猛禽類舎の朝
中央常磐動物園の朝は早い。
午前七時四十八分。正門はまだ閉じているが、園内ではすでに飼育員や清掃スタッフが行き交い、遠くから箒で地面を掃く音や、台車の車輪が舗装路を転がる音が聞こえている。
俺は猛禽類舎のバックヤードへ入ると、曇った眼鏡を外して服の裾で拭いた。
「おはよう」
止まり木の上から、オオワシの玄がこちらを見る。
もちろん返事はない。俺も期待はしていない。
眼鏡をかけ直し、まずはいつもの場所にいることを確認してから、羽、目、脚へ順番に視線を移す。止まり木の下も見る。昨日の餌の残りと糞の状態を確認して、手元の記録表へチェックを入れた。
特に変わったところはない。
そのまま朝の餌を用意して所定の位置へ置く。
玄はこちらを見た。
次に、餌を見る。
それから止まり木を降りた。
「……ん?」
ほんの少しだけ遅かったような気がした。
食べないわけではない。
降りてしまえばいつも通りで、嘴を伸ばして餌を食べ始める。
それでも俺は、しばらくその様子を眺めていた。
「高瀬」
背後から呼ばれて振り返る。
「おはようございます」
「おう。朝から難しい顔してんな」
猛禽類担当の鷹野さんが、俺の隣まで来て飼育スペースを覗き込んだ。
「玄、今ちょっと遅くなかったですか?」
「何が?」
「餌に降りるまでです」
鷹野さんも玄を見る。
玄は普通に食べている。
「そうか?」
「昨日より一拍くらい遅かったような」
「一拍って何秒だよ」
「そこまでは測ってないです」
「じゃあお前の感覚じゃねえか」
「だから聞いたんですよ」
「俺は気づかなかったな」
「じゃあ、気のせいかもしれません」
そう答えてから、記録表の余白に今日の日付を書き、餌への接近がやや遅く感じたことだけ残しておく。
鷹野さんが横から覗き込んできた。
「書くの?」
「一応」
「食ってんぞ」
「はい」
「元気そうだぞ?」
「ですね」
「じゃあいいじゃん」
「明日も遅かったら、今日も遅かったって分かるでしょう?」
「……お前、細かいなあ」
「よく言われます」
「別に褒めてないぞ」
「じゃあ、今のなしで」
「そういうところは雑だよな」
俺は笑って、書き終えたペンを胸ポケットへ戻そうとした。
入らない。
もう一度やる。
やっぱり入らない。
「……?」
「何してんの?」
「ペンが」
「エプロン着てないぞ、お前」
自分の胸元を見る。
ただの黒いポロシャツだった。
「あ」
「寝ぼけてんのかあ?」
「ちょっとだけ……」
「まったく、何時に寝たんだか」
「二時過ぎです」
「馬鹿じゃねえの?」
「レポートやってたんですよ」
「それで七時台からバイト入れてんの?」
「シフト出したときは、昨日の俺が二時まで起きてる予定じゃなかったので」
「予定立てんの下手くそだなあ」
「最近ちょっと思ってます」
ペンをズボンのポケットへ入れて、次の作業へ移る。
高瀬悠人、十九歳。
国立武蔵野科学大学獣医学科二年。
動物園では学生の飼育補助として、週に何度か猛禽類の世話をしている。
獣医学科にいると言うと、たまに大層なことをしていると思われる。
実際にはそんなことはない。
餌を量って、水を替えて、掃除をして、器具を洗う。動物の様子を見て、気になったことがあれば記録し、自分で判断せず飼育員に伝える。
今の俺にできることなんて、そのくらいだ。
でも、そのくらいが結構好きだった。
フクロウ舎へ移動し、床に落ちた羽根を拾う。
水入れを回収して、新しいものと交換する。
昔、実家で犬を飼っていた。
俺がまだ子供だった頃から家にいた犬で、獣医になろうと思ったきっかけも、たぶんそいつだ。
体調を崩した時、元気がないことだけは俺にも分かった。
けれど、どうして元気がないのかは分からなかった。
何を見ればいいのかも、何をすればいいのかも分からず、結局、大人に任せるしかなかった。
子供だったのだから当然だ。
今ならそう思う。
それでも、分からなかったことだけは妙に覚えている。
だから次に何かがおかしいと思った時は、せめて何がおかしいのか考えられる人間になりたかった。
それが獣医である必要まであったのかと聞かれると、正直、当時の俺にはそこまで考えていなかったと思う。
ただ勉強しているうちに、本当に獣医学科へ入ってしまった。
入ったら入ったで覚えることは山ほどあって、昨日もそのせいで二時まで寝られなかった。
夢というものは、叶える途中が思ったより眠たい。
「高瀬、悪い」
顔を上げると、通路の先で鷹野さんが大きなケースへ手を掛けていた。
「それですか?」
「ああ。向こうまで頼める?」
「いいですよ」
近づいてケースを受け取る。
思ったより軽い。
「鷹野さん」
「ん?」
「腰、痛いんですか?」
鷹野さんが一瞬止まった。
「なんで?」
「さっきから物持つ時、左に寄せてるんで」
「……見てたのか?」
「見てたというか、見えたというか」
「気持ち悪いな、お前」
「持ってあげてる人に言います?」
「悪い悪い。昨日ちょっとやった」
「病院行った方がいいですよ」
「大丈夫だよ、このくらい」
「動物が同じこと言ったら信用しないでしょう」
「動物は言わねえよ」
「じゃあ人間で良かったですね」
「お前、真面目そうな顔してたまに腹立つこと言うよな」
「眼鏡のせいじゃないですか?」
「それは眼鏡に謝れ」
ケースを運びながら笑う。
自分では、人のことをよく見ているつもりはない。
気づく時は気づく。
気づかない時は、本当に気づかない。
先週だって妹との電話中に髪を切ったと言われて、そうだったのかと返したら五分くらい文句を言われた。
画面越しで分かるわけがないと思う。
そう言ったら、さらに怒られた。
だから観察力があると言われても困る。
見ているものが少し偏っているだけなのだろう。
ケースを所定の場所へ置いたところで、園内に開園を知らせる放送が流れ始めた。
正門の方から子供たちの声が聞こえてくる。
さっきまで職員しかいなかった通路へ少しずつ人が増え、中央常磐動物園がいつもの賑やかさを取り戻していく。
「高瀬、休憩入っていいぞ」
「はい」
「午後から大学だっけ?」
「三限からです」
「寝るなよ〜?」
「寝ませんよ」
「昨日二時だろ?」
「コーヒー飲むので」
「そういう問題か?」
鷹野さんと別れ、休憩室へ向かう途中でスマートフォンを確認する。
大学からの通知が二件。
友人からのメッセージが三件。
母親から一件。
『ちゃんと食べてる?』
昨日の夜に来ていた。
俺は少し考えて、
『食べてる』
と返した。
昨日の夕食がコンビニのおにぎり二つだったことは書かなかった。
人のことなら気づく。
動物のことなら気にする。
そのくせ自分のことになると、案外こんなものだ。
自販機でコーヒーを買って、休憩室の椅子へ腰を下ろす。
午後から大学。
帰ったらレポート。
冷蔵庫には卵が三つ。
夕飯は帰りに考えればいい。
そんなことを考えながら、缶コーヒーのプルタブを起こした。




