翠先輩は焦がす
野々宮翠は、その日の夕飯を自分で作ることにした。
理由はいくつかある。
一つ。
昨日、高瀬悠人の部屋で冷蔵庫を見た。
卵があった。
肉があった。
野菜があった。
作り置きまであった。
そのうえ本人は、忙しくなければ普通に料理をするらしい。
二つ。
その悠人から、以前から散々食生活について言われている。
プリンだけでは駄目。
ゼリーは夕飯ではない。
野菜を食べろ。
ちゃんとしたものを食べろ。
昨日に至っては、夕飯の写真まで送り合った。
三つ。
だから。
「……やってやろうじゃないか」
午後六時十二分。
翠は自宅のキッチンに立っていた。
大学から帰る途中、駅前のスーパーへ寄った。
鶏もも肉。
キャベツ。
玉ねぎ。
豆腐。
味噌。
卵。
ついでに牛乳。
さらに、買う必要はなかった気もするがプリンも二個。
冷蔵庫へ食材を入れた時点で、昨日までとはかなり景色が違っていた。
物がある。
ちゃんと食事をする人間の冷蔵庫らしい。
それだけで少し満足しかけたが、今日はそこが目的ではない。
翠はスマートフォンをキッチン脇へ立て掛け、画面に表示したレシピを見る。
鶏肉と野菜の甘辛炒め。
難易度は低そうだった。
少なくとも写真だけなら。
翠は料理ができないわけではない。
実家にいた頃は母親の手伝いくらいしていたし、包丁の持ち方も分かる。野菜の切り方を知らないわけでも、火を怖がるわけでもない。
ただ、一人暮らしを始めてからは、料理をする理由より料理をしない理由の方が圧倒的に多かった。
買う。
切る。
焼く。
洗う。
片づける。
食べるという行為ひとつに工程が多すぎる。
それなら買った方が早い。
それだけだった。
「今日は違う」
誰に言うでもなく呟く。
まな板を置く。
包丁を出す。
鶏肉を一口大に切る。
手つきは危なっかしくない。
キャベツも切る。
玉ねぎも薄くする。
ここまでは順調だった。
調味料も量る。
醤油。
みりん。
砂糖。
料理酒。
「……こんなに入れるのか」
少し不安になったが、画面にはそう書いてある。
信じることにした。
フライパンへ油を引く。
火をつける。
鶏肉を入れると、すぐに大きな音がした。
油が跳ねる。
「熱っ」
一歩下がる。
それでも、しばらくすると肉の表面に焼き色がついてきた。
香りも悪くない。
「ふむ」
思ったより簡単ではないか。
翠は少し気を良くした。
そこで、豆腐が目に入った。
味噌汁も作れば、より「ちゃんとした夕飯」になる。
昨日の悠人も味噌汁を作っていた。
だったら自分にもできる。
鍋を出す。
水を入れる。
火へかける。
玉ねぎを少し残していたので、それも使う。
豆腐も切る。
味噌汁くらいなら失敗しない。
その途中でスマートフォンが震えた。
大学の連絡用グループだった。
明日の講義資料について。
一度だけ見る。
返信は必要ない。
画面を閉じる。
鍋を見る。
まだ沸いていない。
フライパンを見る。
肉の片面が焼けている。
ひっくり返す。
次は野菜。
キャベツと玉ねぎを入れる。
量が思ったより多い。
フライパンが急に狭くなった。
「……入れすぎたか?」
菜箸で混ぜる。
キャベツが外へ落ちそうになる。
戻す。
鍋から小さな音がする。
そちらを見る。
水が沸き始めている。
火を弱める。
味噌をどれくらい入れるのか分からなくなった。
スマートフォンを見る。
検索する。
その間にもフライパンでは肉と野菜が焼けている。
最初は香ばしかった。
次に、少し濃い匂いになった。
翠はまだ画面を見ていた。
「大さじ……?」
味噌を溶く。
味を見る。
「薄い」
少し足す。
もう一度。
「……まあ、こんなものか」
その時だった。
鼻に入ってきた匂いが変わった。
「…………」
振り返る。
フライパンから細い煙が上がっていた。
「え」
慌てて火を弱める。
菜箸で混ぜる。
混ぜた瞬間、下にあった肉が見えた。
黒い。
「…………」
キャベツも一部が茶色を通り越している。
玉ねぎはフライパンの底へ貼りついていた。
「待て」
火を止める。
換気扇を強くする。
窓も開ける。
九月の夕方の空気が入ってきたが、焦げた匂いはそう簡単には消えない。
翠はしばらくフライパンを見た。
肉を一つ持ち上げる。
表。
黒い。
裏。
もっと黒い。
「…………」
皿へ移す。
野菜も移す。
見た目は、レシピの写真とはかなり違った。
かなりというか。
別の料理だった。
