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ボクを飼ってみないか?!  作者: 御HeSummer3
第1章

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16/37

翠先輩は勉強する


 午後四時二十二分。


 国立武蔵野科学大学の獣医学棟を出たところで、俺は一度だけ足を止めた。


 九月に入っても昼間の熱気はまだ残っているが、夕方になると風の温度が少し違う。


 講義棟と実習棟の間を抜けてきた学生たちが、それぞれ鞄を肩に掛け、駅や駐輪場へ散っていく。


 白衣を腕に掛けている者。


 分厚い教科書を抱えている者。


 実習終わりなのか、髪をまとめたまま歩いている者。


 獣医学科の学生は、同じ学年でも一日の終わり方が少しずつ違う。


 俺は手元のスマートフォンを見る。


 連絡は一件。


『まだ大学?』


 翠先輩からだった。


『いますよ』


 送る。


 すぐ既読になる。


『どこ?』

『獣医学棟の前です』


 少し待つ。


『動くな』

 

「……なんで命令なんだろう」


 誰に聞かせるでもなく呟いた。


 今日は朝から翠先輩とはまともに話していない。


 同じ獣医学科二年でも、履修している科目が全部同じではない。


 午前中は共通講義が二つ。


 そのうち一つは同じ教室だったが、俺は前寄り、翠先輩は中央より少し後ろに座っていた。


 開始前に一度見かけた程度で、講義が終わった頃には人の流れに紛れていた。


 午後は完全に別だった。


 俺は生理学系の演習。


 翠先輩は臨床基礎の実習。


 昼休みも時間がずれた。


 同じ大学で、学科も学年も一緒。


 それでも、一日中一緒にいるわけではない。


 数分後。


 獣医学棟の脇から翠先輩が歩いてきた。


 薄いベージュのブラウス。


 細身のパンツ。


 髪は低い位置で一つにまとめたまま。


 肩には普段より大きなトートバッグ。


 その中から、クリアファイルと教科書の角が覗いている。


「いた」

「動くなって言われたので」

「素直でよろしい」

「なんで上からなんですか」

「先輩だからね」

「今日は動物園じゃないですよ」

「先輩というものは場所を選ばない」

「大学では同学年でしょう」

「細かいなあ」


 翠先輩は俺の横まで来ると、小さく息を吐いた。


 動物園帰りとは違う疲れ方をしている。


 肩や脚が重いというより、頭の中にまだ何かが残っている顔だった。


「長かったんです?」

「長かった」

「何やってたんですか」

「症例演習」

「臨床基礎?」

「うん」


 翠先輩はそう答えると、歩き出すより先にトートバッグを開けた。


 中からクリアファイルを一冊取り出す。


「これ」

「なんです?」

「見たまえ」


 渡される。


 犬の症例資料だった。


 年齢。


 体重。


 主訴。


 食欲低下。


 活動性の低下。


 血液検査の値。


 いくつかの設問。


 紙面の余白には、翠先輩の字で小さな書き込みが並んでいる。


 マーカーは二色。


 色を使っている場所も多くない。


 それでも、先生が口頭で補足したらしい内容や、確認すべき項目が要点ごとに整理されていた。


「ちゃんと書いてるじゃないですか」

「失礼だな」

「もっと白いかと思ってました」

「何が?」

「資料」

「ボクをなんだと思っている」

「家では課題より暇を優先する人」

「大学ではやる」

「そこは分けるんですね」

「当然だろう」


 翠先輩は俺から資料を取り戻した。


「家で怠けるためにも、大学ではある程度終わらせる必要がある」

「動機が微妙ですね」

「合理的だ」

「本当にそれ好きですね」


 そのまま二人で獣医学棟を離れる。


 ただ、正門へ向かうには少し早かった。


 翠先輩はファイルを片手に持ったまま、図書館の方へ目を向ける。


「キミ、もう帰る?」

「そのつもりでしたけど」

「少し付き合いたまえ」

「何にです?」

「復習」


 珍しい言葉だった。


「翠先輩から復習って言葉が出るんですね」

「帰る」

「すみません」

「失礼が過ぎるぞ」

「付き合いますよ」

「最初からそう言いたまえ」


 図書館へ向かった。


 国立武蔵野科学大学の中央図書館は、獣医学棟から歩いて数分の場所にある。


 医学系の専門書は獣医学棟側にもあるが、講義の復習程度なら中央図書館でも足りる。


 夕方の館内は昼より静かだった。


 入口で学生証を通す。


 空調の効いた空気。


 紙の匂い。


 受付の奥では、返却された本を職員が台車へ並べている。


 試験前ほど混んではいない。


 それでも閲覧席の半分以上は埋まっていた。


 俺たちは窓際の二人掛けの席を取った。


 向かい合わせではなく、横並び。


 翠先輩が鞄を開ける。


 ファイル。


 筆箱。


 教科書。


 ノート。


 スマートフォンは机の端へ伏せて置いた。


 俺も今日のノートを出す。


「悠人の見せて」

「何を?」

「今日のノート」

