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ボクを飼ってみないか?!  作者: 御HeSummer3
第1章

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翠先輩は二十歳


 数日後の昼休み。


 講義棟を出ると、空は薄く曇っていた。


 雨が降るほどではないが、日差しも弱い。風が少し冷たく、建物の間を抜けるたびに、植え込みの葉が細かく揺れている。


 俺は肩に鞄を掛け直しながら、隣を歩く宮坂を見る。


「今日どこで食う?」

「食堂でいいだろ。外出るのだるい」

「珍しく意見合ったな」

「俺をなんだと思ってんだよ」

「割と外行きたがる人」

「今日は金使いたくない」

「理由が現実的だった」


 俺たちは講義棟から食堂へ向かう人の流れに混ざった。


 昼休みに入ったばかりで、前を歩く学生の数も多い。遠くから食堂の入口が見えるが、すでに券売機の前には列ができ始めていた。


 その手前で、宮坂が急に歩調を落とした。


「ん」

「何?」

「いた」


 視線の先を見る。


 少し離れた中庭のベンチ脇に、翠先輩が立っていた。


 片手にスマホ。


 もう片方にはノート。


 今日は薄い色のブラウスに細身のパンツを合わせていて、動物園で見る時よりずっと大学生らしく見える。


 ただ、立っている場所は相変わらず一人だった。


 スマホの画面を見て、少し考えるように首を傾げている。


「野々宮さん」


 宮坂が先に声を掛けた。


 翠先輩が顔を上げる。


 最初に宮坂を見て、それから俺を見つけた。


「ああ、キミたちか」

「今から飯?」

「そのつもりだよ。ただ、今日は何を食べようか考えていたところなんだ」

「じゃあ一緒に行く?」


 宮坂が何でもないことのように言った。


 翠先輩は一度だけ目を瞬いた。


「ボクも?」

「他に野々宮さんいないだろ」

「それもそうだねっ」


 翠先輩は少し考えてから、ノートを鞄へしまった。


「では、お邪魔しよう」

「どうぞどうぞ」


 宮坂が妙に軽い。


 俺はその横顔を見る。


「なんか機嫌いいじゃん」

「そう?」

「そう」

「気のせいだろ」

「ふーん」


 別に追及するほどでもない。


 三人で食堂へ向かう。


 前回は俺が翠先輩を連れていったが、今日は宮坂の方から声を掛けた。


 それだけの違いなのに、翠先輩の歩き方は前より少し自然だった。


 食堂へ入る。


 まだ昼休みの前半だからか、前回より明らかに混んでいた。


 券売機の列。


 料理を受け取る列。


 席を探して立ち止まる学生。


 ざわめきが一枚の膜みたいに天井の下へ広がっている。


「今日は迷わないんですか?」


 俺が聞く。


「何がだい?」

「メニュー」

「ふふん。今日はもう決めているとも」

「へえ」

「カレーだ」

「昨日もカレー食べてませんでした?」

「昨日は昨日。今日は今日だよ、少年」

「そういうところだけ判断が早いですね」

「成長したと言ってくれたまえ」


 翠先輩は迷いなくカレーのボタンを押した。


 前回三分近く券売機の前で固まっていた人とは思えない。


 俺と宮坂も食券を買い、空いている席を探す。


 ちょうど四人席が一つ空いた。


 宮坂が先に椅子へ手を掛ける。


 その一瞬前に、翠先輩が俺の隣へ座った。


「よいしょ」


 深い意味はなさそうだった。


 単に一番近かったから座っただけだろう。


 宮坂は一瞬だけその席を見て、それから何も言わず向かいへ回った。


 俺も椅子を引く。


「なんで立ってんの?」

「いや、別に」

「変なやつ」

「うるさい」


 料理が揃う。


 宮坂がラーメン。


 俺が生姜焼き。


 翠先輩がカレー。


