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ボクを飼ってみないか?!  作者: 御HeSummer3
第1章

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翠先輩はがっかりする


 翠先輩が俺の家へ来ることになったのは、その週の金曜日だった。


 決まったのは前日の夜。


 正確には、決められた。


『明日は?』

『動物園は午前だけです』

『大学は?』

『三限まで』

『では四時』

『何がです?』

『訪問』

『勝手に決めないでください』

『五時』

『遅くしたらいいって話じゃないです』

『では四時半。これ以上は譲れない』


 なぜ向こうが譲歩しているのか分からなかったが、俺もその日は特に予定がなかった。


 結局、午後四時半。


 大学から一度帰宅して、翠先輩を迎えることになった。


 問題は待ち合わせ場所だった。


『駅でいいですか?』


 そう送った数秒後。


『いや』


 すぐに返事が来た。


『住所を教えたまえ』


 俺は少し迷ってから、自宅の住所を送った。


 既読。


 それきり返信が止まった。


 一分。


 二分。


 三分。


 何かおかしい。


『翠先輩?』


 今度はすぐ既読がついた。


『悠人』

『はい』

『これ、間違っていないかい?』

『合ってますよ』

『本当に?』

『本当です』


 また少し間が空いた。


『…………』

『なんです?』

『明日、確認する』


 その意味が分かったのは、翌日だった。


 午後四時二十七分。


 俺は自宅マンションの一階へ下り、エントランスを出た。


 九月の夕方は、昼間よりずっと過ごしやすい。


 西へ傾いた日差しが建物の壁を斜めに照らし、道路沿いの街路樹が長い影を落としている。


 駅から少し離れた住宅街。


 大通りほど車は多くないが、帰宅時間が近づいたせいか、自転車で通り過ぎる人の姿はちらほらある。


 俺の住んでいるのは六階建てのマンションだった。


 築年数はそれほど新しくない。


 ただ、駅にも大学にもそこそこ出やすく、一人暮らしには困らない程度の広さがある。


 家賃もこの辺りでは普通。


 特別気に入って選んだわけではない。


 生活するには十分だった。


 エントランス前でスマートフォンを見る。


 四時二十八分。


 まだ少し早い。


 そう思って顔を上げた。


「…………」


 道路の向こう。


 斜め前に建つ、七階建てのマンション。


 見覚えしかない。


 数日前、酒に酔った翠先輩を送った場所だ。


 そのエントランスから、一人の女性が出てきた。


 明るい茶色の髪。


 白いブラウス。


 薄い色のロングスカート。


 肩には小さなバッグ。


 翠先輩だった。


「…………」

「…………」


 道路を挟んで目が合った。


 翠先輩が止まる。


 俺も止まる。


 車が一台、俺たちの間を通過した。


 その向こうで、翠先輩がゆっくり自分のマンションを振り返る。


 次に俺を見る。


 俺の背後にある建物を見る。


 もう一度、自分のマンション。


「…………悠人」

「はい」


 横断歩道まで行くほどの道幅でもない。


 左右を確認し、翠先輩がこちらへ渡ってくる。


 いつもより歩く速度が少し速い。


「キミ」

「なんです?」

「ここに住んでいるのか?」

「そうですよ」

「ここ?」

「はい」

「この建物?」

「そうです」


 翠先輩が俺のマンションを見上げた。


 それから勢いよく振り返る。


「ボク、そこだぞ」

「知ってます」

「…………」


 翠先輩の顔が止まった。


「知ってる?」

「送ったでしょう」

「いつから?」

「送った日から」

「…………」

「翠先輩?」

「キミは」


 指を差された。


