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ボクを飼ってみないか?!  作者: 御HeSummer3
第2章

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22/37

翠先輩は飼育交渉をする


「は?」


 聞き返した声が、自分でも驚くくらい間の抜けたものになった。


 午後九時を少し回った翠先輩の部屋には、一日を二人で過ごした痕跡がそこかしこに残っていた。


 昼に使った皿はもう洗われている。夕飯の食器も水切り籠へ伏せてあり、ローテーブルには二人分の教科書とノート、使いかけの付箋、空になりかけた麦茶のグラスが並んでいた。


 窓際には、昼間に干した洗濯物のうち、まだ少し湿っていたカーディガンが室内へ取り込まれている。


 俺の充電器は、テレビ台の横のコンセントに挿したままだった。


 さっき翠先輩に「どうせまた使うんだから置いていけばいい」と言われて、そのまま置いていくことにしたものだ。


 考えてみれば、人の部屋に自分の物を置いて帰るのは初めてだった。


 けれど、二十メートルも離れていない場所だと思うと、わざわざ持って帰る必要もない気がした。


 その程度のことだった。


 たぶん。


 風呂を上がったばかりの翠先輩は、薄いTシャツに短パンという格好で、まだ完全には乾いていない明るい茶色の髪を背中へ流していた。


 裸足のまま、俺のすぐ近くに座っている。


 もう帰ろうと立ち上がった俺の服の裾を、翠先輩は指先で軽く摘まんだ。


 そして。


「ボクを飼ってみる気はないかね?」


 と言った。


 聞こえなかったわけではない。


 だからこそ、意味が分からなかった。


「は?」


 翠先輩が瞬きをした。


 俺の反応の方が不思議らしい。


「聞こえなかったかい?」

「聞こえました」

「ならいいじゃないか」

「よくないですよ」


 服の裾はまだ摘ままれていた。


 強く引っ張っているわけではない。逃げようとしたら簡単に外れる程度なのに、そのまま帰るのも違う気がして、俺はもう一度腰を下ろした。


 翠先輩はそこでようやく指を離した。


 向かい側へ戻るでもなく、ローテーブルの角を挟んだすぐ横へ座り直す。


 風呂上がりのせいか、いつも以上に力が抜けていた。


 頬へ掛かった髪を指で払う。そのまま膝を抱え、何事もなかったみたいに俺を見る。


「一応、確認しますけど」

「うん」

「今の『飼(・)う(・)』って、どういう意味です?」

 

