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ボクを飼ってみないか?!  作者: 御HeSummer3
第1章

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21/37

翠先輩は飼われたい

 午後九時十四分。


 翠先輩の部屋には、まだ昼間の洗濯物が少しだけ残っていた。


 乾いたものはほとんど取り込んである。


 タオル。


 Tシャツ。


 ブラウス。


 靴下。


 夕方に一度、二人でベランダへ出て、乾いた順に外した。


 厚手のものが二枚と、日陰側へ回していたカーディガンだけが、暗くなったベランダに残っている。


 窓は閉まっていた。


 カーテンの向こうで、住宅街の灯りがぼんやり透けている。


 昼に片づけた部屋も、まだ綺麗だった。


 ローテーブルには二つのマグカップ。


 大学の教科書。


 俺のノート。


 翠先輩の筆箱。


 床の端には、取り込んだ洗濯物が畳まれたまま積んである。


 収納するところまでは終わっていない。


 昼飯のあと。


 少しだけ課題を見るつもりだった。


 そのまま夕方まで大学の資料を広げ、洗濯物を取り込み、夕飯を作った。


 俺は途中で一度だけ向かいの自宅へ戻った。


 シャワーを浴びて、着替えて、充電器とノートを取ってきた。


 道路一本。


 エレベーターを使っても、たいした時間はかからない。


 戻った時、翠先輩も風呂を済ませていた。


 今は薄いTシャツに短いパンツ。


 髪は下ろしている。


 乾かしたばかりなのか、明るい茶色の毛先がいつもより少しだけ広がっていた。


 ソファにもたれ、床に座っている。


 片膝を立て、もう片方の脚は投げ出したまま。


 大学で見る姿勢ではない。


 動物園でも見ない。


 初めてこの部屋へ来た夜は酔っていたから、比較するのも違う気がする。


 今は素面だった。


 俺がいることも分かっている。


 それでこの格好なのだから、たぶん今の方がずっと無防備だ。


「悠人」


 呼ばれて顔を上げる。


「はい」


 翠先輩は教科書を指で押さえていた。


「ここ」


 ローテーブル越しに見る。


「循環器?」

「うん」

「どこが分からないんです?」

「分からないところが分からない」

「最悪だなあ」

「先生の話を一瞬聞き逃した」

「一瞬?」

「少し」

「寝てた?」

「目は開いていた」

「寝てたんですね」


 俺は自分のノートを開いた。


 同じ講義ではないが、近い内容を扱ったページがある。


 翠先輩が身体を寄せてくる。


 肩が触れそうな距離まで来たが、特に気にした様子はない。


 俺も少しノートを中央へ寄せた。


 該当する部分を指で追う。


「この辺ですか」

「ああ、それだ」

「じゃあここから」


 短く説明する。


 翠先輩は黙って聞いていた。


 途中で一度だけ質問し、納得すると自分のノートに二行ほど書き足す。


 それだけだった。


「終わり」

「早い」

「分かればいいからね」


 ペンを置く。


 そのまま両腕をテーブルへ伸ばし、頬を伏せた。


「疲れた」

「一ページですよ」

「今日は朝から働いた」

「家事しただけでしょう」

「休日に家事をした」

「普通です」

「ボクには重労働だ」


 頬がテーブルに押されて少し潰れている。


 俺は時計を見る。


 九時を過ぎていた。


 開いていたノートを閉じる。


「そろそろ帰ります」


 翠先輩の目だけが動いた。


「もう?」

「もうですよ」

「まだ九時だぞ」

「明日一限でしょう」

「キミもだろう」

「だから帰るんです」


 充電器を抜く。


 筆箱。


 ノート。


 資料。


 鞄の中へ戻していく。


 翠先輩は頬をつけたまま、それを見ていた。


 最初にこの部屋へ来た時は、どこに何があるのか何も知らなかった。


 今は違う。


 マグカップはキッチン上の棚。


 洗剤は洗面台の下。


 掃除機は収納の右側。


 ベランダの窓は少し引っかかる。


 冷蔵庫の上段には飲み物。


 プリンは奥に隠しても、だいたい見つかる。


 別に覚えようとしたわけではない。


 何度か来ていれば、勝手に覚える。


「それ」


 翠先輩が俺の手元を見る。


「持って帰るのかね?」

「ノート?」

「充電器」

「俺のですよ」

「ここに置いておけばいいだろう」

「なんで」

「また使う」

「誰が?」

「キミが」

「ここで?」

「うん」


 迷いがない。


「決定事項なんですね」

「違うのかね?」


 聞かれて、少し考えた。


 今日はたまたま持ってきただけだ。


 次も必要になるとは限らない。


 とはいえ、また来ない理由も特にない。


