翠先輩は五杯目
途中から注文が入り乱れ、気づけば翠先輩の前には新しいグラスが増えていた。
五杯目だった。
少なくとも、俺が把握している限りでは。
「……翠先輩」
「んー?」
「それ、何杯目です?」
「これぇ?」
翠先輩は両手でジョッキを持ち上げた。
透明な炭酸の中に薄い黄色が揺れている。何のサワーだったかはもう覚えていない。俺が頼んだものではないし、翠先輩自身もたぶん覚えていない。
「ごはいめ」
「やっぱり五杯目じゃないですか」
「五杯しか飲んでないよ?」
「『しか』じゃないです」
時計は午後十時を少し回っていた。
あれから一時間ちょっとで、テーブルの景色はずいぶん変わっていた。
最初に並んでいた枝豆や唐揚げはとうに消え、代わりに追加で頼んだポテトの皿と、誰かが途中まで食べた焼きおにぎり、それから空になったグラスやジョッキがいくつも残っている。
六人の声も最初より大きい。
隣の半個室から聞こえる笑い声も、店内を流れる音楽も、店員の「失礼します」という声も、全部がひとつの騒がしさになっていた。
その中で、翠先輩だけが明らかに一段深いところまで沈んでいる。
頬はすっかり赤い。
目元は緩み、瞬きも少し遅い。
さっきまでは背筋を伸ばして座っていたのに、今は俺の方へ身体が傾いていて、肩が時々触れる。
「水飲んでください」
「飲んだよぉ」
「いつ?」
「さっき」
「十五分前です」
「じゃあ最近じゃないか」
「酒もそのあと飲んでるでしょう」
「もぉ細かいなあ、悠人はぁ」
翠先輩が笑う。
そのままジョッキへ口をつけようとしたので、俺は底を軽く押さえた。
「もうやめときましょう」
「えー」
「えー、じゃないです」
「まだ飲める」
「飲める人はそんな座り方しません」
「どんな座り方だい?」
「俺に寄りかかってます」
言われて初めて気づいたらしい。
翠先輩はゆっくり自分の身体を見る。
俺の腕。
自分の肩。
また俺。
「……ほんとだ」
「離れてください」
「やだ」
「なんでですか」
「楽だから」
「椅子使ってください」
「こっちの方が柔らかい」
「人をクッションにしないでください」
「ケチぃ」
語尾までふにゃふにゃしている。
向かいでは宮坂が面白そうに笑っていた。
「野々宮さん、めちゃくちゃ酔ってんじゃん」
「へへん、酔ってないとも」
「その返事するやつ大体酔ってる」
「宮坂くんは分かっていないねぇ」
翠先輩が人差し指を立てる。
その指が途中でふらついた。
「ボクは、二十歳なのだよ」
「年齢で酒強くなんねえから」
「二十歳だから飲める」
「それは合ってる」
「ほらぁ」
「飲めるのと強いのは別」
「む」
翠先輩は納得していない顔をした。
そのままジョッキへ手を伸ばす。
「翠先輩」
「一口」
「駄目です」
「一口だけぇえ」
「さっきも聞きました」
「じゃあ半口」
「単位作らないでください」
俺がジョッキを少し遠ざけると、翠先輩はそれを目で追った。
身体も追った。
「待ちたまえ」
「待ちません」
「ボクのお酒」
「もう十分飲んだでしょう」
「返したまえぇ」
翠先輩が腕を伸ばす。
俺もさらにジョッキを遠ざける。
「悠人」
「はい」
「返して」
「嫌です」
「先輩命令」
「大学では同級生でしょう?」
「動物園では先輩だぞ〜」
「ここ動物園じゃないです」
「むぅ」
翠先輩が俺を睨む。
睨んでいるつもりなのだろう。
目が半分閉じているせいで、まるで迫力がない。
「高瀬」
宮坂が笑いながら言った。
「完全に飼い主じゃん」
「誰がですか」
「野々宮さんの」
