翠先輩は二十歳
数日後の昼休み。
講義棟を出ると、空は薄く曇っていた。
雨が降るほどではないが、日差しも弱い。風が少し冷たく、建物の間を抜けるたびに、植え込みの葉が細かく揺れている。
俺は肩に鞄を掛け直しながら、隣を歩く宮坂を見る。
「今日どこで食う?」
「食堂でいいだろ。外出るのだるい」
「珍しく意見合ったな」
「俺をなんだと思ってんだよ」
「割と外行きたがる人」
「今日は金使いたくない」
「理由が現実的だった」
俺たちは講義棟から食堂へ向かう人の流れに混ざった。
昼休みに入ったばかりで、前を歩く学生の数も多い。遠くから食堂の入口が見えるが、すでに券売機の前には列ができ始めていた。
その手前で、宮坂が急に歩調を落とした。
「ん」
「何?」
「いた」
視線の先を見る。
少し離れた中庭のベンチ脇に、翠先輩が立っていた。
片手にスマホ。
もう片方にはノート。
今日は薄い色のブラウスに細身のパンツを合わせていて、動物園で見る時よりずっと大学生らしく見える。
ただ、立っている場所は相変わらず一人だった。
スマホの画面を見て、少し考えるように首を傾げている。
「野々宮さん」
宮坂が先に声を掛けた。
翠先輩が顔を上げる。
最初に宮坂を見て、それから俺を見つけた。
「ああ、キミたちか」
「今から飯?」
「そのつもりだよ。ただ、今日は何を食べようか考えていたところなんだ」
「じゃあ一緒に行く?」
宮坂が何でもないことのように言った。
翠先輩は一度だけ目を瞬いた。
「ボクも?」
「他に野々宮さんいないだろ」
「それもそうだねっ」
翠先輩は少し考えてから、ノートを鞄へしまった。
「では、お邪魔しよう」
「どうぞどうぞ」
宮坂が妙に軽い。
俺はその横顔を見る。
「なんか機嫌いいじゃん」
「そう?」
「そう」
「気のせいだろ」
「ふーん」
別に追及するほどでもない。
三人で食堂へ向かう。
前回は俺が翠先輩を連れていったが、今日は宮坂の方から声を掛けた。
それだけの違いなのに、翠先輩の歩き方は前より少し自然だった。
食堂へ入る。
まだ昼休みの前半だからか、前回より明らかに混んでいた。
券売機の列。
料理を受け取る列。
席を探して立ち止まる学生。
ざわめきが一枚の膜みたいに天井の下へ広がっている。
「今日は迷わないんですか?」
俺が聞く。
「何がだい?」
「メニュー」
「ふふん。今日はもう決めているとも」
「へえ」
「カレーだ」
「昨日もカレー食べてませんでした?」
「昨日は昨日。今日は今日だよ、少年」
「そういうところだけ判断が早いですね」
「成長したと言ってくれたまえ」
翠先輩は迷いなくカレーのボタンを押した。
前回三分近く券売機の前で固まっていた人とは思えない。
俺と宮坂も食券を買い、空いている席を探す。
ちょうど四人席が一つ空いた。
宮坂が先に椅子へ手を掛ける。
その一瞬前に、翠先輩が俺の隣へ座った。
「よいしょ」
深い意味はなさそうだった。
単に一番近かったから座っただけだろう。
宮坂は一瞬だけその席を見て、それから何も言わず向かいへ回った。
俺も椅子を引く。
「なんで立ってんの?」
「いや、別に」
「変なやつ」
「うるさい」
料理が揃う。
宮坂がラーメン。
俺が生姜焼き。
翠先輩がカレー。
最初は講義の話だった。
午前中の教授が板書を消すのが早すぎたとか、実習の班分けが微妙だとか、その程度の話。
翠先輩も前回より自然に会話へ入っていた。
誰かが話せば顔を上げる。
面白ければ笑う。
分からない話題なら黙って聞く。
無理に中心へ入ろうとはしないが、もう一歩引いている感じもない。
大学での翠先輩は、こういう場所に慣れていなかっただけなのかもしれない。
「そういえば」
宮坂がラーメンの麺を持ち上げながら、翠先輩を見る。
「野々宮さんって彼氏いる?」
唐突だった。
俺は箸を止める。
翠先輩もスプーンを止めた。
「いないね」
あっさりだった。
「マジで?」
「なぜそんなに驚くんだい?」
「いや、普通いると思うだろ」
「そういうものかい?」
翠先輩が俺を見る。
「悠人はどう思う?」
「俺もいると思ってましたよ」
「キミまで?」
「翠先輩、普通にモテそうですし」
「ふふん」
満足そうに胸を張る。
「そうだろう、そうだろう」
「喜ぶところなんですか」
「褒められているのだから喜ぶとも」
宮坂が笑う。
「でも本当にいないんだ」
「いないよ」
「今まで付き合ったことは?」
「ないね」
「マジか」
「今日二回目だね、それ」
翠先輩は気にした様子もなくカレーを食べる。
宮坂は少しだけ姿勢を直した。
分かりやすい。
さすがに俺でも分かる。
たぶん今、こいつの中で何かしらの評価が一段上がった。
「へえ」
「何だい?」
「いや、別に」
「その『別に』は何かある顔だね」
「気のせいですよ」
「さっき悠人も同じことを言っていたよ」
「便利なんすよ、その言葉」
宮坂が笑ってごまかす。
翠先輩は少しだけ不思議そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
そのあとも会話は続いた。
好きな講義。
苦手な教授。
動物園の話。
どの動物が一番好きか。
