翠先輩は期待する
正確には、持ち帰ったわけではない。
送り届けただけだ。
「翠先輩。着きましたよ」
「んー……」
「起きてください」
「起きてる」
「じゃあ降りますよ」
「もうちょっとぉ」
「終点まで行きますよ」
「それは困るなぁ」
困ると言いながら、翠先輩は俺の肩から頭を離そうとしなかった。
時刻は午後十時四十分を過ぎている。
居酒屋を出てから駅まで歩き、どうにか翠先輩の住所を聞き出して電車へ乗ったところまではよかった。
問題は、その直後だった。
空いていた座席へ座らせた途端、翠先輩は俺の肩を枕にして眠り始めた。
五杯分の酒と眠気を抱えた二十歳は重い。
物理的にも。責任的にも。
何度か頭がずり落ちるたびに戻し、途中で一度だけ「気持ち悪くないですか」と確認し、乗り過ごさないよう駅名を見ながら揺られること数駅。
ようやく目的地だった。
「ほら、立って」
「立てるとも」
「その台詞、今日何回目です?」
「一回目」
「こりゃ駄目だ、記憶までなくなってるじゃないですか」
腕を取って立たせる。
電車が揺れた。
「わ」
「危な」
腰を支える。
翠先輩は俺の胸元へ額をぶつけ、そのまま動かなくなった。
「……翠先輩?」
「いる」
「何がです?」
「悠人」
「はい、いますよ」
「うむ」
何がそんなに満足なのか、小さく頷く。
扉が開いた。
このままだとまた閉まる。
「降りますよ」
「連れていきたまえ」
「自分でも歩いてください」
「飼い主なのだろう?」
「違います」
「宮坂くんが言ってた」
「あいつの言うこと忘れてください」
ホームへ降りる。
改札までの距離は大したことがないはずなのに、倍くらい時間がかかった。
翠先輩は歩けないわけではない。
歩ける。
ただし真っ直ぐという条件がつくと、急激に怪しくなる。
右へ寄れば戻し、遅れれば待ち、階段は危ないのでエレベーターを使う。
改札を抜ける頃には、俺の方が疲れていた。
「家、どっちです?」
「こっち」
翠先輩が右を指差した。
「本当に?」
「たぶん!」
「信用できないな……」
「失礼だねぇ。ボクの家だぞ」
「さっき自分の住所探すのに三分かかった人が言います?」
「それは獣医学がいっぱい入っているからねぇ」
「便利な言い訳見つけましたね」
それでも道は覚えていたらしい。
駅から十分も歩かないうちに、翠先輩が「あれ」と指を向けた。
七階建てのマンションだった。
築年数はそれほど古く見えない。オートロックの付いた、ごく普通の単身者向けマンション。
「ここ?」
「ボクのお城だ」
「城主がまともに歩けてませんけど」
「今日は休戦日なのだよ」
「何と戦ってるんですか」
「酒」
「負けてますよ」
「善戦した」
「五杯飲んでジョッキ倒した人が?」
「ジョッキは無事だった」
「まだ言うんですか」
エントランスへ入る。
オートロックの前で、次の問題が発生した。
「鍵」
「ある」
「出してください」
「鞄」
「俺が持ってます」
「じゃあ悠人が持ってる」
「鍵をですよ」
「鞄の中」
俺は肩から下ろした鞄を翠先輩へ差し出した。
「自分で探してください」
「やってくれないのかい?」
「勝手に女性の鞄漁りたくないです」
「ボクはいいよぉ」
「酔っ払いの許可は信用しません」
「真面目だなあ」
「早くしてください」
翠先輩は不満そうに唇を尖らせながら鞄へ手を入れた。
財布。
ポーチ。
ハンカチ。
何かのプリント。
小さなノート。
なぜか個包装の猫用おやつ。
「なんで持ってるんです?」
「動物園のシラユキ用」
「勝手にあげちゃ駄目でしょう」
「あげないよ。サンプルでもらっただけ」
「じゃあ家に置いてください」
「忘れてた」
「でしょうね」
ようやく底からキーケースが出てきた。
「これだ」
「最初からそれ探してたんですよ」
「見つかったのだからいいじゃないか」
鍵を使って中へ入る。
エレベーターで五階。
廊下を進み、翠先輩が自分の部屋を指した。
「ここ」
「今度こそ本当です?」
「表札を見るといい」
小さく野々宮と書かれている。
「本当ですね」
「疑い深い男だ」