 最初は講義の話だった。


 午前中の教授が板書を消すのが早すぎたとか、実習の班分けが微妙だとか、その程度の話。


 翠先輩も前回より自然に会話へ入っていた。


 誰かが話せば顔を上げる。


 面白ければ笑う。


 分からない話題なら黙って聞く。


 無理に中心へ入ろうとはしないが、もう一歩引いている感じもない。


 大学での翠先輩は、こういう場所に慣れていなかっただけなのかもしれない。


「そういえば」


 宮坂がラーメンの麺を持ち上げながら、翠先輩を見る。


「野々宮さんって彼氏いる?」


 唐突だった。


 俺は箸を止める。


 翠先輩もスプーンを止めた。


「いないね」


 あっさりだった。


「マジで?」

「なぜそんなに驚くんだい?」

「いや、普通いると思うだろ」

「そういうものかい?」


 翠先輩が俺を見る。


「悠人はどう思う?」

「俺もいると思ってましたよ」

「キミまで?」

「翠先輩、普通にモテそうですし」

「ふふん」


 満足そうに胸を張る。


「そうだろう、そうだろう」

「喜ぶところなんですか」

「褒められているのだから喜ぶとも」


 宮坂が笑う。


「でも本当にいないんだ」

「いないよ」

「今まで付き合ったことは?」

「ないね」

「マジか」

「今日二回目だね、それ」


 翠先輩は気にした様子もなくカレーを食べる。


 宮坂は少しだけ姿勢を直した。


 分かりやすい。


 さすがに俺でも分かる。


 たぶん今、こいつの中で何かしらの評価が一段上がった。


「へえ」

「何だい?」

「いや、別に」

「その『別に』は何かある顔だね」

「気のせいですよ」

「さっき悠人も同じことを言っていたよ」

「便利なんすよ、その言葉」


 宮坂が笑ってごまかす。


 翠先輩は少しだけ不思議そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。


 そのあとも会話は続いた。


 好きな講義。


 苦手な教授。


 動物園の話。


 どの動物が一番好きか。


 宮坂は前回より明らかに翠先輩へ話を振る回数が多かった。


 露骨というほどではない。


 ただ、興味があるのは分かる。


 翠先輩はそれに特別な意味を見出している様子もなく、聞かれれば普通に答えていた。


「ネコ科が好きなんだっけ?」

「好きというより、担当だからね。もちろん好きではあるけれど」

「じゃあ犬派じゃない?」

「ボクは犬だよ」

「はい?」


 宮坂が止まる。


 俺は味噌汁を飲む。


「気にしなくていいよ」

「悠人、説明して」

「説明しても多分分からない」

「何だそれ」

「ボクは犬だと言っているだけじゃないか」

「いや、野々宮さん人間だろ」

「細かいね」

「細かくないだろ」


 宮坂が俺を見る。


「お前、これ慣れてんの?」

「慣れた」

「すげえな」

「それは褒められても嬉しくない」


 翠先輩が少し笑う。


 こういうやり取りになると、やっぱり前回よりさらに馴染んで見えた。


 宮坂が翠先輩を狙っているとしても、今のところ本人には届いていない。


 たぶん届かなくても気にしていない。


 そんな軽さだった。


「そういやさ」


 宮坂がラーメンの器を少し横へずらした。


「今週の土曜、何人かで飲みに行くんだけど」

「飲み会?」


 翠先輩が反応する。


「そう。サークルとかじゃなくて、学科のやつ何人かで」

「大学生らしいね」

「野々宮さんも来る?」


 翠先輩は少しだけ考える。


「ボクも?」

「せっかく知り合ったし」

「ふむ」


 スプーンの先で皿の端を軽く叩く。


「飲み会というものには、あまり行ったことがないんだよ」

「マジ?」

「宮坂、それ今日三回目」


 俺は箸を取りながら呆れた。

 