「数日前から、ボクがほぼ隣に住んでいると知っていたのか?」

「まあ」

「なぜ言わなかった!」


 住宅街に声が響いた。


 近くを歩いていた犬が一度こちらを見た。


「言う機会なかったでしょう」

「重大情報だろう!」

「そうですか?」

「そうだとも!」


 翠先輩は道路の向こうとこちらを何度も見比べる。


 実際、近い。


 近いというより、ほとんど隣だった。


 二つのマンションの間にあるのは、細い道路と低い植え込みだけ。


 玄関から玄関まで、普通に歩けば一分もかからない。


 俺も送った夜に気づいてはいた。


 酔った翠先輩を部屋へ運び、そのあと自宅へ帰る時、駅へ戻る必要がほとんどなかったからだ。


 マンションを出て少し歩けば、自宅が見えた。


 近いな。


 その時は、それで終わった。


「ではキミ、あの日ここまで一分くらいで帰ったのか?」

「そうですね」

「ボクは『ちゃんと帰ったら連絡したまえ』とか言っていたんだろう?」

「言ってました」

「一分で?」

「はい」

「…………」


 翠先輩が額へ手を当てた。


「なんだか急に恥ずかしくなってきた」

「今さらですか」

「もっとこう、遠い夜道を帰らせたような気分だった」

「実際は道路渡っただけですね」

「言うな」


 夕方の風が抜ける。


 翠先輩の髪が頬へかかり、彼女はそれを指で耳の後ろへ払った。


 それから再び俺の建物を見る。


 さっきの衝撃が少し落ち着いたらしい。


「……本当に近いな」

「ですね」

「スーパーは?」

「そこの角曲がったところ使ってます」

「ボクは駅前だ」

「だから会わなかったんでしょうね」

「コンビニは?」

「反対側です」

「なるほど」


 翠先輩は少し考えた。


 何を考えているのかは知らない。


 ただ、口元がほんの少し上がっていた。


「では」


 こちらを見る。


「行こうじゃないか」

「どこへ」

「キミの部屋に決まっているだろう!」

「まだ諦めてなかったんですね」

「何のために来たと思っている」

「訴訟」

「和解しただろう?」

「保留って言ってましたよ」

「今日の査察結果次第だ」

「帰ってください」

「ここまで来たのに!」

「二十メートルくらいでしょう」

「距離の問題ではない!」


 結局、そのまま中へ入れた。


 オートロックを解除する。


 翠先輩は後ろからついてきながら、エントランスを珍しそうに見回していた。


 宅配ボックス。


 集合ポスト。


 掲示板。


 別に見るようなものはない。


 それでも初めて入る人間の生活圏というだけで、何か違って見えるのかもしれない。


「五階?」

「四階です」

「ボクは五階だ」

「知ってます」

「……本当にいろいろ知っているな」

「だから送ったからでしょう」


 エレベーターを待つ。


 数字が六から一つずつ下がってくる。


 翠先輩はその間も落ち着かず、壁の案内板や防犯カメラを眺めていた。


「家賃はいくらだい?」

「言いません」

「なぜだ」

「普通、そこまで聞きます?」

「ボクは家賃も教えられるぞ」

「聞いてません」

「交換条件」

「今日はそれ禁止です」


 エレベーターが着く。


 二人で乗り込み、四階のボタンを押した。


 扉が閉まる。


 小さな箱の中で、翠先輩が俺を見る。


「緊張してきた」

「なんでです?」

「男の子の部屋へ行くのは初めてだからね」

「翠先輩の部屋には俺が行きましたけどね」

「それはボクの家だろう」

「そうですけど」

「今回は敵地だ」

「誰が敵ですか」


 四階。


 廊下へ出る。


 端から三つ目。


 鍵を取り出したところで、翠先輩が横から覗き込んできた。


「そこ?」

「そうです」

「ふむ」

「何を確認してるんです?」

「部屋番号」

「覚えないでください」

「もう覚えた」

「怖いな」


 鍵を回す。


 ドアを開ける。


「どうぞ」


