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ボクを飼ってみないか?!  作者: 御HeSummer3
第1章

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10/37

翠先輩は訴える


 翌週の火曜日。


 三限が終わった直後の国立武蔵野科学大学は、昼休みに遅れて飛び込んだ学生たちで急に騒がしくなった。


 講義棟の正面玄関から人が吐き出され、食堂へ向かう列と、コンビニへ向かう列と、次の講義室を先に確保しようとする列が、舗装された広場の上で入り混じっている。


 九月に入ったとはいえ、昼の日差しにはまだ夏の名残があった。


 建物の影へ入れば風は涼しいが、日向へ出ると肩のあたりがじわりと熱を持つ。


 俺は購買で買ったサンドイッチの袋を片手に、次の講義がある実習棟へ向かっていた。


 今日の昼は軽く済ませる。


 四限が終われば、そのまま動物園へ行く予定だった。


 夕方から猛禽類舎の補助が入っている。


 朝は動物園。


 昼は大学。


 夕方も動物園。


 その間にレポートを一つ終わらせる。


 予定だけ並べると、自分でも少し嫌になる。


「悠人」


 背後から名前を呼ばれた。


 聞き慣れた声だった。


 振り返る。


 薄い水色のブラウスに、長めのスカート。


 明るい茶色の髪を今日は後ろで軽くまとめた翠先輩が、人の流れを縫うようにこちらへ歩いてくる。


 片手には紙パックのカフェオレ。


 もう片方には小さな紙袋。


 先日の二日酔いはすっかり抜けたらしい。


 顔色もいい。


 足取りも普通だ。


 少なくとも、駅のホームで真っすぐ歩けなかった人間には見えない。


「こんにちは」

「うむ。こんにちは」


 俺のところまで来ると、翠先輩はそのまま当然のように横へ並んだ。


 歩き出す。


 数歩。


 さらに数歩。


 何も言わない。


「……なんです?」

「何がだい?」

「用事があるんじゃないんですか」

「キミを見つけたから来ただけだよ」

「そうですか」

「そうとも」


 それならそれでいい。


 そう思って歩き続ける。


 実習棟までは五分ほど。


 翠先輩の次の講義がどこなのかは知らない。


 同じ学科でも、二年になると選択科目の組み方でかなり動きが変わる。


 俺が病理系の実習へ行く頃、翠先輩は別棟で動物行動学の講義を取っていることもある。


 大学で会えば話すようにはなったが、毎日一緒にいるわけではない。


 だからこそ。


「ところで悠人」


 こうして向こうからわざわざ追いついてきた時は、大体何かある。


「なんです?」

「キミの家は大学からどのくらいだい?」

「二十分くらいです」

「徒歩?」

「電車と徒歩で」

「ほう」


 翠先輩がカフェオレのストローを噛んだ。


 少し考える顔をする。


「意外と近いね」

「まあ」

「一人暮らしだったね?」

「そうですよ」

「部屋は?」

「普通です」

「広さは?」

「なんでそんなこと聞くんですか」


 俺が横を見ると、翠先輩もこちらを見た。


 目が合う。


 彼女は一度だけ瞬きをしてから、何でもないことのように言った。


「見せたまえ」

「嫌です」

「早いな」

「何をです?」

「キミの家だよ」


 やっぱりそれか。


 俺はサンドイッチの袋を持ち直した。


 中身はもう半分ほどしか残っていない。


 翠先輩は俺の返事が聞こえなかったわけでもないのに、隣でまだ歩いている。


「嫌です」

「二回言ったね」

「大事なので」

「理由を聞こうじゃないか」

「逆ですよ。なんで見せないといけないんですか」

「公平ではないからだ」


 すぐに返ってきた。


 たぶん、考えてきたのだろう。


 妙に堂々としている。


「何がです?」

「キミはボクの部屋を見た」

「送っていったからでしょう」

「冷蔵庫を見た」

「水取るために」

「台所も見た」

「目に入っただけです」

「洗濯機も見た」

「置いてあったからです」

「ベッドも見た」

「寝かせるためでしょう」

「さらには」


 翠先輩が一度言葉を切った。


 こちらを見る。


「ボクが家では下着で過ごしていることまで知っている」

「それ自分で喋ったんですよ」

「…………」


 一瞬だけ黙る。


 それから、何事もなかったように前へ向き直った。


「ともかく」

「今の無視するんですか」

