翠先輩は片付けられる
土曜日の午前十時七分。
俺のスマートフォンが震えた。
画面を見る。
翠先輩。
『悠人』
それだけだった。
嫌な予感がする。
『はい』
返す。
既読は一秒もかからなかった。
『大変だ』
『何がです?』
『ないんだ』
『何が』
少し間が空く。
『学生証』
「……それは大変だな」
声に出た。
国立武蔵野科学大学の学生証は、大学へ入るだけなら毎回必要というわけではない。
ただ、図書館。
一部の実習室。
各種証明。
学内設備。
使う場面はいくらでもある。
再発行となれば面倒だ。
翠先輩にとって、その「面倒」はかなり重い。
『最後に見たのいつです?』
『昨日』
『大学で?』
『たぶん』
『財布は?』
『見た』
『鞄』
『見た』
『ポケット』
『見た』
『机』
『見た』
『本当に?』
『疑うな』
疑う。
かなり疑う。
俺はベッドから身体を起こした。
今日は午後から動物園へ行く予定だった。
まだ時間はある。
『家ですか』
『うん』
『今から行きます』
送る。
返事はすぐだった。
『助かる』
さらに数秒。
『ちょっと待って』
『なんです?』
『五分』
『何するんです』
返事がない。
既読だけついた。
理由は分からない。
ただ、翠先輩の家まで道路一本。
五分待つ方が長い。
俺は適当に着替え、財布と鍵だけ持って部屋を出た。
エレベーターで一階。
建物を出る。
道路を渡る。
向かいのマンションへ入る。
五階。
インターホンを押す。
少しして扉が開いた。
「早い!」
翠先輩がいた。
「近いので」
「五分と言っただろう!」
「もう三分くらい経ってます」
「足りない!」
何に足りないのかと思って、視線を下げる。
なるほど。
翠先輩は、大きめの白いシャツを一枚だけ着ていた。
丈は太腿の半ばくらい。
ボタンは上から下まで留まっている。
裸足。
髪は寝起きのままなのか、いつもより少し膨らんでいる。
「……服着たんですね」
「着たとも」
「偉いですね」
「その評価はおかしいだろう」
「普段着ないって言ってたので」
「キミが来るからだ!」
「俺が来るって分かってたでしょう」
「だから着たんじゃないか!」
その理屈は正しい。
正しいのに、妙な感じがする。
「ズボンは?」
「面倒だった」
「そこまでは頑張れなかったんですね」
「シャツで十分だろう」
「まあ、家の中なら」
「なら入れ」
促される。
俺は玄関へ入った。
靴を脱ぐ。
前に来た時と同じ部屋。
ただ、前より少しだけ状況が悪い。
「…………」
「なんだね」
「いや」
「言いたいことがあるなら言いたまえ」
「物、増えました?」
翠先輩が黙った。
初めて来た時、この部屋はかなり殺風景だった。
物が少ない。
だから散らかりようがない。
そういう部屋だった。
今は違う。
低いテーブルの上に教科書。
その横に大学のプリント。
使いかけのティッシュ箱。
コンビニのレシート。
充電ケーブル。
ペン。
小さな菓子の袋。
ソファではなく床に置かれたクッションの上には、昨日着ていたらしい服。
椅子の背には別の服。
キッチンには洗い物。
床に鞄。
その横にもう一つのトートバッグ。
ゴミ屋敷ではない。
汚部屋とも言えない。
ただ、翠先輩が生活している痕跡が、以前より明らかに増えている。
「最近、忙しかったんだ」
「昨日うち来てましたよね」
「それはそれだ」
「一昨日も来ましたよね」
「それもそれだ」
「忙しかった?」
「……精神的に」
「便利な言葉ですね」
俺は部屋の中央まで進む。
「学生証、最後に使ったのどこです?」
「昨日の大学」
「図書館?」
「いや。昨日は図書館使ってない」
「じゃあ学内?」
「うん」
「帰ってから出しました?」
「覚えていない」
「鞄は?」
「あれ」
床のトートバッグを指す。
持ち上げる。
中を見る。
教科書。
筆箱。
クリアファイル。
折り畳み傘。
小さいポーチ。
飴。
レシート。
「ほんとに見たんです?」
「見たぞ」
「全部出しました?」
「そこまでは」