 俺が先に入り、靴を脱ぐ。


 振り返る。


 翠先輩は玄関の外に立ったままだった。


「どうしたんです?」

「…………」


 入らない。


 目だけで玄関の中を見ている。


 何かを探しているような顔だった。


「翠先輩?」

「少し待ちたまえ」


 そう言うと。


 翠先輩は玄関へ一歩入った。


 そして。


「…………」


 鼻から小さく息を吸った。


「何してるんです?」

「匂いを確認している」

「なんで?」

「他人の家には、その人の匂いがあるだろう?」

「ありますけど」


 翠先輩はもう一度だけ、静かに息を吸った。


 犬みたいに鼻を鳴らすわけではない。


 ただ空気を確かめる程度。


「……なるほど」

「何がなるほどなんです?」

「悠人の家だ」

「そりゃ俺の家ですから」

「もう少しこう……男臭いのかと思っていた」

「失礼ですね」

「でも思ったより普通だ」

「匂いに普通とかあるんですか」

「洗剤と、少しコーヒー」

「朝飲んだので」

「あと、木?」

「机じゃないですか?」

「ふむ」


 何に納得したのか。


 翠先輩はようやく靴を脱いだ。


 きちんと揃える。


 俺のスニーカーの横へ置く。


 玄関に二人分の靴が並んだだけなのに、急にいつもと違って見えた。


「上がっていいですよ」

「うむ」


 翠先輩が廊下へ入る。


 一歩。


 二歩。


 そして。


「…………」


 止まった。


 俺の部屋は、一人暮らしとしては普通だ。


 玄関から短い廊下が伸び、その途中にキッチンと洗面所。


 奥に八畳ほどの居室。


 ベッド。


 机。


 本棚。


 小さなローテーブル。


 テレビはない。


 代わりに机の端にノートパソコンとタブレットが置いてある。


 洗濯物も出していない。


 床にも物は落ちていない。


 朝出る前に掃除したわけでもなく、普段からだいたいこんなものだった。


 翠先輩は部屋の入口で立ったまま、ゆっくり左右を見る。


 ベッド。


 机。


 本棚。


 床。


 キッチン。


 もう一度、ベッド。


「…………」

「なんです?」

「つまらない」

「帰ってください」

「待ちたまえ!」

「人の部屋見て最初の感想がそれですか」

「だって」


 翠先輩は部屋へ入りながら、不満そうに眉を寄せる。


「もっとこう、何かあると思ったのだよ」

「何がです?」

「脱ぎっぱなしの服とか」

「ないです」

「床に積まれた教科書とか」

「本棚です」

「食べ終わったカップ麺の容器」

「捨てますよ」

「ベッドの上に大量のぬいぐるみ」

「まだ期待してたんですか、それ」


 翠先輩がベッドへ近づく。


 掛け布団を見る。


 枕を見る。


 ベッド脇まで覗く。


「ない」

「何がです?」

「ぬいぐるみ」

「だからないですって」

「一個くらい」

「ありません」

「十九歳だぞ?」

「十九歳だからってぬいぐるみ置く決まりないでしょう」

「妹から貰ったものとか」

「実家です」

「…………」


 翠先輩は目に見えて残念そうだった。


 他人の生活が健全で、ここまで落胆する人間を初めて見た。


「座ります?」

「まだいい」


 検査が終わっていないらしい。


 本棚へ移動する。


 獣医学関係の教科書。


 大学の資料。


 何冊か小説。


 ファイル。


 特に面白いものはない。


「ちゃんと本も並んでいる」

「本棚なので」

「机も」


 次は机。


 ノートパソコン。


 筆記用具。


 レポートの資料。


 昨日使った教科書が二冊。


 充電器。


 それだけ。


「……整理されている」

「悪いですか?」

「少しくらい隙があってもいいだろう」

「なんで翠先輩のために散らかすんです?」

「ボクだけ恥ずかしいではないか」

「自業自得ですよ」

「キッチン」

「まだ見るんです?」

「もちろん」


