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ボクを飼ってみないか?!  作者: 御HeSummer3
第1章

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20/37

翠先輩は片付ける

 午前十時十二分。


 野々宮翠先輩の部屋は、前に片づけた時より散らかっていた。


 床が見えないほどではない。


 歩く場所もある。


 ゴミが積み上がっているわけでもない。


 ただ、使ったものが、それぞれ使い終わった場所に残っている。


 ローテーブルには大学のプリントと空になったマグカップ。ソファの端には昨日着ていたらしいブラウス。その下には薄手のカーディガンが半分だけ落ちている。


 ベッド脇には鞄。


 充電ケーブル。


 脱いだ靴下。


 獣医学の教科書。


 床にはコンビニの袋が一つ。


 前回の片づけから二週間も経っていない。


「早かったですね」

「何が?」

「戻るのが」

「戻ってはいない」


 翠先輩は部屋の中央に立ち、周囲を見渡した。


 今日は薄いグレーのTシャツに短いパンツ。


 俺が来ると分かっていたので、ちゃんと服を着ている。


「前よりは綺麗だろう」

「前が酷かったので」

「比較というのは大切だぞ」

「こういう時だけ俺のやり方使わないでください」


 窓から午前の日差しが入っている。


 天気はいい。


 洗濯日和と言っていい。


 だから来た。


 正確には、朝九時過ぎに翠先輩から『暇』とメッセージが来たので、『洗濯でもしたらどうです』と返した。


 十分後。


『手伝いたまえ』


 断った。


 さらに五分後。


『昼飯を出す』


 何を出すのか聞いた。


『昨日買ったパン』


 断った。


 最終的に、


『プリンもある』


 という条件まで追加された。


 プリンに釣られたわけではない。


 向かいなので来ただけだ。


「まず何からやります?」

「休憩」

「まだ何もしてないでしょう」

「作業前には準備が必要だ」

「何の準備です?」

「心」

「洗濯に?」

「洗濯を侮るな」


 翠先輩はそう言ってソファへ座ろうとした。


 俺はその前に、ソファに載っていたブラウスを持ち上げる。


「これ洗います?」

「待て」

「はい?」

「まだ分からない」


 翠先輩が立ち上がる。


 俺の手からブラウスを受け取った。


 見る。


 袖。


 襟。


 そして。


 鼻へ近づけた。


「…………」

「何してるんです?」


 翠先輩は答えない。


 襟元の匂いを嗅ぐ。


 次に袖。


 もう一度、襟。


「まだいける」

「何が?」

「これは洗わなくていい」

「いや、洗ってください」

「昨日、大学で半日着ただけだぞ」

「着たんでしょう?」

「汗もそんなにかいていない」

「洗濯籠へ」

「まだ着られる」

「洗濯籠へ」

「悠人」

「駄目です」


 翠先輩は不満そうにブラウスを見る。


 名残惜しそうだった。


「洗うと生地が傷む」

「毎日同じの着続ける方が嫌ですよ」

「毎日ではない」

「じゃあ何日?」

「二日くらいなら」

「洗濯籠へ」

「横暴だなあ」


 ブラウスが籠へ入る。


 翠先輩はしゃがみ、床に落ちていた靴下を拾った。


 左右一足。


 今度は迷いなく鼻へ近づける。


「それはやめた方が」

「…………」

「翠先輩」

「これは洗う」

「でしょうね」

「判断が早いだろう」

「匂い嗅ぐ前に判断してください」


 靴下が籠へ投げ込まれた。


 次。


 ソファに掛かっていたカーディガン。


 翠先輩が匂いを嗅ぐ。


「これは大丈夫」

「いつ着ました?」

「一昨日」

「その前は?」

「先週」

「洗ったのは?」

「…………」

「翠先輩?」

「大丈夫」

「答えになってないですよ」

「臭くない」

「それだけが洗濯の基準じゃないです」

「匂いは非常に重要な情報だぞ」

「動物の観察みたいに言わないでください」


 俺はカーディガンも回収した。


「あっ」

「洗います」

「まだいける!」

「何と戦ってるんですか」

「洗剤と水道代」

「そこまで困窮してないでしょう」


 翠先輩は何か言いたそうだったが、諦めた。


 俺たちは部屋の中に散らばっている服を集めた。


 ベッド脇。


 ソファ。


 椅子の背。


 脱衣所。


 なぜか大学の鞄の横にも一枚。


 翠先輩には明確な洗濯物置き場という概念が薄いらしい。


 脱いだところが仮置き場になる。


 そして仮置き場が、そのまま数日間の定位置になる。


「これ」


 床からTシャツを拾う。


「洗います?」

「貸したまえ」

「また嗅ぐんですか」

「重要な工程だ」


 翠先輩が受け取る。


 鼻へ。


「……まだいける」

「いつ着たやつ?」

「覚えていない」

「洗います」

「なぜだ!」

「覚えてないからですよ」


