↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ボクを飼ってみないか?!  作者: 御HeSummer3
第2章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
23/37

翠先輩は仮飼育される

 解錠ボタンを押してから、少しだけ後悔した。


 玄関の向こうでオートロックが開く音がして、それから一分もしないうちに、今度は部屋のインターホンが鳴った。


 早い。


 いや、向かいなのだから当然なのだが。


 俺は歯ブラシを洗面台へ置き、玄関へ向かった。


 扉を開ける。


「おはよう、悠人」


「……おはようございます」


 翠先輩がいた。


 白いパーカーに長いスカート。明るい茶色の髪は一応整っているものの、ところどころ跳ねている。


 顔もまだ少し眠そうだった。


 というか、眠そうというより半分寝ている。


「寒い」


「だから自分の家にいればよかったでしょう」


「仮飼育初日だぞ」


「始まってません」


「入っていいかい?」


「もうここまで来てるじゃないですか」


「では、お邪魔する」


 返事を待たず、翠先輩がするりと入ってくる。


 靴を脱ぐ。


 揃える。


 そこだけ妙にちゃんとしている。


 そのまま廊下を抜け、俺より先にリビングへ入っていった。


「…………」


 人の家なのに迷いがない。


 まあ、最近よく来ているから当たり前ではある。


 俺も玄関を閉めた。


 洗面所へ戻ろうとしたところで、リビングから声が飛んできた。


「悠人」

「なんです?」

「寒い」

「暖房ついてますよ」

「まだ身体が冷えている」

「十二秒しか外にいなかったでしょう」

「十二秒でも冬は冬だ」

「九月ですよ」

「朝は冷える」

「大袈裟です」


 リビングへ戻る。


 翠先輩はすでにソファへ座っていた。


 座っているというより、沈んでいた。


 背もたれへ身体を預け、目を半分閉じている。


「寝ないでくださいね」

「寝てない」

「今ほぼ寝てましたよ」

「目を休めていた」

「家帰って休めばいいでしょう」

「ここで休む」

「なんで」

「飼われてるから」

「飼ってません」


 昨日から何度言ったか分からない。


 翠先輩は気にした様子もなく、ソファの上で膝を抱えた。


「朝飯はまだかい?」

「まだです」

「何時に食べる?」

「今から作ります」

「いいね」


 急に少しだけ目が開いた。


 食事への反応だけは早い。


 俺はキッチンへ向かった。


 冷蔵庫を開ける。


 昨日作った味噌汁が少し残っている。卵。納豆。冷凍してあるご飯。


 簡単に済ませるなら十分だった。


 背後から足音がした。


 振り返ると、翠先輩がいた。


「何してるんです?」

「見学」

「座ってていいですよ」

「飼育される側だからね」

「その理屈なら見学する必要ないでしょう」

「飼い主がどう餌を作るのか把握しておく必要がある」

「ご飯です」

「餌」

「ご飯」

「餌」

「ご飯」


 数秒見つめ合う。


 翠先輩が先に折れた。


「……朝ご飯」

「よろしい」

「今の『よろしい』、ちょっと飼い主っぽかったな」

「違います」


 冷凍ご飯を電子レンジへ入れる。


 味噌汁は鍋へ移す。


 火をつける。


 フライパンを出したところで、翠先輩が横から覗き込んだ。


「卵?」

「そうです」

「目玉焼き?」

「はい」

「半熟で」

「注文入るんですか」

「飼育対象の好みは把握すべきだろう?」

「ホテルじゃないですよ」

「黄身は柔らかめ」

「聞いてます」

「白身の端は少し焼けてると嬉しい」

「注文細かいな」

「あと醤油」

「それは自分でかけてください」


 フライパンへ卵を落とす。


 じゅっと音がした。


 翠先輩が妙に真剣な顔で見ている。


「……何です?」

「いや」

「目玉焼き珍しくないですよね」

「人に作ってもらう朝飯というのは、少し特別感があるな」

「今までも俺の家で朝飯食べたことあるでしょう」

