翠先輩は酒を飲む
土曜の午後七時。
待ち合わせ場所に指定された駅前は、昼間の大学とはまるで違う人の流れになっていた。
改札から吐き出された人が大通りへ散っていき、駅ビルの入口では待ち合わせらしい男女がスマホを見ながら立っている。飲食店の看板には明かりが入り、居酒屋の呼び込みの声が、車の走る音や信号機の電子音に混ざっていた。
俺は駅前の時計を見上げる。
十八時五十四分。
少し早い。
宮坂から送られてきたメッセージには、駅前の交番横に集合と書いてあった。
周囲を見回すと、すぐに見つかった。
「お、高瀬」
宮坂が片手を上げる。
その隣には、大学で何度か話したことのある男女が三人いた。
男が二人。
女が一人。
全員、同じ獣医学科の二年だ。
「早いな」
「お前らもな」
「俺が十分前集合って言ったから」
「七時集合じゃないの?」
「遅刻するやつ込みで考えてる」
「幹事みたいなことしてんなあ」
「みたいじゃなくて俺が幹事」
「え、知らなかった」
「お前、何だと思って来たんだよ」
「飲み会」
「間違ってないのが腹立つな」
宮坂が呆れたところで、背後から聞き慣れた声がした。
「悠人」
振り返る。
翠先輩が立っていた。
動物園でも大学でも見ない格好だった。
淡い色のブラウスに、膝より少し長いスカート。その上から薄手のカーディガンを羽織っている。明るい茶色の髪も今日は下ろしたままで、風に吹かれた毛先を片手で押さえていた。
特別着飾っているわけではない。
それでも夜の駅前に立っていると、大学で見るより少しだけ大人びて見えた。
「こんばんは」
「うむ。こんばんは」
翠先輩は俺の前まで来ると、なぜか満足そうに頷いた。
「ちゃんと来たね」
「来るって何回言わせるんですか」
「確認は大切だろう?」
「昨日もメッセージ来ましたよね」
「ふふん、最終確認だよ」
「『明日ちゃんと来るんだぞ』ってやつですか」
「うむ」
「そのあと今朝も来ましたよ」
「念には念を入れた」
「入れすぎです」
翠先輩が楽しそうに笑う。
「野々宮さん」
宮坂がこちらへやって来た。
「こんばんは」
「こんばんは、宮坂くん」
「なんか雰囲気違うね」
「そうかい?」
「大学で見る時より」
翠先輩が自分の服を見下ろす。
「今日は動物園でも大学でもないからね。ボクだって多少は服を選ぶとも」
「似合ってる」
「ありがとう」
さらりと返す。
宮坂が一瞬だけ俺を見た。
何だよ。
「全員揃った?」
「あと一人」
宮坂がスマホを見る。
「もう着くって」
ほどなくして最後の一人も合流し、六人で店へ向かった。
駅から歩いて五分ほど。
大通りから一本入った場所にある居酒屋だった。
地下へ続く階段を降り、扉を開ける。
途端に、外とは違う熱気が押し寄せてきた。
焼き物の匂い。
揚げ物の油。
グラスの触れ合う音。
奥の席から上がる笑い声。
土曜の夜だけあって店内はほとんど埋まっており、店員が狭い通路を忙しそうに行き来している。
「大学生だあ」
隣で翠先輩が呟いた。
「俺たち大学生ですよ」
「そういう意味ではない」
「じゃあどういう意味です?」
「こういうのだよ。土曜の夜に友人たちと集まって居酒屋へ入る」
「大学生ですね」
「だからそう言っているじゃないかぁ」
「俺もそう言ってます」
「キミはさっきから面倒だなあ」
「翠先輩に言われたくないです」
案内されたのは、店の奥にある半個室だった。
掘りごたつ式の長いテーブルを囲んで座る。
俺が奥へ詰めると、翠先輩が当然のようにその隣へ入った。
向かいに宮坂。
残りの三人も適当に腰を下ろす。
宮坂がメニューを開いた。
「とりあえず飲み物頼もうぜ」
「ビール」
「俺も」
「私、梅酒」
それぞれ注文が決まっていく。
翠先輩だけがメニューを両手で持ったまま固まっていた。
「翠先輩」
「待ちたまえ」
「まだ何も言ってません」
「どうせ迷っているのかと聞くつもりだろう?」
「よく分かりましたね」
「まあ〜、キミとの付き合いも長いからね」
「で、迷ってるんですか」
「うむ」
結局迷っている。
翠先輩は真剣な顔で酒のページを眺めていた。