「見てないじゃないですか」
「見た!」
「表面を?」
「中を」
「底まで?」
「……たぶん」
俺は全部出した。
学生証はない。
内ポケット。
なし。
小さいポーチ。
なし。
財布。
なし。
「別の鞄は?」
「そっち」
もう一つ。
見る。
ない。
「上着」
「昨日は着てない」
「じゃあパンツのポケット」
「見た」
「どこにあります?」
「その辺」
「その辺とは」
「その辺だ」
翠先輩が曖昧に手を振った。
その範囲が広い。
床。
椅子。
ベッドの端。
洗濯籠。
低いテーブルの横。
昨日の服がどれなのかも、ぱっと見では分からない。
「翠先輩」
「なんだね」
「探す前に片付けましょう」
「なぜ?」
「探せないからです」
「探し物は片付けながら探すものなのか?」
「今この部屋ではそうです」
「大げさだなあ」
俺はキッチンへ目を向けた。
そして止まった。
フライパンがある。
黒い。
見覚えがある。
「……これ」
翠先輩の顔が変わった。
「あ」
「まだあったんですか」
「ち、違う!」
「何がです?」
「か、片付けてないわけじゃない」
「置いてありますけど」
「そう! 今から片付ける予定だった!」
「何日前です?」
「…………」
「翠先輩」
「忙しかったんだ!」
「昨日うちでカレー食べましたよね」
「それは食事だ!」
「一昨日もうちいましたよね」
「それは交流だ!」
「掃除は?」
「今日やる予定だった!」
「学生証なくすまで?」
「それは偶然だ!」
翠先輩は急に早口になった。
「そもそも焦げた料理というものは、すぐに洗うと落ちにくい場合があるだろう? 水につける必要もあるし、場合によっては時間を置いた方が効率的で」
「何日漬けるんですか」
「長期戦だ」
「腐敗との?」
「言い方!」
フライパンを覗く。
さすがに中身そのものは捨ててある。
ただし、焦げは残っていた。
水も張られている。
つまり放置は放置だ。
「これ先に洗います」
「学生証は?」
「片付けないと探せないです」
「目的が変わってないか?」
「変わってません」
「本当かね?」
「八割くらい」
「変わってる!」
キッチンのシンクへフライパンを移す。
その横に皿が二枚。
コップ。
スプーン。
「これ昨日の?」
「今朝」
「朝から皿二枚使ったんです?」
「一枚は昨夜」
「なるほど」
「納得するな」
洗い物を分ける。
その間に翠先輩へゴミ袋を渡す。
「これ」
「何?」
「明らかなゴミ入れてください」
「ボクもやるのか?」
「誰の家ですか」
「客にやらせるものではないだろう」
「俺が客です」
「……そうだった」
翠先輩が袋を持つ。
俺はテーブルの上を整理する。
レシート。
菓子の袋。
空のペットボトル。
大学のプリントはまとめる。
教科書も積む。
充電ケーブルは壁際へ。
ペンは筆箱。
「これ捨てていいです?」
「待て。それは使う」
「何に?」
「何かに」
「捨てます」
「横暴!」
少しずつ床が見える。
すると、壁際に見覚えのあるものがあった。
白いシート。
「…………」
俺は止まった。
翠先輩も止まった。
視線が合う。
「翠先輩」
「なんだね」
「これ」
「…………」
「前もありましたよね」
「いや〜……あったかな」
「ありました」
「記憶力がいいなあ」
「褒めても駄目です」
壁際に置かれていたのは、ペットシートだった。
しかも濡れている。
前に来た時も同じものを見た。
その時は聞きかけて、翠先輩が全力で話を逸らした。
「これ、何です?」
翠先輩は黙った。
「猫いないですよね」
「いない」
「犬も」
「いない」
「じゃあ何用です?」
「…………」
「翠先輩」
「今朝」
「はい」
「今朝したばかりだ」
「何を」
「お、乙女に言わせるでない……!」
「まさか……」
「お、おしっこだ!」
数秒。
俺は何も言えなかった。
「…………」
「…………」
「翠先輩が?」
「そうだ」
「ここに?」
「そうだ」
「ペットシートに?」
「……そうだ」
「なんで?」
翠先輩がものすごく嫌そうな顔をした。