「今日の翠先輩相手なら当然です」
鍵を開けてもらい、扉を押す。
室内は暗かった。
「電気どこです?」
「壁」
「それは大体そうでしょう」
「悠人、今日ちょっと冷たいねぇ」
「誰のせいですか」
手探りでスイッチを見つける。
ぱち、と照明が点いた。
そして。
俺は少しだけ意外に思った。
「……綺麗ですね」
「なんだい、その反応は」
「もっと散らかってるかと」
「失礼だなあ」
翠先輩の部屋は、思っていたよりずっと整っていた。
一人暮らし用のワンルーム。
奥にベッド。
壁際に小さなテレビ。
反対側には机と椅子。
冷蔵庫。
それくらいだった。
床に物はほとんどない。
雑誌が積まれているわけでも、服が脱ぎ捨てられているわけでもない。
玄関にも靴は数足しかなく、傘立てすらない。
綺麗というより、物が少ない。
必要なものだけ置いて、あとは最初から増やしていないような部屋だった。
「ちゃんとしてるじゃないですか」
「ボクをなんだと思っているのかね」
「夕飯にプリン食べる人」
「大きいやつだっただろう?」
「サイズの問題じゃないです」
靴を脱がせる。
翠先輩は壁に手をつきながら、どうにか自分でパンプスを脱いだ。
「ベッドまで行けます?」
「余裕」
「信用度ゼロです」
「悠人が支えてくれれば余裕」
「それは俺が余裕じゃないんですよ」
腕を肩へ回す。
数歩進む。
ふと、床の隅に白いものが見えた。
濡れたペットシートが一枚、壁際に置かれていた。
「よいしょ」
「女の子運ぶ時に言う台詞じゃないぞぉ」
「重いって言われるのとどっちがいいです?」
「よいしょで」
「賢明です」
ベッドの端へ座らせる。
翠先輩の身体が沈んだ。
「着きましたよ」
「うむ」
「横になってください」
「まだ寝ない」
「寝てください」
「せっかく悠人が来たのに」
「送ってきただけです」
「初めてだぞ?」
「何が?」
「男の子を部屋に入れたの」
「……」
一瞬だけ返事に困った。
翠先輩はベッドに座ったまま、ぼんやり俺を見上げている。
明るい茶色の髪はかなり乱れていた。
頬にはまだ酒の赤みが残っている。
普段ならもう少し焦点の合っている目も、今は半分眠そうに細められていた。
「それ、明日覚えてます?」
「覚えてるとも」
「怪しいなあ」
「悠人は初めて」
「そうですか」
「反応薄い」
「酔っ払ってる人相手にどう反応しろっていうんです?」
「もう少し喜びたまえ」
「はいはい」
「雑ぅ」
翠先輩が頬を膨らませる。
「水持ってきます」
「ここにいたまえ」
「水ないと困るでしょう」
「あとでいい」
「駄目です」
俺が離れようとすると、袖を掴まれた。
「翠先輩」
「ん?」
「離してください」
「やだ」
「なんでです?」
「せっかく来たから」
「俺は介抱しに来たんですよ」
「分かってるよぉ」
そう言いながら、手は離れない。
少し前まで大学ではほとんど一人だった人が、酒に酔うとここまで人にくっつくとは思わなかった。
いや。
人というより、俺に、なのかもしれない。
「帰りませんから。水取ってくるだけです」
「ほんとかい?」
「本当です」
「じゃあいい」
ようやく袖が解放された。
キッチンへ向かう。
流し台は綺麗だった。
洗い物がない。
水滴すらほとんど残っていない。
コンロも綺麗だ。
まな板と包丁はある。
鍋もひとつ。
それ以外には、驚くほど何もなかった。
「……料理してます?」
ベッドから返事が来る。
「できるよ」
「してるか聞いてるんです」
「最近はしてない」
「最近って?」
「引っ越してから」
「それ最近じゃないでしょう」
嫌な予感がした。
冷蔵庫を開ける。
「…………」
白い光が、ほとんど空の庫内を照らした。
プリン。
プリン。
ゼリー。
ゼリー。
ペットボトルの水。
麦茶。
ドアポケットにいくつかの調味料。
以上。
一段目など、ほぼ完全な空室だった。
「翠先輩」
「なにぃ?」
「食材は?」
「あるだろう?」
「どれです?」
「プリン」
「食材じゃないです」
「卵と牛乳が入っている」
「完成品です」
「ゼリーもあるぞ」
「見えてます」