それでも、食べられないと決まったわけではない。
翠は一番被害の少なそうな鶏肉を箸でつまんだ。
少し冷ます。
口へ入れる。
「…………」
噛む。
もう一度。
焦げの苦味が最初に来た。
そのあと、やたら固い肉。
最後に甘辛いはずだった調味料の、よく分からない濃さ。
翠は無言で咀嚼した。
飲み込む。
水を飲む。
もう一度、皿を見る。
「…………無理だな」
誰も聞いていない。
味噌汁は普通だった。
むしろ少し薄い程度で、飲めなくはない。
ご飯も炊飯器が炊いたので失敗していない。
問題は主菜だった。
しかも一番頑張った部分。
翠は椅子へ座った。
テーブルには、ご飯。
味噌汁。
そして焦げた鶏肉と野菜。
料理を始める前には、少しだけ想像していた。
ちゃんと作れた夕飯の写真を悠人へ送る。
『どうだ』
そう送れば、たぶん。
『ちゃんとしてるじゃないですか』
くらいは返ってくる。
もしかしたら珍しく褒めるかもしれない。
それを期待していたわけではない。
別に。
ただ。
「……ちゃんとしようとしたんだぞ」
黒くなった鶏肉は何も答えない。
翠はスマートフォンを取った。
悠人とのメッセージ画面を開く。
文字を打つ。
『悠人』
送信。
既読はすぐについた。
『なんです?』
翠は少し迷った。
『夕飯は?』
『今から作ります』
『何を?』
『生姜焼きです』
生姜焼き。
文字だけでおいしそうだった。
翠は目の前の黒い鶏肉を見る。
スマートフォンを見る。
『何人分?』
少し間。
『一人分です』
「…………」
翠は指を動かす。
『二人分にはならないかね?』
既読。
今度は返事が少し遅かった。
『何したんです?』
『何もしていない』
『じゃあ自分で食べてください』
『食べられない』
『なんで?』
「…………」
翠は唇を尖らせた。
『翠先輩?』
『焦げた』
送った。
しばらくして。
『何がです?』
『夕飯』
『全部?』
『主菜』
『どのくらい?』
翠は皿を見る。
写真を撮った。
送る。
数秒。
『黒いですね』
『見れば分かる!』
『これは無理そうですね』
『だから言っているだろう!』
そこまで送ってから、翠は少しだけ安心した。
失敗したものを見せただけなのに。
自分でも理由は分からない。
『何か別の作ればいいじゃないですか』
すぐに現実へ戻された。
『もう気力がない』
『買いに行けば』
『外に出たくない』
『コンビニ』
『負けた気がする』
『もう負けてるでしょう』
「ひどいな!」
誰もいない部屋で声が出た。
『一口』
『嫌です』
『半人前』
『ないです』
『ご飯だけでも』
『おかずどうするんです?』
『キミのを少し』
『結局食べるじゃないですか』
『ボクは今、とても傷ついている』
『料理に?』
『自尊心に』
『知りませんよ』
冷たい。
非常に冷たい。
翠は腕を組んだ。
それでも諦めるつもりはなかった。
『明日プリンを奢る』
『いりません』
『二個』
『数の問題じゃないです』
『皿を洗う』
既読。
返事が止まった。
翠の目が少し細くなる。
効いた。
『全部?』
『全部』
『フライパンも?』
『洗う』
『コンロ周りも?』
『拭く』
『焦げ付き取れます?』
そこは自信がない。
『努力する』
また少し間があった。
翠は画面を見つめる。
数秒後。
『じゃあ来ます?』
「……よし」
小さく拳を握った。
『行く』
送信して立ち上がる。
味噌汁には蓋をする。
ご飯も保温。
焦げた主菜は、とりあえずラップをかけて冷蔵庫へ入れた。
捨てるのは少し悔しい。
明日見たら何か救済方法が思いつくかもしれない。
バッグは持たない。
財布もいらない。
スマートフォンだけ。
玄関で靴を履く。
鏡を見る。
服は大学から帰ってきたまま。
薄いブラウスとロングスカート。
問題ない。
そこで翠は自分の袖を持ち上げた。
「…………」
嗅ぐ。
少し焦げ臭い気がする。
もう片方。
こちらも。
「……まあ」
近いからいい。
何がいいのかは分からない。
部屋を出る。
エレベーターで一階。
エントランスを抜ける。
外はもう薄暗くなっていた。
道路沿いの街灯が点き始め、向かいのマンションの窓にも少しずつ明かりが増えている。
道路を渡る。
それだけ。
昨日までは、近いという事実を知っただけだった。
今日は初めて、その近さを使った。
翠は悠人のマンションへ入り、四階まで上がる。
端から三つ目。
