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ボクを飼ってみないか?!  作者: 御HeSummer3
第1章

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15/37

翠先輩は暇


 日曜日の午後。


 野々宮翠は暇だった。


 正確には、やることが何もないわけではない。


 大学の課題がある。


 洗濯物もある。


 冷蔵庫の中身も、そろそろ確認した方がいい。


 部屋の隅には、昨日使った鞄が置いたままになっている。


 探せばいくらでもある。


 ただし、それらは翠の中で「今日やらなければならないこと」には分類されていなかった。


「…………」


 ベッドの上。


 翠は仰向けになって天井を見ていた。


 家に一人なので、服は着ていない。


 下着だけだった。


 別に暑いからではない。


 寒ければ毛布を掛ける。


 誰かに見せるためでもない。


 一人で過ごすのに、わざわざ外出着から部屋着へ着替え、あとでまた脱ぐという工程が、翠にはどうしても一つ多く思える。


 そもそも部屋着を持っていない。


 だから帰宅したら脱ぐ。


 それで終わり。


 極めて合理的である。


 少なくとも本人はそう思っていた。


「暇だなあ」


 呟いてみる。


 返事はない。


 当然だった。


 スマートフォンを取る。


 動画。


 少し見る。


 飽きる。


 ニュース。


 興味がない。


 大学の連絡。


 見なかったことにする。


 時計は午後二時十三分。


 昼食は食べた。


 昨日、悠人と作ったカレーの残りではない。


 あれは悠人の家にある。


 翠の昼食は食パンとヨーグルトだった。


 一応、以前よりはまともになっている。


「…………」


 スマートフォンを胸元に置く。


 また天井を見る。


 一分。


 二分。


 三分。


 何も起きない。


「暇だ」


 さっきより少し大きな声で言った。


 やはり何も起きなかった。


 翠は寝返りを打つ。


 窓を見る。


 カーテンの向こうは明るい。


 その向こう。


 道路を一本挟んだところに、悠人の住む建物がある。


「…………」


 スマートフォンを取る。


 メッセージを開く。


『悠人』


 送る。


 既読。


 思ったより早い。


『はい』

『何してる?』


 少し間が空いた。


『レポート』


「またか」


 声に出た。


『日曜日だぞ』

『日曜日だから進めてるんです』

『模範的な学生だな』

『翠先輩は?』


 翠は天井を見た。


『暇』


 送る。


『課題は?』

『暇』

『洗濯は?』

『暇』

『掃除』

『暇』

『やることあるじゃないですか』


 翠は眉を寄せた。


『それと暇は別問題だろう』

『初めて聞きました』


 昨日も似たようなことを言われた気がする。


 翠は身体を起こした。


 ベッドの上で膝を抱える。


『いる?』

『家に?』

『うん』

『いますよ』

『行っていい?』


 送ってから、返事を待つ。


 数秒。


『何かありました?』

『特にはない』


 また少し間が空いた。


『じゃあ何しに来るんですか』


 翠は考えた。


 何をしに。


 特にない。


 昨日のようにカレーを狙っているわけではない。


 夕飯には早い。


 忘れ物もない。


 借りたいものもない。


 用事もない。


『暇だから』


 送った。


『家にいてくださいよ』

『暇なんだ』

『知ってます』

『行く』

『決定なんですか』

『うん』


 翠はスマートフォンを置いた。


 ベッドから降りる。


 そこで、自分の格好を見る。


「…………」


 このままでは行けない。


 さすがに分かる。


 悠人の家は近い。


 道路一本十二秒。


 だからといって、下着姿で道路を渡るわけにはいかない。


「服かあ」


 呟く。


 面倒だった。


 クローゼットを開ける。


 ハンガーを見る。


 どれでもいい。


 外へ出るだけだ。


 しかも目的地は十二秒先。


 適当に手前の服を取る。


 着る。


 髪を見る。


 寝転がっていたので少し乱れている。


 手櫛で直す。


 これでいい。


 鞄。


「……いらないな」


 スマートフォン。


 鍵。


 財布。


 それだけ持つ。


 靴を履く。


 玄関を出る。


 エレベーターを待つ。


 五階から一階。


 建物を出る。


 道路を渡る。


 向かいの建物へ入る。


 エレベーター。


 四階。


 悠人の部屋。


 インターホンを押す。


 ここまで、思ったより何も考えなかった。


 