「だって意外なんだよ」

「ボクはそんなに意外の塊なのかい?」

「結構」


 翠先輩は不満そうに眉を寄せた。


 それから俺を見る。


「悠人も行くのかい?」

「俺?」

「うむ」

「行くけど」

「それならボクも行こう!」


 ほとんど即答だった。


 宮坂が一瞬だけ黙る。


「……高瀬いるの大事なんだ」

「知っている顔がいる方が安心だろう?」

「まあ、そうだけど」

「それに」


 翠先輩が俺を見る。


「何かあったら悠人がいる」

「何かって何ですか」

「何かだよ」

「雑ですね」

「便利な言葉だろう?」

「さっき覚えました?」

「学習が早いのだよ、ボクは」


 宮坂が苦笑する。


「まあ来てくれるなら何でもいいけど」

「では参加しよう」


 翠先輩は小さく頷く。


 どこか楽しそうだった。


 大学の誰かと休日に予定を合わせる。


 たぶん、それ自体が翠先輩にとっては珍しい。


 だからといって、わざわざ口にするほどのことでもない。


「野々宮さん、酒飲める?」


 宮坂が聞く。


「もちろん」


 翠先輩が少し誇らしげに胸を張る。


「ボクは二十歳だからね」

「また始まった」

「悠人は十九歳」

「知ってますよ」

「残念だったね」

「別に飲みたいわけじゃないです」

「強がりかい?」

「本当に」

「ふふん」


 翠先輩は妙に機嫌がいい。


 宮坂も笑う。


「じゃあ野々宮さんは普通に飲めるな」

「うむ」

「酒強い?」

「知らない」

「え?」

「ほとんど飲んだことがないからね」


 今度は俺が箸を止める。


「ちょっと待ってください」

「なんだい?」

「ほとんど飲んだことないんですか?」

「うむ」

「なのに強いかどうかも分からない?」

「だから、そう言っているじゃないかぁ」

「じゃあ気をつけた方がいいですよ」

「心配性だなあ」

「初めてに近いなら自分の限界分からないでしょう?」

「ボクは二十歳だぞ」

「年齢と酒の強さは関係ないですよ」

「法律上は飲める」

「体質の話してます」

「夢がないね」

「現実的と言ってください」


 翠先輩は少し不満そうにカレーを口へ運ぶ。


 宮坂は笑っていたが、俺としては普通に心配だった。


 翠先輩はできない人ではない。


 むしろ大抵のことはできる。


 ただ、自分のことになると妙に雑になる。


 その片鱗は、動物園でも何度か見てきた。


「本当に飲みすぎないでくださいね」

「分かっているとも」

「その返事、信用していいんですか」

「失礼だなあ」

「前科がありそうなので」

「ないよ」

「まだ飲んでないからでしょう」

「なるほど」

「納得しないでください」


 翠先輩は肩を揺らして笑った。


 食事を終える頃には、飲み会の時間と場所も決まっていた。


 土曜の十九時。


 駅前の居酒屋。


 人数は六人ほど。


 俺はソフトドリンク。


 翠先輩はたぶん酒。


 宮坂は明らかに少し楽しみにしている。


 席を立つ。


 食堂の中はまだ混んでいたが、昼休みも後半に入って、人の流れは少しずつ講義棟の方へ戻り始めていた。


「じゃあ土曜な」


 宮坂が言う。


「忘れないでよ、野々宮さん」

「忘れないとも」


 翠先輩はいつもより少し大きく頷いた。

 

「悠人」

「なんです?」


 翠先輩が俺を見る。


「ねぇ、悠人」

「なんです?」

「土曜、ちゃんと来たまえよ」

「行くって言ったでしょう」

「ならいい」

「そんなに確認しなくても行きますよ」

「キミがいれば安心だからね」

「何に安心してるんですか」

「色々だとも」


 そう言いながら、翠先輩は楽しそうに笑っていた。


 俺は小さく息を吐く。


「本当に飲みすぎないでくださいね」

「分かっているとも」


 さっきも聞いた返事だった。


 たぶん、分かっていない。

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