 取り返して籠へ入れた。


「合理的ではない」

「十分合理的です」

「匂いという現在の情報を重視すべきだ」

「着用履歴が消失してる時点でアウトです」

「むぅ」


 洗濯物が増えていく。


 翠先輩の判定では、半分近くが「まだいける」だった。


 俺の判定では、ほぼ全部洗濯だった。


 最終的に、明らかに一度も着ていない服以外は洗うことになった。


 翠先輩は不服そうだった。


 洗濯機へ入れる。


 洗剤。


 柔軟剤。


「入れすぎないでくださいよ」

「分かっている」

「本当に?」

「前もやっただろう」


 翠先輩は洗剤を目分量で入れた。


 意外と適量だった。


「ほら」

「そこはできるんですね」

「ボクを何だと思っている」

「洗濯するかどうかを匂いで決める人」

「合理的な判断方法だ」

「はいはい」


 洗濯機が動き始める。


 水の音。


 回転音。


 その間に部屋を片づける。


 俺がローテーブルの上を空け、翠先輩が大学関係のプリントを仕分ける。


 講義資料。


 実習資料。


 提出済み。


 まだ使うもの。


 大学関係になると、翠先輩の手は速かった。


 紙の内容を一度確認するだけで、必要なものと不要なものを分けていく。


 ファイルへ入れる順番にも迷わない。


 十分もしないうちに、テーブルの上から大学の紙が消えた。


「こういうのは速いんですよね」

「必要なものが分かっているからね」

「服も必要かどうか分かってください」

「服は着られればいい」

「そういうところですよ」


 空になったマグカップを俺がキッチンへ運ぶ。


 シンクには皿が二枚。


 スプーン。


 小鍋。


 昨日のものらしい。


「これ洗ってないじゃないですか」

「今日やる予定だった」

「本当に?」

「今日は長いぞ」

「便利だなあ」


 水を出す。


 翠先輩も横へ来た。


「ボクがやる」

「じゃあお願いします」

「悠人はそっち」

「何を?」

「床」

「俺に掃除させるんですか」

「役割分担だ」

「翠先輩の家ですよ」

「だからボクも働いているだろう」


 確かに皿を洗い始めた。


 仕方なく掃除機を出す。


 前回片づけた時に場所は覚えた。


 収納の扉を開ける。


 コードレス掃除機。


 その横に未開封のペットシート。


 俺は何も言わずに扉を閉めた。


「今、何か見たかね?」


 キッチンから声が飛んでくる。


「何も」

「本当か?」

「何も見てません」

「ならいい」


 掃除機をかける。


 床に物が少ないので、始めれば早い。


 ソファの下。


 テーブルの周囲。


 ベッド脇。


 翠先輩は皿を洗い終えると、今度はキッチン周りを拭き始めた。


 やればできる。


 本当に、やればできる。


 ただ、その「やる」までが異様に遠い。


 三十分ほどすると、部屋はかなり戻った。


 ローテーブルには何もない。


 ソファにも服がない。


 床にも物が落ちていない。


 鞄は壁際。


 大学関係の資料は棚。


 ゴミもまとめた。


「綺麗になった」


 翠先輩が部屋を見回す。


「維持してくださいよ」

「善処する」

「駄目そう」

「未来のことは誰にも分からない」

「二週間後くらいは分かります」


 洗濯機の終了音が鳴った。


 翠先輩がそちらを見る。


 俺も見る。


「終わったな」

「干しますよ」

「休憩は?」

「干してから」

「厳しい」

「濡れたまま放置する方が面倒でしょう」

「ボクは経験者だぞ」

「知ってます。だから言ってます」


 洗濯機から服を出す。


 籠へ。


 窓を開けると、午前より少し強くなった風がカーテンを揺らした。


 ベランダは狭い。


 二人並べないほどではないが、洗濯籠を置けば動く場所は限られる。


 物干し竿。


 ピンチハンガー。


 ハンガーをいくつか持ってくる。


「翠先輩、そっちから取ってください」

「ボクが渡すのか?」

「二人で干した方が早いでしょう」

「なるほど」


 翠先輩が籠の前にしゃがむ。


 俺がハンガーを持つ。


 Tシャツ。


 ブラウス。


 カーディガン。


 タオル。


 順番に渡される。


 俺が形を整えて干す。


「それ、伸びないように」

「分かってます」

「こっちは日陰の方がいい」

「じゃあ奥ですね」

「うん」


 作業が進む。


 洗濯物が一枚ずつ風を受ける。


 大学では白衣や実習着を扱うこともあるし、家でも洗濯はする。


 服を干すこと自体に特別なことはない。


 タオル。


 靴下。


 Tシャツ。


 下着。


 俺は翠先輩から渡されたものを受け取り、ピンチへ留めた。


 次。


 靴下。


 次。


 タオル。


「悠人」

「はい」


 返事をしながらタオルを広げる。


 翠先輩が止まっていた。


「どうしました?」

「……今」

「はい」

「ボクの下着を干したな」

「干しましたね」

