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ボクを飼ってみないか?!  作者: 御HeSummer3
第1章

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18/37

翠先輩は大学生

 午前十一時五十八分。


 二限目の講義が終わると同時に、国立武蔵野科学大学の講義棟は少しだけ騒がしくなった。


 椅子を引く音。


 ノートパソコンを閉じる音。


 鞄のファスナー。


 廊下へ出た学生たちの話し声。


 昼休みに入った途端、それまで講義を受けるための場所だった建物が、急に大学らしい雑多な空気へ戻っていく。


 俺はノートを鞄へしまい、教室を出た。


「高瀬」


 後ろから宮坂に呼ばれる。


 振り返ると、片手にスマートフォン、もう片方に筆箱を持ったまま歩いてきた。


「学食行く?」

「行く」

「今日は早いな」

「腹減った」

「昨日ちゃんと食った?」

「食べたよ」

「何を」

「なんでお前まで聞くんだよ」

「野々宮さんの影響」

「やめてくれ」


 階段を降りる。


 昼の学食は混む。


 それが分かっている学生たちは、講義が終わった瞬間から少しだけ歩く速度が速い。


 俺たちも流れに乗って講義棟を出た。


 外はよく晴れていた。


 九月半ば。


 日差しにはまだ夏の名残があるが、木陰へ入れば風はかなり軽い。


 キャンパス中央の広場には、昼休みを外で過ごす学生がすでに増え始めていた。


 ベンチ。


 芝生。


 自動販売機の前。


 購買の袋を持ったまま立ち話をしている集団もいる。


 少し離れた掲示板には、秋の学園祭に向けた実行委員募集の紙や、サークルの告知が重なって貼られていた。


「そういや野々宮さんは?」


 宮坂が言った。


「知らない」

「今日いたよな」

「一限は見た」

「昼誘う?」

「会ったら」

「そのくらいの温度なんだな」

「何が」

「いや。最近よく一緒にいるから」

「大学ではそんなでもないよ」

「ふうん」


 宮坂はそれ以上何も言わなかった。


 そのまま学食棟へ向かう。


 入口にはすでに列ができていた。


 定食。


 麺類。


 カレー。


 丼。


 日替わり。


 大学の昼食なんて、選択肢が多そうに見えて、実際には混雑と財布と時間でだいたい決まる。


「今日の日替わり何?」

「鶏南蛮」

「昨日魚だったよな」

「そうだっけ」

「俺食った」

「じゃあ俺それにするかな」


 列へ並ぼうとしたところで、少し先に見覚えのある髪があった。


 明るい茶色。


 今日は下ろしている。


 翠先輩だった。


 ただ、一人ではない。


 女子学生二人と一緒にメニュー表を見ていた。


「お」


 宮坂が先に気づいた。


「友達いるじゃん」

「それぐらいいるだろ」

「お前が驚いてたくせに」

「前はね」


 こちらへ気づいたのは少しあとだった。


 翠先輩は俺を見ると、ほんの少しだけ目を細める。


「悠人」

「どうも」

「今から?」

「はい」

「遅いな」

「講義終わってすぐ来ましたよ」

「ボクたちは少し早く終わった」


 隣にいた女子学生の一人がこちらを見る。


 以前、正門近くで「また明日」と声を掛けていた人だった。


「高瀬くんだよね?」

「はい」

「野々宮から聞いた」

「何をです?」

「動物園の後輩」

「そこなんだ」


 宮坂が笑う。


 翠先輩は少しだけ眉を上げた。


「事実だろう」

「大学では同級生でしょう」

「動物園では先輩だ」

「こだわりますね」

「重要だからね」


 結局、六人掛けのテーブルを一つ使うことになった。


 俺と宮坂。


 翠先輩。


 女子学生二人。


 あとから合流した同じ学年の男子一人。


 いつもより人数が多い。


 翠先輩がこういう輪の中にいるのは、少し前なら想像しにくかった。


 別に黙っているわけではない。


 話を振られれば答える。


 自分からも少し話す。


 それでも中心に立って盛り上げるようなタイプではない。


 人の話を聞いて、必要な時だけ口を挟む。


 その距離感が、思ったより自然だった。


 俺は鶏南蛮定食。


 宮坂はカレー。


 翠先輩は日替わり定食に、小さなプリンを追加していた。


「やっぱりそれ取るんですね」

「何が?」

「プリン」

「食後の楽しみだ」

「昨日も食べてませんでした?」

「昨日と今日は別の日だぞ」

「便利ですね」

「一日一個なら健全だ」

「昔冷蔵庫に二個しかなかった人が言っても」

「それは忘れたまえ」


 隣の女子学生が少し笑った。


「野々宮、プリン好きなんだ」

「好きだよ」

「知らなかった」

「大学で食べたことなかったからね」

「今度おすすめあるよ」

「本当かい?」


 翠先輩の反応が少しだけ早くなる。


 どうやらそこは食いつくらしい。


 話題はそのまま、大学近くの洋菓子店へ移った。


 誰かがチーズケーキの話をする。


 宮坂が駅前の店を挙げる。


 俺は知らない。


 翠先輩も知らない。


「今度行こうよ」


 女子学生の一人が言った。


「みんなで」

「いいね」


 宮坂が即答した。


 翠先輩は一拍だけ考えた。


「予定が合えば」

「出た。野々宮の曖昧返事」

「予定が分からないのだから仕方ないだろう」

「でも来るんでしょ?」

「たぶん」


 そんなやり取りを見ながら、俺は味噌汁を飲む。


 少し前まで、大学での翠先輩はもっと輪郭が薄かった。


 動物園では知っている。


 大学では知らない。


 同じ学科だと分かってから、少しずつその境目がなくなってきた。