「面倒だった」
「何が?」
「トイレまで行くのが」
「数歩でしょう」
「ベッドからだと遠い」
「同じ部屋ですよね」
「朝は距離が伸びる」
「物理法則変えないでください」
「眠かったんだ!」
「だからって床でする人初めて見ましたよ」
「床ではない!」
翠先輩が指を差す。
「ペットシートだ!」
「そこ誇るところじゃないです」
「吸収してくれる!」
「知ってますよ!」
「非常に優秀だぞ」
「商品レビューいらないです」
頭が痛くなってきた。
動物園では、シラユキの足運びの違いに気づく。
大学では、症例資料を要点だけで綺麗にまとめる。
そして家では、トイレまで行くのが面倒だからペットシートを使う。
同一人物とは思えない。
「前のも?」
「…………」
「前来た時の濡れてたやつ」
「…………」
「翠先輩」
「ボクだ」
「やっぱり」
「言うな! あれは魔が差して……」
「今自分で言ったでしょう」
「違う! そういう『やっぱり』は傷つく!」
「何を期待してたんですか」
「もう少し驚け!」
「十分驚いてます」
「顔が冷静だぞ!」
「処理が追いついてないだけです」
翠先輩は顔を両手で覆った。
「だから見られたくなかったんだ……」
「捨ててくださいよ」
「今朝だから」
「今朝だから何です?」
「まだ新しい」
「その概念ある?」
「…………」
「捨てますよ」
「はい」
急に素直になった。
ゴミ袋へ入れる。
袋を縛る。
「予備あります?」
「災害用に買った残りが」
「それを普段使いしないでください」
「一度便利だと分かるとね」
「分からなくていいです」
「まとめ買いした方が安い」
「運用前提じゃないですか」
「便利なんだ」
「便利に使わないでください」
「災害時にも使えるぞ」
「そっちは正しいんですけどね」
収納の下から未開封の束が出てきた。
俺は一度見て、見なかったことにした。
片付けは続く。
ベッドの上。
衣類。
洗濯籠。
床。
椅子。
テーブルの下。
大学の資料。
雑誌。
袋。
思った以上に出てくる。
物が多いわけではない。
ただ、使ったあと元へ戻していない。
それが積み重なっている。
「これ洗濯?」
「たぶん」
「たぶん?」
「匂い嗅げば分かる」
「嫌です」
「ボクはできるぞ」
「やらなくていいです」
「ほれ、遠慮するな」
「遠慮じゃないです」
床に落ちている服を洗濯籠へ入れる。
一枚。
二枚。
三枚。
「これ昨日のですか?」
「違う」
「これは?」
「一昨日」
「じゃあ昨日のは?」
「……どれだろう」
「学生証探してるんですよね?」
「そうだった」
「忘れないでください」
翠先輩は床へ膝をつき、衣類を一枚ずつ持ち上げ始めた。
俺はベッド脇を見る。
隙間。
なし。
枕の下。
なし。
布団の中。
「なんで布団まで?」
「翠先輩ならありそうなので」
「偏見だ」
「ここまでで偏見じゃなくなってます」
机の引き出し。
文房具。
領収書。
動物園のメモ。
シラユキの写真。
小さな菓子。
「これ賞味期限切れてますよ」
「何日?」
「三ヶ月」
「誤差だ」
「捨てます」
「待て」
「駄目です」
「非常食に」
「非常事態でも食べないです」
ゴミ袋が少しずつ膨らんでいく。
気づけば、本格的な掃除になっていた。
掃除機。
テーブル拭き。
キッチン。
洗い物。
焦げついたフライパンは、かなり時間をかけて擦った。
完全には取れない。
「買い替えた方が早くないですか」
「まだ使える」
「そこは物を大事にするんですね」
「買いに行くのが面倒なんだ」
「理由が一貫してるなあ」
洗濯機も回す。
翠先輩が洗剤を入れる。
量は目分量だった。
「適当すぎません?」
「長年の勘だ」
「一人暮らし何年目です?」
「二年目」
「浅い」
「経験は密度だよ」
「薄そう」
「今日はキミ、当たりが強くないか?」
「ペットシートの衝撃がまだ残ってるんです」
「それは早急に忘れたまえ」
「無理です」
昼前には、部屋の印象がかなり変わっていた。
元々物は少ない。
だから戻すべき場所へ戻せば早い。