 俺が止める前に、翠先輩が廊下側へ戻る。


 キッチンは狭い。


 一口ではなく二口のコンロ。


 小さなシンク。


 棚には鍋とフライパン。


 包丁。


 まな板。


 食器も一人分より少し多い程度。


 翠先輩が棚を開ける。


「勝手に触らないって言いましたよね」

「見るだけだ」

「今開けましたよね」

「開けないと見えない」

「屁理屈」

「皿がある」

「ありますよ」

「鍋もある」

「料理しますから」

「フライパンも使っている」

「使ってます」

「…………」


 翠先輩の肩が少し落ちた。


「本当にちゃんと生活している……」

「なんでそんなに残念そうなんです?」

「ボクは今日、キミの弱みを握りに来たのだよ」

「目的変わってません?」

「最初からそのつもりでもあった」

「帰ってください」

「まだ冷蔵庫がある!」


 最後の砦みたいに言った。


 翠先輩が冷蔵庫の前に立つ。


 振り返る。


「開けても?」

「もう止めても開けるでしょう」

「もちろん」

「じゃあどうぞ」

「許可を得た」

「そこだけ律儀なんですね」


 扉が開く。


 冷気が足元へ流れる。


 翠先輩が中を見る。


「…………」


 しばらく無言だった。


 卵。


 牛乳。


 納豆。


 豆腐。


 キャベツ。


 玉ねぎ。


 豚肉。


 鶏肉。


 ヨーグルト。


 麦茶。


 作り置きを入れた保存容器。


 調味料。


 特別豪華ではない。


 ただ普通に、数日生活できるだけのものが入っている。


「野菜がある……」

「ありますよ」

「肉も」

「あります」

「卵も」

「使いますから」

「牛乳」

「飲みます」

「納豆」

「朝食べます」


 翠先輩がゆっくりこちらを振り返った。


「キミ、本当に十九歳の一人暮らしか?」

「翠先輩の基準がおかしいんですよ」

「ボクの冷蔵庫にはプリンがある」

「知ってます」

「二個も」

「それ自慢できる数じゃないです」

「ゼリーもあった」

「そうですね」

「…………」


 完全に負けた顔だった。


 何と戦っているのか知らないが。


 翠先輩は再び冷蔵庫へ顔を向ける。


 少し奥を見る。


 その動きが止まった。


「……ん?」


 何かを見つけたらしい。


 手が伸びる。


 取り出したのは、豆腐だった。


「悠人」

「はい」

「これ」

「豆腐ですね」

「賞味期限」


 俺も見る。


 今日だった。


「今日までですね」

「食べる予定は?」

「今日か明日」

「今日までだぞ」

「賞味期限でしょう。明日くらいなら」

「ふむ」


 翠先輩の目が少し細くなった。


 豆腐を戻す。


 次に保存容器を一つ取り出す。


「これは?」

「煮物です」

「いつ作った?」

「三日前」

「なぜ残っている?」

「食べるタイミングなくて」

「ほう」


 声が変わった。


 さっきまでの落胆が消えている。


 棚を漁る速度が少し上がる。


「これは?」


 コンビニのおにぎり。


「昨日買ったやつです」

「なぜある?」

「昨日食べなかったので」

「こっちは?」

「半分使ったキャベツ」

「見れば分かる。いつ切った?」

「四日前くらい」

「四日前」

「大丈夫ですよ」

「…………」


 翠先輩が冷蔵庫から顔を出した。


 目が輝いていた。


「見つけた!」

「何をですか」

「キミ、案外ちゃんとしていない!」

「嬉しそうに言わないでください」

「やった!」

「何がやったなんです?」


 豆腐を片手に喜ばれても困る。


「返してください」

「待ちたまえ。捜査中だ」

「何の捜査ですか」

「食生活」

「さっきちゃんとしてるって分かったでしょう」

「表面上はね」

「冷蔵庫に表面も何もないですよ」

「いや」


 翠先輩が真顔になる。


「食材はちゃんとある」

「はい」

「料理もしている」