「…………」


 翠先輩が物干しを見る。


 俺も見る。


 さっき干した下着が風に揺れていた。


「それが?」

「いや」


 翠先輩が俺を見る。


「キミ、何とも思わないのかね?」

「洗濯物ですよね」

「洗濯物だが」

「じゃあ干しますよ」

「そうなんだけど」

「乾かさないと」

「そうなんだけどな?」


 翠先輩の声が少し強くなる。


「何です?」

「もう少しこう、ないのかね」

「何がです?」

「女性の下着だぞ」

「知ってますよ」

「ボクのだぞ」

「それも知ってます」

「……そうか」

「はい」


 俺は次の洗濯物へ手を伸ばした。


 翠先輩が持っていた。


 また下着だった。


「ください」

「待て」

「乾かないですよ」

「いや、待て。なんだかボクの方がおかしいみたいじゃないか」

「何の話です?」

「普通、男というのはもう少し反応するものではないのか?」

「知らないですよ」

「少しくらい照れるとか」

「なんで俺が」

「ボクの下着だから?」

「疑問形にされても」


 翠先輩は手元の下着を見る。


 俺を見る。


 また下着。


「……かわいくないか?」

「何が?」

「これ」

「下着の感想求めないでくださいよ」

「今さらそこは拒否するのかね?!」

「干すのと評価するのは違うでしょう」

「線引きがおかしい!」


 ベランダに翠先輩の声が響く。


「近所迷惑ですよ」

「誰のせいだ」

「翠先輩でしょう」

「キミだ!」


 結局、渡された。


 俺はピンチへ留める。


 翠先輩が横でじっと見ている。


「……本当に普通に干すな」

「さっきから何なんですか」

「いや」


 少し考える。


「慣れ?」

「何に」

「ボクに」

「どうでしょうね」

「そこは否定したまえ」

「早く次ください」

「むぅ」


 次はタオルだった。


 その次は靴下。


 またTシャツ。


 最後に薄手のパンツ。


 全部干し終える頃には、物干し竿とピンチハンガーがかなり埋まった。


 翠先輩が腰に手を当てる。


「多いな」

「全部洗うべきだったでしょう」

「半分はまだいけた」

「いけません」

「匂いは問題なかったぞ」

「その基準やめてください」


 部屋へ戻る。


 窓は開けたままにした。


 風が通る。


 さっきまで床やソファに散っていたものはなくなり、ローテーブルも空いている。


 翠先輩はそのまま床へ座った。


「疲れた」

「一時間くらいですよ」

「休日の一時間は平日の二時間に相当する」

「しません」

「する」

「何基準です?」

「体感」


 俺もテーブルの反対側へ座る。


 時計を見る。


 十一時半を少し過ぎたところだった。


「約束」

「何の?」

「昼飯ですよ」

「ああ」


 翠先輩が立ち上がる。


 冷蔵庫へ向かう。


 扉を開ける。


 昨日買った食材が並んでいた。


 キャベツ。


 豆腐。


 ヨーグルト。


 牛乳。


 卵。


 豚肉。


 以前よりずいぶん冷蔵庫らしくなっている。


 翠先輩が中を見る。


「パン」

「はい」

「プリン」

「はい」

「あと、昨日の豚肉がある」

「ありますね」

「キャベツもある」

「あります」


 少し考えた。


「焼くか」

「ちゃんと昼飯作るんですね」

「キミがいるから」

「俺が?」

「一人ならパンで終わる」

「じゃあパンでいいですよ」

「それでは労働力に対する報酬として足りないだろう」

「プリンもあるんでしょう?」

「プリンはボクも食べる」

「報酬じゃないじゃないですか」

「半分やる」

「一個あるんじゃないの?」

「一個しかない」

「昨日買わなかったんですか」

「キミの家に食材を持っていったせいで買い忘れた」

「俺のせいみたいに言わないでください」


 翠先輩が豚肉を取り出した。


 次にキャベツ。


 俺は立ち上がる。


「何作るんです?」

「豚肉とキャベツを炒める」

「普通ですね」

「普通でいいだろう」

「味付けは?」

「まだ決めていない」

「またそれですか」

「冷蔵庫を見てから決める」


 翠先輩が調味料を確認する。


 俺はまな板を出した。


「手伝うのかね?」

「ここまでやったので」

「ではキャベツ」

「はい」


 包丁を取る。


 翠先輩がフライパンを出す。


 前に焦がしたものとは別の、小さなフライパンだった。


「そういえば、あれどうなりました?」

「何が?」

「焦がしたやつ」

「…………」

「翠先輩」

「今日はいい天気だな」

「捨てたんです?」

「……まだある」

「どこに」

「今日は片づけたんだから、そういう過去を掘り返すのはよくないと思う」

「物として現在に存在してるでしょう」

「昼飯を作ろう」


 火がついた。


 フライパンが温まり始める。


 俺はキャベツを切った。

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