翠先輩は暇
日曜日の午後。
野々宮翠は暇だった。
正確には、やることが何もないわけではない。
大学の課題がある。
洗濯物もある。
冷蔵庫の中身も、そろそろ確認した方がいい。
部屋の隅には、昨日使った鞄が置いたままになっている。
探せばいくらでもある。
ただし、それらは翠の中で「今日やらなければならないこと」には分類されていなかった。
「…………」
ベッドの上。
翠は仰向けになって天井を見ていた。
家に一人なので、服は着ていない。
下着だけだった。
別に暑いからではない。
寒ければ毛布を掛ける。
誰かに見せるためでもない。
一人で過ごすのに、わざわざ外出着から部屋着へ着替え、あとでまた脱ぐという工程が、翠にはどうしても一つ多く思える。
そもそも部屋着を持っていない。
だから帰宅したら脱ぐ。
それで終わり。
極めて合理的である。
少なくとも本人はそう思っていた。
「暇だなあ」
呟いてみる。
返事はない。
当然だった。
スマートフォンを取る。
動画。
少し見る。
飽きる。
ニュース。
興味がない。
大学の連絡。
見なかったことにする。
時計は午後二時十三分。
昼食は食べた。
昨日、悠人と作ったカレーの残りではない。
あれは悠人の家にある。
翠の昼食は食パンとヨーグルトだった。
一応、以前よりはまともになっている。
「…………」
スマートフォンを胸元に置く。
また天井を見る。
一分。
二分。
三分。
何も起きない。
「暇だ」
さっきより少し大きな声で言った。
やはり何も起きなかった。
翠は寝返りを打つ。
窓を見る。
カーテンの向こうは明るい。
その向こう。
道路を一本挟んだところに、悠人の住む建物がある。
「…………」
スマートフォンを取る。
メッセージを開く。
『悠人』
送る。
既読。
思ったより早い。
『はい』
『何してる?』
少し間が空いた。
『レポート』
「またか」
声に出た。
『日曜日だぞ』
『日曜日だから進めてるんです』
『模範的な学生だな』
『翠先輩は?』
翠は天井を見た。
『暇』
送る。
『課題は?』
『暇』
『洗濯は?』
『暇』
『掃除』
『暇』
『やることあるじゃないですか』
翠は眉を寄せた。
『それと暇は別問題だろう』
『初めて聞きました』
昨日も似たようなことを言われた気がする。
翠は身体を起こした。
ベッドの上で膝を抱える。
『いる?』
『家に?』
『うん』
『いますよ』
『行っていい?』
送ってから、返事を待つ。
数秒。
『何かありました?』
『特にはない』
また少し間が空いた。
『じゃあ何しに来るんですか』
翠は考えた。
何をしに。
特にない。
昨日のようにカレーを狙っているわけではない。
夕飯には早い。
忘れ物もない。
借りたいものもない。
用事もない。
『暇だから』
送った。
『家にいてくださいよ』
『暇なんだ』
『知ってます』
『行く』
『決定なんですか』
『うん』
翠はスマートフォンを置いた。
ベッドから降りる。
そこで、自分の格好を見る。
「…………」
このままでは行けない。
さすがに分かる。
悠人の家は近い。
道路一本十二秒。
だからといって、下着姿で道路を渡るわけにはいかない。
「服かあ」
呟く。
面倒だった。
クローゼットを開ける。
ハンガーを見る。
どれでもいい。
外へ出るだけだ。
しかも目的地は十二秒先。
適当に手前の服を取る。
着る。
髪を見る。
寝転がっていたので少し乱れている。
手櫛で直す。
これでいい。
鞄。
「……いらないな」
スマートフォン。
鍵。
財布。
それだけ持つ。
靴を履く。
玄関を出る。
エレベーターを待つ。
五階から一階。
建物を出る。
道路を渡る。
向かいの建物へ入る。
エレベーター。
四階。
悠人の部屋。
インターホンを押す。
ここまで、思ったより何も考えなかった。
◇
インターホンが鳴った。
時計を見る。
翠先輩から『行く』と来てから、十分も経っていない。
早い。
道路一本なのだから当然ではある。
俺は椅子から立ち上がった。
玄関へ向かう。
扉を開ける。
「やあ」
翠先輩がいた。
明るい茶色の髪。
白い薄手のトップス。
淡い色のロングスカート。
スマートフォンと鍵だけを手に持っている。
「……本当に来たんですか」
「行くと言っただろう」
「言ってましたけど」
「入れてくれないのかね?」
「どうぞ」
身体を退ける。
翠先輩が入ってくる。
靴を脱ぐ。
揃える。
「お邪魔します」
「はい」
そのまま部屋へ向かう。
もう迷わない。
昨日と同じ場所。
低いテーブルの前へ座った。
「…………」
「なんだい?」
「いや」
「何?」
「来るのは面倒じゃなかったんですか?」
翠先輩が瞬きをした。
「何が?」
「服着て、外出て、エレベーター乗って、道路渡って、またエレベーター乗って」
「面倒だったぞ」
「だったんですか」
「服を着るところは特に」
「そこなんだ」
「家では着ていないからね」
そういえばそうだった。
前に本人から聞いた。
一人の時は下着で過ごす。
部屋着を持っていない。
理由は着替えるのが面倒だから。
「じゃあ、よく来ましたね」
「暇だったから」
「暇ってそんなに強いんですか」
「今日は強かった」
「課題やればよかったじゃないですか」
「それは面倒だった」