「種類が多い」
「飲みやすいやつにしたら?」
向かいから宮坂が言う。
「飲みやすい?」
「甘いやつとか。カシオレとかファジーネーブルとか」
「なるほど」
翠先輩の指がメニューを滑っていく。
「では、このカシスオレンジというものにしよう」
「初手カシオレか」
「何か問題が?」
「いや、いいと思う」
「悠人は?」
「俺はウーロン茶です」
翠先輩の口元が上がった。
「ウーロン茶」
「何ですか」
「いやぁ、十九歳だなと思ってね」
「喧嘩売ってます?」
「ボクはカシスオレンジ」
「だから何ですか」
「へへ、二十歳だからね」
「昨日から何回それ言うんですか」
「二十歳である限り何度でも言える」
「来年使えなくなりますよ」
「その時は二十一歳を自慢する」
「何がそんなに偉いんだか」
宮坂が笑った。
「宮坂くん、キミは分かっていないね。悠人より年上という事実が重要なのだよ」
「数か月でしょう」
「数か月でも年上は年上だとも」
「はいはい」
「扱いが雑だぞ、少年」
「俺も二十歳だけど」
「……」
翠先輩が止まる。
宮坂が笑う。
「使えねえじゃん、そのマウント」
「悠人にしか使わないから問題ない」
「俺限定なんですか」
「光栄だろう?」
「いーや、全然」
注文を済ませると、ほどなくして飲み物が運ばれてきた。
ビールのジョッキ。
梅酒。
サワー。
俺のウーロン茶。
そして翠先輩の前に、赤紫色のカシスオレンジが置かれる。
翠先輩がじっとグラスを見る。
「初めて見るものみたいな顔してますね」
「居酒屋で頼んだのは初めてだからね」
「本当にほぼ飲んだことないんですね」
「何度も言っているだろう?」
宮坂がジョッキを持ち上げた。
「じゃ、とりあえず乾杯するか」
全員がグラスを手に取る。
「野々宮さん歓迎会も兼ねて」
「いつからそうなったんだい?」
「今」
「急だね」
「まあ大学で一緒に飯食う仲間が増えたってことで」
翠先輩が少しだけ目を丸くする。
それから、小さく笑った。
「では、ありがたく歓迎されよう」
「乾杯」
「「乾杯!」」
六つのグラスがテーブルの中央で触れ合う。
翠先輩は一拍遅れて自分のグラスを合わせた。
「か、乾杯」
小さな音がした。
俺はウーロン茶を飲む。
隣では翠先輩がカシスオレンジを慎重に口へ運んでいた。
一口。
グラスを離す。
「……」
「どうです?」
「おいしい」
「それはよかったですね」
「ジュースみたいだ」
「それ危ないやつですよ」
「何がだい?」
「飲みやすいからって早く飲まないでくださいね」
「そりゃ分かっているとも」
昨日も聞いた。
嫌な予感しかしない。
とはいえ、その時点では特に問題もなかった。
料理が運ばれてくる。
枝豆。
唐揚げ。
だし巻き卵。
焼き鳥。
ポテト。
六人で適当に取り分けながら、会話も自然と始まった。
最初は大学の話だった。
来週の実習。
提出期限の迫っているレポート。
教授の口癖。
試験範囲が広すぎるという愚痴。
同じ学科にいれば、話題には困らない。
翠先輩も最初こそ聞いている時間の方が長かったが、十分もすると普通に会話へ混ざるようになった。
「野々宮さん、あの課題もう終わった?」
「昨日終わらせたよ」
「早っ」
「提出期限があるものを残しておくと落ち着かないからね」
俺は隣を見る。
「意外ですね」
「何がだい?」
「大学の課題は早いんですね」
「失礼だなあ。ボクはやるべきことはちゃんとやるとも」
「洗濯物は?」
「それは明日でも困らない」
「部屋の掃除」
「汚れてからでいい」
「食事」
「お腹が空いてから考える」
「やっぱり駄目じゃないですか」
「全部期限がないだろう?」
「ありますよ、人間には」
「細かいねぇ」
向かいで宮坂が笑っている。
「野々宮さん、思ってたよりだいぶ面白いな」
「それは褒めているのかい?」
「褒めてる」
「それなら受け取っておこう」
翠先輩はそう言って、またカシスオレンジを飲んだ。
さっきより一口が大きい。
「翠先輩」
「なんだい?」
「水も飲んでくださいよ」
「まだ一杯目だよ?」
「だから今のうちに」