「違う」
「お酒取り上げて、水飲ませて、逃げないように見張ってんじゃん」
「放っといたらまだ飲むからだよ」
「ワン」
「鳴かないでください」
「ワンワン」
「翠先輩まで乗らない」
テーブルに笑いが起きた。
翠先輩も満足そうに笑う。
その時だった。
腕がテーブルへ当たった。
「あ」
ジョッキが倒れた。
中に残っていた酒が一気に横へ流れる。
「うわっ」
「やば」
「野々宮さん!」
俺は反射的に翠先輩を引いた。
酒がテーブルを伝い、置いてあった紙ナプキンへ染み込んでいく。
宮坂たちも慌ててグラスや皿を持ち上げた。
「すみません!」
店員を呼び、布巾をもらう。
みんなでテーブルを拭く中、翠先輩だけが自分の手を見つめていた。
「……倒れた」
「倒しましたね」
「ジョッキが」
「翠先輩がです」
「ボクが?」
「はい」
「そうかぁ」
理解するまで少し時間がかかった。
さすがに俺も笑えなくなる。
「もう本当に終わりです」
「でも」
「終わり」
「……はいぃ」
珍しく素直だった。
俺は空になったジョッキを店員へ渡し、代わりに水を翠先輩の前へ置いた。
「これ飲んでください」
「ん」
翠先輩はグラスを持った。
一口飲む。
二口。
そこまではよかった。
そのあと、グラスを置いたまま動かなくなった。
「翠先輩?」
「……」
「翠先輩」
「起きてるよぉ」
返事はある。
ただし顔はほとんど伏せている。
「それ寝てる人の姿勢です」
「寝てない」
「顔上げられます?」
「余裕だとも」
ゆっくり顔が上がった。
途中で止まる。
「……」
「止まりましたけど」
「ちょっと休憩」
「首の?」
「うむ」
駄目だ。
完全に駄目だ。
「宮坂」
「ん?」
「そろそろ帰した方がいい」
「だな」
さすがに宮坂も同意した。
他の三人も、翠先輩の様子を見て頷く。
飲み会そのものも、そろそろお開きにしていい時間だった。
会計をどうするか。
誰がどの方向へ帰るか。
そんな話になり始める。
「野々宮さん、大丈夫?」
声を掛けたのは、今日一緒に飲んでいた男の一人だった。
名前は確か坂口。
同じ獣医学科ではあるが、俺はほとんど話したことがない。
「だいじょーぶ」
翠先輩が顔を上げる。
全然大丈夫には見えない。
「立てる?」
「立てるとも」
翠先輩がテーブルへ手をつき、腰を上げた。
一秒。
二秒。
「わ」
身体が横へ傾く。
俺が反対側から腕を取るより先に、近くにいた坂口が肩を支えた。
「危な」
「……ありがとう」
「やっぱ相当酔ってるじゃん」
「ちょっとだけだよぉ」
「ちょっとじゃないって」
坂口が笑う。
翠先輩もつられて笑った。
そのまま、肩に置かれた手を気にする様子もない。
判断できていない。
たぶん今なら、誰に支えられているかもろくに考えていない。
「野々宮さん、家どっち?」
「んー……」
「駅の向こう?」
「たぶん」
「たぶんって」
坂口がまた笑う。
「俺、あっち方面だから送るよ」
「ほんとぉ?」
「うん。こんなんで一人じゃ帰れないでしょ」
「じゃあ、おねがいしようかなぁ」
その言葉に、宮坂が口笛でも吹きそうな顔をした。
「お?」
俺を見る。
「これ、お持ち帰りってやつ?」
「宮坂」
「冗談だって」
宮坂は笑っていた。
俺は笑わなかった。
坂口が翠先輩の鞄を持つ。
「じゃ、俺ら先出るわ」
「待って」
自分でも驚くくらい、声が低くなった。
坂口が振り返る。
「何?」
「翠先輩」
「んー?」
俺は翠先輩を見る。
「俺、分かります?」
「……?」
一瞬だけ、翠先輩の目が泳いだ。