もう部屋番号も覚えている。
インターホンを押す。
間もなく鍵の音がした。
ドアが開く。
「早くないですか?」
悠人が立っていた。
大学から帰ったあとらしく、眼鏡はそのままだが服は部屋着に近いものへ変わっている。
「近いからね」
「今送ってから一分くらいですよ」
「待っていた」
「どこで?」
「玄関」
「最初から来る気だったでしょう」
「可能性に賭けていた」
「怖いな」
悠人が身体をずらす。
「どうぞ」
「うむ」
翠は中へ入った。
昨日と同じ玄関。
同じ床。
同じ洗剤と、少しだけコーヒーの残った空気。
今日は立ち止まらない。
靴を脱ぎ、昨日と同じように揃える。
「今日は嗅がないんですか」
後ろから言われた。
翠は振り返る。
「もう知っているからね」
「何をです?」
「キミの家の匂い」
「覚えなくていいですよ」
「もう覚えた」
「そういうのばっかり覚えますね」
居室へ入る。
昨日は一つずつ確認した机も本棚も、今日は素通りした。
ローテーブルの前へ座る。
自分でも自然にそこへ向かったことに、座ってから気づく。
悠人はキッチンにいた。
フライパンから肉の焼ける音がする。
焦げた匂いではない。
醤油と生姜の匂い。
それだけで腹が減った。
「……いい匂いだね」
「翠先輩の部屋は?」
「何が?」
「匂い」
「…………」
翠は視線を逸らした。
「換気してきた」
「焦げ臭いんですね」
「少しだ」
「写真見る限り少しじゃなさそうでしたけど」
「画像は実物より黒く見えることがある」
「そういう言い訳初めて聞きました」
悠人はフライパンの中を返す。
横では味噌汁が温められている。
炊飯器も開いている。
手際がいい。
昨日、翠が見つけようとしていた「一人暮らしの十九歳らしい雑さ」は、こういうところにはなかった。
自分は今日、それなりに頑張った。
同じような材料を買った。
切った。
火を使った。
結果だけが違う。
「悔しいな」
「何がです?」
「まだ食べてないから分からない」
「じゃあ何に悔しがってるんです?」
「手際」
「慣れですよ」
「ボクも慣れればできる」
「できますよ」
あっさり言われた。
翠は少しだけ目を瞬いた。
「……そう思うかい?」
「だって包丁とか使えるんでしょう?」
「使える」
「今日も途中まではできてたんじゃないですか」
「途中までは完璧だった」
「写真見る限り途中から全部失敗してますけど」
「余計な一言だなあ」
悠人は笑いながら皿を出した。
そこへ生姜焼き。
千切りのキャベツ。
ご飯。
味噌汁。
二人分。
本当に二人分あった。
「最初から肉、多かったんじゃないかね?」
「明日の分にする予定だったんです」
「ではボクが救った」
「俺の明日の昼飯を奪ったんですよ」
「言い方の違いだね」
「意味も違います」
向かい合って座る。
昨日は麦茶を飲んだだけだった。
今日はテーブルの上に食事が並んでいる。
翠の家から持ってきたものは何もない。
それでも自分の分の茶碗と皿が目の前にある。
「いただきます」
「いただきます」
箸を取る。
生姜焼きを一枚。
口へ入れた。
「…………」
甘辛い味。
生姜の匂い。
肉は柔らかい。
焦げていない。
当たり前だが。
翠はもう一度噛んだ。
「……おいしい」
思ったより普通に口から出た。
悠人は少しだけこちらを見た。
「どうも」
「もっと喜びたまえ」
「自分から言ったんでしょう」
「感想を受け取ったら喜ぶものだよ」
「じゃあ、ありがとうございます」
「うむ」
もう一枚食べる。
ご飯。
味噌汁。
キャベツ。
全部普通においしい。
腹が減っていたこともあり、箸が止まらなかった。
途中から会話も減った。
テレビはない。
窓の外から、遠くを走る車の音が少し聞こえる。
箸が皿へ触れる音。
味噌汁の椀を置く音。
悠人が水を飲む。
翠も食べる。
それだけ。
不思議と気まずくはなかった。
大学の食堂では周囲に学生がいる。
動物園では必ず誰かが働いている。
居酒屋では六人だった。
二人だけで、こうして普通の夕飯を食べるのは初めてだった。
「…………」
気づけば皿が空に近い。
翠は炊飯器を見る。
次に悠人を見る。
「おかわりあります?」
「ありますよ」
「少し」
「どのくらい?」
「普通」
「翠先輩の普通が分からない」
「茶碗半分」
「はい」
茶碗を渡す。
悠人が立ち上がり、炊飯器からご飯をよそう。
戻ってきた茶碗には、本当に半分ほど入っていた。
