大学にもいた
三限が終わった。
教授が教卓の上の資料をまとめ始めるのとほぼ同時に、講義室のあちこちで椅子を引く音が鳴り、閉じられたノートや教科書が次々と鞄へ吸い込まれていく。
俺も眼鏡を押し上げながらノートを閉じた。
眠い。
朝から中央常磐動物園へ行き、そのまま大学まで来たのだから当然だった。
昨日二時過ぎまでレポートをやっていたことまで含めれば、自業自得でしかない。
「悠人、次どうする?」
隣から声を掛けられる。
同じ獣医学科の男子だった。
「空き」
「俺ら食堂行くけど」
「あとで行く」
「また?」
「今行ったら混んでるだろ」
「お前、そうやっていつも人の波が引いてから来るよな」
「並ぶの嫌いなんだよ」
「じゃあ、席あったら取っとくわ」
「空いてたらでいいよ」
軽く手を上げて、そいつは別の友人たちと講義室を出ていった。
俺も少し遅れて立ち上がる。
国立武蔵野科学大学へ入って二年目。
知り合いもいるし、講義が終われば飯に誘われる程度には人付き合いもある。
とはいえ、常に誰かと一緒にいるタイプでもない。
一人でいる時間も嫌いではなかった。
講義棟を出ると、春の風が思ったより強く吹いていた。
四月も半ばを過ぎているのに、日陰へ入るとまだ少し冷える。
中庭を抜けて生協へ向かおうとして、俺は足を止めた。
「……ん?」
ベンチに女の人が座っていた。
明るい茶色の髪。
淡い色のカーディガン。
膝の上には開いたノート。
片手には紙パックの飲み物。
見覚えがある。
というより、今朝も見た。
動物園で。
数歩進んでから、もう一度振り返る。
向こうも、ちょうどこちらを見た。
「……あれ?」
ほとんど同時だった。
「翠先輩?」
声を掛けると、女の人が目を丸くする。
「……悠人?」
「はい」
「なぜキミがここにいるんだい?」
「大学だからですよ」
「それは見れば分かるとも」
「じゃあ聞かないでください」
「そういう意味ではない」
野々宮翠先輩は、膝の上のノートを閉じながら俺を見上げた。
中央常磐動物園では、俺より先に働き始めた先輩。
高校生の頃から世話になっていて、その関係は今も変わっていない。
ただ、大学では事情が少し違う。
翠先輩は二十歳。
俺は十九歳。
年齢だけ見れば一つ上だが、誕生日の位置が違うだけで、学年は同じ二年だった。
「翠先輩、ここの学生だったんですか?」
「その台詞はそのまま返したいね」
「俺、去年からいますよ」
「ボクも去年からいるとも」
「……一回も見たことないですけど」
「奇遇だね。ボクもだ」
二人で少し黙る。
同じ大学。
同じ獣医学科。
同じ学年。
しかも動物園では普通に顔を合わせている。
それなのに一年間、大学では一度も互いを見つけなかったらしい。
「そんなことあります?」
「実際あったのだから仕方ないだろう?」
「必修とか」
「教室が違ったり、座る場所が離れていたりしたんじゃないかい?」
「それにしたって」
「キミは大学でボクを探して歩いていたのかね?」
「いや……」
「なら見つからなくても不思議ではないだろう」
「翠先輩は?」
「まさか〜! 探していないとも」
「じゃあ、お互い様ですね」
「そういうことだ!」
翠先輩は満足そうに頷いた。
理屈としてはその通りなのだが、少し納得しづらい。
「座るかい?」
「いいんです?」
「ベンチはボクの私物ではないよ」
「じゃあ失礼します」
隣へ腰を下ろす。
動物園で休憩が重なれば、こうして話すことはある。
だから気まずさはない。
ただ、背景が違うだけで妙な感じがした。
いつもなら獣舎や作業着や餌の入ったケースが視界のどこかにある。
今は講義棟と学生と自転車がある。
それだけで、翠先輩が少し違って見えた。
「そういえば」
俺は翠先輩を見る。
「最近、引っ越したって言ってましたよね」
「ああ。ようやくだよ」
「大学の近くでしたっけ」
「前よりはかなり近いね。今朝なんて家を出てから四十分も掛からなかった」
「前はどれくらいだったんです?」
「一時間半ほど」
「遠っ」
「だろう?」
「よく一年通いましたね」
「褒めてくれて構わないよ」
「そこは普通にすごいです」
「……素直に褒められると少し困るな」
「なんでですか」
「キミはもう少し雑に扱うものだと思っていた」
「俺をなんだと思ってるんです?」
翠先輩は紙パックに口をつけた。
「ただねぇ」
「はい」
「大学は近くなったが、動物園は遠くなった」
「ああ」
「そこを完全に失念していた」
「なんでですか」
「大学へ通いやすい場所を探していたからだよ」
「動物園も通うでしょう」
「契約してから気づいたのだ」
「遅いですよ」
「仕方ないじゃないかぁ」
「結構大事でしょう」
「ボクもそう思うがね」
「今さら」
「今さらだとも」