「仮飼育初日は違う」

「違わないです」


 翠先輩は満足そうだった。


 完全に言葉の問題である。


 中身は昨日までとほとんど変わっていない。


 なのに「仮飼育」という名前を付けた途端、本人の中では全部が新しいらしい。


 電子レンジが鳴った。


 ご飯を二つの茶碗へ分ける。


 味噌汁も二人分。


 目玉焼きを皿へ移す。


 納豆も出した。


「運ぶの手伝ってください」

「飼われる側なのに?」

「じゃあ食べなくていいです」

「手伝おう」


 即答だった。


 翠先輩は味噌汁と茶碗を持つ。


 俺は皿を運んだ。


 ローテーブルへ並べると、さっきまで眠そうだった翠先輩がすぐに座る。


「いただきます」

「いただきます」


 箸を取る。


 味噌汁を一口飲む。


 昨夜の残りなので少し味が濃くなっていたが、朝ならこのくらいでもいい。


 向かいでは、翠先輩が目玉焼きの黄身へ箸を入れている。


 とろりと黄身が流れた。


「完璧だ」

「それはよかったです」

「やるじゃないか、悠人」

「目玉焼きですよ」

「褒めている」

「どうも」

「飼育者として高評価だ」

「その評価いりません」


 翠先輩は醤油を少し垂らした。


 黄身へ白身を絡めて食べる。


 頬が少し緩んだ。


 分かりやすい。


「美味しいですか」

「うん」

「ならよかったです」

「……」


 翠先輩の箸が止まった。


「何です?」

「今のは?」

「何がです」

「褒めないのかね?」

「何を?」

「ちゃんと朝飯を食べている」

「食べて当然でしょう」

「昨日、褒めてほしいと言った」

「そこ実行する気なんですか」

「仮飼育だから」

「何でもそれで通ると思わないでください」


 翠先輩は少し不満そうに納豆を混ぜ始めた。


 妙に勢いがある。


「……よく食べてますね」

「雑」

「ちゃんと朝飯食べて偉いですね」

「子供扱いされている気がする」

「自分から言わせたんでしょう」

「もっとこう」

「まだ注文あるんです?」


 翠先輩は少し考えた。


 箸を置く。


 それから俺を見る。


「よしよし、とか」

「朝から何言ってるんですか」

「昨日言っただろう」

「覚えてますけど」

「試してみたい」

「嫌です」

「なぜ?」

「普通に嫌です」

「一回だけ」

「やりません」

「試用」

「昨日から試用が好きですね」


 俺が味噌汁を飲む。


 翠先輩はじっとこちらを見ている。


 無視する。


 まだ見ている。


「……食べてください」

「食べている」

「じゃあ見ないでください」

「視線は禁止事項かい?」

「圧がすごいんですよ」

「クゥーン……」

「朝飯中に鳴かないでください」

「効果があったからね」

「昨日一回だけです」

「成功体験というものは大事だ」

「動物行動学みたいに言わないでください」


 しばらく無言で食べる。


 数十秒。


 翠先輩は何も言わなくなった。


 妙に静かだ。


 逆に気になる。


 顔を上げる。


 翠先輩は普通に納豆ご飯を食べていた。


「…………」

「なんだい?」

「いや」

「何かね?」

「静かだなと思って」

「ボクは普段から静かな方だろう」

「俺の家ではあんまり」

「失礼だな」


 その言葉の直後、翠先輩が小さく欠伸をした。


 口元を手で隠す。


 やっぱり眠いらしい。


「昨日何時に寝たんです?」

「一時くらい」

「遅いですね」

「髪を乾かしていた」

「ちゃんと乾かしたんですね」

「言われたからな」

「それは偉いですね」


「!」


 翠先輩が顔を上げた。


「今の」

「はい?」

「もう一回」

「何がです」

「偉い」

「……ちゃんと髪乾かして偉いですね」


 露骨に機嫌が良くなった。


「悪くない」

「単純ですね」

「褒められる経験が少ない」

「大学生になるとそんなもんですよ」

「もっと褒めたまえ」

「調子に乗らないでください」

「ケチだなあ」


 朝食を食べ終える。


 食器を重ねる。


 俺が立ち上がると、翠先輩も立った。


「置いといてください。あとで洗います」