「情報格差がある」

「急に話を大きくしないでください」


 広場を抜ける。


 正面に見えていた実習棟が少しずつ近づいてきた。


 途中のベンチでは、白衣姿の学生が弁当を広げている。


 芝生の端には、自転車を押して歩く学生。


 遠くで誰かが笑う声。


 いつもの昼休みだ。


 その真ん中を歩きながら、俺の隣にいる人だけが妙な交渉を始めている。


「ボクだけ一方的に生活を知られているじゃないか」

「酔っ払ってたからですよ」

「そこは問題ではない!」

「一番問題でしょう」

「キミの生活もボクには開示されるべきだ」

「なんでです?」

「対等な関係のために」

「大げさだなあ」

「大げさではないとも」


 翠先輩は真顔だった。


 ただし、真剣ではない。


 口元が少し楽しそうだ。


 たぶん本人も、この理屈がかなり無理筋なのは分かっている。


 その上で押し通そうとしている。


「玄関まででいい」

「嫌です」

「十分だけ」

「時間の問題じゃないです」

「では五分」

「短くしても駄目です」

「三分」

「値切らないでください」


 翠先輩の歩幅が少し速くなった。


 俺の前へ半歩出る。


 進路を塞ぐほどではない。


 でも、無視して歩くには微妙に邪魔な位置だった。


「冷蔵庫だけでもいいぞ」

「なんで範囲限定すると許可されると思ってるんです?」

「キミはボクの冷蔵庫を見た」

「まだ根に持ってるんですか」

「プリンとゼリーしかないと言われた」

「事実でしょう」

「大きいプリンだった」

「大きさの問題じゃないです」

「ならキミの冷蔵庫も見せたまえ」

「嫌ですよ」

「なぜだ!」

「見せる理由がないからです」


 翠先輩が足を止めた。


 俺も二歩進んでから止まる。


 振り返る。


 彼女は道の真ん中で、紙パックを持ったままこちらを見ていた。


 後ろから来た学生二人が、俺たちを避けて左右へ分かれていく。


「悠人」

「なんです?」

「昨日、ボクに食事のことで説教したね」

「しましたね」

「プリンだけでは駄目だと」

「駄目でしょう」

「野菜も食べろと」

「言いました」

「なら当然」


 翠先輩がゆっくり近づいてくる。


 一歩。


 二歩。


 最後には、俺の目の前で止まった。


「キミは毎日完璧な食生活を送っているのだろうね?」

「…………」

「今、間があった」

「ありません」

「あった」

「気のせいです」

「では冷蔵庫を見せたまえ」

「なんでそうなるんですか」


 翠先輩の目が細くなる。


 獲物を見つけたような顔だった。


「怪しいねぇ」

「何がです?」

「キミ、ちゃんと食べていない日があるだろう」

「ありますよ。それくらい」

「ほう」

「忙しい時は」

「なるほど」


 翠先輩の口元が上がる。


 嫌な予感がした。


「つまりキミも大して人のことを言えないじゃないか」

「夕飯プリンだけの人には言えます」

「い、一回だけだ」

「本当ですか?」

「……少なくともキミが知っているのは一回だけだ」

「増えたな」

「そこはどうでもいい!」

「よくないですよ」


 また歩き始める。


 今度は翠先輩が俺の隣より少し前。


 こっちを振り返りながら歩くので危なっかしい。


「前見てください」

「キミが家を見せると言えば前を見る」

「脅迫ですか」

「交渉だよ」

「成立してません」

「では交換条件」

「何を交換するんです?」

「ボクの家を見た代わりに、キミの家を見る」

「だから俺、見たくて見たわけじゃないですって」

「結果として見た」

「不可抗力です」

「結果責任というものがある」

「法律みたいなこと言い始めた」

「法学部の友人はいないが、常識ならある」

「今の話聞いてると怪しいですけど」


 翠先輩は気にしない。


 俺の拒否を拒否として処理していない。


 ただ条件が悪かったと思っているだけらしい。


「では、ボクの部屋をもう一度見せる」

「なんでです?」

「その代わりキミの部屋も見せる」

「余計いらないです」

「ボクの冷蔵庫も開けていい」

「もう見ました」

「洗濯機も」

「見たくないです」

「ベッドも」

「言い方」

「なんだい?」

「いや、もういいですよ」


 実習棟の前まで来た。


 入り口には学生証を手にした学生が何人か集まっている。


 自動ドアが開くたび、冷えた空気が外へ流れてきた。


 ここで別れると思った。


 俺はサンドイッチの最後の一口を食べ、包装を小さく折り畳む。