床が見える。
テーブルも空く。
キッチンも片付く。
焦げたフライパンだけが、完全な復活を諦めたような顔で乾燥ラックに立っている。
「綺麗になったな」
翠先輩が満足そうに言った。
「俺がほとんどやったんですけど」
「ボクもゴミを捨てた」
「自分のゴミを」
「共同作業だ」
「比率九対一ですよ」
「一割も貢献した」
「前向きですね」
俺は床へ座った。
翠先輩もその場に座る。
白いシャツ一枚のまま。
片付け中に何度も裾を気にしていたが、ズボンを履きに行くほどではなかったらしい。
「で」
「ん?」
「学生証」
「…………」
二人とも黙った。
そうだった。
掃除が目的ではない。
「ないですね」
「ないな」
「大学に落としたんじゃ」
「それは困る」
「明日問い合わせます?」
「日曜だぞ」
「月曜」
「面倒だなあ」
「再発行よりいいでしょう」
翠先輩は眉を寄せる。
その時。
「……あ」
「なんです?」
翠先輩が何かを思い出した顔をした。
「昨日」
「はい」
「服」
「昨日の服?」
「帰ってきて、脱いで」
「そのあと?」
「そこ」
指差した。
ベッドと壁の間。
「さっき見ましたよ」
「違う」
「何が」
「下」
翠先輩が身を乗り出す。
ベッド脇に落ちていた服を何枚か動かす。
その下。
薄い色のパンツが一着出てきた。
「あった」
「昨日の?」
「うん」
「ポケット見たって言ってませんでした?」
「見たつもりだった」
「つもり」
翠先輩がポケットへ手を入れる。
少し動く。
そして。
「…………」
「…………」
透明なカードケースが出てきた。
中に学生証。
野々宮翠。
顔写真。
国立武蔵野科学大学。
「…………」
「ありましたね」
「…………」
「ポケットから」
「…………」
「昨日の服の」
「言うな」
「最初に聞きましたよね。ポケットって」
「言うな!」
翠先輩は学生証を胸元へ抱えた。
「ちゃんと見たはずだったんだ」
「見てないでしょう」
「見た記憶がある」
「別のポケットでは?」
「……たぶん」
「じゃあ見てないです」
「結果論だ!」
「結果出てますからね」
俺は部屋を見回した。
床。
テーブル。
キッチン。
洗濯機。
ゴミ袋。
乾燥中の焦げたフライパン。
そして、壁際から消えたペットシート。
学生証一枚を探すために始まった捜索は、部屋全体をひっくり返して終わった。
「悠人」
「はい」
「今日見たものは」
「忘れませんよ」
「まだ何も言っていない!」
「どうせ忘れろでしょう」
「先回りするな!」
「無理です」
「ペットシートも?」
「特に」
「そこだけは!」
翠先輩が頭を抱えた。
俺は立ち上がる。
時計を見る。
そろそろ昼だった。
「じゃあ俺、戻りますね」
「帰るのかね」
「午後から動物園です」
「あ」
「翠先輩もでしょう」
「そうだった」
「忘れてたんです?」
「掃除のせいだ」
「学生証のせいですよ」
「キミが大掃除を始めるから」
「始めないと見つからなかったでしょう」
「最終的にはポケットだったぞ」
「それ言います?」
「……言わない方がよかったな」
「はい」
玄関へ向かう。
翠先輩もついてくる。
扉の前。
俺は靴を履いた。
「翠先輩」
「なんだい」
「次から学生証なくしたら」
「うん」
「まず昨日の服のポケット見てください」
「分かった」
「全部」
「分かった」
「ちゃんと」
「分かったってば!」
扉を開ける。
廊下へ出る。
「あと」
「まだあるのかね?」
「ペットシート」
翠先輩の顔が固まった。
「せめて使ったらすぐ捨ててください」
「…………」
「聞いてます?」
「……はい」
珍しく敬語だった。
扉が閉まる。
俺はエレベーターへ向かった。
中央常磐動物園では、細かいところまでよく見ている人。
大学では、必要なことをきちんと拾える人。
その人の学生証は、昨日着ていた服のポケットに入っていた。
そして俺は今日、知る必要のなかったことまでかなり知った。
向かいに住んでいるというのは、便利なだけではないらしい。




