翠先輩は大学生
午前十一時五十八分。
二限目の講義が終わると同時に、国立武蔵野科学大学の講義棟は少しだけ騒がしくなった。
椅子を引く音。
ノートパソコンを閉じる音。
鞄のファスナー。
廊下へ出た学生たちの話し声。
昼休みに入った途端、それまで講義を受けるための場所だった建物が、急に大学らしい雑多な空気へ戻っていく。
俺はノートを鞄へしまい、教室を出た。
「高瀬」
後ろから宮坂に呼ばれる。
振り返ると、片手にスマートフォン、もう片方に筆箱を持ったまま歩いてきた。
「学食行く?」
「行く」
「今日は早いな」
「腹減った」
「昨日ちゃんと食った?」
「食べたよ」
「何を」
「なんでお前まで聞くんだよ」
「野々宮さんの影響」
「やめてくれ」
階段を降りる。
昼の学食は混む。
それが分かっている学生たちは、講義が終わった瞬間から少しだけ歩く速度が速い。
俺たちも流れに乗って講義棟を出た。
外はよく晴れていた。
九月半ば。
日差しにはまだ夏の名残があるが、木陰へ入れば風はかなり軽い。
キャンパス中央の広場には、昼休みを外で過ごす学生がすでに増え始めていた。
ベンチ。
芝生。
自動販売機の前。
購買の袋を持ったまま立ち話をしている集団もいる。
少し離れた掲示板には、秋の学園祭に向けた実行委員募集の紙や、サークルの告知が重なって貼られていた。
「そういや野々宮さんは?」
宮坂が言った。
「知らない」
「今日いたよな」
「一限は見た」
「昼誘う?」
「会ったら」
「そのくらいの温度なんだな」
「何が」
「いや。最近よく一緒にいるから」
「大学ではそんなでもないよ」
「ふうん」
宮坂はそれ以上何も言わなかった。
そのまま学食棟へ向かう。
入口にはすでに列ができていた。
定食。
麺類。
カレー。
丼。
日替わり。
大学の昼食なんて、選択肢が多そうに見えて、実際には混雑と財布と時間でだいたい決まる。
「今日の日替わり何?」
「鶏南蛮」
「昨日魚だったよな」
「そうだっけ」
「俺食った」
「じゃあ俺それにするかな」
列へ並ぼうとしたところで、少し先に見覚えのある髪があった。
明るい茶色。
今日は下ろしている。
翠先輩だった。
ただ、一人ではない。
女子学生二人と一緒にメニュー表を見ていた。
「お」
宮坂が先に気づいた。
「友達いるじゃん」
「それぐらいいるだろ」
「お前が驚いてたくせに」
「前はね」
こちらへ気づいたのは少しあとだった。
翠先輩は俺を見ると、ほんの少しだけ目を細める。
「悠人」
「どうも」
「今から?」
「はい」
「遅いな」
「講義終わってすぐ来ましたよ」
「ボクたちは少し早く終わった」
隣にいた女子学生の一人がこちらを見る。
以前、正門近くで「また明日」と声を掛けていた人だった。
「高瀬くんだよね?」
「はい」
「野々宮から聞いた」
「何をです?」
「動物園の後輩」
「そこなんだ」
宮坂が笑う。
翠先輩は少しだけ眉を上げた。
「事実だろう」
「大学では同級生でしょう」
「動物園では先輩だ」
「こだわりますね」
「重要だからね」
結局、六人掛けのテーブルを一つ使うことになった。
俺と宮坂。
翠先輩。
女子学生二人。
あとから合流した同じ学年の男子一人。
いつもより人数が多い。
翠先輩がこういう輪の中にいるのは、少し前なら想像しにくかった。
別に黙っているわけではない。
話を振られれば答える。
自分からも少し話す。
それでも中心に立って盛り上げるようなタイプではない。
人の話を聞いて、必要な時だけ口を挟む。
その距離感が、思ったより自然だった。
俺は鶏南蛮定食。
宮坂はカレー。
翠先輩は日替わり定食に、小さなプリンを追加していた。
「やっぱりそれ取るんですね」
「何が?」
「プリン」
「食後の楽しみだ」
「昨日も食べてませんでした?」
「昨日と今日は別の日だぞ」
「便利ですね」
「一日一個なら健全だ」
「昔冷蔵庫に二個しかなかった人が言っても」
「それは忘れたまえ」
隣の女子学生が少し笑った。
「野々宮、プリン好きなんだ」
「好きだよ」
「知らなかった」
「大学で食べたことなかったからね」
「今度おすすめあるよ」
「本当かい?」
翠先輩の反応が少しだけ早くなる。
どうやらそこは食いつくらしい。
話題はそのまま、大学近くの洋菓子店へ移った。
誰かがチーズケーキの話をする。
宮坂が駅前の店を挙げる。
俺は知らない。
翠先輩も知らない。
「今度行こうよ」
女子学生の一人が言った。
「みんなで」
「いいね」
宮坂が即答した。
翠先輩は一拍だけ考えた。
「予定が合えば」
「出た。野々宮の曖昧返事」
「予定が分からないのだから仕方ないだろう」
「でも来るんでしょ?」
「たぶん」
そんなやり取りを見ながら、俺は味噌汁を飲む。
少し前まで、大学での翠先輩はもっと輪郭が薄かった。
動物園では知っている。
大学では知らない。
同じ学科だと分かってから、少しずつその境目がなくなってきた。
