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ボクを飼ってみないか?!  作者: 御HeSummer3
第1章

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翠先輩は五杯目


 途中から注文が入り乱れ、気づけば翠先輩の前には新しいグラスが増えていた。

 

 五杯目だった。


 少なくとも、俺が把握している限りでは。


「……翠先輩」

「んー?」

「それ、何杯目です?」

「これぇ?」


 翠先輩は両手でジョッキを持ち上げた。


 透明な炭酸の中に薄い黄色が揺れている。何のサワーだったかはもう覚えていない。俺が頼んだものではないし、翠先輩自身もたぶん覚えていない。


「ごはいめ」

「やっぱり五杯目じゃないですか」

「五杯しか飲んでないよ?」

「『しか』じゃないです」


 時計は午後十時を少し回っていた。


 あれから一時間ちょっとで、テーブルの景色はずいぶん変わっていた。


 最初に並んでいた枝豆や唐揚げはとうに消え、代わりに追加で頼んだポテトの皿と、誰かが途中まで食べた焼きおにぎり、それから空になったグラスやジョッキがいくつも残っている。


 六人の声も最初より大きい。


 隣の半個室から聞こえる笑い声も、店内を流れる音楽も、店員の「失礼します」という声も、全部がひとつの騒がしさになっていた。


 その中で、翠先輩だけが明らかに一段深いところまで沈んでいる。


 頬はすっかり赤い。


 目元は緩み、瞬きも少し遅い。


 さっきまでは背筋を伸ばして座っていたのに、今は俺の方へ身体が傾いていて、肩が時々触れる。


「水飲んでください」

「飲んだよぉ」

「いつ?」

「さっき」

「十五分前です」

「じゃあ最近じゃないか」

「酒もそのあと飲んでるでしょう」

「もぉ細かいなあ、悠人はぁ」


 翠先輩が笑う。


 そのままジョッキへ口をつけようとしたので、俺は底を軽く押さえた。


「もうやめときましょう」

「えー」

「えー、じゃないです」

「まだ飲める」

「飲める人はそんな座り方しません」

「どんな座り方だい?」

「俺に寄りかかってます」


 言われて初めて気づいたらしい。


 翠先輩はゆっくり自分の身体を見る。


 俺の腕。


 自分の肩。


 また俺。


「……ほんとだ」

「離れてください」

「やだ」

「なんでですか」

「楽だから」

「椅子使ってください」

「こっちの方が柔らかい」

「人をクッションにしないでください」

「ケチぃ」


 語尾までふにゃふにゃしている。


 向かいでは宮坂が面白そうに笑っていた。


「野々宮さん、めちゃくちゃ酔ってんじゃん」

「へへん、酔ってないとも」

「その返事するやつ大体酔ってる」

「宮坂くんは分かっていないねぇ」


 翠先輩が人差し指を立てる。


 その指が途中でふらついた。


「ボクは、二十歳なのだよ」

「年齢で酒強くなんねえから」

「二十歳だから飲める」

「それは合ってる」

「ほらぁ」

「飲めるのと強いのは別」

「む」


 翠先輩は納得していない顔をした。


 そのままジョッキへ手を伸ばす。


「翠先輩」

「一口」

「駄目です」

「一口だけぇえ」

「さっきも聞きました」

「じゃあ半口」

「単位作らないでください」


 俺がジョッキを少し遠ざけると、翠先輩はそれを目で追った。


 身体も追った。


「待ちたまえ」

「待ちません」

「ボクのお酒」

「もう十分飲んだでしょう」

「返したまえぇ」


 翠先輩が腕を伸ばす。


 俺もさらにジョッキを遠ざける。


「悠人」

「はい」

「返して」

「嫌です」

「先輩命令」

「大学では同級生でしょう?」

「動物園では先輩だぞ〜」

「ここ動物園じゃないです」

「むぅ」


 翠先輩が俺を睨む。


 睨んでいるつもりなのだろう。


 目が半分閉じているせいで、まるで迫力がない。


