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ボクを飼ってみないか?!  作者: 御HeSummer3
第1章

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翠先輩は働く

 午前七時四十一分。


 中央常磐動物園のネコ科エリアには、まだ来園者の姿がなかった。


 開園前の園内は静かだった。


 遠くで清掃車の走る音がする。


 獣舎の奥では金属製の扉が開閉し、別の区画からは水を流す音が聞こえていた。


 野々宮翠は作業着の袖を肘まで捲り、髪を後ろで一つにまとめていた。


 昨日の夜。


 自宅のキッチンで鶏肉を黒くした女と同一人物には、あまり見えない。


「翠ちゃん、昨日の記録見た?」

「見ました。シラユキは残餌なしです。排泄も記録上は問題ありません」

「了解。じゃあ先にこっちお願いしていい?」

「はい」


 榊原佳澄に言われ、翠は返事をすると、そのまま道具を持って奥へ向かった。


 中央常磐動物園で学生の飼育補助として働き始めてから、もう長い。


 最初の頃は、一つ作業が終わるたびに職員へ確認していた。


 何をするのか。


 どこまで触っていいのか。


 次は何を手伝えばいいのか。


 今は違う。


 任されている範囲は分かっている。


 分からないことは聞く。


 勝手に判断してはいけないことも分かっている。


 だからこそ、動けるところでは止まらなかった。


 使用済みの器具をまとめる。


 床の汚れを落とす。


 水を替える。


 前日の残餌を確認する。


 記録と照らす。


 餌の量を量る。


 使った道具は元の場所へ戻す。


 どれも特別な作業ではない。


 動物園で毎日繰り返される仕事だった。


 だから、雑にしていいものでもなかった。


「翠先輩、これどこでしたっけ」


 少し離れたところから、別の学生が声をかけてきた。


 翠は手を止めずに顔だけ向ける。


「青いケースなら右の棚の二段目だよ。赤い札がついている方は使わないでくれたまえ」

「分かりました」

「あと、終わったら洗浄台へ持っていってくれるかい?」

「はい」

「よろしく」


 それだけ言って、また手元へ戻る。


 動物園ではよく喋る。


 大学では一人でいることの多い翠だったが、ここでは必要な言葉を惜しまなかった。


 誰が何をしているか。


 どこまで終わったか。


 何がまだ残っているか。


 動物相手の仕事では、黙って勝手に進める方が危ないこともある。


 翠はその辺りをよく分かっていた。


 八時を少し過ぎた頃。


 餌の準備を終えた翠は、展示場の奥へ目を向けた。


「…………」


 岩場を模した展示場の上段に、シラユキはいた。


 雌のユキヒョウ。


 薄い灰白色の毛に黒い斑紋が散り、太く長い尾が岩棚の縁から垂れている。


 中央常磐動物園で暮らすネコ科動物の一頭で、翠が普段から世話を手伝っている個体だった。


 シラユキは寝ているわけではなかった。


 頭を上げている。


 目も開いている。


 こちらの動きにも反応している。


 だから、最初は何もおかしく見えなかった。


 翠はそのまま少し見ていた。


 シラユキが身体を起こす。


 前肢を伸ばす。


 ゆっくり立ち上がる。


 岩棚の端まで歩く。


 そこから一段下へ降りた。


「…………」


 翠の眉がわずかに寄った。


 もう一段。


 降りる。


 止まる。


 右へ身体を向ける。


 その時だけ。


 本当に少しだけ。


 身体が外へ流れた。


 翠は動かなかった。


 声もかけない。


 もう一度歩くのを待つ。


 シラユキはその場で周囲を見てから、別の岩へ移った。


 直線では普通だった。


 歩幅も大きく崩れてはいない。


 右前肢を明らかに上げているわけでもない。


 それでも。


「佳澄さん」


 翠が呼ぶ。


 榊原がこちらを向いた。


「どうした?」

「シラユキ、少し見てもらってもいいですか」


 榊原はすぐ近くまで来た。


「どこ?」

「右前肢だと思います。ただ、痛めているとはまだ言い切れません」

「歩き方?」

「直線ではほとんど分からないです。右へ方向を変える時だけ、少し重心が外へ逃げているように見えます」


 榊原は展示場を見る。


 翠も見る。


 二人ともそれ以上は言わなかった。


 シラユキは岩の上で一度止まり、後ろを振り返った。


「朝から?」

「少なくとも今、二回ありました」

「昨日は?」

「記録にはありません。残餌なし、排泄も特に問題なしです」

「食欲は?」

「今朝はまだこれからです」

「分かった」


 榊原は少し考えたあと、無線機へ手を伸ばした。


「佐伯先生にも一回見てもらおう。翠ちゃん、そのまま様子見ててくれる?」

「はい」

 