「……まあ、置いててもいいですけど」

「では置いておこう」


 翠先輩が満足そうに言う。


 俺は充電器だけ鞄から出した。


 テーブルの端。


 そこに置く。


 たった一本のケーブルなのに、妙に馴染んだ。


「悠人」

「今度は何です?」

「麦茶」

「自分で取ってください」

「遠い」

「三歩ですよ」

「キミの方が近い」


 俺はキッチンを見る。


 確かに俺の方が近かった。


「はいはい」


 立ち上がる。


 冷蔵庫を開ける。


 麦茶を出す。


 コップへ注ぐ。


「どうぞ」

「ありがとう」


 受け取った翠先輩は、そのまま一口飲んだ。


 何の遠慮もない。


 礼だけは言う。


 俺も自分のマグカップを持ってキッチンへ向かった。


 使ったものを洗う。


 二つ。


 伏せる。


 水を止める。


 振り返ると、翠先輩は床へ寝転がっていた。


「何してるんです?」

「休んでいる」

「さっきまで座ってたでしょう」

「座るのに疲れた」

「寝てくださいよ、もう」

「まだ眠くない」


 明らかに眠そうだった。


 片腕を枕代わりにして、横向きになっている。


 Tシャツの裾が少し上がっていたので、翠先輩自身が気づいて引っ張り直した。


 それ以外は何もしない。


 俺が見ていても、姿勢を整える気もないらしい。


「帰るんだろう?」

「帰りますよ」

「じゃあその前に」

「はい」

「ベランダ」

「まだ乾いてないでしょう」

「見るだけ」

「翠先輩が見てきてください」

「一緒に」

「なんで」

「暗い」

「五階のベランダに何が出るんです?」

「分からないだろう」

「出ませんよ」

「先輩を一人で夜のベランダへ出すのかね?」

「家主でしょう」


 それでも翠先輩は起きなかった。


 仕方なく窓へ向かう。


 鍵を開ける。


 少し引っかかる。


 知っているので、上へ軽く持ち上げながら引く。


 夜の空気が入った。


 昼よりかなり涼しい。


 翠先輩も遅れて立ち上がり、裸足のまま近づいてくる。


「寒くないです?」

「少し」

「だから一枚着ればいいのに」

「取りに行くのが面倒だ」

「すぐそこでしょう」


 ベランダを見る。


 残っていたカーディガンへ触れる。


「まだ少し湿ってます」

「明日の朝でいいな」

「夜露つきません?」

「じゃあ中に干す」


 物干しから外す。


 もう一枚。


 厚手の服も取る。


 翠先輩が腕を伸ばした。


「貸したまえ」

「落とさないでくださいよ」

「子供ではない」


 渡す。


 二枚抱えた翠先輩が部屋へ戻る。


 俺は窓を閉めた。


「これ、どこに?」

「そこ」


 室内用の物干し。


 一緒に掛ける。


 それだけで終わった。


 昼間から何度もやったことの続きだった。


 翠先輩が物干しを少し眺める。


「今日、洗濯したな」

「しましたね」

「結構な量だった」

「溜めてたので」

「半分はまだいけた」

「まだ言うんですか」

「匂いは問題なかった」

「その基準やめてください」


 翠先輩が笑う。


 そのまま床へ座る。


 今度はクッションを一つ抱えた。


 俺は鞄を持つ。


「本当に帰りますよ」

「うん」


 玄関へ向かう。


 靴を履く。


 背後から何も言われない。


 珍しい。


 俺は片方の靴紐を結び、立ち上がった。


「じゃあ、また明日」

「悠人」


 やっぱり呼ばれた。


「はい」


 振り返る。


 翠先輩はさっきと同じ場所に座っていた。


 クッションを抱えたまま。


「明日、大学終わったら何する?」

「まだ決めてないです」

「動物園は?」

「ないです」

「そうか」

「翠先輩は?」

「ない」

「じゃあ帰るだけですね」

「うん」


 それで終わるかと思った。


 翠先輩はクッションの角を指でつまんでいる。


「夕飯」

「はい」

「何食べる?」

「明日の?」

「うん」

「明日考えますよ」

「そうか」

「何か食べたいものあるんです?」

「まだ決めていない」

「またそれ」

「スーパーへ寄って決めてもいい」

「行く前提なんですね」

「嫌かね?」


 聞き方は軽かった。


 俺も深く考えなかった。


「別に」

「ならいい」


 翠先輩はまたクッションへ顎を乗せる。


 俺は玄関へ身体を向ける。


「ねぇ、悠人」

「まだあるんですか」

「ある」

「何です?」

「ちょっとこっち」

「靴履いたんですけど」

「脱ぎたまえ」

「面倒だなあ」

「十二秒で帰れるだろう」

「それ関係ないでしょう」


 靴を脱ぐ。


 翠先輩のところまで戻る。


「何です?」

「座って」

「なんで」

「いいから」


 ローテーブルの反対側に座る。


 翠先輩は少し考えてから、クッションを横へ置いた。