「します」

「でも食べていない」

「…………」

「ほら」

「たまたまですよ」

「昨日の夕飯は?」

「……」

「ねぇ? 悠人?」

「おにぎりです」

「何個?」

「二個」

「またか!」

「時間なかったんです」


 翠先輩が豆腐を冷蔵庫へ戻した。


 扉を閉める。


 そして腕を組む。


 少しだけ偉そうに胸を張った。


「ボクにプリンだけでは駄目と言ったね」

「プリンだけは駄目でしょう」

「キミも似たようなものじゃないか」

「おにぎりは米です」

「炭水化物だ!」

「プリンよりは」

「比べるな!」

「翠先輩が比較始めたんでしょう」

「そういう問題ではない」


 とはいえ。


 嬉しそうなのは最初だけだった。


 翠先輩はもう一度冷蔵庫を見る。


 閉じた扉に視線を置いたまま、少し考える。


「でも、変だね」

「何がです?」

「食材は買うんだろう?」

「はい」

「料理もできる」

「できます」

「なのに食べない」

「食べないわけじゃないです。忙しい時だけ」

「ふぅん」


 それ以上は言わなかった。


 代わりに、今度は机へ戻る。


「まだ探すんですか」

「弱点が見つかったからね。俄然やる気が出た」

「最悪だ」


 俺も部屋へ戻る。


 椅子へ座ろうとした時、翠先輩が机の端に置いてあるノートを手に取った。


「それ授業のやつですよ」

「見ても?」

「別にいいですけど」


 ページをめくる。


 講義のメモ。


 動物園で気になったこと。


 レポートの下書き。


 予定。


 翠先輩の指が途中で止まった。


「……悠人」

「今度はなんです?」

「これ」


 指差された。


 ページの隅。


 作業を終えた時間を、自分用に簡単に書いてある。


『提出 2:37』


 その次のページ。


『完了 3:12』


 さらに前。


『1:58』


「…………」

「これは?」

「レポート終わった時間です」

「夜中?」

「夜中ですね」

「昨日は何時に寝た?」

「二時くらいです」

「一昨日」

「二時半くらい」

「その前」

「覚えてません」

「悠人」

「はい」


 翠先輩がノートを閉じた。


 さっきまでの勝ち誇った顔ではない。


「キミ、ボクに睡眠時間のことで説教したね?」

「しましたね」

「夜更かしするなと」

「言いました」

「休日でも昼まで寝るなと」

「それは寝すぎでしょう」

「どの口で?」

「…………」

「今、二度目の間があった」

「気のせいです」

「気のせいではないとも」


 翠先輩が机にノートを置く。


「ボクは寝る」

「寝すぎです」

「キミは寝ない」

「寝てますよ」

「二時や三時は寝ているうちに入らない」

「入ります」

「翌朝は?」

「六時半とか」

「三時間半じゃないか!」

「毎日じゃないですよ」

「何時間なら毎日なんだ?」

「……五、六時間?」

「短い!」


 思ったより本気で怒られた。


 翠先輩は腰へ手を当てる。


 大学でも動物園でもあまり見ない姿だ。


「キミは自分のことになると雑だね」

「翠先輩に言われたくないです」

「ボクとは種類が違うよ」

「どこがです?」


 翠先輩はすぐには答えなかった。


 机。


 冷蔵庫。


 俺。


 順番に視線を動かす。


「ボクは面倒だからやらない」

「威張るところじゃないですよ」

「キミはできるのに、自分のことを後ろへ回している」

「…………」

「動物園がある。大学がある。レポートがある。だから食事と睡眠を削る」


 静かな声だった。


 さっきまで人の部屋を査察して喜んでいた人と同じとは思えない。


「違うかい?」

「……まあ」

「ほら」

「でも別に困ってませんよ」

「ボクもプリンで困ってはいない」

「それは困ってください」

「同じだろう?」

「違います」

「同じだ」


 翠先輩が少しだけ笑った。


 責めるというより、ようやく何か見つけた顔だった。