 翠は頷いた。


 それからも必要以上に近づかなかった。


 動かして確認しようともしない。


 見たいから歩かせる。


 確かめたいから立たせる。


 そういうことはしなかった。


 ただ、自然に動くのを待った。


 シラユキがどこへ足を置くか。


 身体をどちらへ向けるか。


 尾の使い方。


 止まる位置。


 そしてまた右へ向きを変えた時。


 同じ動きが出た。


「……やっぱり少しあるな」


 小さく呟く。


 今度は記録用の端末へ時間と状況を残した。


 断定はしない。


 ただ、見えたことを書く。


 それだけだった。


 しばらくして、動物園の獣医師である佐伯真琴が来た。


「おはよう。シラユキ?」

「はい」


 翠はすぐ場所を空ける。


「どういう感じ?」

「右へ身体を返す時だけ、少し重心が逃げるように見えます。直線では目立ちません。今朝は三回確認しました」

「右前肢?」

「だと思います。ただ、そこまでは断定できません」

「分かった」


 佐伯も展示場を見る。


 翠は横へ立ったまま、余計なことは言わなかった。


 獣医が来たからといって、自分の見立てを押し通す必要はない。


 自分が見たものを伝える。


 あとは必要な判断をしてもらう。


 それが今の自分の立場だった。


 シラユキはその後、給餌には反応した。


 餌も食べた。


 大きく食欲が落ちている様子はない。


 佐伯と榊原が相談し、その日は展示場での動きを注意して見ることになった。


「今のところ大きく心配する感じではなさそうだけど、念のためね」


 佐伯が言う。


「はい」

「翠ちゃん、気づいてくれて助かった」

「いつもと少し違ったので」

「そういうのが一番大事だから」


 佐伯はそう言って、別の区画へ向かった。


 翠はその背中を見送る。


 褒められたからといって、特に表情は変わらなかった。


 そのまま端末へ追記する。


 それが終われば、次の仕事がある。


「翠ちゃん、こっち終わったよ」

「ありがとうございます。じゃあ次、清掃の方へ回ります」

「お願い」

「はい」


 また動く。


 床を流す。


 道具を洗う。


 餌の準備をする。


 別の個体の様子を見る。


 誰かの手が足りなければ入る。


 頼まれたことを終えたら、その次を探す。


 家では洗濯物を洗濯機の中へ置き去りにする。


 冷蔵庫には少し前までプリンとゼリーしか入っていなかった。


 昨日は夕飯を焦がした。


 それでもここでは、使った器具を出しっぱなしにはしない。


 記録も後回しにしない。


 動物の餌を「面倒だから」で済ませることもない。


 自分のことなら、いくらでも後回しにできる。


 動物のことは、できなかった。


 午前九時半を過ぎた頃。


 ネコ科エリアへ一人の学生が入ってきた。


 見慣れた黒髪。


 眼鏡。


 手には小さなケースを持っている。


「翠先輩」


 高瀬悠人だった。


「悠人」


 翠は振り返る。


「それ、こっちのかい?」

「はい。鷹野さんに頼まれて持ってきました」

「ありがとう。そこへ置いておいてくれるかい?」

「分かりました」


 悠人はケースを指定された場所へ置いた。


 それから少しだけ周囲を見る。


 翠はすでに別の作業へ戻っていた。


 手袋をしたまま器具を確認し、使ったものと未使用のものを分けている。


 途中で別の学生に声をかけられれば答える。


 榊原に呼ばれればすぐ向かう。


 動きに迷いがない。


「翠先輩」

「なんだい?」

「昨日のフライパン、どうしました?」


 翠の手が止まった。


「…………」


 ゆっくり顔だけ向ける。


「今、その話をする必要があるかね?」

「いや、普通に気になって」

「今のボクを見たまえ」

「見てます」

「ふふん、非常に有能だろう?」

「仕事は」

「仕事は、とは何だ!」


 近くにいた学生が少しだけ笑った。


 翠はそちらを見る。


「笑うところではないぞ」

「すみません」

「まったく」


 悠人も少し笑っている。


「家ではあれなのになって思っただけです」

「口に出した!」

「すみません」

「全然反省していないだろう」

「してますよ」

「嘘だな」


 翠は軽く睨む。


 それでも次の瞬間には、展示場へ目を向けていた。


 シラユキが少し位置を変えている。


 悠人もその視線を追った。


「何かあったんですか?」


 声が少し変わった。


「まだ分からない」


 翠も同じように仕事の声へ戻る。