宮坂は前回より明らかに翠先輩へ話を振る回数が多かった。
露骨というほどではない。
ただ、興味があるのは分かる。
翠先輩はそれに特別な意味を見出している様子もなく、聞かれれば普通に答えていた。
「ネコ科が好きなんだっけ?」
「好きというより、担当だからね。もちろん好きではあるけれど」
「じゃあ犬派じゃない?」
「ボクは犬だよ」
「はい?」
宮坂が止まる。
俺は味噌汁を飲む。
「気にしなくていいよ」
「悠人、説明して」
「説明しても多分分からない」
「何だそれ」
「ボクは犬だと言っているだけじゃないか」
「いや、野々宮さん人間だろ」
「細かいね」
「細かくないだろ」
宮坂が俺を見る。
「お前、これ慣れてんの?」
「慣れた」
「すげえな」
「それは褒められても嬉しくない」
翠先輩が少し笑う。
こういうやり取りになると、やっぱり前回よりさらに馴染んで見えた。
宮坂が翠先輩を狙っているとしても、今のところ本人には届いていない。
たぶん届かなくても気にしていない。
そんな軽さだった。
「そういやさ」
宮坂がラーメンの器を少し横へずらした。
「今週の土曜、何人かで飲みに行くんだけど」
「飲み会?」
翠先輩が反応する。
「そう。サークルとかじゃなくて、学科のやつ何人かで」
「大学生らしいね」
「野々宮さんも来る?」
翠先輩は少しだけ考える。
「ボクも?」
「せっかく知り合ったし」
「ふむ」
スプーンの先で皿の端を軽く叩く。
「飲み会というものには、あまり行ったことがないんだよ」
「マジ?」
「宮坂、それ今日三回目」
俺は箸を取りながら呆れた。
「だって意外なんだよ」
「ボクはそんなに意外の塊なのかい?」
「結構」
翠先輩は不満そうに眉を寄せた。
それから俺を見る。
「悠人も行くのかい?」
「俺?」
「うむ」
「行くけど」
「それならボクも行こう!」
ほとんど即答だった。
宮坂が一瞬だけ黙る。
「……高瀬いるの大事なんだ」
「知っている顔がいる方が安心だろう?」
「まあ、そうだけど」
「それに」
翠先輩が俺を見る。
「何かあったら悠人がいる」
「何かって何ですか」
「何かだよ」
「雑ですね」
「便利な言葉だろう?」
「さっき覚えました?」
「学習が早いのだよ、ボクは」
宮坂が苦笑する。
「まあ来てくれるなら何でもいいけど」
「では参加しよう」
翠先輩は小さく頷く。
どこか楽しそうだった。
大学の誰かと休日に予定を合わせる。
たぶん、それ自体が翠先輩にとっては珍しい。
だからといって、わざわざ口にするほどのことでもない。
「野々宮さん、酒飲める?」
宮坂が聞く。
「もちろん」
翠先輩が少し誇らしげに胸を張る。
「ボクは二十歳だからね」
「また始まった」
「悠人は十九歳」
「知ってますよ」
「残念だったね」
「別に飲みたいわけじゃないです」
「強がりかい?」
「本当に」
「ふふん」
翠先輩は妙に機嫌がいい。
宮坂も笑う。
「じゃあ野々宮さんは普通に飲めるな」
「うむ」
「酒強い?」
「知らない」
「え?」
「ほとんど飲んだことがないからね」
今度は俺が箸を止める。
「ちょっと待ってください」
「なんだい?」
「ほとんど飲んだことないんですか?」
「うむ」
「なのに強いかどうかも分からない?」
「だから、そう言っているじゃないかぁ」
「じゃあ気をつけた方がいいですよ」
「心配性だなあ」
「初めてに近いなら自分の限界分からないでしょう?」
「ボクは二十歳だぞ」
「年齢と酒の強さは関係ないですよ」
「法律上は飲める」
「体質の話してます」
「夢がないね」
「現実的と言ってください」
翠先輩は少し不満そうにカレーを口へ運ぶ。
宮坂は笑っていたが、俺としては普通に心配だった。
翠先輩はできない人ではない。
むしろ大抵のことはできる。
ただ、自分のことになると妙に雑になる。
その片鱗は、動物園でも何度か見てきた。
「本当に飲みすぎないでくださいね」
「分かっているとも」
「その返事、信用していいんですか」
「失礼だなあ」
「前科がありそうなので」
「ないよ」
「まだ飲んでないからでしょう」
「なるほど」
「納得しないでください」
翠先輩は肩を揺らして笑った。
食事を終える頃には、飲み会の時間と場所も決まっていた。
土曜の十九時。
駅前の居酒屋。
人数は六人ほど。
俺はソフトドリンク。
翠先輩はたぶん酒。
宮坂は明らかに少し楽しみにしている。
席を立つ。
食堂の中はまだ混んでいたが、昼休みも後半に入って、人の流れは少しずつ講義棟の方へ戻り始めていた。
「じゃあ土曜な」
宮坂が言う。
「忘れないでよ、野々宮さん」
「忘れないとも」
翠先輩はいつもより少し大きく頷いた。
「悠人」
「なんです?」
翠先輩が俺を見る。
「ねぇ、悠人」
「なんです?」
「土曜、ちゃんと来たまえよ」
「行くって言ったでしょう」
「ならいい」
「そんなに確認しなくても行きますよ」
「キミがいれば安心だからね」
「何に安心してるんですか」
「色々だとも」
そう言いながら、翠先輩は楽しそうに笑っていた。
俺は小さく息を吐く。
「本当に飲みすぎないでくださいね」
「分かっているとも」
さっきも聞いた返事だった。
たぶん、分かっていない。