「……ちゃんとしている」
「何がです?」
「いや」
翠は首を振った。
二杯目も食べる。
結局、生姜焼きもほとんど残らなかった。
「明日の俺の分なくなったんですけど」
「非常においしかった」
「褒めても戻りませんよ」
「また作ればいい」
「誰のせいです?」
「ボクだね」
「堂々としてるなあ」
食べ終わる。
翠は椀を重ねようとして、途中でやめた。
「それやらない方がいいですよ」
「なぜ?」
「皿の裏汚れるから」
「……そうなのか」
「洗う時ちょっと面倒です」
「なるほど」
皿を一枚ずつ持つ。
「では、約束だからね」
「本当に洗うんですか?」
「ボクを何だと思っている」
「家事を避ける人」
「避けるだけでできないとは言っていない」
キッチンへ運ぶ。
狭いシンク。
翠はブラウスの袖を肘まで捲った。
水を出す。
スポンジに洗剤。
皿を洗う。
特に危なっかしいところはない。
悠人が横から見ている。
「できるじゃないですか」
「だから言っただろう」
泡を流しながら、翠は少し胸を張る。
「できることと、やりたいことは別だ」
「本当にそこだけ一貫してますね」
「信念だからね」
「怠ける信念いらないでしょう」
洗った皿を悠人が受け取り、布巾で拭く。
二人立つと、キッチンはかなり狭かった。
一歩動けば肩が触れそうになる。
翠が皿を渡す。
悠人が受け取る。
次。
また次。
特に何も起きない。
それでも、一人で洗うより早かった。
「狭いな」
「一人暮らし用ですからね」
「二人いるからだろう」
「そうとも言います」
最後にフライパン。
翠がスポンジを当てる。
洗う。
するりと汚れが落ちた。
「…………」
「どうしました?」
「キミのフライパンは簡単に落ちる」
「焦がしてないので」
「嫌味か?」
「事実です」
「明日、ボクのも洗ってくれないかね?」
「嫌です」
「非常に手強い」
「自分で焦がしたんでしょう」
「敵が強い」
「火加減の問題です」
全部洗い終わる。
コンロ周りも一応拭いた。
自分の家では、料理をしたあとここまでやることを考えるだけで面倒になる。
でも今日は二人だったせいか、それほど長く感じなかった。
翠は袖を戻す。
「終わり」
「ありがとうございます」
「うむ」
「ちゃんとできましたね」
「子供扱いしてないかい?」
「してないですよ」
「ならいい」
部屋へ戻る。
時計を見ると、八時前だった。
来てからまだ一時間も経っていない。
それなのに、昨日よりずっと長くいたような気もする。
「そろそろ帰るよ」
「近いですからね」
「そこは引き留めるところでは?」
「なんでです?」
「いや、別に」
翠は立ち上がる。
玄関へ向かう。
靴を履く。
悠人も後ろまで来た。
「次は火から目を離さないでくださいね」
「次?」
翠は振り返った。
「また作るんでしょう?」
「…………」
失敗した料理。
焦げた匂い。
黒い肉。
さっきまでなら、しばらく料理なんてしなくていいと思っていた。
それなのに。
「……まあ」
翠は少しだけ笑った。
「気が向いたらね」
「じゃあ次は食べられるといいですね」
「次は写真を送ってやる」
「黒くないやつでお願いします」
「覚えていたまえ」
ドアを開ける。
廊下へ出る。
「それじゃあ」
「はい」
「ごちそうさま」
「お粗末さまでした」
エレベーターへ向かう。
乗る。
一階。
外へ出る。
道路を渡る。
自分のマンションへ戻るまで、本当に一分もかからなかった。
部屋のドアを開ける。
最初に入ってきたのは、まだ残っている焦げた匂いだった。
「…………」
翠は換気扇をもう一度回した。
キッチンへ行く。
冷蔵庫を開ける。
ラップをかけた黒い鶏肉がいる。
「明日だな」
何が明日なのかは決めていない。
とりあえず冷蔵庫を閉じた。
スマートフォンが震える。
悠人だった。
『焦げたやつ、無理して食べないでくださいね』
「…………」
見られていたらしい。
『分かっている』
送る。
少し考える。
もう一文。
『明日の夕飯は?』
既読。
すぐ返事。
『もう来る前提で聞かないでください』
翠は画面を見た。
それから、誰もいない部屋で少し笑った。
『聞いただけだよ』
送る。
十秒ほどして。
『カレーです』
「…………」
翠は冷蔵庫を見る。
焦げた鶏肉を見る。
もう一度スマートフォンを見る。
『何人分?』
今度は、しばらく既読しか返ってこなかった。