「じゃあ俺、次ここなので」

「うむ」

「翠先輩は?」

「ボクも今日はこの先だ」

「そうなんですか」

「たまたまね」


 そう言いながら、翠先輩は当然のようについてくる。


 建物へ入る。


 冷房の効いた空気が首元に触れた。


 廊下は外より静かだったが、講義室を移動する学生の足音が途切れず響いている。


 俺はゴミ箱へサンドイッチの袋を捨てた。


 その横で翠先輩が立ち止まる。


 まだ諦めていない顔をしている。


「悠人」

「まだ続くんですか」

「昼休みはまだ終わっていない」

「時間いっぱい交渉する気です?」

「もちろん」

「暇なんですか」

「キミの家を見たいという重要な予定がある」

「そんな予定立てないでください」


 階段を上がる。


 翠先輩も来る。


 二階。


 三階。


 俺が端へ寄ると、翠先輩も詰めてくる。


 反対側へずれる。また詰めてくる。


「近いです」

「逃げるからだ」

「逃げてません」

「精神的には逃げている」

「なんですかそれ」


 三階の踊り場で、俺はとうとう足を止めた。


 振り返る。


「なんでそんなに俺の家見たいんです?」


 翠先輩も止まった。


 階段の窓から入る昼の光が、彼女の髪の端を明るくしている。


 すぐには答えなかった。


 紙パックの中身はもうほとんど残っていないらしく、ストローを吸う音だけが小さく鳴った。


「……気になるから」

「何が?」

「どんな部屋か」

「普通ですよ」

「キミの普通は信用できない」

「なんでです?」

「大学では真面目そうで、動物園でもちゃんとしているのに、夕飯がおにぎり二個だった人だろう?」

「翠先輩にだけは言われたくない」

「だからだよ」


 翠先輩が空になった紙パックを軽く振った。


「キミも家では意外と変なのかもしれない」

「期待しないでください」

「机の上が汚いかもしれない」

「普通です」

「洗濯物が山になっているかも」

「なってません」

「冷蔵庫におにぎりしかないかも」

「それコンビニで買いますよね」

「ベッドにぬいぐるみが二十個あるかも」

「ないです」

「確認しないと分からないじゃないか」

「全部確認する必要ないでしょう」

「ある」

「ないです」

「あるとも」


 翠先輩は一歩こちらへ近づいた。


「キミだけボクの知らないところを知っているのは、なんとなくずるい」

「…………」


 一瞬だけ。


 その言い方が、これまでの屁理屈とは少し違って聞こえた。


 でも翠先輩はすぐに視線を逸らし、階段の先を見上げた。


「だから見せたまえ」

「結局それですか」

「うむ」


 さっきの一言に何か意味があったのか。


 たぶんない。


 この人は、こういう時だけ妙に素直なことを混ぜる。


 本人は気づいていない。


 俺も深く考えないことにした。


「嫌です」

「頑固だねぇ」

「翠先輩がしつこいんですよ」

「では」


 彼女が鞄からスマートフォンを取り出した。


「最終手段だ」

「なんです?」

「訴える」

「なんで?!」


 思わず声が大きくなった。


 階段を下りていた男子学生がこちらを見る。


 俺は少し声を落とした。


「何を訴えるんですか」

「プライバシー侵害」

「誰の?」

「ボクの」

「酔っ払った翠先輩を送った俺が?」

「キミはボクの寝室へ侵入した」

「ベッドまで運ぶためでしょう!」

「冷蔵庫を開けた」

「水!」

「洗濯物を見た」

「置いてあった!」

「下着事情まで把握している」

「自分で喋った!」


 翠先輩はスマートフォンを操作し始めた。


 画面を覗く。


 検索欄が開いている。


「何調べてるんです?」

「弁護士」

「本当にやめてください」

「ふむふむ……大学生 プライバシー侵害 慰謝料」

「検索ワードが具体的すぎる」

「慰謝料として部屋への立ち入りを要求する」

「そんな判決出ませんよ」

「裁判官も分かってくれる」

「何をです?」

「ボクだけ部屋を見られた悔しさを」

「裁判所を巻き込まないでください」


 俺がスマートフォンを覗き込むと、翠先輩はさっと胸元へ引いた。


「証拠隠滅は重罪だよ」

「何もしてません」

「触ろうとした」

「検索止めようとしただけでしょう」

「見たまえ。すでに法律事務所がたくさん出てきた」

「相談しないでくださいね」

「無料相談」

「よりによって無料のところ探すな」


 翠先輩は画面をスクロールする。


 どう見ても本気で訴える気はない。


