、自分で大丈夫ってずっと言ってましたけど、全然大丈夫じゃなかったです」
翠は返事をしなかった。
昨日の自分には記憶がない。
でも、悠人が自分を止めたことだけは分かる。
「ありがとう」
自然に言葉が出た。
悠人が少しだけ瞬きをする。
「どういたしまして」
「本当に助かったよ」
「次から二杯までです」
「三杯」
「昨日もその交渉しました」
「……したのかい?」
「二杯半まで粘ってました」
「覚えてない」
「でしょうね」
「では三杯」
「リセットされませんよ」
翠は小さく笑った。
それから、ふと気づく。
「待ちたまえ」
「なんです?」
「キミ、昨日ボクの家まで来たんだね?」
「来ましたよ」
「部屋に?」
「入りました」
「…………」
「じゃないとベッドまで運べないでしょう」
「ベッドまで?」
「はい」
翠の目が大きくなった。
そのまま数秒固まる。
そして。
「ちょっと待て」
「待ってますけど」
「ボクは昨日、酔っていた」
「はい」
「記憶がない」
「はい」
「キミは男だ」
「そうですね」
「ボクは女だ」
「知ってます」
「そしてキミはボクの部屋に入り」
「入りました」
「ベッドまで連れていった」
「そうです」
「…………」
翠は自分の身体を守るように両腕で抱え込んだ。
「変なことしてないだろうね?!」
「してませんよ」
「本当に?」
「本当です」
「脱がせたり」
「してません」
「変なところ触ったり」
「してません」
「本当に本当だろうね?」
「水飲ませて寝かせただけです」
翠はじっと悠人を見る。
悠人も平然と見返した。
「……信用はしているのだよ」
「じゃあそのポーズやめてください」
「確認は必要だろう」
「むしろ」
悠人がそこで言葉を切った。
翠の眉が動く。
「むしろ?」
「いや」
「待て」
「なんです?」
「今の『むしろ』はなんだ」
「なんでもないです」
「絶対何かあるだろう」
「ないですよ」
「目を逸らした!」
「逸らしてません」
「怪しい」
翠は少し身を乗り出した。
「ボク、何か言った?」
「色々」
「何を?」
「帰るなとか」
「…………」
「泊まっていけとか」
「………………」
翠の動きが止まった。
「言ったのかい?」
「言いました」
「ボクが?」
「翠先輩が」
「キミに?」
「俺に」
「…………」
翠はゆっくり両手で顔を覆った。
「記憶がない」
「便利ですね」
「今だけは本当に助かっている」
「本人が覚えてなくても俺は覚えてますけど」
「忘れたまえ」
「無理です」
「頼む」
「嫌ですよ」
「そこをなんとか」
翠は顔を上げる。
少しだけ頬が赤い。
二日酔いのせいか。
それとも別の理由か。
本人にも分からなかった。
「他には?」
「なんです?」
「ボク、他に何か言ってないかね?」
「……別に」
「本当に?」
「はい」
「…………」
「なんです?」
「今、ちょっと間があっただろう」
「気のせいですよ」
「怪しいな」
翠は目を細めた。
だが、それ以上は追及しなかった。
覚えていないものは仕方がない。
むしろ知れば知るほど、自分が傷つく気がした。
「ちなみに」
「まだあるのか」
「部屋着持ってないんですね」
「…………」
翠は完全に固まった。
「なんで知ってる?」
「昨日自分で言ってましたよ」
「どこまで?」
「家では下着で過ごすって」
「………………」
翠は両手で頭を抱えた。
「悠人」
「はい」
「昨日のボクを殺してくれないか」
「もう手遅れです」
「では記憶を消してくれ」
「無理です」
「そこを獣医学でなんとか」
「専門外です」
「役に立たないなぁ」
「無茶言わないでください」
しばらく、翠はベンチの上で小さくなっていた。
大学では有名な美人。
動物園では頼れる先輩。
その本人が今は、自分の生活習慣を後輩に知られたことで完全に打ちのめされている。
「……洗濯機も?」
「見ました」
「台所も?」
「見ました」
「冷蔵庫も?」
「それは最初に言ったでしょう」
「濡れた……」
翠はそこまで言って、口を閉じた。
「なんです?」
「いや、なんでもない」
悠人も特に聞かなかった。
翠は少しだけ安心した。
「つまり」
悠人が言う。