「ボクが洗おう」

「珍しいですね」

「飼育対象にも協力義務はある」

「急に社会性出してきた」


 翠先輩は食器をシンクへ運んだ。


 水を出す。


 洗剤を取る。


 場所を聞かない。


 俺の家でも、もう何がどこにあるかだいたい知っている。


 スポンジを泡立て、普通に洗い始めた。


 やればできる。


 分かっていたことではある。


「じゃあお願いします。俺、着替えるので」

「うん」


 時計を見る。


 七時十四分。


 一限は八時五十分。


 家を出るのは八時前で十分間に合うが、朝の準備は早めに済ませておきたい。


 寝室へ入り、クローゼットを開ける。


 今日の講義は一限から三限。


 午後は空いている。


 シャツを取り出す。


 そこで背後から声がした。


「悠人」

「なんです?」

「終わった」


 振り返る。


 翠先輩が寝室の入口に立っていた。


「早いですね」

「三分もかからない」

「ありがとうございます」

「どういたしまして」


 そして動かない。


「……何です?」

「着替えるんだろう?」

「そうです」

「うん」

「出てください」

「なぜ?」

「なぜって」

「ボクの家ではこの前、洗濯物を普通に干したじゃないか」

「それとこれ別です」

「下着も干した」

「別です」

「評価は断られた」

「そこ掘り返さなくていいです」


 翠先輩は不思議そうに首を傾げている。


 どうやら本当に分かっていない。


「着替えるので出てください」

「減るものでもないだろう」

「出てください」

「……はい」


 素直だった。


 扉を閉める。


 数秒後。


「悠人」

「まだ着替えてます」

「質問」

「あとで」

「飼い犬は寝室に入ってはいけないのかね?」

「犬じゃないです」

「設定上」

「その設定をまず捨ててください」

「ベッドは?」

「何がです?」

「乗っていい?」


 俺はシャツのボタンを留める手を止めた。


「駄目です」

「なぜ」

「なんとなく」

「ソファはいいのに?」

「ソファはいつも座ってるでしょう」

「ベッドも一度くらい」

「駄目です」

「厳しいなあ」


 扉越しに声が遠ざかる。


 諦めたらしい。


 俺は着替えを終えた。


 部屋を出る。


「…………」


 翠先輩がいない。


 リビングにもいない。


 嫌な予感がして、寝室へ戻る。


「翠先輩」

「なんだい?」


 いた。


 ベッドの上に。


 しかも寝転がっている。


「何してるんです?」

「乗ってみた」

「駄目って言いましたよね」

「乗る前だったからな」

「屁理屈やめてください」


 翠先輩は仰向けだった。


 白いパーカーのフードが枕の横へ広がっている。


 俺の枕を少し見て、それから天井を見る。


「悪くない」

「レビューいらないです」

「悠人の匂いがする」

「出てください」

「本当だぞ」

「聞いてません」


 腕を伸ばし、枕を抱こうとする。


 俺は先に取り上げた。


「あ」

「何する気ですか」

「別に」

「今抱こうとしたでしょう」

「飼い主の匂いというものを」

「確認しなくていいです」

「ケチ」

「そもそも飼い主じゃない」


 翠先輩は起き上がった。


 ベッドの端へ座る。


 眠そうに瞬きをする。


「……寝るなよ」

「寝ない」

「目閉じてましたよ」

「一秒」

「翠先輩、二限からなんだから自分の家戻って寝ればいいでしょう」

「一限に行く悠人を見送る」

「なんで」

「飼育対象として」

「立場逆じゃないですか」

「そうか?」

「飼われる側が飼い主を見送るって何です」

「忠犬」

「便利だな、その設定」


 時計を見る。


 七時二十六分。


 まだ余裕はある。


 俺は鞄を確認する。


 ノート。


 教科書。


 筆箱。


 学生証。


 充電器。


「…………」


 ない。


 当然だ。


 昨日、翠先輩の部屋へ置いてきた。


 今日使う予定はないので問題ない。


 鞄を閉じる。


「忘れ物?」

「充電器です」

「ボクの家だね」

