翠先輩は片付ける
午前十時十二分。
野々宮翠先輩の部屋は、前に片づけた時より散らかっていた。
床が見えないほどではない。
歩く場所もある。
ゴミが積み上がっているわけでもない。
ただ、使ったものが、それぞれ使い終わった場所に残っている。
ローテーブルには大学のプリントと空になったマグカップ。ソファの端には昨日着ていたらしいブラウス。その下には薄手のカーディガンが半分だけ落ちている。
ベッド脇には鞄。
充電ケーブル。
脱いだ靴下。
獣医学の教科書。
床にはコンビニの袋が一つ。
前回の片づけから二週間も経っていない。
「早かったですね」
「何が?」
「戻るのが」
「戻ってはいない」
翠先輩は部屋の中央に立ち、周囲を見渡した。
今日は薄いグレーのTシャツに短いパンツ。
俺が来ると分かっていたので、ちゃんと服を着ている。
「前よりは綺麗だろう」
「前が酷かったので」
「比較というのは大切だぞ」
「こういう時だけ俺のやり方使わないでください」
窓から午前の日差しが入っている。
天気はいい。
洗濯日和と言っていい。
だから来た。
正確には、朝九時過ぎに翠先輩から『暇』とメッセージが来たので、『洗濯でもしたらどうです』と返した。
十分後。
『手伝いたまえ』
断った。
さらに五分後。
『昼飯を出す』
何を出すのか聞いた。
『昨日買ったパン』
断った。
最終的に、
『プリンもある』
という条件まで追加された。
プリンに釣られたわけではない。
向かいなので来ただけだ。
「まず何からやります?」
「休憩」
「まだ何もしてないでしょう」
「作業前には準備が必要だ」
「何の準備です?」
「心」
「洗濯に?」
「洗濯を侮るな」
翠先輩はそう言ってソファへ座ろうとした。
俺はその前に、ソファに載っていたブラウスを持ち上げる。
「これ洗います?」
「待て」
「はい?」
「まだ分からない」
翠先輩が立ち上がる。
俺の手からブラウスを受け取った。
見る。
袖。
襟。
そして。
鼻へ近づけた。
「…………」
「何してるんです?」
翠先輩は答えない。
襟元の匂いを嗅ぐ。
次に袖。
もう一度、襟。
「まだいける」
「何が?」
「これは洗わなくていい」
「いや、洗ってください」
「昨日、大学で半日着ただけだぞ」
「着たんでしょう?」
「汗もそんなにかいていない」
「洗濯籠へ」
「まだ着られる」
「洗濯籠へ」
「悠人」
「駄目です」
翠先輩は不満そうにブラウスを見る。
名残惜しそうだった。
「洗うと生地が傷む」
「毎日同じの着続ける方が嫌ですよ」
「毎日ではない」
「じゃあ何日?」
「二日くらいなら」
「洗濯籠へ」
「横暴だなあ」
ブラウスが籠へ入る。
翠先輩はしゃがみ、床に落ちていた靴下を拾った。
左右一足。
今度は迷いなく鼻へ近づける。
「それはやめた方が」
「…………」
「翠先輩」
「これは洗う」
「でしょうね」
「判断が早いだろう」
「匂い嗅ぐ前に判断してください」
靴下が籠へ投げ込まれた。
次。
ソファに掛かっていたカーディガン。
翠先輩が匂いを嗅ぐ。
「これは大丈夫」
「いつ着ました?」
「一昨日」
「その前は?」
「先週」
「洗ったのは?」
「…………」
「翠先輩?」
「大丈夫」
「答えになってないですよ」
「臭くない」
「それだけが洗濯の基準じゃないです」
「匂いは非常に重要な情報だぞ」
「動物の観察みたいに言わないでください」
俺はカーディガンも回収した。
「あっ」
「洗います」
「まだいける!」
「何と戦ってるんですか」
「洗剤と水道代」
「そこまで困窮してないでしょう」
翠先輩は何か言いたそうだったが、諦めた。
俺たちは部屋の中に散らばっている服を集めた。
ベッド脇。
ソファ。
椅子の背。
脱衣所。
なぜか大学の鞄の横にも一枚。
翠先輩には明確な洗濯物置き場という概念が薄いらしい。
脱いだところが仮置き場になる。
そして仮置き場が、そのまま数日間の定位置になる。
「これ」
床からTシャツを拾う。
「洗います?」
「貸したまえ」
「また嗅ぐんですか」
「重要な工程だ」
翠先輩が受け取る。
鼻へ。
「……まだいける」
「いつ着たやつ?」
「覚えていない」
「洗います」
「なぜだ!」
「覚えてないからですよ」
取り返して籠へ入れた。
「合理的ではない」
「十分合理的です」
「匂いという現在の情報を重視すべきだ」
「着用履歴が消失してる時点でアウトです」
