翠先輩は寄り道する
午後四時三十八分。
国立武蔵野科学大学の正門を出たところで、翠先輩が足を止めた。
俺も二歩ほど進んでから振り返る。
「どうしました?」
翠先輩は答えず、駅とは反対側を見る。
大学前の通り。
飲食店。
小さな書店。
薬局。
学生向けの安い定食屋。
少し歩けばスーパーもある。
普段なら講義が終わると、そのまま駅へ向かうことが多い。動物園へ行く日ならなおさらで、寄り道をする時間はほとんどない。
今日は違った。
動物園の予定はない。
レポートも、今夜中に終わらせなければならないものはない。
翠先輩も四限で終わりだった。
「悠人」
「はい」
「少し寄り道しないかね?」
「どこに?」
「それを今から決める」
「決めてなかったんですか」
「寄り道というのは目的地を決めてからするものではないだろう」
「そういうものです?」
「たぶん」
翠先輩が先に歩き出す。
駅とは逆。
俺は少し迷って、そのあとを追った。
大学から離れるにつれて、学生の数は少しずつ減っていく。
正門前は白衣を畳んだ袋を持つ学生や自転車を押す学生で混んでいたが、一つ角を曲がれば住宅と小さな店が並ぶ普通の通りになる。
九月の夕方。
日差しはまだ明るいが、空気は昼より軽い。
道沿いの木の葉が揺れるたび、細い影が歩道の上を動いていた。
「どこ行くんです?」
「だから決めていない」
「じゃあなんでこっちなんです?」
「前に聞いた店がある」
「聞いた?」
「この前、学食で」
「ああ」
洋菓子店。
昼休みに話題になっていた店だ。
確か、大学から歩いて十分ほど。
「チーズケーキの店でしたっけ」
「プリンもあるらしい」
「そっちが本命でしょう」
「当然だ」
「じゃあ目的地決まってるじゃないですか」
「途中で変わるかもしれない」
「便利ですね、その理屈」
通りを歩く。
翠先輩はいつもの大学用の鞄を肩に掛けていた。
今日は淡い色のブラウスに細身のパンツ。
動物園の作業着とも、家で白いシャツ一枚だった一昨日とも違う。
こうして大学の外を並んで歩いていると、当たり前だが普通の大学生に見える。
一昨日、自宅の壁際に濡れたペットシートを置いていた人には見えない。
「何見てるんだね」
「別に」
「今、何か失礼なこと考えただろう」
「考えてないですよ」
「目が言っている」
「気のせいです」
「ペットシートのことなら忘れたまえ」
「自分から言いましたね」
「……しまった」
翠先輩が顔をしかめる。
そのまま歩幅を少し速めた。
洋菓子店は大通りから一本入ったところにあった。
白い壁。
小さな木製の看板。
入口脇の黒板には、手書きで季節限定のタルトとプリンの名前が書かれている。
店内は広くない。
ショーケースの前に三、四人並べば、少し窮屈になるくらいだった。
平日の夕方だからか、客は少ない。
俺たちが入ると、甘い匂いと冷房の空気が一緒に流れてきた。
「おお」
翠先輩の声が少しだけ明るくなる。
ショーケース。
ショートケーキ。
モンブラン。
チーズケーキ。
シュークリーム。
瓶に入ったプリン。
翠先輩は真っ先にその前へ行った。
「これか」
「美味しそうですね」
「二種類ある」
「固めと柔らかめ?」
「そう書いてある」
翠先輩がしゃがむほどではないが、少し身を屈めて札を見る。
「悠人はどっちだ」
「俺も食べるんですか」
「ここまで来て食べないのかね?」
「別に買うつもりなかったので」
「付き合いが悪いなあ」
「付き合って来たでしょう」
「ここまでだ」
「十分でしょう」
結局、俺は固め。
翠先輩は柔らかめを選んだ。
持ち帰りでもよかったが、店の奥に小さなイートインスペースがあった。
二人掛けのテーブルが三つ。
窓際が空いていた。
「ここで食べる?」
「帰ってからでもいいですけど」
「今食べた方がうまい」
「プリンってそんな変わります?」
「気分が違う」
「そこですか」
トレーを受け取り、窓際へ座る。
ガラス越しに細い道路が見えた。
学校帰りらしい高校生。
犬を連れた人。
自転車。
大学から少し離れただけなのに、キャンパスの中とは時間の流れ方が違う。
翠先輩は小さなスプーンを持つ。
一口。
黙る。
「どうです?」
「……うまい」
「よかったですね」
「悠人」
「はい」
「一口」
「嫌ですよ」
「まだ何も言ってない」
「言うでしょう」