「右前肢だと思うんだが、方向転換の時だけ少し重心が逃げる。佳澄さんと佐伯さんには見てもらった」

「食欲は?」

「ある。朝も食べているよ」

「じゃあ今は様子見ですか」

「うん。大きく崩れてはいない。ただ、いつもと違うからね」


 悠人も展示場を見る。


 しばらく黙る。


 シラユキが岩棚の上を歩く。


 止まる。


 身体を返す。


「……確かに」


 悠人が小さく言った。


「分かるかい?」

「今のだけなら少し」

「だろう?」

「でも俺だったら最初は見逃してたかもしれません」

「そうかね」

「はい」


 翠は少しだけ口元を緩めた。


「では、先輩らしいところを見せられたな」

「昨日の失敗は消えませんけど」

「まだ言うか!」


 悠人が笑う。


 翠も呆れたように息を吐いた。


「仕事に戻りたまえ」

「はい、翠先輩」

「よろしい」


 悠人はケースを置いた場所をもう一度確認し、猛禽類側へ戻っていった。


 翠はその背中を見送ってから、またシラユキを見る。


 少し時間が経つ。


 今度は左へ身体を返す。


 こちらは普通。


「…………」


 端末へ追記する。


 それからまた仕事へ戻った。


 午前中は、そのまま慌ただしく過ぎた。


 開園時間を過ぎれば来園者も増える。


 展示場の前では子供がユキヒョウを指差し、保護者がスマートフォンを構えていた。


 その裏側で、飼育員たちは変わらず動く。


 動物が食べたか。


 排泄したか。


 寝ているか。


 歩いているか。


 普段と変わらないか。


 何も起きない一日を作るために、細かい確認を積み重ねる。


 翠もその中にいた。


 昼を過ぎた頃には、シラユキの動きも朝より落ち着いていた。


 それでも記録は続ける。


 少し良く見えたから終わり。


 そういうことにはしない。


 自分が帰ったあとを見る人間がいる。


 翌日確認する人間もいる。


 だから残す。


 それが仕事だった。


 午後四時過ぎ。


 ようやく今日の担当を終えた翠は、更衣スペースで髪をほどいた。


 ゴムを外すと、まとめていた明るい茶色の髪が肩へ落ちる。


 作業着を脱ぐ。


 私服へ戻る。


 鏡を見る。


「…………」


 朝から動き続けたせいで、少し疲れていた。


 それでも悪い疲れではない。


 荷物を持って外へ出る。


 職員用の通路から園内へ出たところで、ちょうど向こうから悠人が歩いてきた。


「終わりました?」

「今ね」

「俺もです」

「では帰ろうか」

「はい」


 二人で駅の方へ歩き始める。


 仕事を終えた園内には、まだ来園者が残っている。


 子供の声。


 園内放送。


 売店から漂う甘い匂い。


 朝の静けさとはずいぶん違っていた。


「シラユキ、どうでした?」


 悠人が聞く。


「午後は朝より気にならなかったよ。ただ、明日も見てもらう」

「そうですか」

「うん」


 翠は少し伸びをした。


「今日は働いた」

「いつも働いてるでしょう」

「もっと褒めてもいいぞ」

「ちゃんと働いてましたね」

「雑!」

「じゃあ、すごく働いてました」

「もっと雑になったな」


 悠人が笑う。


 翠も少しだけ笑った。


 それから数歩歩く。


「ところで悠人」

「はい」

「今日の夕飯は?」

「カレーです」


 翠の足が少し速くなった。


「覚えていたか」

「昨日自分で聞いたでしょう」

「ふむ」

「なんです?」

「では」

「嫌ですよ」

「まだ何も言っていない!」

「何人分か聞くつもりでしょう」

「なぜ分かった」

「昨日と同じだからです」

「失礼だな。今日は違うかもしれないじゃないか」

「じゃあ何を言うつもりだったんです?」


 翠は少し考えた。


「…………何人分?」

「ほら」

「予知能力かね?」

「ただの学習です」


 駅へ向かう道の途中。


 翠は肩を落とした。


「今日は非常によく働いたんだが」

「それと夕飯は別です」

「なら、働いた者には褒美が必要だろう」

「自分で食べるものくらい用意してください」

「昨日失敗したばかりの人間に厳しくないかね?」

「だから練習するんでしょう」

「キミは時々、正論で人を殴るね」

「殴ってません」


 それでも翠は諦めず、悠人の半歩横を歩き続ける。


 家まで帰れば、道路一本。


 昨日までは、それぞれの家へ帰るだけだった。

 今は、夕飯の行き先まで少し怪しくなっている。

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