翠先輩は飼育交渉をする
「は?」
聞き返した声が、自分でも驚くくらい間の抜けたものになった。
午後九時を少し回った翠先輩の部屋には、一日を二人で過ごした痕跡がそこかしこに残っていた。
昼に使った皿はもう洗われている。夕飯の食器も水切り籠へ伏せてあり、ローテーブルには二人分の教科書とノート、使いかけの付箋、空になりかけた麦茶のグラスが並んでいた。
窓際には、昼間に干した洗濯物のうち、まだ少し湿っていたカーディガンが室内へ取り込まれている。
俺の充電器は、テレビ台の横のコンセントに挿したままだった。
さっき翠先輩に「どうせまた使うんだから置いていけばいい」と言われて、そのまま置いていくことにしたものだ。
考えてみれば、人の部屋に自分の物を置いて帰るのは初めてだった。
けれど、二十メートルも離れていない場所だと思うと、わざわざ持って帰る必要もない気がした。
その程度のことだった。
たぶん。
風呂を上がったばかりの翠先輩は、薄いTシャツに短パンという格好で、まだ完全には乾いていない明るい茶色の髪を背中へ流していた。
裸足のまま、俺のすぐ近くに座っている。
もう帰ろうと立ち上がった俺の服の裾を、翠先輩は指先で軽く摘まんだ。
そして。
「ボクを飼ってみる気はないかね?」
と言った。
聞こえなかったわけではない。
だからこそ、意味が分からなかった。
「は?」
翠先輩が瞬きをした。
俺の反応の方が不思議らしい。
「聞こえなかったかい?」
「聞こえました」
「ならいいじゃないか」
「よくないですよ」
服の裾はまだ摘ままれていた。
強く引っ張っているわけではない。逃げようとしたら簡単に外れる程度なのに、そのまま帰るのも違う気がして、俺はもう一度腰を下ろした。
翠先輩はそこでようやく指を離した。
向かい側へ戻るでもなく、ローテーブルの角を挟んだすぐ横へ座り直す。
風呂上がりのせいか、いつも以上に力が抜けていた。
頬へ掛かった髪を指で払う。そのまま膝を抱え、何事もなかったみたいに俺を見る。
「一応、確認しますけど」
「うん」
「今の『飼う』って、どういう意味です?」
翠先輩は少し考えた。
天井を見る。
それから、自分の膝へ視線を落とす。
「飼うは、飼うだろう」
「その説明で分かる人はいませんよ」
「難しいな」
「難しくしてるの翠先輩ですからね」
本人としては、もっと簡単に通じると思っていたらしい。
膝の上へ顎を乗せたまま、眉間へ小さく皺を寄せる。
「今までより、もう少しボクの面倒を見る」
「今でもそこそこ見てる気がしますけど」
「そうだね」
「そこは認めるんですね」
「事実だからな」
妙なところでは素直だった。
俺はテーブルへ肘をつく。
「例えば?」
「飯」
「はい」
そこは分かる。
一緒に食べること自体、もう珍しくない。
俺の部屋で作ることもあれば、翠先輩の部屋で作ることもある。大学帰りに外で済ませることもあるし、スーパーで買ったものを持ち込むこともある。
「あと、一緒にいる」
「それも今とあまり変わらないですね」
「確かに」
翠先輩はまた考え込んだ。
ここまでなら、言葉だけがおかしいだけで、中身は今までの延長に見える。
最近は理由もなく部屋へ来る。
大学から帰ればどちらかの家にいる。
一緒に飯を食って、片方が課題をしている間、もう片方は本を読んでいる。
そういうものをまとめて、翠先輩なりに「飼う」と呼んでいるのかもしれない。
だったら、まあ。
理解できなくはない。
「それから散歩」
「散歩?」
「うん」
理解できなかった。
「……一緒に出掛けるって意味ですか?」
「そうだな」
「なら普通にそう言ってください」
「でも、飼われるなら散歩だろう?」
「人間が使う単語じゃないですよ」
翠先輩はそこを問題だとは思っていないらしい。
むしろ何か思いついたように、膝から顔を上げた。
「リードもいるな」
「いりません」
「即答か」
「何に使うんです?」
「散歩」
「繋ぐ気だったんですか」
「リードを付けるなら首輪も必要だろう?」
「付けないので必要ないです」
「ハーネスという手もある」
「選択肢の問題じゃないです」
話が妙な方向へ走り始めた。
しかも速い。
昼間は二人で洗濯物を干していたはずなのに、夜になったら首輪とリードの話をしている。
同じ一日とは思えない。
「散歩は夕方がいいな」
「まだ続けるんですか」
「朝は嫌だ」
「知ってます」
「夏は夜がいい」
「犬の散歩として具体化しないでください」
「地面が熱いからね」
「翠先輩には肉球ないでしょう」
「……」
翠先輩が片足を持ち上げた。
自分の足の裏を見る。
「ないな」
「確認しなくても分かりますよ」
「少しくらいあっても面白かったのに」
「怖いです」