「交換だ」
「自分の食べたいだけじゃないですか」
「キミのも気になる」
「じゃあそっちください」
「先に」
「信用ないなあ」
俺のプリンを少し取られる。
代わりに翠先輩のも一口もらった。
確かに違う。
俺の方は卵の味が強く、少し硬い。
翠先輩の方は口当たりが滑らかで、甘さも少し強かった。
「どっちがいいです?」
「両方」
「質問の意味」
「選べないものは選ばなくていい」
「合理的ですね」
「だろう?」
翠先輩は満足そうだった。
昼に学食のプリンを食べていたのは、昨日ではなく数日前だ。
それでも、この人の中ではプリンに関する時間の間隔が他人より少し短い気がする。
「今度、別のも食べよう」
「今度?」
「チーズケーキ」
「また来るんですか」
「近いだろう」
「大学からは」
「なら大学帰りに来ればいい」
予定を決めるというほどでもない口調だった。
俺も、特に返事はしなかった。
プリンを食べ終え、店を出る。
時刻は五時を少し過ぎていた。
まだ帰るには早い。
「次」
「まだ寄るんですか」
「スーパー」
「それは寄り道というより買い物でしょう」
「家に帰る途中で行けば寄り道だ」
「定義が雑になってきましたね」
「夕飯の材料がない」
「翠先輩の家、何もないんです?」
「何もないことはない」
「じゃあ何が」
「卵」
「はい」
「牛乳」
「はい」
「ヨーグルト」
「はい」
「プリン」
「それは食材じゃないです」
「重要だぞ」
「夕飯にはならないでしょう」
「努力すれば」
「しないでください」
スーパーは駅へ向かう途中にある。
普段俺が使う店とは少し違う。
翠先輩はこの店を使うことが多いらしい。
自動ドアを抜けると、入口近くに野菜が積まれていた。
キャベツ。
玉ねぎ。
じゃがいも。
トマト。
その横に特売の札。
翠先輩は入口で籠を一つ取った。
「今日は何作るんです?」
「まだ決めていない」
「また?」
「スーパーでは、安いものを見て決めるのが賢い」
「それはまあ」
少し前までなら、翠先輩がスーパーで夕飯の材料を選んでいるだけで珍しかった。
今はそうでもない。
翠先輩はキャベツの前で止まる。
「半分と四分の一、どちらが得だと思う?」
「使い切れるなら半分」
「使い切れなかったら?」
「四分の一」
「難しいな」
「そんなに?」
「未来のボクが料理するか分からない」
「じゃあ四分の一にしてください」
「でも割高だ」
「腐らせるよりいいでしょう」
「……正論は嫌いだ」
四分の一を籠へ入れた。
そのあと玉ねぎ。
豆腐。
豚肉。
納豆。
適当に見ていく。
俺もついでに自分の買い物を始めた。
卵が少なかった。
牛乳。
鶏肉。
冷凍うどん。
「それ何に使う?」
「鶏肉?」
「うん」
「まだ決めてないです」
「キミも決めてないじゃないか」
「買ってから決めても使えるので」
「ボクだって使える」
「使うかどうかが問題でしょう」
「失礼だな」
翠先輩が俺の籠を見る。
少しして、自分の籠を見る。
また俺の籠。
「何です?」
「いや」
「何か欲しい?」
「別に」
数歩進む。
菓子売り場。
翠先輩の足が止まる。
プリン売り場ではなかった。
小袋のクッキー。
チョコレート。
スナック。
「さっきプリン食べましたよ」
「まだ何も取ってない」
「顔が選んでます」
「顔で買い物する人間はいない」
そう言いながら、一袋取った。
俺の籠へ入れた。
「なんでこっち」
「入るから」
「翠先輩の籠にも入るでしょう」
「こっちは重い」
「誤差ですよ」
「キミの方が力がある」
「会計は?」
「あとで考える」
「戻しますよ」
「待て」
翠先輩が俺の腕を軽く押さえる。
「これは共同で食べる可能性がある」
「どこで」
「まだ決めていない」
「便利だな、その言葉」
「今日はよく使える」
結局そのまま入っていた。
肉売り場を抜け、惣菜。
冷凍食品。
飲み物。
翠先輩は途中でヨーグルトを追加した。
俺は麦茶のパック。
そこでまた翠先輩が籠を覗く。
「それ、まだあっただろう?」
「もう少ないですよ」
「そうか」
「なんで知ってるんです?」
「見たから」
「人の家の在庫覚えてるんですね」
「何度も飲んでいるからね」
翠先輩はそれだけ言って、先へ進んだ。
レジへ並ぶ。
買い物は別会計にした。
ただ、俺の籠に入れられたクッキーだけはそのままだった。