「果汁入り」
「果物判定しませんからね」
「厳しいなあ」
水を一本取り出す。
冷蔵庫を閉める前に、もう一度中を見る。
何度見ても増えない。
昨日の夕飯がプリンだったという話は、どうやら冗談ではなかったらしい。
「普段何食べてるんです?」
「食べたいもの」
「だから何を?」
「大学で食べたりぃ」
「はい」
「外で食べたり」
「はい」
「買ったり」
「はい」
「プリンとか」
「最後おかしいでしょう」
「好きなんだよ」
「知ってますけど」
水を持って戻る途中、洗濯機が目に入った。
蓋が開いている。
中には洗ったらしい衣類が残っていた。
その近くの室内干しにはシャツとタオルが何枚か掛かっている。
全部ではない。
明らかに途中だ。
「これ、洗濯途中です?」
「んー?」
「洗濯機の中にまだ入ってますけど」
「ああ」
「干さないんですか」
「干してた」
「過去形?」
「途中で疲れた」
「なんでそこでやめるんですか」
「疲れたから」
「明日もう一回洗うことになりますよ」
「そうなのかい?」
「臭くなったら」
「じゃあ明日考える」
「今日考えてください」
「今日は酔ってるから無理」
こういうところだけ正論なのが腹立たしい。
少なくとも、部屋そのものは汚くない。
見られて困るようなものが転がっているわけでもないし、衣類も基本的には収納されている。
ただ、何かがおかしい。
冷蔵庫には食べ物がない。
台所は使われていない。
洗濯は途中。
必要なものしかない部屋で、その必要なことまで時々途中で放棄されている。
動物園で見る翠先輩とは、まるで違った。
担当動物の餌なら忘れない。
観察記録も丁寧につける。
小さな変化にも気づく。
大学の課題だって、期限よりずっと前に終わらせる。
なのに自分のことになると、急に管理が雑になるらしい。
「はい、水」
「ありがとぉ」
ペットボトルを渡す。
翠先輩は両手で持って一口飲んだ。
「もっと」
「命令が多いねぇ」
「飲んでください」
「はぁい」
もう一口。
「気持ち悪くないです?」
「大丈夫」
「本当に?」
「ちょっと世界が回ってるだけ」
「大丈夫じゃないです」
「地球はいつも回ってるだろう?」
「そういう話じゃない」
翠先輩がふふ、と笑った。
少しして、立ち上がろうとする。
「どこ行くんです?」
「着替える」
「着替えられます?」
「できるとも」
「さっきからその言葉、一度も信用できないんですよ」
「服くらい脱げる」
「部屋着どこです?」
「ない」
「……はい?」
「持ってないよ」
「部屋着を?」
「うむ」
「じゃあ普段、家で何着てるんです?」
翠先輩は、何を当然のことを聞いているのだという顔をした。
「下着」
「…………」
「楽だぞ?」
「いや」
「服を着る必要がないじゃないか」
「ありますよ」
「一人なのに?」
「……一人なら、まあ」
「だろう?」
妙に堂々としている。
「外から帰ってきて、部屋着に着替えて、寝る時にまた脱ぐ。工程が一個多いじゃないか」
「そこを効率化する人初めて見ました」
「合理的と言いたまえ」
「嫌です」
「では着替える」
「待ってください」
ブラウスの裾へ手を掛けかけたので、反射的に止めた。
「なに?」
「俺いますよ」
「……」
翠先輩が俺を見る。
俺も見る。
数秒。
酔ってぼんやりしていた翠先輩の目に、ほんの少しだけ別の色が混じった。
「……いるね」
「います」
「男の子が」
「そうですね」
「ボクの部屋に」
「送ってきましたから」
「夜に」
「夜ですね」
「ベッドの前に」
「そうですね」
「…………」
「何ですか」
翠先輩はペットボトルを抱えたまま、少しだけ考えた。
「悠人」
「はい」
「ここ、ボクのベッドだぞ」
「見れば分かります」
「ボクもいる」
「それも見れば分かります」
「キミもいる」
「だから送ってきたんですって」
「……ふむ」
何かを確認するように頷く。
それから、少しだけ俺を見上げた。
「何もないのかね?」
「何がです?」
「…………」
翠先輩の視線が、一度だけベッドへ落ちた。
また俺を見る。