足を下ろす。
「雨の日は中止で」
「まだ何も始まってません」
「濡れるのは嫌いだ」
「そこは猫っぽいですね」
翠先輩がすぐに顔を上げた。
「犬だ」
「まだ犬を名乗るんですか」
「犬だとも」
「人間でしょう」
「飼われたい犬寄りの人間だな」
「分類を増やさないでください」
喉が渇いてグラスへ手を伸ばした。
空だった。
さっき飲み切ったのを忘れていたらしい。
立ち上がり、冷蔵庫へ向かう。
「まだあるよ」
「知ってます」
「上段の奥だ」
「それも知ってます」
扉を開ける。
麦茶はいつもの場所にあった。
自分のグラスへ注ぎ、ついでに翠先輩の分も足しておく。
ボトルを冷蔵庫へ戻してから、ふと手が止まった。
俺はこの家の麦茶がどこにあるか知っている。
コップの場所も知っている。
洗剤の場所も、掃除機の場所も知っている。
テレビ台の横には俺の充電器まである。
今日一日で増えたものばかりではない。
いつの間にか、知っているものが増えていた。
「悠人?」
「なんでもないです」
席へ戻る。
翠先輩へグラスを渡すと、素直に受け取った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
一口飲む。
氷が小さく鳴った。
目の前にいるのは、どう見ても二十歳の大学生だった。
少なくとも、飼育対象には見えない。
「他には?」
聞いた瞬間、失敗したと思った。
翠先輩の目が少し明るくなった。
「撫でる」
「は?」
「撫でるだろう?」
「何をです?」
「ボクを」
自分の頭を指差す。
「なんでです?」
「飼うんだから」
「そこまで含まれるんですか」
「むしろ重要だろう」
「何の重要項目です?」
「愛情」
「急に重くしないでください」
「犬は撫でられると嬉しいじゃないか」
「人間もまあ、嫌じゃない人はいるでしょうけど」
「ボクはたぶん嬉しい」
「まだやってないでしょう」
「想像だ」
「自信ありますね」
「あと褒めてほしい」
「注文増えましたね」
「頑張ったら褒めるものだろう?」
「まあ、それは」
「よしよし、とか」
「子供じゃないんですから」
「犬だ」
「そこだけ便利に使わないでください」
翠先輩は至って真面目だった。
冗談で俺を困らせている時とは少し違う。
本当に、自分が飼われた場合の待遇を考えている。
しかも楽しそうだ。
「餌は?」
「食事と言ってください」
「好きなものがいいな」
「栄養偏りますよ」
「そこを上手くするのが飼い主だろう」
「俺の仕事、多くないですか?」
「健康管理も頼みたい」
「人間は獣医の担当外です」
「日常的な範囲でいい」
「妙に現実的ですね」
翠先輩はまた麦茶を飲んだ。
それからグラスをテーブルへ戻し、指先で水滴をなぞる。
「それと」
「まだあるんですか」
「一生可愛がってもらえると、なお良い」
返事が出なかった。
ほんの一瞬だった。
けれど、他の条件とは違って、その言葉だけ少し遅れて頭へ入ってきた。
「……一生?」
「うん」
翠先輩は普通に頷いた。
冗談めかした笑いもない。
何でもないことみたいに続ける。
「飼い始めたなら、最後まで責任を持つものだろう?」
「……そういう意味ですか」
「当然じゃないか」
そこだけ聞けば正しい。
動物を迎えたなら、飽きたからとか、面倒だからという理由で途中で投げ出すものではない。
俺もそう思う。
ただし。
「人間相手に使う理屈じゃないですよ」
「そこは今だけ置いておこう」
「そこを置いたら全部崩れます」
「それに」
翠先輩が膝をほどいた。
身体ごと少しこちらへ向く。
乾ききっていない髪が肩から落ちる。
そのまま、妙に嬉しそうに笑った。
「悠人にだったら、いい!」
「…………」
また一瞬だけ返事が遅れた。
「……何がです?」
「飼われるのが」
「そこは分かります」
「ならいいじゃないか」
「よくないです」
何がいいのか本人には明確なのだろう。
飯を一緒に食べる。
家へ来る。
世話を焼かれる。
構ってもらう。
そういう今までの延長を、もっと遠くまで続けたいということなのかもしれない。
ただ、それを全部まとめて「悠人になら飼われていい」と言われると、妙に引っ掛かる。
考えると面倒なので、考えないことにした。
俺はグラスを置いた。
「とにかく」
「うん」
「飼いませんよ」
翠先輩の笑顔が消えた。
「なぜ?」
「なぜじゃないですよ」
「条件が悪かったかい?」
「条件以前です」
「散歩は週三でもいい」
「回数の交渉じゃないです」
「朝は免除する」
「翠先輩が楽になるだけじゃないですか」
「餌も贅沢は言わない」
「ご飯」
「プリンはたまに欲しい」
「そこだけ具体的ですね」
翠先輩は本気で交渉しているらしい。