「高瀬」


 宮坂が笑いながら言った。


「完全に飼い主じゃん」

「誰がですか」

「野々宮さんの」

「違う」

「お酒取り上げて、水飲ませて、逃げないように見張ってんじゃん」

「放っといたらまだ飲むからだよ」

「ワン」

「鳴かないでください」

「ワンワン」

「翠先輩まで乗らない」


 テーブルに笑いが起きた。


 翠先輩も満足そうに笑う。


 その時だった。


 腕がテーブルへ当たった。


「あ」


 ジョッキが倒れた。


 中に残っていた酒が一気に横へ流れる。


「うわっ」

「やば」

「野々宮さん!」


 俺は反射的に翠先輩を引いた。


 酒がテーブルを伝い、置いてあった紙ナプキンへ染み込んでいく。


 宮坂たちも慌ててグラスや皿を持ち上げた。


「すみません!」


 店員を呼び、布巾をもらう。


 みんなでテーブルを拭く中、翠先輩だけが自分の手を見つめていた。


「……倒れた」

「倒しましたね」

「ジョッキが」

「翠先輩がです」

「ボクが?」

「はい」

「そうかぁ」


 理解するまで少し時間がかかった。


 さすがに俺も笑えなくなる。


「もう本当に終わりです」

「でも」

「終わり」

「……はいぃ」


 珍しく素直だった。


 俺は空になったジョッキを店員へ渡し、代わりに水を翠先輩の前へ置いた。


「これ飲んでください」

「ん」


 翠先輩はグラスを持った。


 一口飲む。


 二口。


 そこまではよかった。


 そのあと、グラスを置いたまま動かなくなった。


「翠先輩?」

「……」

「翠先輩」

「起きてるよぉ」


 返事はある。


 ただし顔はほとんど伏せている。


「それ寝てる人の姿勢です」

「寝てない」

「顔上げられます?」

「余裕だとも」


 ゆっくり顔が上がった。


 途中で止まる。


「……」

「止まりましたけど」

「ちょっと休憩」

「首の?」

「うむ」


 駄目だ。


 完全に駄目だ。


「宮坂」

「ん?」

「そろそろ帰した方がいい」

「だな」


 さすがに宮坂も同意した。


 他の三人も、翠先輩の様子を見て頷く。


 飲み会そのものも、そろそろお開きにしていい時間だった。


 会計をどうするか。


 誰がどの方向へ帰るか。


 そんな話になり始める。


「野々宮さん、大丈夫?」


 声を掛けたのは、今日一緒に飲んでいた男の一人だった。


 名前は確か坂口(さかぐち)。


 同じ獣医学科ではあるが、俺はほとんど話したことがない。


「だいじょーぶ」


 翠先輩が顔を上げる。


 全然大丈夫には見えない。


「立てる?」

「立てるとも」


 翠先輩がテーブルへ手をつき、腰を上げた。


 一秒。


 二秒。


「わ」


 身体が横へ傾く。


 俺が反対側から腕を取るより先に、近くにいた坂口が肩を支えた。


「危な」

「……ありがとう」

「やっぱ相当酔ってるじゃん」

「ちょっとだけだよぉ」

「ちょっとじゃないって」


 坂口が笑う。


 翠先輩もつられて笑った。


 そのまま、肩に置かれた手を気にする様子もない。


 判断できていない。


 たぶん今なら、誰に支えられているかもろくに考えていない。


「野々宮さん、家どっち?」

「んー……」

「駅の向こう?」

「たぶん」

「たぶんって」


 坂口がまた笑う。


「俺、あっち方面だから送るよ」

「ほんとぉ?」

「うん。こんなんで一人じゃ帰れないでしょ」

「じゃあ、おねがいしようかなぁ」


 その言葉に、宮坂が口笛でも吹きそうな顔をした。


「お?」


 俺を見る。


「これ、お持ち帰りってやつ?」

「宮坂」

「冗談だって」


 宮坂は笑っていた。


 俺は笑わなかった。


 坂口が翠先輩の鞄を持つ。


「じゃ、俺ら先出るわ」

「待って」


 自分でも驚くくらい、声が低くなった。


 坂口が振り返る。


「何?」

「翠先輩」

「んー?」