 俺からすれば、大したことではない。


 忙しい日は食事が簡単になる。


 寝るのが遅くなる。


 学生なら珍しくもない。


 そう思っていた。


「……だから母さんにも言われるんですよ」

「何を?」

「ちゃんと食べてるかって」

「お母さんは正しい」

「翠先輩側についた」

「当然だ」

「妹にも言われます」

「完全に前科持ちじゃないか!」

「言い方」


 翠先輩はベッドの端へ腰を下ろした。


 ようやく座った。


 部屋へ入ってから、ずっと動き回っていたことに今さら気づいたらしい。


「疲れた」

「勝手に家宅捜索してただけでしょう」

「成果はあった」

「何ですか?」

「キミにも生活指導が必要だと分かった」

「いりません」

「必要だ」

「翠先輩にだけはされたくない」

「失礼だな。睡眠に関してはボクの方が圧倒的に上だぞ」

「量だけでしょう」

「質も高い」

「昼まで寝る人が言わないでください」

「睡眠に対する情熱が違う」

「怠惰って言うんですよ」


 翠先輩は不満そうに頬を膨らませる。


 それから、俺のベッドへ手を置いた。


 シーツを軽く押す。


「……普通だ」

「まだ何か期待してたんです?」

「もう少し柔らかいかと思った」

「何基準ですか」

「悠人基準」

「意味分からないです」

「匂いは?」

「嗅がないでください」

「まだ何もしていないだろう!」

「これからする顔だったので」

「失礼だなあ」


 そう言いつつ、翠先輩は枕へ顔を近づけようとして。


「本当にやめてください」

「分かった分かった」


 笑いながら離れた。


 危ない。


 この人を家へ入れると、何を確認されるか分からない。


「お茶飲みます?」

「飲む」

「麦茶でいいですか」

「うむ」


 キッチンへ戻る。


 コップを二つ出し、冷蔵庫から麦茶を取る。


 注いで部屋へ戻ると、翠先輩はベッドではなくローテーブルの前へ移動していた。


 床に座り、何となく部屋を眺めている。


「どうぞ」

「ありがとう」


 コップを渡す。


 一口飲む。


 翠先輩の視線がまた部屋を回った。


 最初ほど査察する感じではない。


 ただ、見ている。


 机。


 本棚。


 ベッド。


 キッチン。


 窓。


「本当に普通だね」

「まだ言うんですか」

「悪い意味ではないよ」

「最初は悪い意味でしたよね」

「少しだけ」

「かなりでしょう」

「でも」


 翠先輩がコップの縁を指でなぞる。


「キミがここで暮らしてるんだな」

「そうですよ」

「大学へ行って、動物園へ行って、帰ってきて、ここでレポートを書いて、寝る」

「そんな感じです」

「ふぅん」


 何でもない返事だった。


 それでも、さっきまでより少し静かだった。


 窓の外では、夕方の光が向かいの建物を照らしている。


 翠先輩の部屋がどの窓なのかは分からない。


 でも、建物そのものはすぐそこだ。


「翠先輩」

「なんだい?」

「近いですね、本当に」

「今さらか?」

「こうして部屋から見ると」


 翠先輩も窓を見る。


「そうだね」


 少し間が空いた。


「これなら忘れ物しても取りに帰れる」

「自分の家に帰ってくださいね」

「夕飯がなければ来られる」

「買ってください」

「雨が降っても走れば濡れない」

「傘差してください」

「終電も関係ない」

「一分ですからね」

「…………」


 翠先輩がこちらを見る。


「便利だな」

「何に使うつもりです?」

「まだ決めていない」

「決めなくていいです」


 笑った。


 俺も麦茶を飲む。


 近いと分かったところで、何かが変わるわけではない。


 大学では別々の講義を受ける。


 動物園では別の担当へ行く。


 帰れば、それぞれの家へ戻る。


 ただ、その家同士が。


 思っていたよりずっと近かっただけだ。


「悠人」

「はい」