学食で誰かと食べる。
名前を呼ばれる。
予定を聞かれる。
次の話をする。
どれも大したことではない。
だからこそ、大学生活というものは、案外こういう小さなことでできているのかもしれない。
昼食を終えて外へ出る。
三限まで四十分ほどあった。
「どうする?」
誰かが言う。
「購買見る」
「私も」
「高瀬たちは?」
宮坂が俺を見る。
「俺は別に」
「暇だろ?」
「まあ」
結局そのまま流れに乗った。
購買は昼休みの真ん中を過ぎても混んでいた。
飲み物。
パン。
文房具。
実習用のノート。
白衣。
大学名の入ったグッズ。
参考書。
どうして売れているのか分からないキーホルダー。
入口近くには、秋限定の商品まで並んでいる。
翠先輩は最初、興味がなさそうに歩いていた。
数分後。
「悠人」
「はい」
「これ」
呼ばれて近づく。
手に持っていたのは、小さな動物の付箋だった。
犬。
猫。
うさぎ。
牛。
馬。
「かわいいですね」
「だろう?」
「買うんです?」
「悩んでいる」
「使うなら」
「使わないかもしれない」
「じゃあいらないでしょう」
「でもかわいい」
「合理性どこ行ったんですか」
「かわいいものには別枠がある」
「初めて聞きました」
結局、猫の付箋を一つ買っていた。
そのあと、獣医学関連の参考書コーナーへ行く。
ここでは急に顔つきが変わる。
一冊手に取る。
目次を見る。
数ページめくる。
値段を見る。
戻す。
「高い」
「専門書ですからね」
「一冊でプリン何個買える?」
「換算やめてください」
「重要だろう」
「重要じゃないです」
宮坂が横から覗き込む。
「それ去年先輩が使ってたって言ってた」
「本当?」
「借りれば?」
「それだ」
「買う気ゼロだな」
「資源は有効利用すべきだ」
購買を出る頃には、三限まで二十分を切っていた。
それぞれ次の講義が違う。
俺は講義棟。
翠先輩は実習棟。
宮坂は俺と同じ。
「じゃあまたあとで」
女子学生の一人が手を上げる。
「うん」
翠先輩も返す。
「野々宮、今日五限まで?」
「四限まで」
「じゃあ先帰る?」
「たぶん」
「またね」
「また」
そこで一度、翠先輩とは別れた。
大学ではそれが普通だ。
ずっと一緒にいるわけではない。
三限。
四限。
それぞれの教室へ行く。
講義を受ける。
ノートを取る。
眠くなる。
耐える。
途中で一度、窓の外を見る。
午後の日差しは少し傾いていた。
四限が終わったのは午後四時過ぎだった。
講義棟を出る。
今日はこのまま帰るつもりだった。
スマートフォンを見る。
連絡はない。
正門へ向かう。
少し歩いたところで、広場のベンチに座る人影が見えた。
翠先輩だった。
片手に紙カップ。
もう片方にスマートフォン。
足元にはトートバッグ。
「何してるんです?」
声を掛ける。
顔が上がる。
「あ」
「帰ったんじゃないんですか」
「帰ろうと思った」
「じゃあなんでいるんです?」
「眠くなった」
「ベンチで?」
「少し休んでいた」
紙カップを見る。
「何飲んでるんです?」
「カフェラテ」
「珍しい」
「購買の前で安かった」
「それだけで?」
「それだけだ」
俺は隣へ座った。
広場は昼より静かだった。
サークル活動へ向かう学生。
帰る学生。
研究棟へ戻る学生。
遠くでは誰かがボールを蹴っている。
風が少し涼しい。
「今日、楽しかったです?」
なんとなく聞いた。
翠先輩は少し考えた。
「何が?」
「大学」
「大学?」
「昼とか」
「ああ」
紙カップへ口をつける。
「まあ」
「まあ?」
「悪くなかった」
「それだけ?」
「十分だろう」
少し間が空く。
「一人でも困らないけど」
翠先輩は広場の方を見たまま続ける。
「誰かいるのも、別に悪くないな」
「そうですか」
「うん」
それ以上は何も言わなかった。
言う必要もない気がした。
数分だけ座る。
話さない時間が続く。
大学の風景が、そのまま前を流れていく。
やがて翠先輩が立ち上がった。
「帰るか」
「ですね」
「腹も減った」
「またそれですか」
「大学生は腹が減る生き物だ」
「大きくまとめましたね」
「事実だろう?」
俺も立つ。
正門へ向かう。
今日は講義を受けた。
みんなで昼を食べた。
購買を歩いた。
少しだけ無駄遣いもした。
午後は別々に過ごして。
最後にまた合流した。
それだけの一日だった。
たぶん、大学生活というのはこういう日をあとから思い出す。
何か大きなことがあった日ではなくて。
誰と昼を食べたとか。
何を買ったとか。
ベンチで少し休んだとか。
そういう、どうでもいいことの方を。
「悠人」
「はい」
「プリン買って帰らないか?」
「まだ食べるんですか」
「昼のは昼のだ」
「一日一個じゃなかったんです?」
「今日は特別だ」
「何が?」
「大学を楽しんだ記念」
「安い記念ですね」
「いいじゃないか」
翠先輩は少し笑った。
俺たちは駅へ向かう。