「今日は使わないのでいいです」

「取りに行く?」

「十二秒ですけど、いいです」

「ボクが取ってこようか」

「大丈夫です」

「飼い犬におつかいを」

「さっきから飼育対象と飼い犬を都合よく使い分けてません?」

「柔軟性だ」

「ただのご都合主義ですよ」


 翠先輩がベッドから降りた。


 そのまま俺の後ろをついてくる。


 リビングへ行く。


 洗面所へ行く。


 鞄を取りに戻る。


 全部ついてくる。


「……なんでついてくるんです?」

「暇だから」

「自分の家帰ったら?」

「嫌だ」

「即答」

「せっかく来たのに」

「朝飯食べに来ただけでしょう」

「それだけではない」

「何しに来たんです?」


 翠先輩が考えた。


「飼われに」

「結局それか」


 俺は洗面所へ入った。


 髪を整える。


 メガネをかける。


 鏡越しに翠先輩が映る。


 洗面所の入口に立って、こちらを見ている。


「……翠先輩」

「うん?」

「犬って、飼い主が歯磨いてるところずっと見ます?」

「個体差がある」

「万能すぎるだろ、その言葉」

「獣医学を学んでいてよかったな」

「絶対使い方違いますよ」


 顔を洗う。


 タオルで拭く。


 また鏡を見る。


 翠先輩はまだいる。


「本当に何なんです?」

「構ってほしい」


 あっさり言った。


「…………」

「なんだい?」

「いや」

「構ってほしい時は近くにいるものだろう?」

「それ犬の話?」

「ボクの話」


 そこだけ急に人間へ戻った。


 俺はタオルを掛ける。


「今、出掛ける準備してるので」

「分かっている」

「なら少し待っててください」

「うん」


 翠先輩はその場で待った。


 動かない。


「……リビングで待ってください」

「ここでも待てる」

「邪魔です」

「ひどい」

「狭いんですよ」


 肩を押して廊下へ出す。


 翠先輩は抵抗しなかった。


 むしろ少し笑っている。


「今のは?」

「何がです」

「押された」

「邪魔だったので」

「飼育感がある」

「ないです」


 七時四十一分。


 あと二十分くらいで出る。


 俺は鞄をリビングの椅子へ置き、腕時計をつけた。


 その間に、翠先輩はまたソファへ戻っていた。


 今度は横になっている。


「寝ないでくださいよ」

「寝ない」

「またその姿勢」

「少し休むだけだ」

「絶対寝るやつ」

「悠人」

「なんです?」

「撫でる件なんだが」

「まだ諦めてなかったんですか」

「朝飯も食べた」

「はい」

「皿も洗った」

「ありがとうございます」

「髪もちゃんと乾かした」

「昨日ですけどね」

「褒める条件は揃っていると思う」

「条件制なんですか」


 翠先輩はソファに寝転がったまま、こちらを見る。


 期待している。


 すごく期待している。


「…………」

「…………」

「そんな顔してもやりませんよ」

「どんな顔だい?」

「犬が散歩待ってる時みたいな」

「犬じゃないか」

「自分で言わせようとしてません?」

「撫でたまえ」

「嫌です」

「一回だけでもっ」

「嫌です」

「五秒」

「具体的に減らしても駄目です」

「三秒」

「交渉しない」

「クゥーン……」

「それ昨日から便利に使いすぎですよ」


 翠先輩は黙る。


 少しだけ口を尖らせる。


 昨日、インターホンの画面越しに見たのと同じ顔だった。


「…………」


 俺は時計を見る。


 まだ時間はある。


 いや、だからといってやる理由にはならない。


 翠先輩を見る。


 まだ見ている。


「……一回だけですよ」

「!」


 起き上がった。


 速い。


「待ってください、今の反応犬っぽすぎません?」

「早く」

「急かさないでください」


 翠先輩がソファへ座り直す。


 背筋まで伸びた。


 さっきまでの眠気はどこへ行った。


「頭ですか?」

「うん」

「本当にやるんですね」

「キミが言ったんだろう」

「翠先輩がしつこかったからです」


 俺はソファの横へ立つ。


 翠先輩の明るい茶色の髪が目の前にある。