 でも、この人なら面白半分で問い合わせフォームくらい開きかねない。


 俺は眉間を押さえた。


「……分かりましたよ」


 翠先輩の指が止まる。


「ん?」

「一回だけなら来てもいいです」

「や、やったぁ……?」


 今までの勢いが嘘のように止まった。


 スマートフォンを持ったまま、翠先輩がこちらを見る。


「本当かい?」

「はい」

「キミの家に?」

「そうです」

「入っていい?」

「玄関で追い返したら今度こそ面倒でしょう」


 翠先輩の顔がぱっと明るくなった。


 さっきまで法律事務所を検索していた人間とは思えない。


「では和解成立だ!」

「裁判始まってないです」

「善は急げ。今日にしよう」

「嫌です」

「なぜだ!」

「これから動物園です」

「では明日」

「予定あります」

「明後日」

「なんでそんなに早く来たいんですか」

「約束は鮮度が大事だからね」

「生ものみたいに言わないでください」


 翠先輩はスマートフォンをしまった。


 さっきまでの不満げな顔は完全に消えている。


「いつならいい?」

「今度決めましょう」

「今決めよう」

「講義始まりますよ」

「まだ七分ある」

「七分しかないです」

「十分あれば部屋は見られると言っただろう?」

「今その話してません」


 廊下を歩き出す。


 翠先輩がすぐ隣へ並ぶ。


 今度はさっきより少し足取りが軽い。


 本人は気づいていないだろう。


「勝手にもの触らないでくださいね」

「善処する」

「帰ってください」

「まだ行ってないだろう!」

「その返事する人入れたくないです」

「では触らない」

「本当に?」

「たぶん!」

「駄目です」

「見るだけ……」

「冷蔵庫も開けない」

「……冷蔵庫は見たい」

「帰ってください」

「待ちたまえ!」


 廊下の角を曲がる。


 俺の講義室はすぐそこだった。


 翠先輩の教室はさらに奥らしい。


 入口の前で足を止める。


「じゃあ、また連絡します」

「絶対だぞ」

「はいはい」

「忘れたら訴える」

「その言葉便利に使いすぎです」

「今回は契約不履行だ」

「まだ契約してません」

「口約束も契約だよ」

「急に法律強くなるなあ」


 翠先輩は満足そうに笑った。


 それから俺の横を通り過ぎ、数歩進んだところで振り返る。


「悠人」

「なんです?」

「ちゃんと片づけておく必要はないからね」

「普通に片づいてます」

「本当かなぁ」

「期待して来ないでください」

「期待はしていないとも」


 そう言ったわりに、顔は妙に楽しそうだった。


「では、また」

「はい」


 翠先輩が奥の教室へ向かっていく。


 俺はその背中を見送ってから、自分の講義室へ入った。


 席に着く。


 鞄からノートと筆箱を出す。


 前方では教授がパソコンを立ち上げ、学生たちはまだ雑談を続けていた。


 スマートフォンが一度震える。


 画面を見る。


 翠先輩からだった。


『部屋訪問の件、証拠として残しておく』


「…………」


 その下に続けて、


『逃げるなよ』


 俺は少し考えてから、


『訴訟は取り下げたんじゃないんですか』


 と返した。


 既読はすぐについた。


『保留だ』


 思わず笑う。


 前の席の学生がこちらを振り返ったので、咳払いをしてスマートフォンを伏せた。


 講義が始まる。


 教授の声が教室へ広がり、スクリーンに今日の資料が映し出される。


 俺はペンを持った。


 それでも頭の片隅には、さっきまで階段で俺を訴えようとしていた人が残っていた。


 あれだけしつこく部屋を見せろと言われたのは初めてだ。


 たぶんこれから先も、そう何度もない。


 普通なら面倒だと思う。


 実際、かなり面倒だった。


 なのに翠先輩が自分の部屋へ来ることを想像しても、嫌だとは思わなかった。


「…………」


 俺はノートへ視線を落とした。


 教授がちょうど、重要なところだから書いておけと言っている。


 考えるのはあとにする。


 今は講義だ。


 そう思ってペンを動かしたところで、スマートフォンがもう一度震えた。


『冷蔵庫だけは見せたまえ』


 俺は返信しなかった。

投稿日先日に誕生日を迎えまして、二十歳になりました〜!

今後ともよろしくお願いします!


併せて、明日明後日とストック分を大放出します!


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