 翠先輩は少し考えた。


 天井を見る。


 それから、自分の膝へ視線を落とす。


「飼うは、飼うだろう」

「その説明で分かる人はいませんよ」

「難しいな」

「難しくしてるの翠先輩ですからね」


 本人としては、もっと簡単に通じると思っていたらしい。


 膝の上へ顎を乗せたまま、眉間へ小さく皺を寄せる。


「今までより、もう少しボクの面倒を見る」

「今でもそこそこ見てる気がしますけど」

「そうだね」

「そこは認めるんですね」

「事実だからな」


 妙なところでは素直だった。


 俺はテーブルへ肘をつく。


「例えば?」

「飯」

「はい」


 そこは分かる。


 一緒に食べること自体、もう珍しくない。


 俺の部屋で作ることもあれば、翠先輩の部屋で作ることもある。大学帰りに外で済ませることもあるし、スーパーで買ったものを持ち込むこともある。


「あと、一緒にいる」

「それも今とあまり変わらないですね」

「確かに」


 翠先輩はまた考え込んだ。


 ここまでなら、言葉だけがおかしいだけで、中身は今までの延長に見える。


 最近は理由もなく部屋へ来る。


 大学から帰ればどちらかの家にいる。


 一緒に飯を食って、片方が課題をしている間、もう片方は本を読んでいる。


 そういうものをまとめて、翠先輩なりに「飼う」と呼んでいるのかもしれない。


 だったら、まあ。


 理解できなくはない。


「それから散歩」

「散歩?」

「うん」


 理解できなかった。


「……一緒に出掛けるって意味ですか?」

「そうだな」

「なら普通にそう言ってください」

「でも、飼われるなら散歩だろう?」

「人間が使う単語じゃないですよ」


 翠先輩はそこを問題だとは思っていないらしい。


 むしろ何か思いついたように、膝から顔を上げた。


「リードもいるな」

「いりません」

「即答か」

「何に使うんです?」

「散歩」

「繋ぐ気だったんですか」

「リードを付けるなら首輪も必要だろう?」

「付けないので必要ないです」

「ハーネスという手もある」

「選択肢の問題じゃないです」


 話が妙な方向へ走り始めた。


 しかも速い。


 昼間は二人で洗濯物を干していたはずなのに、夜になったら首輪とリードの話をしている。


 同じ一日とは思えない。


「散歩は夕方がいいな」

「まだ続けるんですか」

「朝は嫌だ」

「知ってます」

「夏は夜がいい」

「犬の散歩として具体化しないでください」

「地面が熱いからね」

「翠先輩には肉球ないでしょう」

「……」


 翠先輩が片足を持ち上げた。


 自分の足の裏を見る。


「ないな」

「確認しなくても分かりますよ」

「少しくらいあっても面白かったのに」

「怖いです」


 足を下ろす。


「雨の日は中止で」

「まだ何も始まってません」

「濡れるのは嫌いだ」

「そこは猫っぽいですね」


 翠先輩がすぐに顔を上げた。


「犬だ」

「まだ犬を名乗るんですか」

「犬だとも」

「人間でしょう」

「飼われたい犬寄りの人間だな」

「分類を増やさないでください」


 喉が渇いてグラスへ手を伸ばした。


 空だった。


 さっき飲み切ったのを忘れていたらしい。


 立ち上がり、冷蔵庫へ向かう。


「まだあるよ」

「知ってます」

「上段の奥だ」

「それも知ってます」


 扉を開ける。


 麦茶はいつもの場所にあった。


 自分のグラスへ注ぎ、ついでに翠先輩の分も足しておく。


 ボトルを冷蔵庫へ戻してから、ふと手が止まった。


 俺はこの家の麦茶がどこにあるか知っている。


 コップの場所も知っている。


 洗剤の場所も、掃除機の場所も知っている。


 テレビ台の横には俺の充電器まである。


 今日一日で増えたものばかりではない。


 いつの間にか、知っているものが増えていた。


「悠人?」

「なんでもないです」


 席へ戻る。


 翠先輩へグラスを渡すと、素直に受け取った。


「ありがとう」

「どういたしまして」


 一口飲む。


 氷が小さく鳴った。


 目の前にいるのは、どう見ても二十歳の大学生だった。


 少なくとも、飼育対象には見えない。


「他には?」


 聞いた瞬間、失敗したと思った。


 翠先輩の目が少し明るくなった。


「撫でる」

「は?」

「撫でるだろう?」

「何をです?」