それから俺の顔を見つける。
「悠人」
「はい」
「悠人だぁ」
「この人は?」
坂口を見る。
翠先輩も俺につられて顔を向けた。
「……」
少し考える。
「だれだっけ」
空気が変わった。
宮坂の笑いも止まった。
「野々宮さん、坂口だって」
「ああ……さかぐちくん」
「今言われて分かっただけだろ」
俺は立ち上がった。
「俺が送ります」
「え?」
坂口が眉を寄せる。
「いや、俺帰る方向同じだし」
「翠先輩の家知ってるの?」
「知らないけど、本人に聞けばいいだろ」
「今まともに答えられないだろ」
「でも高瀬だって知らないんじゃないの?」
「知らない」
「なら同じじゃん」
「同じじゃない」
坂口の手が、まだ翠先輩の肩にある。
俺はそこを見る。
「その人、今誰と帰るかまともに判断できてないから」
「いや、本人がお願いするって言ったじゃん」
「酔って俺のことしかまともに認識できてない人の返事を、本人の判断として扱うの?」
坂口が黙った。
店内は相変わらず騒がしい。
隣の席では誰かが笑っている。
厨房から皿の重なる音も聞こえる。
なのに、このテーブルだけ少し静かだった。
「高瀬」
宮坂が言った。
さっきまでの調子とは違う。
「お前が送れ」
俺は宮坂を見る。
「そのつもり」
宮坂は翠先輩を見た。
「これ、普通に任せたら駄目なやつだわ」
坂口にも向き直る。
「悪いけど、野々宮さん高瀬とは前から知り合いだし。高瀬に任せようぜ」
「……別に俺、変なことするつもりじゃないけど」
「だったらなおさらいいだろ」
宮坂の言い方は軽い。
でも笑ってはいなかった。
「高瀬が送るって言ってんだから」
数秒だけ間があった。
やがて坂口は翠先輩の肩から手を離した。
「分かったよ」
鞄を俺へ渡す。
「じゃ、よろしく」
「うん」
翠先輩の身体が、支えを失ってぐらりと揺れた。
俺はすぐ肩を抱く。
「翠先輩」
「んぅ」
「立てます?」
「立ってる」
「俺が支えてます」
「じゃあ立ててる」
「そういうことにしときます」
宮坂が財布を取り出しながら、俺たちを見た。
「高瀬」
「何?」
「会計こっちやっとくから、先行っていいぞ」
「あとで払う」
「明日でいい」
「分かった」
「あと」
宮坂が少しだけ口元を緩める。
「お持ち帰り〜、とか言って悪かった」
「別に」
「いや」
宮坂は翠先輩を見る。
ほとんど俺に体重を預け、眠そうに目を閉じている。
「思ったよりマジだったわ」
「だから言っただろ」
「言ってねえよ」
「顔見れば分かるだろ」
「お前が言う?」
「何が」
「いや、なんでもない」
宮坂は笑った。
「ちゃんと送れよ」
「そのつもり」
「変なことすんなよな」
「お前さっきまでお持ち帰り〜とか言ってただろ」
「それとこれは別」
「勝手だな」
「大学生男子なんてそんなもんだよ」
「一括りにすんな」
「お前も大学生男子だろ」
「十九歳のな」
「そこまだ引っ張る?」
少しだけ、いつもの空気が戻った。
俺は翠先輩の鞄を肩へ掛ける。
「帰りますよ」
「んー」
「歩けます?」
「へ、余裕」
一歩。
ふらつく。
「余裕?」
「床が動いた」
「動いてません」
「この店、危ないねぇ」
「危ないのは翠先輩です」
仕方なく腕を肩へ回させる。
翠先輩は抵抗せず、俺へ身体を預けた。
店を出る。
階段を上がる間だけでも二度足を止めた。
地上へ出ると、夜の空気が思ったより冷たかった。
店内に染みついていた焼き物と酒の匂いが離れ、代わりに車の排気と秋に近づき始めた風の匂いがする。
駅前はまだ明るい。