◇


 

 インターホンが鳴った。


 時計を見る。


 翠先輩から『行く』と来てから、十分も経っていない。


 早い。


 道路一本なのだから当然ではある。


 俺は椅子から立ち上がった。


 玄関へ向かう。


 扉を開ける。


「やあ」


 翠先輩がいた。


 明るい茶色の髪。


 白い薄手のトップス。


 淡い色のロングスカート。


 スマートフォンと鍵だけを手に持っている。


「……本当に来たんですか」

「行くと言っただろう」

「言ってましたけど」

「入れてくれないのかね?」

「どうぞ」


 身体を退ける。


 翠先輩が入ってくる。


 靴を脱ぐ。


 揃える。


「お邪魔します」

「はい」


 そのまま部屋へ向かう。


 もう迷わない。


 昨日と同じ場所。


 低いテーブルの前へ座った。


「…………」

「なんだい?」

「いや」

「何?」

「来るのは面倒じゃなかったんですか?」


 翠先輩が瞬きをした。


「何が?」

「服着て、外出て、エレベーター乗って、道路渡って、またエレベーター乗って」

「面倒だったぞ」

「だったんですか」

「服を着るところは特に」

「そこなんだ」

「家では着ていないからね」


 そういえばそうだった。


 前に本人から聞いた。


 一人の時は下着で過ごす。


 部屋着を持っていない。


 理由は着替えるのが面倒だから。


「じゃあ、よく来ましたね」

「暇だったから」

「暇ってそんなに強いんですか」

「今日は強かった」

「課題やればよかったじゃないですか」

「それは面倒だった」

「服着てここに来るのは?」

「それよりは面倒じゃなかった」

「…………」


 なんとなく納得できない。


 この人は、洗濯物を洗濯機に入れたまま放置する。


 料理は途中でスマートフォンを見て焦がす。


 部屋着を着るという工程さえ削減する。


 なのに。


 服を着て。


 五階から下りて。


 道路を渡って。


 別の建物の四階まで上がってくることはできるらしい。


「そこまで面倒であってほしかったなぁ」

「なぜだね?」

「なんとなくです」

「変なことを言うなあ」

「翠先輩に言われたくないです」


 翠先輩は気にした様子もなく、低いテーブルへ肘をついた。


「で」

「はい」

「何をすればいい?」

「何しに来たんですか」

「暇だから来た」

「じゃあ自分で考えてくださいよ」

「客だぞ」

「呼んでないです」

「先輩だぞ」

「今日は動物園ですらないでしょう」

「先輩権には余韻がある」

「昨日の設定まだ生きてたんですか」

「設定ではない」


 俺は机へ戻った。


 ノートパソコンの前へ座る。


 画面には、途中まで書いたレポートが開いたままだった。


 背後を見る。


 翠先輩は何もしていない。


 本当に何もしていない。


 スマートフォンすら触らず、床へ座って部屋を見ている。


「暇なんでしょう?」

「暇だ」

「スマホは?」

「飽きた」

「課題」

「持ってきてない」

「本当に何しに来たんですか」

「だから、暇だったんだよ」


 同じ答えだった。


 俺は諦めて画面へ戻った。


 キーボードを打つ。


 数行。


 資料を見る。


 また打つ。


 しばらくすると、背後から小さな物音がした。


 振り返る。


 翠先輩が横になっていた。


「何してるんです?」

「暇をしている」

「家でできるでしょう」

「できる」

「帰ったら?」

「嫌だ」

「なんでですか」

「今来たばかりじゃないか」

「じゃあ何かしてください」

「何かとは?」

「知りませんよ」

「では、このままでいいな」

「…………」


 再び画面へ戻る。


 五分。


 十分。