「ほーんと悠人は心配性だなあ」
「初めてなんでしょう」
「ほぼ、だよ。まったくないわけではない」
「どれくらい?」
「家で父のビールを一口」
「それ飲酒経験に入れます?」
「成人してからだぞ」
「そういう問題じゃないです」
翠先輩は「厳しいね」と笑いながら、俺が頼んだ水を一口飲んだ。
その後も時間はゆっくり流れていった。
店内の騒がしさにも慣れ、テーブルの上には空いた皿が増えていく。
話題も講義から高校時代へ移り、地元の話になり、誰が一番遠くから大学へ来ているかというどうでもいい競争になった。
翠先輩はよく笑っていた。
大学で一人ベンチに座っていた時とは違う。
動物園でスタッフと話している時とも少し違う。
誰かの話に肩を揺らし、自分から質問を返し、時々俺の袖を軽く引いて「今のはどういう意味だい?」と聞いてくる。
酒のせいなのか。
単純に楽しいのか。
たぶん両方だった。
「野々宮さん、次何飲む?」
宮坂がメニューを差し出した。
いつの間にか翠先輩のグラスは空になっていた。
「もう空いたんですか」
「一時間くらい経ってるよ?」
時計を見る。
確かに店へ入ってから五十分ほど経っていた。
それなら極端に早いわけでもない。
「次は違うものがいいな」
「これとか飲みやすいよ」
宮坂がメニューを指す。
「桃?」
「ピーチサワー」
「ほう」
「宮坂」
「何?」
「変に強いの勧めんなよ」
「これそんな強くないって」
「ならいいけど」
「保護者かよ」
「違う」
「悠人は昔からこうなのだよ」
翠先輩が割り込む。
「ボクが少し無茶をすると、すぐ横から口を出してくる」
「翠先輩が自分に雑だからでしょう」
「ボクはちゃんと自分を大切にしているとも」
「昨日の夕飯は?」
「……」
「何食べました?」
「プリン」
テーブルが静かになった。
宮坂が翠先輩を見る。
「夕飯?」
「プリン」
「だけ?」
「大きいやつだったよ」
「サイズの問題じゃないです」
「ほら」
翠先輩が俺を指差す。
「こうなる」
「そりゃなるだろ」
宮坂まで俺の側についた。
「二対一とは卑怯じゃないか」
「多数決です」
「食生活を多数決で決めるな」
「じゃあちゃんと食べてください」
「今日は唐揚げを食べている」
「毎日食べてください」
「毎日唐揚げ?」
「そういう意味じゃないです」
翠先輩が声を上げて笑った。
その笑い方が、いつもより少しだけ無防備だった。
二杯目のピーチサワーが届く。
「おお」
翠先輩が嬉しそうにグラスを受け取る。
「色がかわいいね」
「飲み物にかわいいとかあるんだ」
「あるとも。悠人のウーロン茶はかわいくない」
「別にかわいさ求めてないです」
「茶色い」
「ウーロン茶ですからね」
「ボクのは桃色だぞ」
「よかったですね」
「羨ましいかい?」
「全然」
「十九歳はかわいそうだねぇ」
「うるさいですよ」
グラスへ口をつけた翠先輩が、楽しそうに目を細める。
「これもおいしい」
「ゆっくりですよ」
「分かっているとも」
返事だけは立派だった。
飲み会が始まって一時間半ほど経った頃には、席順も少し変わっていた。
トイレへ立ったり料理を取りやすい場所へ移ったりして、最初の配置は崩れている。
宮坂は翠先輩の斜め向かいへ移り、さっきからよく話していた。
「野々宮さんって休日何してんの?」
「動物園にいるか、寝ているね」
「それ以外は?」
「寝ている」
「趣味とか」
「昼寝」
「寝てばっかじゃん」
「睡眠は大切だよ」
「さっきレポート早めに終わらせるって言ってなかった?」
「早く終わらせれば長く寝られるだろう?」
「なるほど」
宮坂が妙に納得している。
「今度どっか遊びに行かない?」
「どこへ?」
「まだ決めてないけど。映画とか」
「映画かぁ」
翠先輩がグラスを持ったまま少し考える。
「悠人は映画を見るかい?」
「俺?」
なぜ俺に振る。
「見ますけど」
「最近何か面白いものは?」
「話変わってますよ」
「そうかい?」
宮坂が俺を見る。
俺も見る。
「何?」
「いや」
「なんだよ」
「別に?」
「今日それ流行ってんの?」
