翠先輩はカレーを狙う
「何人分?」
「ほら」
「予知能力かね?」
「ただの学習です」
中央常磐動物園から最寄り駅へ向かう道を歩きながら、翠先輩は不満そうに唇を尖らせた。
夕方の空はまだ明るい。
九月に入ったとはいえ、日が沈むには少し早く、園を出た来園者たちが駅へ向かう流れに混じって、俺たちもゆっくり歩いていた。
朝から動き続けたせいか、翠先輩の足取りはいつもより少しだけ重い。
それでも夕飯の話になった途端、さっきまでより歩く速度が上がったのだから、分かりやすい人ではある。
「カレーなら一人分も二人分も大して変わらないだろう?」
「変わりますよ」
「どこが?」
「肉と野菜と米の量が」
「非常に細かいな」
「人数が増えるんだから当然でしょう」
「鍋は同じじゃないか」
「鍋の話してないです」
翠先輩は少し考えたあと、こちらを見る。
「では、二人分作りたまえ」
「なんで命令なんですか」
「先輩だからね」
「大学では同学年でしょう」
「動物園を出てまだ十分も経っていない」
「効力の残存時間みたいに言わないでください」
「先輩権というものには余韻があるのだよ」
「初めて聞きました」
駅前へ近づくにつれ、人が増えていく。
信号を渡る。
電車へ乗る。
途中で席が一つ空いたので翠先輩へ譲ると、素直に座った。
「悠人は?」
「すぐ着くからいいです」
「そうか」
翠先輩は背もたれへ少し身体を預けた。
動物園ではあれだけ止まらずに動いていたのに、仕事を離れた瞬間、一気に電池が切れたように見える。
目を閉じる。
眠るほどではないらしい。
電車が揺れるたび、まとめていた髪をほどいたあとの明るい茶色の髪が肩で小さく動いた。
「寝ます?」
「寝ない」
「目、閉じてますけど」
「休んでいるだけだ」
「それ寝る人の言い方ですよ」
「駅に着いたら起こしたまえ」
「やっぱり寝るんじゃないですか」
「違う。万が一だ」
「はいはい」
「雑だなあ」
その三分後には、本当に眠っていた。
口は閉じていた。
姿勢も崩れていない。
ただ、呼吸が少し深くなっていた。
朝五時台に起きて、七時台から動物園で働き、夕方まで。
疲れて当然ではある。
こうしていると、今日の午前中にシラユキの小さな変化を見つけた人とは少し違って見えた。
いやたぶん、どちらも同じなのだろう。
自分のことになると途端に雑になるだけで。
最寄り駅へ着く少し前。
「翠先輩」
「……んぅ」
「着きますよ」
「起きている」
「今起きたでしょう」
「最初から起きていた」
「じゃあ駅名言ってください」
「…………」
翠先輩はゆっくり目を開けた。
窓の外を見る。
「ここどこだい?」
「完全に寝てたじゃないですか」
「人間には休息が必要なのだよ」
「俺が言うと怒るくせに」
「キミは休息の量が足りない。ボクは適切だ」
「便利な理屈ですね」
電車を降りた。
改札を抜ける。
いつもの道を歩く。
この辺りまで来ると、二人の帰り道はほとんど同じだった。
以前なら、それぞれどこに住んでいるかさえ知らなかった。
今は違う。
角を曲がれば、翠先輩の建物。
その斜め向かいに俺の建物。
道路一本。
十二秒、翠先輩調べ。
「では」
自分のマンションの前まで来たところで、翠先輩が立ち止まった。
「はい」
「何時頃できる?」
「何がです?」
「カレー」
「来ること確定してませんよ」
「まだだったのか?」
「誰が許可しました?」
「ここまでの会話で」
「どこにも許可する部分なかったでしょう」
翠先輩は目を細めた。
「昨日、ボクは皿を洗った」
「交換条件にするんですか」
「しかもフライパンも洗った」
「俺のですけどね」
「コンロも拭いた」
「だから何です?」
「今日くらい食事が出てもいい」