俺が条件を修正すれば成立すると思っている顔だった。
「翠先輩」
「うん」
「人間は飼いません」
「ボクなら?」
「人間です」
「比較的飼いやすい方だと思う」
「どこにその自信があるんです?」
「留守番できる」
「成人女性なら大体できます」
「トイレも一人で」
「その話はやめてください」
「…………」
翠先輩の視線が逸れた。
俺も余計なものを思い出した。
忘れよう。
「吠えない」
「さっきまで犬を名乗ってたでしょう」
「必要なら吠える」
「必要ないです」
「ワン」
「やめてください」
久しぶりに聞いた。
以前はたまにやっていたのに、最近はほとんど聞かなくなっていた。
大学で会うようになってから、俺たちの間には別の習慣が増えたせいかもしれない。
「ワンワン」
「増やしても駄目です」
「クゥーン……」
「鳴き方を変えても同じです」
「手強いな」
「攻略しようとしないでください」
壁の時計を見る。
九時半を過ぎていた。
明日は一限がある。
翠先輩は二限からだったはずだ。
「そろそろ帰ります」
「話し合いは?」
「決裂です」
「早いな」
「十分以上やりましたよ」
立ち上がる。
今度は服の裾を掴まれなかった。
翠先輩は床へ座ったまま、少し不満そうにこちらを見ている。
俺はノートと教科書を鞄へ入れた。
筆箱も入れる。
いつもなら最後に充電器を抜くところで、一度テレビ台の横を見た。
白いケーブルが、コンセントへ挿さったままになっている。
そのままにした。
どうせまた使う。
翠先輩の言った通りだった。
「試用期間は?」
「ありません」
「一週間」
「ありません」
「三日」
「値切らないでください」
「仮飼育」
「しません」
「仮飼い主」
「名称変えても駄目です」
鞄のファスナーを閉じる。
翠先輩は少し黙った。
諦めたのかと思った頃、後ろから声がした。
「分かった」
俺は振り返った。
「分かってくれました?」
「うん」
妙に素直な顔をしている。
「正式な許可は、まだ出ていない」
「違います」
「では保留」
「却下です」
「前向きに検討中」
「検討してません」
「難しいな」
「俺は最初から一回も揺れてないですよ」
翠先輩は少し考えた。
それから、なぜか納得したように頷く。
「まあいい」
「よくない気がします」
「おやすみ、悠人」
「……おやすみなさい」
玄関へ向かう。
靴を履き、ドアを開ける前に振り返ると、翠先輩も廊下の途中まで来ていた。
風呂上がりのまま、裸足だった。
「髪、ちゃんと乾かしてくださいね」
「分かっている」
「その返事、信用ないです」
「飼い主みたいだな」
「違います」
「へへ」
「笑って誤魔化さないでください」
ドアを閉めた。
外へ出れば、道の向こうに俺の住むマンションが見える。
この時間になると住宅街は静かだった。
車も来ない。
道路を渡り、向かいのエントランスへ着く。
自分の部屋へ戻り、鞄を床へ置いた。
上着を脱ぐ。
机の前まで行ったところで、スマホの充電が減っていることに気づいた。
「…………」
いつもの場所を見る。
ない。
数秒考えてから思い出した。
充電器は翠先輩の部屋だ。
取りに戻ろうと思えば、往復一分もかからない。
けれど、今日は別のケーブルで足りる。
机の引き出しから予備を出した。
それだけだった。
シャワーを浴びる。
残っていた課題を少し進める。
珍しく十二時前には布団へ入った。
翌朝。
インターホンが鳴った。
午前六時五十二分だった。
俺は歯ブラシを咥えたまま、洗面所から壁の時計を見る。
こんな時間に宅配便は来ない。
もう一度鳴る。
「…………」
嫌な予感がした。
歯ブラシを口から抜き、洗面所を出る。
インターホンのモニターを点けた。
明るい茶色の髪。
白いパーカー。
眠そうな顔。
翠先輩だった。
一度、目を閉じる。
開ける。
まだいる。
受話ボタンを押した。
「何してるんですか」
『おはよう、悠人』
「おはようございます」
『朝ご飯は?』
「ありますけど」
『何?』
「卵と味噌汁と、昨日の残りです」
『いいね』
「なんで聞くんです?」
画面の中で、翠先輩がにこっと笑った。
『仮飼育初日だから』
「昨日の話、聞いてました?」
『もちろん』
「どこをどう聞いたら初日になるんですか」
『細かい話は中でしよう』
「今してください」
『開けてくれ』
「嫌です」
『寒い』
「自分の家、そこですよ」
『もう来てしまった』
「十二秒で帰れます」
『ワン』
「鳴いても開けません」
『ワンワン』
「増やしても同じです」
画面の向こうで翠先輩が黙った。
眠そうな目のまま、少しだけ口を尖らせる。
数秒後。
『クゥーン……』
「…………」
俺は玄関の解錠ボタンを押した。