 学食で誰かと食べる。


 名前を呼ばれる。


 予定を聞かれる。


 次の話をする。


 どれも大したことではない。


 だからこそ、大学生活というものは、案外こういう小さなことでできているのかもしれない。


 昼食を終えて外へ出る。


 三限まで四十分ほどあった。


「どうする?」


 誰かが言う。


「購買見る」

「私も」

「高瀬たちは?」


 宮坂が俺を見る。


「俺は別に」

「暇だろ?」

「まあ」


 結局そのまま流れに乗った。


 購買は昼休みの真ん中を過ぎても混んでいた。


 飲み物。


 パン。


 文房具。


 実習用のノート。


 白衣。


 大学名の入ったグッズ。


 参考書。


 どうして売れているのか分からないキーホルダー。


 入口近くには、秋限定の商品まで並んでいる。


 翠先輩は最初、興味がなさそうに歩いていた。


 数分後。


「悠人」

「はい」

「これ」


 呼ばれて近づく。


 手に持っていたのは、小さな動物の付箋だった。


 犬。


 猫。


 うさぎ。


 牛。


 馬。


「かわいいですね」

「だろう?」

「買うんです?」

「悩んでいる」

「使うなら」

「使わないかもしれない」

「じゃあいらないでしょう」

「でもかわいい」

「合理性どこ行ったんですか」

「かわいいものには別枠がある」

「初めて聞きました」


 結局、猫の付箋を一つ買っていた。


 そのあと、獣医学関連の参考書コーナーへ行く。


 ここでは急に顔つきが変わる。


 一冊手に取る。


 目次を見る。


 数ページめくる。


 値段を見る。


 戻す。


「高い」

「専門書ですからね」

「一冊でプリン何個買える?」

「換算やめてください」

「重要だろう」

「重要じゃないです」


 宮坂が横から覗き込む。


「それ去年先輩が使ってたって言ってた」

「本当?」

「借りれば?」

「それだ」

「買う気ゼロだな」

「資源は有効利用すべきだ」


 購買を出る頃には、三限まで二十分を切っていた。


 それぞれ次の講義が違う。


 俺は講義棟。


 翠先輩は実習棟。


 宮坂は俺と同じ。


「じゃあまたあとで」


 女子学生の一人が手を上げる。


「うん」


 翠先輩も返す。


「野々宮、今日五限まで?」

「四限まで」

「じゃあ先帰る?」

「たぶん」

「またね」

「また」


 そこで一度、翠先輩とは別れた。


 大学ではそれが普通だ。


 ずっと一緒にいるわけではない。


 三限。


 四限。


 それぞれの教室へ行く。


 講義を受ける。


 ノートを取る。


 眠くなる。


 耐える。


 途中で一度、窓の外を見る。


 午後の日差しは少し傾いていた。


 四限が終わったのは午後四時過ぎだった。


 講義棟を出る。


 今日はこのまま帰るつもりだった。


 スマートフォンを見る。


 連絡はない。


 正門へ向かう。


 少し歩いたところで、広場のベンチに座る人影が見えた。


 翠先輩だった。


 片手に紙カップ。


 もう片方にスマートフォン。


 足元にはトートバッグ。


「何してるんです?」


 声を掛ける。


 顔が上がる。


「あ」

「帰ったんじゃないんですか」

「帰ろうと思った」

「じゃあなんでいるんです?」

「眠くなった」

「ベンチで?」

「少し休んでいた」


 紙カップを見る。


「何飲んでるんです?」

「カフェラテ」

「珍しい」

「購買の前で安かった」

「それだけで?」

「それだけだ」


 俺は隣へ座った。


 広場は昼より静かだった。


 サークル活動へ向かう学生。


 帰る学生。


 研究棟へ戻る学生。


 遠くでは誰かがボールを蹴っている。


 風が少し涼しい。


「今日、楽しかったです?」


 なんとなく聞いた。


 翠先輩は少し考えた。


「何が?」

「大学」

「大学?」

「昼とか」

「ああ」


 紙カップへ口をつける。


「まあ」

「まあ?」

「悪くなかった」

「それだけ?」

「十分だろう」


 少し間が空く。


「一人でも困らないけど」


 翠先輩は広場の方を見たまま続ける。


「誰かいるのも、別に悪くないな」

「そうですか」

「うん」


 それ以上は何も言わなかった。


 言う必要もない気がした。


 数分だけ座る。


 話さない時間が続く。


 大学の風景が、そのまま前を流れていく。


 やがて翠先輩が立ち上がった。


「帰るか」

「ですね」

「腹も減った」

「またそれですか」

「大学生は腹が減る生き物だ」

「大きくまとめましたね」

「事実だろう?」


 俺も立つ。


 正門へ向かう。


 今日は講義を受けた。


 みんなで昼を食べた。


 購買を歩いた。


 少しだけ無駄遣いもした。


 午後は別々に過ごして。


 最後にまた合流した。


 それだけの一日だった。


 たぶん、大学生活というのはこういう日をあとから思い出す。


 何か大きなことがあった日ではなくて。


 誰と昼を食べたとか。


 何を買ったとか。


 ベンチで少し休んだとか。


 そういう、どうでもいいことの方を。


「悠人」

「はい」

「プリン買って帰らないか?」

「まだ食べるんですか」

「昼のは昼のだ」

「一日一個じゃなかったんです?」

「今日は特別だ」

「何が?」

「大学を楽しんだ記念」

「安い記念ですね」

「いいじゃないか」


 翠先輩は少し笑った。


 俺たちは駅へ向かう。

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