 俺は翠先輩を見る。


「俺、分かります?」

「……?」


 一瞬だけ、翠先輩の目が泳いだ。


 それから俺の顔を見つける。


「悠人」

「はい」

「悠人だぁ」

「この人は?」


 坂口を見る。


 翠先輩も俺につられて顔を向けた。


「……」


 少し考える。


「だれだっけ」


 空気が変わった。


 宮坂の笑いも止まった。


「野々宮さん、坂口だって」

「ああ……さかぐちくん」

「今言われて分かっただけだろ」


 俺は立ち上がった。


「俺が送ります」

「え?」


 坂口が眉を寄せる。


「いや、俺帰る方向同じだし」

「翠先輩の家知ってるの?」

「知らないけど、本人に聞けばいいだろ」

「今まともに答えられないだろ」

「でも高瀬だって知らないんじゃないの?」

「知らない」

「なら同じじゃん」

「同じじゃない」


 坂口の手が、まだ翠先輩の肩にある。


 俺はそこを見る。


「その人、今誰と帰るかまともに判断できてないから」

「いや、本人がお願いするって言ったじゃん」

「酔って俺のことしかまともに認識できてない人の返事を、本人の判断として扱うの?」


 坂口が黙った。


 店内は相変わらず騒がしい。


 隣の席では誰かが笑っている。


 厨房から皿の重なる音も聞こえる。


 なのに、このテーブルだけ少し静かだった。


「高瀬」


 宮坂が言った。


 さっきまでの調子とは違う。


「お前が送れ」


 俺は宮坂を見る。


「そのつもり」


 宮坂は翠先輩を見た。


「これ、普通に任せたら駄目なやつだわ」


 坂口にも向き直る。


「悪いけど、野々宮さん高瀬とは前から知り合いだし。高瀬に任せようぜ」

「……別に俺、変なことするつもりじゃないけど」

「だったらなおさらいいだろ」


 宮坂の言い方は軽い。


 でも笑ってはいなかった。


「高瀬が送るって言ってんだから」


 数秒だけ間があった。


 やがて坂口は翠先輩の肩から手を離した。


「分かったよ」


 鞄を俺へ渡す。


「じゃ、よろしく」

「うん」


 翠先輩の身体が、支えを失ってぐらりと揺れた。


 俺はすぐ肩を抱く。


「翠先輩」

「んぅ」

「立てます?」

「立ってる」

「俺が支えてます」

「じゃあ立ててる」

「そういうことにしときます」


 宮坂が財布を取り出しながら、俺たちを見た。


「高瀬」

「何?」

「会計こっちやっとくから、先行っていいぞ」

「あとで払う」

「明日でいい」

「分かった」

「あと」


 宮坂が少しだけ口元を緩める。


「お持ち帰り〜、とか言って悪かった」

「別に」

「いや」


 宮坂は翠先輩を見る。


 ほとんど俺に体重を預け、眠そうに目を閉じている。


「思ったよりマジだったわ」

「だから言っただろ」

「言ってねえよ」

「顔見れば分かるだろ」

「お前が言う?」

「何が」

「いや、なんでもない」


 宮坂は笑った。


「ちゃんと送れよ」

「そのつもり」

「変なことすんなよな」

「お前さっきまでお持ち帰り〜とか言ってただろ」

「それとこれは別」

「勝手だな」

「大学生男子なんてそんなもんだよ」

「一括りにすんな」

「お前も大学生男子だろ」

「十九歳のな」

「そこまだ引っ張る?」


 少しだけ、いつもの空気が戻った。


 俺は翠先輩の鞄を肩へ掛ける。


「帰りますよ」

「んー」

「歩けます?」

「へ、余裕」


 一歩。


 ふらつく。


「余裕?」

「床が動いた」

「動いてません」

「この店、危ないねぇ」

「危ないのは翠先輩です」


 仕方なく腕を肩へ回させる。


 翠先輩は抵抗せず、俺へ身体を預けた。


 店を出る。


 階段を上がる間だけでも二度足を止めた。


 地上へ出ると、夜の空気が思ったより冷たかった。


 店内に染みついていた焼き物と酒の匂いが離れ、代わりに車の排気と秋に近づき始めた風の匂いがする。


 駅前はまだ明るい。