「今日の夕飯は?」

「あとで作ります」

「何を?」

「豚肉とキャベツ炒めようかなと」

「豆腐も食べたまえ」

「覚えてたんですか」

「今日までだぞ」

「分かりましたよ」

「それから」


 翠先輩が俺を指差す。


「今日は十二時までに寝ろ」

「無理です」

「なぜだ!」

「レポートあります」

「明日やれ」

「明日は動物園です」

「なら今日やって、十二時までに終わらせろ」

「無茶言いますね」

「キミがボクにしているのは、こういうことだよ」

「…………」


 少し納得した。


 したくなかったけど。


 翠先輩は満足そうに頷き、残っていた麦茶を飲み干した。


「では、帰る」

「もういいんですか?」

「十分見た」

「一時間くらいいましたよ」

「三分の予定だったのにね」

「誰が三分で帰るって言ったんですか」

「交渉段階では」

「守る気なかったでしょう」

「うむ」

「堂々と言うなあ」


 立ち上がる。


 玄関まで送る。


 翠先輩が靴を履き、ドアを開ける。


 廊下へ出たところで振り返った。


「悠人」

「なんです?」

「夕飯」

「食べますよ」

「写真送れ」

「なんでです?」

「証拠」

「まだ訴訟続いてるんですか」

「これは健康管理だ」

「誰が誰を管理してるんです?」

「今日はボク」

「日替わりなんですか」

「明日は知らない」


 翠先輩が笑う。


「それじゃあ」

「はい。気をつけて」


 言ってから。


 二人とも少し黙った。


 翠先輩が廊下の先を見る。


 エレベーター。


 その先の一階。


 外へ出れば、道路を一本渡っただけで自宅だ。


「……気をつける距離ではないな」

「車には気をつけてください」

「十二秒くらいだぞ」

「測ったんですか?」

「さっき来る時に」

「何してるんですか」

「重要な情報だろう?」


 エレベーターのボタンを押す。


 扉が開く。


 乗り込む直前、翠先輩がもう一度こちらを見た。


「ちゃんと寝たまえよ」

「翠先輩に言われる日が来るとは思いませんでした」

「ボクは睡眠だけなら得意だからね」

「寝すぎる方でしょう」

「得意分野にも個性がある」


 扉が閉じた。


 俺は部屋へ戻る。


 さっきまで翠先輩がいた場所を見る。


 ローテーブルの上に、使ったコップが二つ。


 それだけだった。


 部屋そのものは何も変わっていない。


 匂いだって、たぶんいつもと同じだ。


 なのに、少しだけ静かになった気がした。


「…………」


 とりあえず夕飯を作る。


 冷蔵庫を開ける。


 今日までの豆腐が目に入った。


「……食べるか」


 取り出す。


 その夜。


 豚肉とキャベツの炒め物。


 冷ややっこ。


 ご飯。


 味噌汁。


 全部並べてから、なんとなくスマートフォンで写真を撮った。


 翠先輩へ送る。


『食べました』


 すぐに既読がついた。


『よろしい』


 少しして。


『ちなみにボクの夕飯はパスタだ』


 珍しい。


『作ったんですか?』

『…………』


 既読。


 返事が来ない。


 嫌な予感がした。


『翠先輩?』


 数秒後。


『コンビニ』


「…………」


 人のことを言えた立場ではなかったらしい。


 俺はスマートフォンを置いた。


 その二分後。


 もう一度震える。


『でもサラダも買った』


 少し考えてから、


『偉いですね』


 と返した。


 またすぐ既読。


『だろう?』


 窓の向こう。


 道路一本隔てた建物のどこかに、翠先輩がいる。


 今日までは、それを知っているだけだった。


 でも一度気づいてしまうと、思った以上に近い。


 大学より。


 動物園より。


 たぶん、俺たちが考えていたよりずっと。

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