「服着てここに来るのは?」
「それよりは面倒じゃなかった」
「…………」
なんとなく納得できない。
この人は、洗濯物を洗濯機に入れたまま放置する。
料理は途中でスマートフォンを見て焦がす。
部屋着を着るという工程さえ削減する。
なのに。
服を着て。
五階から下りて。
道路を渡って。
別の建物の四階まで上がってくることはできるらしい。
「そこまで面倒であってほしかったなぁ」
「なぜだね?」
「なんとなくです」
「変なことを言うなあ」
「翠先輩に言われたくないです」
翠先輩は気にした様子もなく、低いテーブルへ肘をついた。
「で」
「はい」
「何をすればいい?」
「何しに来たんですか」
「暇だから来た」
「じゃあ自分で考えてくださいよ」
「客だぞ」
「呼んでないです」
「先輩だぞ」
「今日は動物園ですらないでしょう」
「先輩権には余韻がある」
「昨日の設定まだ生きてたんですか」
「設定ではない」
俺は机へ戻った。
ノートパソコンの前へ座る。
画面には、途中まで書いたレポートが開いたままだった。
背後を見る。
翠先輩は何もしていない。
本当に何もしていない。
スマートフォンすら触らず、床へ座って部屋を見ている。
「暇なんでしょう?」
「暇だ」
「スマホは?」
「飽きた」
「課題」
「持ってきてない」
「本当に何しに来たんですか」
「だから、暇だったんだよ」
同じ答えだった。
俺は諦めて画面へ戻った。
キーボードを打つ。
数行。
資料を見る。
また打つ。
しばらくすると、背後から小さな物音がした。
振り返る。
翠先輩が横になっていた。
「何してるんです?」
「暇をしている」
「家でできるでしょう」
「できる」
「帰ったら?」
「嫌だ」
「なんでですか」
「今来たばかりじゃないか」
「じゃあ何かしてください」
「何かとは?」
「知りませんよ」
「では、このままでいいな」
「…………」
再び画面へ戻る。
五分。
十分。
部屋は静かだった。
時々キーボードの音がする。
ページをめくる。
背後で翠先輩が寝返りを打つ。
「ねぇ、悠人」
「なんです?」
「喉が渇いた」
「冷蔵庫に麦茶ありますよ」
「取ってくれないか」
「嫌です」
「客だぞ」
「呼んでないです」
「先輩」
「余韻は切れました」
「短い!」
翠先輩が身体を起こした。
自分で冷蔵庫へ向かう。
扉を開ける。
「麦茶、これ?」
「それです」
「飲んでいい?」
「どうぞ」
「コップは?」
「昨日使ったやつ、上の棚」
「どれだっけ」
「左です」
「あった」
冷蔵庫の扉が閉まる。
麦茶を注ぐ音。
翠先輩が戻ってくる。
その一連を、俺は途中までしか見なかった。
別に見ている必要がなかった。
場所はもう知っている。
何がどこにあるのかも、少しずつ覚えている。
「悠人」
「はい」
「ボク、キミの家のコップの場所を覚えたぞ」
「今教えたでしょう」
「次から聞かなくて済む」
「次があるんですね」
「ないのかね?」
「知りませんよ」
「では、あることにしておこう」
勝手に決まった。
麦茶を飲む。
スマートフォンを見る。
また飽きる。
横になる。
起きる。
窓の外を見る。
そんなことを繰り返している。
俺はレポートを進めた。
途中、何度か話しかけられた。
今日の夕飯。
明日の講義。
シラユキのこと。
玄のこと。
大学の食堂で今週から何か新しいメニューが出るらしいという話。
どれも、今しなくてはいけない話ではなかった。
話し終わると、また静かになる。
それでも翠先輩は帰らなかった。
気づけば、来てから一時間近く経っていた。
「翠先輩」
「なんだい?」
「暇じゃないんですか」
「暇だぞ」
「一時間ずっと?」
「うん」
「よく耐えられますね」
「家よりは暇じゃない」
手が止まった。
「何が違うんです?」
翠先輩は少し考えた。
「キミがいる」
「…………」
「話しかければ返事が来る」
「作業中なんですけど」
「返事は来るだろう?」
「まあ」
「なら、家よりいい」
それだけ言って、翠先輩はまたスマートフォンへ視線を落とした。
本人にとっては、それ以上でもそれ以下でもないらしい。
俺も画面へ戻る。
数行打ったところで、少しだけ思った。
服を着るのは面倒だった。
エレベーターを二回使う。
道路も渡る。
それでも来た。
課題をするより。
洗濯をするより。
一人で暇を潰すより。
俺の部屋へ来る方が、翠先輩にとっては面倒ではなかったらしい。
そこまで面倒であってほしかった。
本当に。
そうでないと、この人はこれからも来る。
「ねぇ、悠人」
「はい」
「今日の夕飯は?」
「……まだ食べるつもりなんですか」
「聞いただけだよ」
「カレー残ってますけど」
翠先輩が顔を上げた。
「昨日の?」
「昨日の」
「…………」
目が少しだけ輝いた。
「食べるとは言っていないぞ」
「顔に書いてあります」
「どこに?」
「その辺全部に」
「失礼だなあ」
翠先輩は笑った。
帰る気配は、まだなかった。
俺はレポートへ戻った。
近いから来た。
たぶん、最初はそれだけだった。
けれど、暇だからというだけで人の家へ来るには、向かいの建物だって十分遠い。
それを翠先輩が面倒だと思わなくなったのがいつからなのか、俺にはまだ分からなかった。