いくら俺でも、そこまでされれば分かる。
「寝てください」
「即答」
「今の翠先輩相手に何するんですか」
「……何か」
「しません」
「つまらない男だねぇ」
「酔っ払い相手に面白い男になりたくないです」
「むぅ」
翠先輩が露骨に不満そうな顔をした。
冗談なのか。
本気なのか。
たぶん本人にもよく分かっていない。
ただ、少なくとも俺が何かすると思っていたらしい。
「じゃあ俺が帰ってから着替えてください」
「帰るのかい?」
さっきまでより、少しだけ声がはっきりした。
「帰りますよ」
「……もう?」
「もうって」
時計を見る。
十一時を過ぎている。
「家まで送りました。水も飲ませました。もう寝られるでしょう」
「せっかく来たのに」
「またそれですか」
「初めてなのに」
「だから何です?」
「……なんでもない」
翠先輩がベッドへ倒れ込んだ。
横向きになる。
枕へ頬を押しつけ、俺とは反対側を向いた。
「拗ねました?」
「拗ねてない」
「じゃあこっち向いてください」
「やだ」
「拗ねてるじゃないですか」
「酔ってるだけだとも」
「便利ですね、それ」
念のためゴミ箱をベッドの近くへ移す。
スマホを机の上に置き、鞄と鍵も目につく場所へまとめた。
水は枕元。
これなら朝起きても困らないだろう。
「翠先輩」
「ん」
「気持ち悪くなったら横向いたままでいてくださいね」
「うむ」
「水も飲んで」
「うむ」
「明日起きたら連絡してください」
「うむ」
「聞いてます?」
「聞いてるよぉ」
「じゃあ何て言いました?」
「悠人がボクを心配している」
「……まあ、それでいいです」
「へへ」
何が嬉しいのか、枕へ顔を埋めたまま笑う。
俺は立ち上がった。
部屋を見回す。
ベッド。
テレビ。
机。
ほとんど空の冷蔵庫。
何もない台所。
途中で止まった洗濯。
床の隅には、濡れたペットシート。
そして、その真ん中で布団へ潜り始めている二十歳の獣医学科生。
少なくとも、他人や動物の世話をしている時には絶対に見えない姿だった。
「じゃあ帰ります」
「……悠人」
「はい」
「ほんとに帰るのかい?」
「帰ります」
「泊まっていけばいいのに」
「嫌ですよ」
「即答するなぁ」
「明日になったら絶対後悔するでしょう」
「しないかもしれない」
「今の翠先輩の『かもしれない』は信用しません」
「むぅ……」
布団から目だけが出る。
「キミは真面目だなあ」
「翠先輩が酔いすぎなんです」
「ボク、今けっこう可愛いと思うんだが」
「可愛いですよ」
「……」
「何です?」
「そこは普通に言うんだね」
「見れば分かるでしょう」
「ふむ……」
翠先輩は少し考えた。
「では、なおさら泊まっていかないかね?」
「話聞いてました?」
「交渉材料を増やした」
「自分で言わないでください」
「駄目〜?」
「駄目です」
「けちぃ」
「おやすみなさい」
玄関へ向かう。
背中から声が飛んできた。
「悠人」
「今度は何です?」
「……今日はありがとう」
振り返る。
翠先輩はもう目を閉じていた。
「どういたしまして」
「ボクを持ち帰ってくれて」
「翠先輩の家ですけどね」
「細かいなぁ」
「あと、次から二杯までです」
「三杯」
「二杯」
「……二杯半」
「おやすみなさい」
「交渉を打ち切るなぁ」
玄関の扉を閉める直前まで、翠先輩の不満そうな声が聞こえていた。
廊下へ出る。
急に静かになった。
俺は閉じた扉を一度振り返る。
大学では一人で平気そうにしている。
動物園では俺よりずっと頼りになる。
課題は早めに終わらせる。
料理だって、本人曰くできるらしい。
なのに冷蔵庫にはプリンとゼリーしかなくて、洗濯は途中で力尽きる。
ずいぶん偏った人だった。
エレベーターのボタンを押す。
その時、ポケットの中でスマホが震えた。
画面を見る。
翠先輩からだった。
『ちゃんと帰ったら連絡したまえ』
「……どっちが心配してるんだか」
まだマンションからも出ていない。
俺は笑って、短く返した。
『翠先輩もちゃんと寝てください』
数秒後。
『ワン』
もう返信はしなかった。