「ボクを」


 自分の頭を指差す。


「なんでです?」

「飼うんだから」

「そこまで含まれるんですか」

「むしろ重要だろう」

「何の重要項目です?」

「愛情」

「急に重くしないでください」

「犬は撫でられると嬉しいじゃないか」

「人間もまあ、嫌じゃない人はいるでしょうけど」

「ボクはたぶん嬉しい」

「まだやってないでしょう」

「想像だ」

「自信ありますね」

「あと褒めてほしい」

「注文増えましたね」

「頑張ったら褒めるものだろう?」

「まあ、それは」

「よしよし、とか」

「子供じゃないんですから」

「犬だ」

「そこだけ便利に使わないでください」


 翠先輩は至って真面目だった。


 冗談で俺を困らせている時とは少し違う。


 本当に、自分が飼われた場合の待遇を考えている。


 しかも楽しそうだ。


「餌は?」

「食事と言ってください」

「好きなものがいいな」

「栄養偏りますよ」

「そこを上手くするのが飼い主だろう」

「俺の仕事、多くないですか?」

「健康管理も頼みたい」

「人間は獣医の担当外です」

「日常的な範囲でいい」

「妙に現実的ですね」


 翠先輩はまた麦茶を飲んだ。


 それからグラスをテーブルへ戻し、指先で水滴をなぞる。


「それと」

「まだあるんですか」

「一生可愛がってもらえると、なお良い」


 返事が出なかった。


 ほんの一瞬だった。


 けれど、他の条件とは違って、その言葉だけ少し遅れて頭へ入ってきた。


「……一生?」

「うん」


 翠先輩は普通に頷いた。


 冗談めかした笑いもない。


 何でもないことみたいに続ける。


「飼い始めたなら、最後まで責任を持つものだろう?」

「……そういう意味ですか」

「当然じゃないか」


 そこだけ聞けば正しい。


 動物を迎えたなら、飽きたからとか、面倒だからという理由で途中で投げ出すものではない。


 俺もそう思う。


 ただし。


「人間相手に使う理屈じゃないですよ」

「そこは今だけ置いておこう」

「そこを置いたら全部崩れます」

「それに」


 翠先輩が膝をほどいた。


 身体ごと少しこちらへ向く。


 乾ききっていない髪が肩から落ちる。


 そのまま、妙に嬉しそうに笑った。


「悠人にだったら、いい!」

「…………」


 また一瞬だけ返事が遅れた。


「……何がです?」

「飼われるのが」

「そこは分かります」

「ならいいじゃないか」

「よくないです」


 何がいいのか本人には明確なのだろう。


 飯を一緒に食べる。


 家へ来る。


 世話を焼かれる。


 構ってもらう。


 そういう今までの延長を、もっと遠くまで続けたいということなのかもしれない。


 ただ、それを全部まとめて「悠人になら飼われていい」と言われると、妙に引っ掛かる。


 考えると面倒なので、考えないことにした。


 俺はグラスを置いた。


「とにかく」

「うん」

「飼いませんよ」


 翠先輩の笑顔が消えた。


「なぜ?」

「なぜじゃないですよ」

「条件が悪かったかい?」

「条件以前です」

「散歩は週三でもいい」

「回数の交渉じゃないです」

「朝は免除する」

「翠先輩が楽になるだけじゃないですか」

「餌も贅沢は言わない」

「ご飯」

「プリンはたまに欲しい」

「そこだけ具体的ですね」


 翠先輩は本気で交渉しているらしい。


 俺が条件を修正すれば成立すると思っている顔だった。


「翠先輩」

「うん」

「人間は飼いません」

「ボクなら?」

「人間です」

「比較的飼いやすい方だと思う」

「どこにその自信があるんです?」

「留守番できる」

「成人女性なら大体できます」

「トイレも一人で」

「その話はやめてください」

「…………」


 翠先輩の視線が逸れた。


 俺も余計なものを思い出した。


 忘れよう。


「吠えない」

「さっきまで犬を名乗ってたでしょう」

「必要なら吠える」

「必要ないです」

「ワン」

「やめてください」


 久しぶりに聞いた。


 以前はたまにやっていたのに、最近はほとんど聞かなくなっていた。


 大学で会うようになってから、俺たちの間には別の習慣が増えたせいかもしれない。


「ワンワン」

「増やしても駄目です」

「クゥーン……」

「鳴き方を変えても同じです」

「手強いな」

「攻略しようとしないでください」