「昨日出たでしょう」
「昨日は昨日だろう」
「毎日更新されるんですか、その権利」
「当然だ」
「嫌ですよ」
「む」
翠先輩が少し考える。
それから、自分のマンションを見る。
次に俺のマンションを見る。
最後に俺を見る。
「手伝う」
「え?」
「今日はボクも作る」
予想していなかった言葉だった。
「カレーを?」
「そうだ」
「昨日焦がしたのに?」
「だからこそだよ」
翠先輩は少し胸を張った。
「昨日の失敗をもって、ボクの料理能力全体を評価されるのは非常に不本意だ」
「別に評価してませんけど」
「しているだろう」
「まあ、多少は」
「ほら!」
翠先輩は俺を指差した。
「今日は焦がさない」
「カレーなら焦がしにくいですしね」
「そういう逃げ道のある料理から成功体験を積むのも重要だろう?」
「急に教育論みたいになりましたね」
「ボクは獣医学科の学生だぞ」
「料理と関係ないでしょう」
「学習という点では同じだ」
どこまで本気なのか分からない。
ただ、昨日の失敗が少し悔しかったのは本当らしい。
「分かりました」
「お」
「手伝うなら」
「やった」
「ただし」
「まだあるのかね?」
「途中で面倒になったって投げないでくださいね」
翠先輩は真顔になった。
「それは難しい条件だな」
「じゃあ帰ってください」
「努力する!」
即答だった。
結局。
そのまま道路を渡った。
十二秒。
今日は測っていない。
エレベーターで四階まで上がる。
俺が鍵を開けると、翠先輩はもう慣れた様子で靴を脱いだ。
昨日は玄関に入った瞬間、部屋の匂いを確認していた。
今日はしない。
靴を揃える。
そのまま中へ入る。
「手、洗いますよ」
「分かっている」
「昨日のフライパン触った手でそのまま料理した人が言っても」
「昨日はちゃんと洗った!」
「じゃあいいです」
「キミ、しばらく昨日の話を使うつもりだな?」
「便利なので」
「性格が悪いぞ」
洗面所で手を洗う。
俺も続く。
翠先輩はタオルで手を拭くと、そのまま冷蔵庫の前へ向かった。
「勝手に開けないでください」
「もう一度見ている」
「回数の問題じゃないです」
「カレーの材料を確認する必要があるだろう?」
「ありますけど」
「では問題ない」
冷蔵庫を開ける。
「玉ねぎ」
「あります」
「にんじん」
「あります」
「じゃがいも」
「下です」
「肉」
「豚です」
「カレールー」
「棚」
翠先輩が振り返った。
「完璧だな」
「普通ですよ」
「ボクの家なら、これだけで買い物が必要になる」
「知ってます」
「今は少し増えたぞ」
「昨日見ました」
「そうだった」
冷蔵庫を閉める。
俺は棚からカレールーを出した。
「何します?」
「全部任せたまえ」
「嫌です」
「なぜ?」
「全部任せるの怖いからです」
「昨日の一回で信用を失いすぎではないかね?」
「火を使うところだけでいいですか?」
「子供扱いしているだろう」
「じゃあ野菜切ります?」
「できる」
「知ってます」
昨日の話を聞いた限り、包丁は普通に使える。
実際、翠先輩は自宅でも鶏肉と野菜を問題なく切っていたらしい。
失敗したのは、その後だ。
俺はまな板と包丁を出した。
「玉ねぎお願いします」
「うむ」
「二個」
「多くないか?」
「二人分より多めに作ります」
「なるほど」
「明日も食べられるので」
「賢い」
「普通です」
「それをすぐ普通と言うのはよくないぞ」
「なんでです?」
「世の中にはカレーを一食分だけ作る人間もいる」
「いるでしょうね」
「ボクとか」
「作らないでしょう」
「確かに」
翠先輩が玉ねぎの皮を剥く。
手つきは普通だった。
危なっかしくもない。
包丁を入れる。
半分にする。
根元を落とす。
