翠先輩は目立つらしい
三限後の食堂は、まだ昼の熱気を引きずっていた。
入口近くの券売機には数人が並び、受け取り口では番号を呼ぶ声が飛び交っている。食器のぶつかる音、椅子を引く音、笑い声。窓際の席には開いたノートやタブレットまで広げられていて、食事を終えてもそのまま課題を続ける学生がちらほらいた。
俺は人の流れを避けながら、少しだけ歩調を緩める。
隣を歩く翠先輩が、券売機の上に並んだ写真付きのメニューをじっと見上げていたからだ。
「決まりました?」
「まだだね」
「もう三分くらい見てますよ」
「選択肢が多いんだよ」
「学食ですよ?」
「学食だからこそ困る。安くて種類が多いと、何を基準に選べばいいのか分からないじゃないかぁ」
「食べたいものでいいでしょう」
「それが決まっていない!」
「じゃあ日替わり」
「雑だなあ」
そう言いながらも、翠先輩は素直に日替わり定食のボタンを押した。
食券を取り出す横顔を見ていると、後ろを通り過ぎた男子学生が一度こちらを振り返った。
たまたまかと思ったが、その少し後にも、別の学生が翠先輩の方へ目を向ける。
本人は気づいていない。
というより、気にしていないようだった。
「翠先輩」
「なんだい?」
「大学でなんかやらかしました?」
「随分な聞き方をするね」
「さっきから見られてますけど」
翠先輩が少しだけ周囲へ目を向ける。
ちょうどこちらを見ていた男子学生と視線が合い、向こうが慌てて顔を逸らした。
「……本当だ」
「心当たりは?」
「ないとも」
「じゃあ気のせいですかね」
「キミが見られているのでは?」
「俺そんなに目立ちませんよ」
「ふふん、ボクも同じだよ」
そのまま何事もなかったように受け取り口へ向かう。
翠先輩が定食を受け取り、俺も少し遅れて丼を受け取った。
トレーを持って食堂の奥へ進むと、窓際の四人席から手が上がる。
「悠人、こっち」
声を掛けてきたのは、宮坂直紀だった。
同じ獣医学科の二年。
一年の頃から講義が重なることが多く、空きコマや昼食もよく一緒になる。
その向かいには、同じ学科の男子がもう一人座っていた。
「悪い、待った?」
「別に。席だけ取っといた」
「助かるよ」
そう言って近づく。
宮坂は最初、俺だけを見ていた。
それが一歩近づいたところで、俺の後ろにいる翠先輩へ視線を移す。
箸が止まった。
一度、俺を見る。
もう一度、翠先輩を見る。
「……は?」
「何?」
「いや、ちょっと待て」
「何を」
「なんでお前、飯食いに来るだけで美人引っ掛けてきてんの?」
俺は立ったまま数秒黙った。
翠先輩も隣で足を止める。
「引っ掛けてない」
「ボクも引っ掛けられた覚えはないね」
「……喋った」
「そりゃ、人間だからなっ」
翠先輩が少しだけ眉を上げる。
宮坂は困ったように額へ手を当てて、俺に向かって喋りだした。
「いや、そういう意味じゃなくて」
「じゃあ何?」
「なんで野々宮さん連れてんの?」
今度は俺が止まった。
「……知ってるの?」
「逆にお前がなんで知らないんだよ」
宮坂の声が少し大きくなる。
近くの席から何人かがこちらを見た。
俺は空いている椅子へトレーを置きながら、翠先輩を見る。
本人も少しだけ首を傾げていた。
「翠先輩、有名なんですか?」
「ボクに聞かれても困るね」
「有名っていうか、目立つだろ」
宮坂が当然のように言う。
向かいの男子も何度か頷いた。
「獣医学科二年の野々宮翠さん」
「フルネームで言われると妙に怖い」
「お前が知らなすぎるんだよ」
俺は椅子を引いて座る。
翠先輩も一瞬だけ席の位置を見てから、俺の隣へ腰を下ろした。