 人も多い。


 時計を見る。


 二十二時十九分。


「翠先輩」

「んー」

「家どこです?」

「家?」

「はい」

「あるよ」

「それは知ってます」

「えらいだろう?」

「何がですか」

「家がある」

「大体の人にあります」

「そうなのかぁ」

「駄目だこれ」


 俺は息を吐いた。


「最寄り駅は?」

「……」

「翠先輩」

「考えてる」

「寝てません?」

「考えてるよぉ」


 しばらくして、ようやく駅名が出てきた。


 聞き覚えのある駅だった。


 ここから電車で数駅。


「住所は?」

「住所ぉ?」

「マンションの名前でもいいです」

「分かる」

「教えてください」

「今?」

「今です」

「急だなあ」

「急じゃないですよ」


 翠先輩が俺の肩へ額を押しつけた。


「ちょっと待って」

「何を?」

「頭の中から探す」

「自宅住所を?」

「いっぱいあるから」

「何が入ってるんですか、その頭」

「獣医学」

「じゃあ住所の容量残しといてください」


 返事はない。


「翠先輩?」

「……」

「寝た?」

「起きてる」

「じゃあ顔上げてください」

「無理」

「起きてないじゃないですか」


 駅へ向かってゆっくり歩く。


 まともに歩かせるのは諦めた。


 翠先輩の腕を肩へ回し、腰を支える。


 それでも足が絡む。


「もう背負います?」

「やだ」

「なんで」

「恥ずかしい」

「まだその感覚残ってるんですね」

「ボクは乙女だからねぇ」

「ジョッキ倒した乙女ですけど」

「そりゃ、事故だとも」

「加害者が言う台詞じゃないです」

「ジョッキは無事だった」

「テーブルが被害受けました」


 ふふ、と翠先輩が笑う。


 その笑いも、すぐ小さくなる。


「……悠人」

「はい」

「ちゃんと来たね」


 足が止まりかけた。


「何がです?」

「今日」

「来るって言ったでしょう」

「うむ」


 翠先輩は俺の肩に額を預けたまま、小さく頷いた。


「ちゃんといた」

「いましたよ」

「よかった」

「何がです?」

「……」


 返事がない。


「翠先輩?」

「んー」

「寝ないでくださいよ」

「寝てない」

「じゃあ住所」

「鬼だなぁ」

「今日中に帰れなくなるでしょう」

「悠人がいるから平気」

「そういう問題じゃないです」


 言いながら、少し前の昼休みを思い出した。


 何かあったら悠人がいる。


 翠先輩はあの時、確かにそう言った。


 たぶん本人は深く考えていなかった。


 俺も、酔った時に水でも持ってくる程度の意味だと思っていた。


 まさか本当に、まともに歩けなくなるまで飲むとは思わなかった。


「次から酒禁止ですね」

「横暴だ」

「じゃあ二杯まで」

「少ない」

「今日五杯でこうなった人に発言権ありません」

「三杯」

「二杯」

「四杯」

「増えた」

「交渉だよ」

「成立しません」

「けちぃ」


 駅の明かりが近づいてくる。


 俺は肩に掛けた翠先輩の鞄を直した。


 今夜この人を一人で帰すという選択肢は、もうない。


 家まで送る。


 ちゃんと部屋へ入れる。


 水くらいは飲ませる。


 そこまで確認してから帰る。


 それだけだ。


「翠先輩」

「ん?」

「住所、駅着くまでに思い出してくださいね」

「努力する」

「絶対ですよ」

「うむ」


 返事だけは、いつも通り立派だった。


 その三歩後には、また俺の肩へ全体重が乗った。


「重いです」

「女の子に言ってはいけない言葉だぞぉ」

「自分で歩いてください」

「無理」

「さっき余裕って言ったでしょう」

「昔の話だね」

「十分前です」


 仕方なく、俺は翠先輩を支え直した。


 結局。


 あれだけ宮坂が冗談にしていた「お持ち帰り」をすることになったのは、俺だった。

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