大きさを揃えて切っていく。
「本当にできるんですよね」
「だから言っているだろう」
「昨日の印象が強すぎて」
「キミの中の昨日を消去したい」
「無理です」
「記憶というものは不便だな」
俺はその横でにんじんとじゃがいもを切った。
キッチンは広くない。
一人なら十分。
二人並ぶと、少し気を使う。
昨日も皿洗いの時に思った。
一歩横へずれればぶつかる。
引き出しを開ける時は、相手に少し避けてもらう。
「翠先輩、後ろ」
「うん?」
「包丁持ってるので」
「ああ」
翠先輩が半歩下がる。
俺が通る、それだけ。
特に何もない。
昨日よりは、こうして二人でキッチンに立つことにも慣れていた。
「肉は?」
「俺が切ります」
「やらせたまえ」
「いいですよ」
「なぜそこで急に許可する?」
「別に危なくないので」
「信用が戻った」
「肉を切る部分だけ」
「狭いな」
「評価範囲が?」
「キミの信用が」
切った材料を皿へ分ける。
鍋を出す。
油。
翠先輩がこちらを見る。
「ここからボクがやろう」
「本当に?」
「昨日の敗因は分かっている」
「なんです?」
「目を離した」
「かなり基本的なところですね」
「今日は離さない」
「じゃあお願いします」
翠先輩が鍋の前へ立つ。
俺は横へ退いた。
油を入れる。
火をつける。
肉を入れる。
音が上がる。
翠先輩の顔が少しだけ真剣になった。
「火、強くないですか?」
「これくらいだろう?」
「少し下げてもいいです」
「了解」
火を弱める。
肉を混ぜる。
表面の色が変わる。
玉ねぎ。
にんじん。
じゃがいも。
順番に入れる。
今度は焦げる匂いはしない。
「どうだ」
「まだ途中です」
「今のところ完璧だろう?」
「今のところは」
「その一言が余計だ」
鍋の中で野菜が油をまとい、玉ねぎの端が透け始める。
翠先輩は木べらを動かしながら、時々鍋の中を覗いた。
昨日の失敗があるからか、今日は本当に目を離さない。
「水、入れますよ」
「うむ」
計量カップで水を入れる。
一気に音が変わった。
煮立つまで待つ。
アクを取る。
ここからは少し暇になる。
「これで終わりかい?」
「まだルー入れて煮ます」
「料理というのは待ち時間が多いな」
「そこでスマホ見て焦がしたんでしょう」
「…………」
「図星ですか?」
「今日は見ない」
翠先輩がスマートフォンを取り出しかけて、またポケットへ戻した。
「偉いですね」
「子供を褒める言い方をやめたまえ」
「ちゃんとしてるじゃないですか」
「…………」
翠先輩が少し止まった。
「なんです?」
「いや」
「何?」
「昨日、それを言わせたかったんだよなと思って」
俺は一瞬、何の話か分からなかった。
すぐに思い出す。
黒くなった鶏肉。
成功した写真を送って、褒めてもらうつもりだったという話。
「ああ」
「今日は言わせた」
「まだ完成してませんよ」
「キミは本当に余韻を壊すね」
「焦げたら困るでしょう」
「今日は焦げない!」
鍋が煮立つ。
火を弱める。
しばらく煮込む。
翠先輩はその間、低いテーブルの前へ座った。
俺は米の残りを確認する。
「手伝うんじゃなかったんですか?」
「今は煮込むという作業をしている」
「鍋が?」
「ボクが」
「座ってますけど」
「監督だ」
「離れてるでしょう」
「匂いで分かる」
「昨日それで失敗したんじゃないですか」
翠先輩が立ち上がった。
「キミは本当にしつこいな!」
「効いてるうちに使います」
「覚えていたまえ」
「何をです?」
「いつかキミも失敗する」
「怖いこと言わないでください」
十五分ほどして、野菜へ火が通った。
いったん火を止める。
ルーを割り入れる。
「ボクがやる」
「どうぞ」
翠先輩が箱の表示を見ながら、必要な分だけ入れていく。