 部屋は静かだった。


 時々キーボードの音がする。


 ページをめくる。


 背後で翠先輩が寝返りを打つ。


「ねぇ、悠人」

「なんです?」

「喉が渇いた」

「冷蔵庫に麦茶ありますよ」

「取ってくれないか」

「嫌です」

「客だぞ」

「呼んでないです」

「先輩」

「余韻は切れました」

「短い!」


 翠先輩が身体を起こした。


 自分で冷蔵庫へ向かう。


 扉を開ける。


「麦茶、これ?」

「それです」

「飲んでいい?」

「どうぞ」

「コップは?」

「昨日使ったやつ、上の棚」

「どれだっけ」

「左です」

「あった」


 冷蔵庫の扉が閉まる。


 麦茶を注ぐ音。


 翠先輩が戻ってくる。


 その一連を、俺は途中までしか見なかった。


 別に見ている必要がなかった。


 場所はもう知っている。


 何がどこにあるのかも、少しずつ覚えている。


「悠人」

「はい」

「ボク、キミの家のコップの場所を覚えたぞ」

「今教えたでしょう」

「次から聞かなくて済む」

「次があるんですね」

「ないのかね?」

「知りませんよ」

「では、あることにしておこう」


 勝手に決まった。


 麦茶を飲む。


 スマートフォンを見る。


 また飽きる。


 横になる。


 起きる。


 窓の外を見る。


 そんなことを繰り返している。


 俺はレポートを進めた。


 途中、何度か話しかけられた。


 今日の夕飯。


 明日の講義。


 シラユキのこと。


 玄のこと。


 大学の食堂で今週から何か新しいメニューが出るらしいという話。


 どれも、今しなくてはいけない話ではなかった。


 話し終わると、また静かになる。


 それでも翠先輩は帰らなかった。


 気づけば、来てから一時間近く経っていた。


「翠先輩」

「なんだい?」

「暇じゃないんですか」

「暇だぞ」

「一時間ずっと?」

「うん」

「よく耐えられますね」

「家よりは暇じゃない」


 手が止まった。


「何が違うんです?」


 翠先輩は少し考えた。


「キミがいる」

「…………」

「話しかければ返事が来る」

「作業中なんですけど」

「返事は来るだろう?」

「まあ」

「なら、家よりいい」


 それだけ言って、翠先輩はまたスマートフォンへ視線を落とした。


 本人にとっては、それ以上でもそれ以下でもないらしい。


 俺も画面へ戻る。


 数行打ったところで、少しだけ思った。


 服を着るのは面倒だった。


 エレベーターを二回使う。


 道路も渡る。


 それでも来た。


 課題をするより。


 洗濯をするより。


 一人で暇を潰すより。


 俺の部屋へ来る方が、翠先輩にとっては面倒ではなかったらしい。


 そこまで面倒であってほしかった。


 本当に。


 そうでないと、この人はこれからも来る。


「ねぇ、悠人」

「はい」

「今日の夕飯は?」

「……まだ食べるつもりなんですか」

「聞いただけだよ」

「カレー残ってますけど」


 翠先輩が顔を上げた。


「昨日の?」

「昨日の」

「…………」


 目が少しだけ輝いた。


「食べるとは言っていないぞ」

「顔に書いてあります」

「どこに?」

「その辺全部に」

「失礼だなあ」


 翠先輩は笑った。


 帰る気配は、まだなかった。


 俺はレポートへ戻った。


 近いから来た。


 たぶん、最初はそれだけだった。


 けれど、暇だからというだけで人の家へ来るには、向かいの建物だって十分遠い。


 それを翠先輩が面倒だと思わなくなったのがいつからなのか、俺にはまだ分からなかった。

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