本人はいたって真面目な顔をしている。
「どれくらい掛かるようになったんです?」
「一時間ちょっと?」
「前より?」
「二十分ほど増えた」
「大学はかなり近くなって、動物園は遠くなったと」
「総合的には得だろう?」
「朝のシフトの日は損ですね」
「そういう現実的なことを言うのはやめたまえ」
「一番現実的に考えるところでしょう」
翠先輩は小さく息を吐いた。
「朝がつらい」
「でしょうね」
「五時台に起きる必要がある」
「起きればいいじゃないですか」
「簡単に言ってくれるねぇ」
「俺も朝から行ってますけど」
「キミは朝に強いだろう?」
「強くはないです。起きてるだけです」
「それを強いと言うんだよ」
「翠先輩が弱すぎるんじゃないですか」
「それは否定しない」
即答だった。
そこだけは潔い。
風が吹き、翠先輩の髪が頬へ掛かる。
片手で払って耳へ掛けると、そのまま中庭の向こうへ目を向けた。
「でも、大学が近くなったのはいいね」
「楽です?」
「かなり。一限があるだけで一日が始まる前から疲れていたからね」
「じゃあ引っ越して正解じゃないですか」
「うむ」
そこで少し間が空いた。
中庭を何人かの学生が連れ立って歩いている。
笑い声が、風に乗ってこちらまで届いた。
「……もっとも」
「はい」
「引っ越せば友達も自然にできると思っていたのだがね」
「そんなシステムないですよ」
「ないようだ」
「友達いないんですか?」
「失礼な」
「いるんです?」
翠先輩は少しだけ視線を逸らした。
「講義で話す相手くらいはいるよ」
「それ友達じゃないんです?」
「昼を一緒に食べたり、休日に会ったりする相手はいないね」
「なるほど」
「一人でも平気だから、そのまま一年経ってしまった」
「二年目ですね」
「それを言うんじゃない」
少しだけ頬を膨らませる。
「悠人は?」
「いますよ」
意外そうに眉を寄せ、目を見開いた。
「その顔やめてください」
「意外だね」
「なんでですか」
「キミも一人で平気そうだからね」
「平気なのと友達いないのは別でしょう」
「なるほどぉ」
「参考にしないでくださいよ」
「今のところ一番有益な情報だ」
「友達作りを研究対象みたいにしない方がいいと思います」
「だからできないのか」
「たぶん、そういうところもあります」
「厳しいなあ」
翠先輩が肩を落としたところで、俺のスマートフォンが震えた。
画面を見る。
『飯まだ?』
さっきの友人だった。
「友達かい?」
「はい」
「本当にいたのか」
「まだ疑ってたんですか」
「少し」
「なんで俺が見栄張って友達いることにするんです?」
「十九歳の男の子には色々あるのかと」
翠先輩はなぜか人差し指同士を突き合わせ始めた。
「二十歳になった途端に年上ぶるのやめてもらえます?」
「事実、一つ上だろう?」
「同学年でしょう」
「ボクは二十歳。キミは十九歳」
「誕生日が早いだけじゃないですか」
「だが二十歳だ」
「数か月後には俺もなりますよ」
「その数か月が大きいのだよ、少年」
「はいはい」
「扱いが雑だなあ」
翠先輩は楽しそうに笑った。
動物園では何度も話している。
今さら知らない相手ではない。
それでも大学のベンチでこうして話していると、今まで知らなかったことが少しずつ出てくる。
どこから大学へ通っていたのか。
最近引っ越したこと。
大学では案外、一人でいることが多いこと。
同じ場所に一年もいたのに、そんなことすら知らなかった。
「ねぇ、悠人」
「はい」
「これから昼食かい?」
「その予定です」
「そうか」
「翠先輩は?」
「ボクはまだだね」
「何か食べないんです?」
「これから考えるところだった」
「じゃあ来ます?」
翠先輩が目を瞬いた。
「どこへ?!」
「食堂ですけど」
「キミの友達がいるんだろう?」
「いますけど」
「邪魔ではないかい?!」
「一人増えるくらい大丈夫でしょう」
「……そうか」
「友達欲しいんでしょう?」
「そこを持ち出されると弱いな」
「ちょうどいいじゃないですか」
「何がだい?」
「一人目」
「いきなり数えるのかね」
「ゼロよりいいでしょう」
「言い方に情緒がないなあ」
俺は立ち上がった。
翠先輩もノートを鞄へしまい、少し遅れて立ち上がる。
「あ、悠人」
「なんです?」
「一つ聞いていいかい?」
「どうぞ」
「大学でも翠先輩なのか?」
「今さら変えます?」
「同学年だぞ」
「でも翠先輩は翠先輩でしょう」
「……そうか」
「嫌ですか?」
「いや」
少し考えてから、翠先輩は笑った。
「それでいいとも」
俺たちは並んで食堂へ向かう。
ついさっきまで、翠先輩は動物園で会う人だった。
それが今日から、大学にもいる。
それだけのことなのに、俺の日常は少しだけ狭くなった気がした。