 普段から近い。


 肩が触れるくらいの距離にも慣れている。


 それでも、自分から頭へ手を伸ばすとなると少し違った。


「……いきますよ」

「どうぞ」


 手を置く。


 軽く撫でる。


 頭頂部から、髪の流れに沿って一度だけ。


「…………」


 翠先輩が固まった。


 俺も手を離す。


「はい、終わり」

「…………」

「翠先輩?」

「もう一回」

「一回って言いました」

「今のは確認だ」

「何の」

「適性」

「どうでした?」


 翠先輩は少し考えた。


「かなりいい」

「そうですか」

「もう一回」

「駄目です」

「なぜ!?」

「一回だけって言ったでしょう」

「評価が高かったんだぞ」

「俺への評価でしょう、それ」

「飼育者として才能がある」

「嬉しくないです」

「もう一回っ」

「時間ないです」

「三秒」

「さっきと同じ交渉しないでください」


 翠先輩が立ち上がる。


 俺の前へ来る。


 頭一つ分まではいかないが、俺より少し低い位置から見上げてくる。


「悠人」

「何です?」

「ボクは今、非常に良い飼育を受けた」

「撫でただけですよ」

「継続を希望する」

「却下です」

「クゥーン……」

「それ禁止にしますよ」

「ワン」

「変えても駄目」


 俺は鞄を持った。


 七時五十三分。


「そろそろ出ます」

「もう?」

「一限あるので」

「知っている」

「翠先輩は二限ですよね」

「うん」

「じゃあ帰って寝てください」

「見送る」

「玄関まででいいです」

「駅まで」

「帰る方向同じでしょうけど、二限には早すぎる」

「大学まで」

「一時間以上早く着きますよ」

「学食で寝る」

「家で寝てください」


 俺が玄関へ向かうと、翠先輩もついてくる。


 本当に忠犬みたいだ。


 本人へ言うと喜びそうなので黙っておく。


 靴を履く。


 翠先輩も靴へ足を入れ始めた。


「え」

「なんだい?」

「本当に来るんですか」

「うん」

「二限ですよね」

「うん」

「まだ八時前ですよ」

「うん」

「家、目の前ですよ」

「知っている」

「戻って寝れば?」

「嫌だ」

「なんで」


 翠先輩は靴を履き終えた。


 立ち上がる。


 眠そうだった目は、さっき撫でられてから少しだけ開いている。


「散歩」

「…………」

「仮飼育初日の朝散歩だ」

「駅までですよ」

「十分だ」

「リードはないですからね」

「今日は我慢する」

「今後もありません」

 

 玄関の扉を開ける。


 朝の空気が入ってくる。


 廊下へ出る。


 翠先輩も続く。


 鍵を掛ける。


「悠人」

「なんです?」

「さっきの、もう一回帰ったらやってくれるかい?」

「何がです」

「撫でるの」

「知りません」

「では、今日一日頑張ったら?」

「何を頑張るんです?」

「大学」

「普通に行くだけでしょう」

「勉強する」

「学生なので」

「昼飯もちゃんと食べる」

「当たり前です」

「授業中寝ない」

「そこは頑張ってください」

「全部できたら?」

「…………」


 エレベーターのボタンを押す。


 翠先輩が横から覗き込んでくる。


「考えておきます」

「本当か?」

「考えるだけです」

「よしっ」


 嬉しそうだった。


 エレベーターが来る。


 乗る。


 一階のボタンを押す。


 扉が閉まる直前、翠先輩が小さく俺の袖を摘まんだ。


「何です?」

「散歩中だからな」

「迷子にならないでしょう」

「一応」


 十二秒先に自分の家がある人間が何を言っているのか。


 それでも手を振り払うほどでもなく、俺はそのままにした。


 エレベーターが一階へ着く。


 扉が開いた。


 翠先輩が先に出る。


 数歩進んだところで振り返った。


「ほら、悠人」

「はい?」

「散歩だぞ」

「大学です」

「ワン」

「朝から元気ですね」

「褒められたからな」


 自動ドアが開く。


 翠先輩は機嫌よく外へ出ていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。