動物園でなら何も考えずにするような動作なのに、知らない相手の前だからか、少しだけ姿勢が整っている。
「そんなに有名?」
「そりゃ目立つだろ」
「何が?」
「見た目」
宮坂が翠先輩へ視線を向ける。
「だって普通に美人だし」
翠先輩は一度だけ目を瞬いた。
それから確認するように俺を見る。
「へへ〜、ボクは美人らしいよ、悠人」
「知ってますよ」
「ずいぶんあっさり言うね」
「見れば分かるでしょう」
「ふむ。キミはなかなか見る目があるじゃないか」
「急に機嫌良くなりましたね」
「褒められて悪い気はしないとも」
翠先輩は満足そうに頷き、味噌汁へ口をつけた。
宮坂が俺たちを交互に見る。
「なんか思ってた感じと違うな」
「何を期待していたんだね?」
「いや、野々宮さんってもっと近寄りがたい人なのかと」
「失礼だなあ」
「褒めてる部分もありますよ」
「どこに?」
翠先輩が箸で焼き魚をほぐしながら聞き返す。
宮坂は少し考えた。
「美人で、頭も良くて、いつも一人でいるから」
「さては、最後だけ褒めていないな」
「でも本当にいつも一人ですよね」
向かいの男子が口を挟む。
「講義終わったらすぐ帰るし、昼も一人だし。誰かと一緒に歩いてるの見たことないです」
俺は隣を見る。
翠先輩は魚の骨を丁寧に避けながら、少しだけ目を細めた。
「昨日までのボクの生活を勝手に実況されている気分だね」
「あ、いや監視してたわけじゃないですよ」
宮坂は慌てて訂正した。
「知ってるくらい目立ってるってことです」
「なるほど」
翠先輩は少し考える。
「だから友達ができなかったのか」
「そこに繋げます?」
「皆が遠慮していたのだろう?」
「遠慮っていうか」
宮坂が苦笑する。
「話しかけづらいんですよ」
「なぜ?」
「一人でいても全然困ってなさそうだから」
「困ってはいないよ」
「ほら」
「それと友達が欲しいことは別だろう?」
翠先輩が不思議そうに言う。
宮坂は一瞬だけ黙った。
「そこは本人から言わないと分からないですよ」
「そうなのかい?」
「そうです」
翠先輩が少し難しい顔をする。
言われてみれば、大学での翠先輩はそういう風に見えていたのかもしれない。
動物園では仕事の話をするし、休憩が重なればどうでもいい話もする。
俺が高校生の頃から知っている分、会話のきっかけを探す必要もない。
けれど大学で知らない相手から話しかけられた時、翠先輩がどんな反応をしていたのかは知らなかった。
「でも」
宮坂が俺を見る。
「今、めちゃくちゃ喋るじゃん」
「そう?」
「お前にはな」
言われて、俺は翠先輩を見る。
翠先輩もこちらを見る。
二人で少し黙った。
「……そうなんですか?」
「ボクに聞かれてもね」
「さっきから高瀬とばっかり喋ってますよ」
向かいの男子が笑う。
翠先輩は少し首を傾げた。
「キミたちとは今日初めて話すのだから当然ではないか?」
「まあ、それはそうだけど」
「悠人とは前から知っているしね」
「前から?」
宮坂が箸を止める。
「動物園で一緒に働いてるよ」
俺が答える。
「は?」
「中央常磐動物園」
「お前が動物園でバイトしてるのは知ってるけど」
「翠先輩もそこで」
「先輩?」
「ああ」
「でも野々宮さん二年だろ?」
「大学では同級生」
「で、ボクは二十歳」
翠先輩が少しだけ得意げに付け足す。
「悠人は十九歳だ」
「だから何なんですか」
「大事な情報だとも」
「数か月の差でしょう」
「その数か月が大きいのだよ、少年」
「またそれ言うんですか」
宮坂が俺たちを交互に見る。
それから、肩を落とした。
「情報が渋滞してんだけど」