「講義違うでしょう」

「知っている」

「じゃあ何に使うんですか」

「見たい」

「なんで」

「キミがどれだけ無駄に書いているか確認したい」

「嫌な目的だな」


 それでも渡した。


 翠先輩は最初のページを開く。


 数秒。


 次。


 また次。


 眉が少しずつ寄っていく。


「多い」

「普通ですよ」

「出た」

「何がです?」

「キミの普通」


 俺のノートには、その日の循環生理に関する内容がまとまっていた。


 心拍出量。


 血圧。


 血管抵抗。


 先生が黒板へ書いた図。


 講義中に口頭で補足された内容。


 教科書の該当ページ。


 途中で出された例題の考え方。


 全部を書き写しているわけではない。


 必要だと思ったものを残しているだけだ。


「これ、講義中に全部?」

「ほとんどは」

「あとで足したところは?」

「少し」

「帰ってから?」

「昼休みとか」

「いつ昼飯を食べたんだね」

「食べましたよ」

「何を」

「パン」

「何個」

「二個」


 翠先輩の視線が上がった。


「少ない」

「昼はそんなもんでしょう」

「ボクに言える立場ではないな」

「今日はちゃんと食べたんです?」

「学食」

「何を」

「日替わり定食」

「珍しい」

「友人と行った」


 俺の手が少し止まった。


「友人?」

「なんだね、その反応は」

「いや」

「ボクにも知り合いくらいいるぞ」

「知り合いじゃなくて友人って言ったので」


 翠先輩は一瞬考えた。


「……友人でいいだろう」

「へえ」

「なんだ」

「大学生活、進んでますね」

「キミが勝手に一人目になったせいだろう」

「俺のせいなんですか」

「少しは」


 それ以上は追わなかった。


 翠先輩は俺のノートを返す。


 今度は自分の症例資料を広げた。


「これ」

「さっきの?」

「うん」

「どうしたんです?」

「先生が最後に、答えより見る順番を考えろと言っていた」

「見る順番」

「どこから情報を拾うか」


 俺は資料を受け取った。


 症例は単純ではない。


 食欲が落ちている。


 元気もない。


 血液検査にはいくつか変化がある。


 ただし、これだけで一つの病気へ決めつけられるほど情報は揃っていない。


「先生は何て?」

「決めるな」

「じゃあ決めなければいいじゃないですか」

「それは分かっている」

「なら?」

「キミならどこから見る?」


 そう言われて、もう一度資料を見る。


 数字。


 症状。


 年齢。


 既往歴。


 いつから変化したか。


 食事。


 排泄。


「俺なら、まずこれまでの記録見たいですね」

「そこから?」

「はい。この数値だけ見ても、それがこの子にとって急な変化なのか分からないので」

「やっぱり比較なんだな」

「まあ」

「玄の時もそうだった」

「そうですかね」

「そうだよ」


 翠先輩は椅子へ少し深く座った。


「ボクは最初、全体から見た」

「主訴?」

「それも。動きとか食欲とか、飼い主が何を見て『いつもと違う』と思ったのか」

「それも必要でしょうね」

「数字を見る前に、まずその子がどう違うのか知りたい」

「翠先輩っぽいですね」

「褒めてる?」

「はい」

「ならいい」


 同じ症例を見ても、最初に拾う場所が違う。


 動物園でもそうだった。


 翠先輩はシラユキの身体の流れを見た。


 俺は玄の記録を並べる。


 どちらが正しいというほど単純な話でもない。


 違うからこそ、見落とす場所も違うのだろう。


「獣医になったら、翠先輩こういうの得意そうですね」


 言ってから、翠先輩が少し黙った。


「なんです?」

「いや」

「何?」

「キミに言われると、ちょっと嬉しいなと思って」

「そうですか」

「そこはもう少し何かないのかね?」

「頑張ってください」

「急に他人行儀!」


 小さな声で怒られた。


 図書館なので、それ以上大きな声にはならない。


 俺は自分のノートへ視線を戻した。


 翠先輩も教科書を開く。


 そこからしばらくは、会話がなくなった。


 ページをめくる音。


 シャープペンシルが紙を擦る音。


 時々、近くの席で椅子が動く。


 窓の外では夕方の光が少しずつ傾いていく。


 翠先輩は思っていたより集中していた。


 家での姿を知っているせいで、その事実が妙に新鮮に見える。


 スマートフォンへは触らない。


 分からない箇所だけ教科書へ戻る。


 書き込む。


 もう一度症例資料を見る。


 必要なところだけノートへ写す。


 効率がいい。


 家事についてはあれだけ工程を減らしたがるのに、勉強では必要な工程を削らない。


 翠先輩の中では、それもたぶん同じ「合理的」なのだろう。


 四十分ほど経った頃。


「終わった」


 翠先輩が小さく言った。


「早いですね」

「今日の分だけだ」

「ちゃんとやるじゃないですか」

「何度言わせる気だね」

「家との差が」

「キミの中のボクはどうなっているんだ」

「下着で寝転がって暇って言ってる人」

「忘れたまえ」

「無理です」