「翠先輩、大学と動物園ではちゃんとしてるのに、家だとかなり適当なんですね」
「適当ではない」
「じゃあ何です?」
「効率化だ」
「洗濯途中で放置するのが?」
「疲れたから仕方ない」
「冷蔵庫プリンとゼリーだけなのが?」
「食べられる」
「部屋着持ってないのが?」
「必要ない」
「全部言い訳じゃないですか」
「合理的判断だとも」
「合理的な人は夕飯プリンだけにしません」
「大きいやつだよ?」
「昨日も聞きました」
「……昨日も言ったのか」
「言いました」
「記憶がない」
「便利だなあ」
翠は唇を尖らせた。
スーパーの自動ドアが開閉するたび、冷房の風が外へ漏れてくる。
買い物袋を持った人たちが二人の前を通り過ぎていく。
しばらくして、悠人が立ち上がった。
「じゃあ俺、帰ります」
「もう?」
反射的に出た。
言ってから翠自身が少しだけ固まる。
悠人も一瞬だけこちらを見る。
「なんです?」
「いや」
昨夜も似たことを言ったらしい。
記憶はない。
でも口から出る言葉は同じだった。
「なんでもない」
翠も立ち上がる。
「今日はちゃんと何か食べてくださいね」
「食べるとも」
「何を?」
「……プリン」
「却下」
「なぜだ!」
「昨日の冷蔵庫見たからです」
「ゼリーもある」
「もっと駄目です」
「ではコンビニで何か買う」
「ちゃんと食事になるものを」
「おにぎり」
「それだけ?」
「二個」
「野菜も」
「厳しいなあ」
「昨日五杯飲んだ人だから言ってるんです」
翠は少し考える。
「では、何を食べればいい?」
「俺に聞くんですか?」
「キミがうるさいからね」
「定食でも食べて帰ればいいでしょう」
「一人で?」
「いつも一人で食べてたでしょう」
「……そうだけど」
翠は少しだけ視線を落とした。
それから悠人を見る。
「キミは?」
「家で食べます」
「何を?」
「買ってきたので作ります」
「…………」
翠の視線が足元の買い物袋へ落ちる。
キャベツ。
肉。
卵。
牛乳。
少なくともプリンとゼリーよりは、食事になるものが入っている。
「悠人」
「はい」
「ボクの分は?」
「ないですよ」
「冷たい」
「なんであると思ったんですか」
「昨日あれだけ世話を焼いてくれたじゃないか」
「昨日は緊急事態です」
「今日も二日酔いだぞ?」
「自業自得です」
「病人に優しくしたまえ」
「二日酔いを病人枠に入れないでください」
「むぅ」
翠は頬を膨らませる。
悠人が笑った。
「じゃあ何か食べたら連絡してください」
「監視?」
「確認です」
「飼い主みたいだね」
「誰がですか」
「ワン」
「それ昨日散々やりましたよ」
「……そうなのか」
「覚えてないんですね」
「覚えてない」
翠は少しだけ考えてから、もう一度言った。
「ワン」
「なんで二回目やるんです?」
「今度は覚えておこうと思って」
「いらない記憶増やさないでください」
悠人が買い物袋を持ち直す。
「じゃあ」
「うむ」
「ちゃんと食べてくださいね」
「分かったとも」
「プリン以外」
「……善処する」
「絶対食べないやつじゃないですか」
悠人が駅とは反対側へ歩いていく。
翠はその背中をしばらく見送った。
昨夜のことは、ほとんど覚えていない。
五杯飲んだことも。
ジョッキを倒したことも。
悠人へ寄りかかっていたことも。
自分の家へ連れて帰ってもらったことも。
泊まっていけと言ったことも。
何ひとつ。
それでも朝起きた時、枕元に水があった。
ゴミ箱が置いてあった。
鍵も鞄もスマートフォンも、分かりやすい場所に揃えてあった。
そして今、ちゃんと飯を食えと言われた。
「…………」
翠は自分の頬へ手を当てた。
「本当に何もしてないんだろうね」
小さく呟く。
少し考える。
「……まあ」
していなかったらしい。
それはそれで。
「……いや」
翠は首を振った。
何を考えている。
記憶がないのだから仕方がない。
そういうことにした。
スマートフォンが震える。
悠人からだった。
『プリンだけ食べたら怒りますからね』
「…………」
翠は画面を見つめた。
少しだけ笑う。
『ワン』
送ってから。
今度はちゃんと覚えておくことにした。