「これ」
会計後に持ち上げる。
「半分払ってくださいよ」
「あとで食べた分だけ払う」
「重量で測るんです?」
「公平だろう」
「面倒すぎる」
「ではキミの奢りで」
「なんでそうなるんですか」
スーパーを出る。
外は少し暗くなっていた。
西の空だけがまだ明るい。
大学帰りの学生は減り、代わりに仕事帰りの人が増えている。
俺たちは駅へ向かった。
買い物袋が一つずつ。
翠先輩の袋には野菜と豆腐。
俺の方には卵、牛乳、鶏肉。
それから共同所有を主張されたクッキー。
駅前まで来ると、翠先輩がまた止まった。
「本屋」
「まだ?」
「見るだけ」
「その言葉信用できないんですよね」
「参考書は買わない」
「そこは断言するんですね」
「高いから」
駅前の小さな書店へ入る。
大学の近くということもあって、一般書の棚に混じって資格試験や理系専門書も少し置かれている。
翠先輩は新刊の文庫を眺めたあと、動物関係の棚へ行った。
俺は雑誌を適当に見る。
しばらくして合流すると、翠先輩は何も持っていなかった。
「買わなかったんですね」
「見るだけと言っただろう」
「珍しい」
「ボクを何だと思ってるんだ」
「プリン買ったあとスーパーでクッキーを俺の籠に入れた人」
「それとこれは別だ」
書店を出る。
今度こそ駅へ向かった。
電車は夕方の混雑が始まりかけていた。
二人とも座れない。
吊り革を持って並ぶ。
窓の外が少しずつ暗くなる。
途中、翠先輩は眠そうに何度か瞬きをしていたが、今日は寝なかった。
「疲れました?」
「少し」
「寄り道しすぎでは」
「楽しかったからいい」
さらっと言った。
俺は隣を見る。
翠先輩は窓の外を見ていた。
特にこちらを意識した様子もない。
「そうですか」
「うん」
それで会話は終わった。
電車を降りる。
最寄り駅から家まで歩く。
この辺りまで来ると、景色はもう見慣れていた。
コンビニ。
信号。
住宅街。
角を曲がる。
二つのマンションが見える。
道路一本を挟んで向かい合う建物。
「じゃあ」
俺が言う。
「はい」
翠先輩が一度、自分の建物を見る。
そのあと、俺の方を見る。
「今日、何作る?」
「俺?」
「うん」
「まだ決めてません」
「鶏肉買ってたな」
「買いましたね」
「キャベツもある」
「それ翠先輩のですよ」
「持っていけばいい」
「どこへ?」
「キミの家」
「なんで」
「使うかもしれないだろう」
「翠先輩の夕飯は?」
「まだ決めていない」
「さっきからずっとそれですね」
翠先輩は少し考える。
買い物袋を持ち直す。
「一回、荷物置いてくる」
「はい」
「そのあと行く」
「……結局来るんですか」
「何か問題が?」
「今日ずっと一緒だったでしょう」
「大学では午後だけだ」
「寄り道して、プリン食べて、スーパー行って、本屋も行きましたよ」
「だから?」
「いや」
翠先輩は不思議そうに首を傾げた。
「家に帰ってから暇になる予定だからね」
「予定できるんですか、それ」
「できる」
「課題は?」
「ある」
「洗濯」
「ある」
「じゃあ暇じゃないでしょう」
「それと暇は別問題だ」
「前も聞いたな、それ」
翠先輩は自分のマンションへ向かう。
三歩。
振り返る。
「十五分」
「十二秒じゃないんですか」
「荷物を置く時間がある」
「着替えるんです?」
「面倒だからそのまま」
「じゃあ五分で来るでしょう」
「……十分」
「何の交渉です?」
「では、あとで」
返事を待たずにエントランスへ入っていった。
俺も自分の建物へ向かう。
エレベーターで四階。
部屋へ入る。
買い物袋をキッチンへ置く。
牛乳を冷蔵庫へ。
卵。
鶏肉。
クッキーはテーブル。
さて夕飯をどうするかと冷蔵庫を開いたところで、インターホンが鳴った。
スマートフォンを見る。
帰宅してから七分。
「……早いな」
玄関へ行く。
扉を開ける。
翠先輩がいた。
大学の時と同じ服。
片手にキャベツ。
もう片方に、自分の買い物袋。
「持ってきた」
「全部?」
「冷蔵庫へ入れるのが面倒だった」
「それで俺の家に?」
「うん」
「翠先輩」
「なんだい?」
「ここ、共同冷蔵庫じゃないですよ」
「まだね」
「まだ?」
「ほら、早く入れたまえ。豆腐がぬるくなる」
翠先輩は俺の横を抜けて、いつものように靴を脱いだ。