「記憶というものは不便だな」


 どこかで聞いた台詞だった。


 俺も途中まで進めていた演習問題を一区切りつける。


 時計は午後五時四十七分。


 館内は少し人が減っていた。


「帰ります?」

「その前に」

「まだあるんですか」

「腹が減った」

「知りませんよ」

「頭を使った」

「俺もです」

「では二人とも腹が減ったということだな」

「まとめないでください」


 図書館を出た。


 外はもう夕方というより夜へ近づいていた。


 研究棟の窓に明かりが点き始めている。


 獣医学棟の方には、まだ残っている学生も多い。


 実習や研究は講義の時間割どおりには終わらない。


 白衣姿の学生が数人、建物の入口で話している。


 少し離れたところでは、先生らしい人が学生と立ち話をしていた。


 この大学に入ってから、日が暮れても大学にいることには慣れた。


 高校とは時間の流れ方が違う。


 授業が終われば一日が終わるわけではない。


 予習。


 復習。


 レポート。


 実習。


 試験。


 その合間にアルバイト。


 俺たちの場合は、それが動物園だった。


「悠人」

「はい」

「獣医になるの、大変だな」

「今さらですか」

「今さらだよ」


 翠先輩は歩きながら、少しだけ空を見上げた。


「一年の頃より、やること増えただろう」

「そうですね」

「これからもっと増える」

「でしょうね」

「実習も増える」

「はい」

「国家試験もある」

「まだ先ですよ」

「先に見えるだけで来るんだぞ」

「怖いこと言わないでください」

「ボクも今思って怖くなった」

「自分で言ったんでしょう」


 正門へ向かう。


 昼間より人は少ない。


 それでも駅へ向かう学生はまだ途切れない。


 何人かの同級生とすれ違った。


 軽く手を上げる。


 翠先輩も一人の女子学生から声を掛けられた。


「野々宮、また明日」

「うん。またね」


 短い。


 でも自然だった。


 相手が去ったあと、俺は少しだけ横を見る。


「何だね?」

「いや」

「また大学生活が進んだとか言うつもりかい?」

「先に言われた」

「顔に出ている」

「最近それ俺の台詞ですよ」


 駅まで歩く。


 今日一日、大学ではほとんど一緒にいなかった。


 朝。


 講義。


 昼。


 午後の演習。


 それぞれ別の場所で過ごした。


 それでも帰る頃には、こうして並んでいる。


 そのことを特別だと思うほどではない。


 最近は、そういう日が少し増えた。


「夕飯どうします?」

「やはりその話になるのだな」

「さっき腹減ったって言ったでしょう」

「ボクは何でもいい」

「一番困るやつ」

「キミは?」

「帰ってから決めます」

「帰ってから?」

「はい」


 翠先輩が少し考える。


「じゃあ、ボクも帰ってから決めよう」

「珍しく自分の家で?」

「…………」


 返事がない。


「なんです?」

「別にボクの家とは言っていない」

「嫌な予感するなあ」

「まだ何も言っていないだろう?」

「最近分かるようになってきたんですよ」


 電車へ乗る。


 少し混んでいた。


 座れない。


 並んで吊り革につかまる。


 さっきまで症例や授業の話をしていたのに、電車へ乗れば話題は少しずつどうでもいいものへ変わっていった。


 大学食堂の新しいメニュー。


 厳しい先生。


 実習で使った器具。


 来週の小テスト。


 宮坂が昼休みに変な動画を見せてきたこと。


 翠先輩が講義中に一度だけ寝そうになったこと。


 大学生らしい話ばかりだった。


 最寄り駅へ着く。


 改札を出る。


 住宅街へ入る。


 大学の話はそこで一度途切れた。


 角を曲がる。


 二つのマンションが見える。


「では」


 翠先輩が言った。


「はい」

「荷物を置いてくる」

「どこに?」

「ボクの家」

「今日はちゃんと帰るんですね」

「失礼だな」

「じゃあ、また明日」

「待ちたまえ」

「はい?」


 翠先輩が自分のマンションを指した。


「ファイルを置く」

「はい」


 次に、俺のマンションを指す。


「そのあと行く」

「なんでですか」

「勉強したら腹が減った」

「夕飯狙ってるだけじゃないですか」

「まだ何も言っていない!」

「今言いましたよ」


 翠先輩は少しだけ笑った。


「十分後」

「勝手に決めないでください」

「十二秒なのだから十分もいらないか」

「そういう問題じゃないです」

「では、あとで」


 俺の返事を待たず、自分のマンションへ向かっていく。


 今日は大学で何時間も過ごした。


 講義を受けた。


 演習をした。


 図書館で復習した。


 獣医になるための一日としては、それなりに真面目だったと思う。


 その一日の最後だけが、最近少しおかしい。


 俺は自分のマンションへ向かいながら、冷蔵庫に何が残っていたかを思い出した。


 どうせ十分もしないうちに、向かいから一人増える。

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