 壁の時計を見る。


 九時半を過ぎていた。


 明日は一限がある。


 翠先輩は二限からだったはずだ。


「そろそろ帰ります」

「話し合いは?」

「決裂です」

「早いな」

「十分以上やりましたよ」


 立ち上がる。


 今度は服の裾を掴まれなかった。


 翠先輩は床へ座ったまま、少し不満そうにこちらを見ている。


 俺はノートと教科書を鞄へ入れた。


 筆箱も入れる。


 いつもなら最後に充電器を抜くところで、一度テレビ台の横を見た。


 白いケーブルが、コンセントへ挿さったままになっている。


 そのままにした。


 どうせまた使う。


 翠先輩の言った通りだった。


「試用期間は?」

「ありません」

「一週間」

「ありません」

「三日」

「値切らないでください」

「仮飼育」

「しません」

「仮飼い主」

「名称変えても駄目です」


 鞄のファスナーを閉じる。


 翠先輩は少し黙った。


 諦めたのかと思った頃、後ろから声がした。


「分かった」


 俺は振り返った。


「分かってくれました?」

「うん」


 妙に素直な顔をしている。


「正式な許可は、まだ出ていない」

「違います」

「では保留」

「却下です」

「前向きに検討中」

「検討してません」

「難しいな」

「俺は最初から一回も揺れてないですよ」


 翠先輩は少し考えた。


 それから、なぜか納得したように頷く。


「まあいい」

「よくない気がします」

「おやすみ、悠人」

「……おやすみなさい」


 玄関へ向かう。


 靴を履き、ドアを開ける前に振り返ると、翠先輩も廊下の途中まで来ていた。


 風呂上がりのまま、裸足だった。


「髪、ちゃんと乾かしてくださいね」

「分かっている」

「その返事、信用ないです」

「飼い主みたいだな」

「違います」

「へへ」

「笑って誤魔化さないでください」


 ドアを閉めた。


 外へ出れば、道の向こうに俺の住むマンションが見える。


 この時間になると住宅街は静かだった。


 車も来ない。


 道路を渡り、向かいのエントランスへ着く。


 自分の部屋へ戻り、鞄を床へ置いた。


 上着を脱ぐ。


 机の前まで行ったところで、スマホの充電が減っていることに気づいた。


「…………」


 いつもの場所を見る。


 ない。


 数秒考えてから思い出した。


 充電器は翠先輩の部屋だ。


 取りに戻ろうと思えば、往復一分もかからない。


 けれど、今日は別のケーブルで足りる。


 机の引き出しから予備を出した。


 それだけだった。


 シャワーを浴びる。


 残っていた課題を少し進める。


 珍しく十二時前には布団へ入った。


 翌朝。


 インターホンが鳴った。


 午前六時五十二分だった。


 俺は歯ブラシを咥えたまま、洗面所から壁の時計を見る。


 こんな時間に宅配便は来ない。


 もう一度鳴る。


「…………」


 嫌な予感がした。


 歯ブラシを口から抜き、洗面所を出る。


 インターホンのモニターを点けた。


 明るい茶色の髪。


 白いパーカー。


 眠そうな顔。


 翠先輩だった。


 一度、目を閉じる。


 開ける。


 まだいる。


 受話ボタンを押した。


「何してるんですか」

 

『おはよう、悠人』


「おはようございます」


『朝ご飯は?』


「ありますけど」


『何?』


「卵と味噌汁と、昨日の残りです」


『いいね』


「なんで聞くんです?」


 画面の中で、翠先輩がにこっと笑った。


『仮飼育初日だから』


「昨日の話、聞いてました?」


『もちろん』


「どこをどう聞いたら初日になるんですか」


『細かい話は中でしよう』


「今してください」


『開けてくれ』


「嫌です」


『寒い』


「自分の家、そこですよ」


『もう来てしまった』


「十二秒で帰れます」


『ワン』


「鳴いても開けません」


『ワンワン』


「増やしても同じです」


 画面の向こうで翠先輩が黙った。


 眠そうな目のまま、少しだけ口を尖らせる。


 数秒後。


『クゥーン……』


「…………」


 俺は玄関の解錠ボタンを押した。

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