「全部じゃないのか?」
「鍋の量見てください」
「なるほど」
「本当に普段作らないんですね」
「だから言っているだろう」
溶かす。
弱火。
とろみが出るまで煮る。
今度こそ完成だった。
翠先輩が鍋の中を覗く。
「……カレーだ」
「カレーですね」
「黒くない」
「普通は黒くならないです」
「昨日より進歩した」
「昨日が低すぎるんですよ」
「成功は成功だろう?」
「そうですね」
俺は皿を二枚出した。
米をよそう。
翠先輩が鍋を持つ。
「よそいます?」
「任せたまえ」
「服に飛ばさないでくださいね」
「信用がない!」
「鍋重いので気をつけて」
「はいはい」
それでも問題なく、二皿分。
茶色いルー。
じゃがいも。
にんじん。
玉ねぎ。
豚肉。
見た目は普通。
普通のカレーだった。
昨日の夕飯とは違う。
「写真を撮る」
翠先輩がスマートフォンを出した。
「誰に送るんです?」
「ボクに」
「自分に?」
「記録だよ」
皿を撮る。
少し角度を変える。
もう一枚。
「そんなに撮ります?」
「昨日との比較が必要だ」
「比較対象として極端すぎません?」
「成長が分かりやすい」
満足したらしい。
スマートフォンを置く。
二人で低いテーブルを挟んで座った。
「いただきます」
「いただきます」
翠先輩が一口食べる。
少しだけ目を見開いた。
「……普通においしい」
「そりゃカレーですから」
「もっと喜びたまえ」
「昨日も言われましたね、それ」
「ボクは褒めているんだぞ」
「ありがとうございます」
「雑!」
俺も食べる。
普通にできている。
少し玉ねぎが大きい。
でもそれくらいだった。
「玉ねぎ、大きかったか?」
「少し」
「気づいたか」
「まあ」
「そこだけ反省点だな」
「次小さくすればいいでしょう」
「次」
翠先輩がスプーンを止める。
「また作る前提なんだな」
「昨日も同じこと言いましたよ」
「ああ」
思い出したらしい。
少し笑う。
「そうだった」
それからまた食べる。
会話は少しずつ減った。
昨日の生姜焼きの時と同じだった。
食べる。
水を飲む。
また食べる。
スプーンが皿へ当たる音。
外から車が通る音。
二人だけの部屋。
それが昨日より、少しだけ普通になっていた。
「おかわりある?」
「ありますよ」
「少し」
「昨日も少しって言ってましたね」
「今日は本当に少しだ」
「信用できない」
「失礼だな」
結局、普通に一膳分食べた。
皿を空にする。
翠先輩は満足そうに息を吐いた。
「カレーはいいな」
「急にどうしたんです?」
「失敗しにくい」
「そこですか」
「量も作れる」
「はい」
「翌日も食べられる」
「はい」
「洗い物もそこまで多くない」
「そこ重要なんですね」
「非常に重要だ」
翠先輩は空になった皿を見た。
「ボクでも作れる」
「作れてたでしょう」
「一人でも?」
「できますよ」
「…………」
「なんです?」
「一人だと面倒だな」
「でしょうね」
即答すると、少し睨まれた。
「そこは励ますところでは?」
「できますけど、やらないでしょう?」
「よく分かっている」
「長いので」
「付き合いが?」
「動物園の」
「ああ」
翠先輩は納得したように頷いた。
付き合い。
そういう意味では長い。
俺が高校生の頃から。
でも今みたいに、同じ部屋でカレーを食べるようになったのは、ほんの最近だ。
皿を重ねようとした翠先輩の手を止める。
「重ねなくていいです」
「また?」
「裏汚れるので」
「覚えていた」
「じゃあ、やらないでください」
「習慣というものは恐ろしいな」
俺が皿を持つ。
翠先輩も立つ。
「洗う」
「今日はいいですよ」
「なぜ?」
「料理手伝ったでしょう」