「むぅ」
洗濯物が増えていく。
翠先輩の判定では、半分近くが「まだいける」だった。
俺の判定では、ほぼ全部洗濯だった。
最終的に、明らかに一度も着ていない服以外は洗うことになった。
翠先輩は不服そうだった。
洗濯機へ入れる。
洗剤。
柔軟剤。
「入れすぎないでくださいよ」
「分かっている」
「本当に?」
「前もやっただろう」
翠先輩は洗剤を目分量で入れた。
意外と適量だった。
「ほら」
「そこはできるんですね」
「ボクを何だと思っている」
「洗濯するかどうかを匂いで決める人」
「合理的な判断方法だ」
「はいはい」
洗濯機が動き始める。
水の音。
回転音。
その間に部屋を片づける。
俺がローテーブルの上を空け、翠先輩が大学関係のプリントを仕分ける。
講義資料。
実習資料。
提出済み。
まだ使うもの。
大学関係になると、翠先輩の手は速かった。
紙の内容を一度確認するだけで、必要なものと不要なものを分けていく。
ファイルへ入れる順番にも迷わない。
十分もしないうちに、テーブルの上から大学の紙が消えた。
「こういうのは速いんですよね」
「必要なものが分かっているからね」
「服も必要かどうか分かってください」
「服は着られればいい」
「そういうところですよ」
空になったマグカップを俺がキッチンへ運ぶ。
シンクには皿が二枚。
スプーン。
小鍋。
昨日のものらしい。
「これ洗ってないじゃないですか」
「今日やる予定だった」
「本当に?」
「今日は長いぞ」
「便利だなあ」
水を出す。
翠先輩も横へ来た。
「ボクがやる」
「じゃあお願いします」
「悠人はそっち」
「何を?」
「床」
「俺に掃除させるんですか」
「役割分担だ」
「翠先輩の家ですよ」
「だからボクも働いているだろう」
確かに皿を洗い始めた。
仕方なく掃除機を出す。
前回片づけた時に場所は覚えた。
収納の扉を開ける。
コードレス掃除機。
その横に未開封のペットシート。
俺は何も言わずに扉を閉めた。
「今、何か見たかね?」
キッチンから声が飛んでくる。
「何も」
「本当か?」
「何も見てません」
「ならいい」
掃除機をかける。
床に物が少ないので、始めれば早い。
ソファの下。
テーブルの周囲。
ベッド脇。
翠先輩は皿を洗い終えると、今度はキッチン周りを拭き始めた。
やればできる。
本当に、やればできる。
ただ、その「やる」までが異様に遠い。
三十分ほどすると、部屋はかなり戻った。
ローテーブルには何もない。
ソファにも服がない。
床にも物が落ちていない。
鞄は壁際。
大学関係の資料は棚。
ゴミもまとめた。
「綺麗になった」
翠先輩が部屋を見回す。
「維持してくださいよ」
「善処する」
「駄目そう」
「未来のことは誰にも分からない」
「二週間後くらいは分かります」
洗濯機の終了音が鳴った。
翠先輩がそちらを見る。
俺も見る。
「終わったな」
「干しますよ」
「休憩は?」
「干してから」
「厳しい」
「濡れたまま放置する方が面倒でしょう」
「ボクは経験者だぞ」
「知ってます。だから言ってます」
洗濯機から服を出す。
籠へ。
窓を開けると、午前より少し強くなった風がカーテンを揺らした。
ベランダは狭い。
二人並べないほどではないが、洗濯籠を置けば動く場所は限られる。
物干し竿。
ピンチハンガー。
ハンガーをいくつか持ってくる。
「翠先輩、そっちから取ってください」
「ボクが渡すのか?」
「二人で干した方が早いでしょう」
「なるほど」
翠先輩が籠の前にしゃがむ。
俺がハンガーを持つ。
Tシャツ。
ブラウス。
カーディガン。
タオル。
順番に渡される。
俺が形を整えて干す。
「それ、伸びないように」
「分かってます」
「こっちは日陰の方がいい」
「じゃあ奥ですね」
「うん」
作業が進む。
洗濯物が一枚ずつ風を受ける。
大学では白衣や実習着を扱うこともあるし、家でも洗濯はする。
服を干すこと自体に特別なことはない。
タオル。
靴下。
Tシャツ。
下着。
俺は翠先輩から渡されたものを受け取り、ピンチへ留めた。
次。
靴下。
次。
タオル。
「悠人」
「はい」
返事をしながらタオルを広げる。
翠先輩が止まっていた。
「どうしました?」
「……今」
「はい」
「ボクの下着を干したな」
「干しましたね」
「…………」
翠先輩が物干しを見る。
俺も見る。