宮坂は笑って、翠先輩へ向き直った。
「じゃあさ、今度みんなで映画でも行く?」
「みんなでなら楽しそうだね」
「おう」
宮坂はそれ以上押さなかった。
翠先輩も何も気づいていないらしく、今度は隣の女子に最近見た映画を聞いている。
俺は残っていたウーロン茶を飲む。
まあ、本人たちが楽しそうならいい。
そのくらいにしか思わなかった。
やがて二杯目も半分ほど減った。
翠先輩の頬には、さっきまでなかった薄い赤みが差している。
話す声もほんの少し大きくなった。
「悠人」
「はい」
「唐揚げがない」
「食べたんでしょう」
「ボクは二個しか食べていない」
「十分じゃないですか」
「三個目を食べる予定だった」
「予定に入れてたんですか」
「重要な予定だよ」
「追加で頼みます?」
「頼む」
「じゃあ自分で店員さん呼んでください」
「悠人ぉ」
「呼びませんよ」
「そこは呼んでくれてもいいじゃないかぁ」
「ボタン目の前ですよ」
翠先輩が俺を見る。
次にテーブルの呼び出しボタンを見る。
もう一度俺を見る。
「……押してくれないのかい?」
「押しません」
「ケチ」
「自分でできるでしょう」
「できることと、やりたいことは別なのだよ」
「名言みたいに言わないでください」
翠先輩はしばらく俺を見ていたが、諦めて自分でボタンを押した。
「できた」
「偉いですね」
「もっと褒めたまえ」
「ボタン押しただけです」
「酔っている人間には大仕事だぞ」
俺は翠先輩を見る。
「酔ってるんですか?」
「ん?」
「今、自分で言ったでしょう」
翠先輩が少し考える。
それから、自分の両手を眺めた。
「……少し?」
「やっぱり」
「でも楽しいよ」
そう言って笑う。
その表情はいつもと大きく変わらない。
ただ、普段より少しだけ目元が緩く、頬が赤い。
「ならいいですけど」
「うむ。楽しい」
翠先輩はもう一度言った。
今度は俺ではなく、テーブルを囲んでいる全員を見ながら。
「飲み会というのも、悪くないものだね」
「だろ?」
宮坂が笑う。
「またやろうぜ」
「うむ」
翠先輩が頷く。
「また誘ってくれたまえ」
その言葉に、宮坂だけでなく他の三人も普通に「もちろん」と返した。
翠先輩は一瞬だけ黙った。
けれどすぐに、
「では、期待しておこう」
と、いつもの調子で笑った。
俺はそれを横で見ていた。
少し前まで、大学に友達がいないと言っていた人だ。
その翠先輩が今は、六人分の料理が散らばったテーブルの真ん中で笑っている。
たぶん今日ここへ来たこと自体は、正解だったのだと思う。
「悠人」
「なんです?」
「次はこれを飲んでみたい」
差し出されたメニューを見る。
翠先輩の指先が、別のサワーを指していた。
「まだ二杯目残ってるでしょう」
「あと少しだよ」
「それ飲んだら水挟んでください」
「えぇ」
「『えぇ』じゃないです」
「ボクは二十歳だぞ」
「それ何の免罪符にもなってませんからね」
「一杯だけ」
翠先輩は人差し指を掲げながら笑っている。
「今の飲み終わってから考えてください」
「悠人は厳しいなあ」
そう言いながらも、翠先輩は素直に水へ手を伸ばした。
まだ、そのくらいの余裕はあった。
笑って。
食べて。
話して。
時々俺に絡んで。
初めてに近い酒を、少しずつ覚えていく。
この時点では、俺もそれほど心配していなかった。
翠先輩も自分で水を飲んでいたし、受け答えもしっかりしている。
何より、楽しそうだった。
「悠人」
「はい」
「乾杯しよう!」
「今さら?」
「今したくなったのだよ」
翠先輩がピーチサワーのグラスを持ち上げる。
仕方なく俺もウーロン茶を持った。
「何に乾杯するんです?」
「そうだねぇ」
翠先輩は少し考えた。
頬を赤くしたまま、にっと笑う。
「ボクの大学生活に」
「壮大ですね」
「これくらい、いいだろう?」
「まあ」
グラスを軽く合わせる。
澄んだ音が鳴った。
「乾杯」
「乾杯」
翠先輩は満足そうに残っていた酒を一口飲む。
その向こうで、宮坂が追加の注文をしていた。
時計は、まだ九時前だった。
夜はもう少し続く。