 髪が頬へ落ちる。


 手で払う。


「ボク」

「はい」

「最近、結構ちゃんとしてないかね?」

「何が?」

「生活」

「前よりは」

「だろう?」

「比較対象が酷すぎますけど」

「そこはいい」

「いいんだ」


 翠先輩が指先でテーブルをなぞる。


「冷蔵庫にも食べ物がある」

「ありますね」

「洗濯もした」

「今日ですけど」

「部屋も綺麗だ」

「今日片づけたので」

「大学の課題もやった」

「それはいつもやってるでしょう」

「飯も作った」

「昼と夜」

「うん」


 そこで翠先輩が少し黙る。


 視線が俺から外れる。


 部屋を見る。


 ローテーブル。


 物干し。


 冷蔵庫の方。


 端に置かれた俺の充電器。


「一人でもできるんだぞ」

「知ってます」

「できるけど」


 続きが少し遅い。


「一人だと面倒なんだ」

「それも知ってます」

「キミがいると、あんまり面倒じゃない」

「俺がやるから?」

「それもある」

「あるんだ」

「でも」


 翠先輩が首を傾ける。


 言葉を探しているようだった。


「一緒にやると、終わるだろう」

「まあ」

「飯も、一人よりちゃんとしたのを作る」

「そうですね」

「買い物もする」

「しますね」

「家にも来る」

「それは翠先輩が」

「行く」

「はい」


 翠先輩が少し笑った。


「別に用がなくても」

「暇だから?」

「暇だから」

「課題あっても?」

「それと暇は別問題だ」

「もう知ってます」


 笑いながら答える。


 翠先輩も少し笑う。


 そこでまた静かになった。


 部屋の中は、昼間よりずっと静かだった。


 エアコンの風。


 冷蔵庫の低い音。


 遠くを走る車。


 洗濯物の影が壁に落ちている。


「なんか」


 翠先輩が言う。


「楽なんだよ」

「何がです?」

「こういうの」


 手が少し動く。


 部屋の中を指すでもなく、俺を指すでもない。


 曖昧な動きだった。


「キミがいるの」

「……そうですか」

「うん」


 それだけだった。


 翠先輩は照れもしない。


 冗談にも変えない。


 ただ、自分で言った言葉を確かめるように一度だけ頷いた。


 俺は返事に困った。


 だから、テーブルの端に置いた充電器を見る。


「じゃあ、これ置いときます?」

「うん」

「必要になったら取りに来ますよ」

「その時は来ればいい」

「十二秒ですからね」

「十二秒だからね」


 翠先輩がまた笑う。


 俺も立ち上がった。


「今度こそ帰ります」

「うん」


 玄関へ向かう。


 今度こそ、そのまま帰れると思った。


 靴を履く。


 ドアノブへ手を伸ばす。


「悠人」


 三回目だった。


「なんですか」


 振り返る。


 翠先輩が立っていた。


 さっきまで抱えていたクッションは床に残っている。


 裸足のまま、こちらへ歩いてくる。


 ゆっくり。


 俺の前で止まる。


 距離は近い。


 髪は下ろしたまま。


 Tシャツと短いパンツ。


 化粧もしていない。


 眠そうな目。


 昼間なら絶対にしないような、力の抜けた姿だった。


「帰る前に一つ聞いていいかね?」

「どうぞ」

「キミ」

「はい」

「ボクの世話、嫌いか?」


 少し考える。


「内容によります」

「掃除」

「散らかしすぎなければ」

「洗濯」

「溜めすぎなければ」

「飯」

「普通に一緒に食べるくらいなら」

「下着」

「なんでそこだけ項目なんですか」

「干したから」

「洗濯物でしょう」

「そうだったな」


 翠先輩が小さく笑う。


 それから、俺の服の裾をつまんだ。


「翠先輩?」

「少し待て」

「はい」


 指は離れない。


 強く掴んでいるわけではない。


 帰ろうと思えば普通に離せる程度だった。


 翠先輩は少し俯いた。


 髪が頬へ落ちる。


「ボクは」


 そこで止まる。


 いつもなら、もっとすぐに続く。


 屁理屈でも冗談でも、思いついたら先に口にする人だ。


 今日は珍しく、言葉が遅かった。


「一人でも平気なんだ」

「知ってます」

「うん」


 翠先輩が顔を上げる。


「でも、キミがいる方がいい」


 裾を摘んだまま、こちらを見る。


「だからさ」

「はい」


 ほんの少しだけ間が空いた。


「ボクを飼ってみる気はないかね?」


やっと一章分が終わりました〜!

次から日曜日と水曜日の隔週投稿になります!


この小説を読んで面白い!続いて欲しい!と少しでも思ったら、是非とも↓の★★★★★、ブックマークで応援してくれると嬉しいです!

今後ともよろしくお願いします!




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