さっき干した下着が風に揺れていた。
「それが?」
「いや」
翠先輩が俺を見る。
「キミ、何とも思わないのかね?」
「洗濯物ですよね」
「洗濯物だが」
「じゃあ干しますよ」
「そうなんだけど」
「乾かさないと」
「そうなんだけどな?」
翠先輩の声が少し強くなる。
「何です?」
「もう少しこう、ないのかね」
「何がです?」
「女性の下着だぞ」
「知ってますよ」
「ボクのだぞ」
「それも知ってます」
「……そうか」
「はい」
俺は次の洗濯物へ手を伸ばした。
翠先輩が持っていた。
また下着だった。
「ください」
「待て」
「乾かないですよ」
「いや、待て。なんだかボクの方がおかしいみたいじゃないか」
「何の話です?」
「普通、男というのはもう少し反応するものではないのか?」
「知らないですよ」
「少しくらい照れるとか」
「なんで俺が」
「ボクの下着だから?」
「疑問形にされても」
翠先輩は手元の下着を見る。
俺を見る。
また下着。
「……かわいくないか?」
「何が?」
「これ」
「下着の感想求めないでくださいよ」
「今さらそこは拒否するのかね?!」
「干すのと評価するのは違うでしょう」
「線引きがおかしい!」
ベランダに翠先輩の声が響く。
「近所迷惑ですよ」
「誰のせいだ」
「翠先輩でしょう」
「キミだ!」
結局、渡された。
俺はピンチへ留める。
翠先輩が横でじっと見ている。
「……本当に普通に干すな」
「さっきから何なんですか」
「いや」
少し考える。
「慣れ?」
「何に」
「ボクに」
「どうでしょうね」
「そこは否定したまえ」
「早く次ください」
「むぅ」
次はタオルだった。
その次は靴下。
またTシャツ。
最後に薄手のパンツ。
全部干し終える頃には、物干し竿とピンチハンガーがかなり埋まった。
翠先輩が腰に手を当てる。
「多いな」
「全部洗うべきだったでしょう」
「半分はまだいけた」
「いけません」
「匂いは問題なかったぞ」
「その基準やめてください」
部屋へ戻る。
窓は開けたままにした。
風が通る。
さっきまで床やソファに散っていたものはなくなり、ローテーブルも空いている。
翠先輩はそのまま床へ座った。
「疲れた」
「一時間くらいですよ」
「休日の一時間は平日の二時間に相当する」
「しません」
「する」
「何基準です?」
「体感」
俺もテーブルの反対側へ座る。
時計を見る。
十一時半を少し過ぎたところだった。
「約束」
「何の?」
「昼飯ですよ」
「ああ」
翠先輩が立ち上がる。
冷蔵庫へ向かう。
扉を開ける。
昨日買った食材が並んでいた。
キャベツ。
豆腐。
ヨーグルト。
牛乳。
卵。
豚肉。
以前よりずいぶん冷蔵庫らしくなっている。
翠先輩が中を見る。
「パン」
「はい」
「プリン」
「はい」
「あと、昨日の豚肉がある」
「ありますね」
「キャベツもある」
「あります」
少し考えた。
「焼くか」
「ちゃんと昼飯作るんですね」
「キミがいるから」
「俺が?」
「一人ならパンで終わる」
「じゃあパンでいいですよ」
「それでは労働力に対する報酬として足りないだろう」
「プリンもあるんでしょう?」
「プリンはボクも食べる」
「報酬じゃないじゃないですか」
「半分やる」
「一個あるんじゃないの?」
「一個しかない」
「昨日買わなかったんですか」
「キミの家に食材を持っていったせいで買い忘れた」
「俺のせいみたいに言わないでください」
翠先輩が豚肉を取り出した。
次にキャベツ。
俺は立ち上がる。
「何作るんです?」
「豚肉とキャベツを炒める」
「普通ですね」
「普通でいいだろう」
「味付けは?」
「まだ決めていない」
「またそれですか」
「冷蔵庫を見てから決める」
翠先輩が調味料を確認する。
俺はまな板を出した。
「手伝うのかね?」
「ここまでやったので」
「ではキャベツ」
「はい」
包丁を取る。
翠先輩がフライパンを出す。
前に焦がしたものとは別の、小さなフライパンだった。
「そういえば、あれどうなりました?」
「何が?」
「焦がしたやつ」
「…………」
「翠先輩」
「今日はいい天気だな」
「捨てたんです?」
「……まだある」
「どこに」
「今日は片づけたんだから、そういう過去を掘り返すのはよくないと思う」
「物として現在に存在してるでしょう」
「昼飯を作ろう」
火がついた。
フライパンが温まり始める。
俺はキャベツを切った。