「しかし昨日の契約では」
「契約じゃないです」
「では、今日は免除?」
「はい」
翠先輩は少し考えたあと、すぐ座った。
「そうか」
「切り替え早いですね」
「やらなくていいなら、やらない」
「知ってます」
俺がキッチンへ立つ。
皿を洗う。
鍋は水につける。
背後では翠先輩がスマートフォンを見ていた。
昨日とは逆だった。
昨日は俺が皿を拭いて、翠先輩が洗っていた。
今日は一人で片づける。
それなのに、後ろに誰かいるだけで、部屋の感じが少し違う。
「ねぇ、悠人」
「はい」
「今日の写真、母に送ろうかな」
「いいんじゃないですか」
「驚くだろうな」
「普段どれだけ料理しないんです?」
「実家にいた頃は母が作っていたからね」
「手伝わなかったんですか」
「時々は」
「じゃあできますよね」
「できることと、やりたいことは別だ」
「またそれですか」
「信念だからね」
「怠けることに信念持たないでください」
「生き方と言いたまえ」
「嫌です」
洗い終わる。
手を拭く。
時計を見る。
七時半を少し過ぎたところだった。
まだ遅くない。
「翠先輩」
「ん?」
「帰ります?」
「もう?」
「道路一本ですけど」
「そうだな」
翠先輩は時計を見る。
スマートフォンを見る。
部屋を見回す。
それから低いテーブルの上に残っていた水を一口飲んだ。
「あと少し」
「何するんです?」
「何もしない」
「じゃあ帰ればいいじゃないですか」
「ここにいてもいいだろう?」
「まあ、別にいいですけど」
「では、いる」
あっさり決まった。
俺は机へ向かった。
今日のうちに少し進めておきたいレポートがある。
ノートパソコンを開く。
翠先輩は低いテーブルの前。
スマートフォン。
時々、大学の資料。
同じ部屋で、それぞれ別のことをする。
話すわけでもない。
何か特別なことをするわけでもない。
十分ほど経つ。
二十分。
「悠人」
「はい」
「これ、提出いつ?」
翠先輩が大学の課題画面を見せる。
「来週じゃないですか」
「まだあるな」
「だからって前日にやるのやめた方がいいですよ」
「キミにだけは言われたくない」
「俺は前日じゃないです」
「深夜だろう」
「時間の話じゃないでしょう」
「似たようなものだ」
また静かになる。
気づけば八時を回っていた。
「そろそろ帰ったらどうです?」
「うむ」
今度は素直だった。
翠先輩が立ち上がる。
鞄を持つ。
玄関へ向かう。
俺も見送る。
靴を履く前に、翠先輩が振り返った。
「今日は成功だったな」
「カレー?」
「うん」
「成功でしょうね」
「半分はボクが作った」
「半分?」
「少なくとも四割」
「三割くらいじゃないですか」
「五割」
「増えた」
「交渉だよ」
「何の?」
「達成感の配分」
「好きにしてください」
翠先輩は靴を履いた。
「ごちそうさま」
「はい」
「次はもう少しやる」
「本当に?」
「たぶん」
「信用できない」
「キミは今日そればかりだな」
扉を開ける。
廊下の空気が入る。
「じゃあ」
「はい」
「また明日」
「大学で?」
「たぶん」
「たぶんなんですか」
「会わなければ夜にでも」
「なんで夜も会う前提なんです?」
翠先輩は少し考えた。
「近いから?」
「理由になってないですよ」
「十二秒だぞ」
「知ってます」
「では」
満足そうに笑って、外へ出た。
扉が閉まる。
静かになる。
低いテーブルの上には、さっきまで翠先輩が使っていたコップが一つ残っていた。
俺の分と合わせて二つ。
昨日も見た光景だった。
ただ、昨日より少しだけ、それを特別だと思わなくなっている。
俺はコップを持ってキッチンへ向かった。
近いというだけだったはずの距離を、俺たちは少しずつ使い始めていた。