人も多い。
時計を見る。
二十二時十九分。
「翠先輩」
「んー」
「家どこです?」
「家?」
「はい」
「あるよ」
「それは知ってます」
「えらいだろう?」
「何がですか」
「家がある」
「大体の人にあります」
「そうなのかぁ」
「駄目だこれ」
俺は息を吐いた。
「最寄り駅は?」
「……」
「翠先輩」
「考えてる」
「寝てません?」
「考えてるよぉ」
しばらくして、ようやく駅名が出てきた。
聞き覚えのある駅だった。
ここから電車で数駅。
「住所は?」
「住所ぉ?」
「マンションの名前でもいいです」
「分かる」
「教えてください」
「今?」
「今です」
「急だなあ」
「急じゃないですよ」
翠先輩が俺の肩へ額を押しつけた。
「ちょっと待って」
「何を?」
「頭の中から探す」
「自宅住所を?」
「いっぱいあるから」
「何が入ってるんですか、その頭」
「獣医学」
「じゃあ住所の容量残しといてください」
返事はない。
「翠先輩?」
「……」
「寝た?」
「起きてる」
「じゃあ顔上げてください」
「無理」
「起きてないじゃないですか」
駅へ向かってゆっくり歩く。
まともに歩かせるのは諦めた。
翠先輩の腕を肩へ回し、腰を支える。
それでも足が絡む。
「もう背負います?」
「やだ」
「なんで」
「恥ずかしい」
「まだその感覚残ってるんですね」
「ボクは乙女だからねぇ」
「ジョッキ倒した乙女ですけど」
「そりゃ、事故だとも」
「加害者が言う台詞じゃないです」
「ジョッキは無事だった」
「テーブルが被害受けました」
ふふ、と翠先輩が笑う。
その笑いも、すぐ小さくなる。
「……悠人」
「はい」
「ちゃんと来たね」
足が止まりかけた。
「何がです?」
「今日」
「来るって言ったでしょう」
「うむ」
翠先輩は俺の肩に額を預けたまま、小さく頷いた。
「ちゃんといた」
「いましたよ」
「よかった」
「何がです?」
「……」
返事がない。
「翠先輩?」
「んー」
「寝ないでくださいよ」
「寝てない」
「じゃあ住所」
「鬼だなぁ」
「今日中に帰れなくなるでしょう」
「悠人がいるから平気」
「そういう問題じゃないです」
言いながら、少し前の昼休みを思い出した。
何かあったら悠人がいる。
翠先輩はあの時、確かにそう言った。
たぶん本人は深く考えていなかった。
俺も、酔った時に水でも持ってくる程度の意味だと思っていた。
まさか本当に、まともに歩けなくなるまで飲むとは思わなかった。
「次から酒禁止ですね」
「横暴だ」
「じゃあ二杯まで」
「少ない」
「今日五杯でこうなった人に発言権ありません」
「三杯」
「二杯」
「四杯」
「増えた」
「交渉だよ」
「成立しません」
「けちぃ」
駅の明かりが近づいてくる。
俺は肩に掛けた翠先輩の鞄を直した。
今夜この人を一人で帰すという選択肢は、もうない。
家まで送る。
ちゃんと部屋へ入れる。
水くらいは飲ませる。
そこまで確認してから帰る。
それだけだ。
「翠先輩」
「ん?」
「住所、駅着くまでに思い出してくださいね」
「努力する」
「絶対ですよ」
「うむ」
返事だけは、いつも通り立派だった。
その三歩後には、また俺の肩へ全体重が乗った。
「重いです」
「女の子に言ってはいけない言葉だぞぉ」
「自分で歩いてください」
「無理」
「さっき余裕って言ったでしょう」
「昔の話だね」
「十分前です」
仕方なく、俺は翠先輩を支え直した。
結局。
あれだけ宮坂が冗談にしていた「お持ち帰り」をすることになったのは、俺だった。