「俺も今日知ったんだよ。同じ大学だったの」
「は?」
「一年間、お互い気づいてなかった」
「どういうことだよ」
「そのままの意味」
宮坂はしばらく黙っていたが、やがて考えるのを諦めたように箸を持ち直した。
「まあいいや」
「いいんだ」
「追及してもたぶん意味ないし」
「賢明だね」
翠先輩が満足そうに頷く。
最初より少しだけ肩の力が抜けていた。
周囲のざわめきに混ざるように、会話も少しずつ普通になっていく。
宮坂が講義の話を振れば、翠先輩が答える。
向かいの男子が課題の愚痴をこぼせば、「それはボクも思った」と頷く。
話題そのものは大したものではない。
提出期限が早いとか、実習着を忘れた学生がいたとか、食堂のカレーが先週より辛かったとか。
大学にいるなら、誰でもするような話だった。
翠先輩は最初こそ一拍置いてから答えていたが、十分もするとその間もなくなった。
箸を止めて笑う。
宮坂の話に首を傾げる。
俺が余計なことを言えば、すぐこちらへ顔を向ける。
見慣れた翠先輩だった。
ただ、宮坂たちはそれを少し珍しそうに見ている。
「野々宮さんって」
「なんだい?」
「思ってたより普通なんですね」
「失礼だなあ」
「褒めてます」
「それは絶対に褒めていないだろう?」
翠先輩が少し笑う。
「少なくとも俺も最初はもっと怖い人かと思ってましたよ」
「キミは会った初日から普通に話しかけてきただろう」
「仕事だったので」
「なら皆も仕事だと思えばいいのでは?」
「友達作るのに業務扱いはやめた方がいいですよ」
「難しいね、人付き合いというものは」
「そんなに難しく考えなくていいと思いますけど」
俺が言うと、翠先輩は少しだけ不満そうにこちらを見る。
「キミには友達がいるから言えるのだよ」
「今日一人増えたじゃないですか」
「誰が?」
俺は宮坂を見る。
宮坂も自分を指差す。
「俺?」
「嫌なら別に」
「いや、嫌じゃないけど」
「ほら」
翠先輩は数秒だけ宮坂を見る。
宮坂も少し気まずそうに笑った。
「まあ、また見かけたら普通に一緒に飯食えばいいんじゃないですか」
「……いいのかい?」
「飯食うくらいで許可いらないでしょ」
「そういうものか」
「そういうものです」
翠先輩は小さく頷いた。
大げさに喜ぶことはなかった。
ただ、そのあと箸を動かす手は少し軽くなったように見えた。
食事を終えて席を立つ頃には、食堂の混雑もかなり落ち着いていた。
空席が目立ち始め、返却口の前にも列はない。
俺たちはトレーを重ねて返却口へ向かう。
「じゃあ俺、次四限あるから」
宮坂が鞄を肩へ掛ける。
「俺も」
「野々宮さんは?」
「ボクは今日はもうないね」
「じゃあ、また」
宮坂が何気なく手を上げた。
翠先輩は一瞬だけ目を丸くした。
それから、少し遅れて手を上げる。
「うむ。また」
宮坂たちが人の流れへ消えていく。
俺はその背中を見送ってから、隣を見る。
「友達できましたね」
「まだ一回昼食を食べただけだろう」
「そういうところですよ」
「何がだい?」
「いちいち定義しようとするところ」
「曖昧なものは苦手なんだよ」
「じゃあ知り合いが一人増えたでいいです」
「……二人だろう」
「そこはちゃんと数えるんですね」
「ゼロよりはいいからね」
翠先輩はそう言って、少しだけ笑った。
食堂を出る。
午後の日差しが中庭へ落ち、風に揺れた木の影が舗装路の上で形を変えていた。
つい昨日まで、大学で翠先輩のことを知っている人がいるなんて考えたこともなかった。
たぶん俺が知っている翠先輩と、大学の人たちが知っている野々宮翠は、少し違う。
その違いが、なんとなく面白かった。




