翠先輩は仮飼育される
解錠ボタンを押してから、少しだけ後悔した。
玄関の向こうでオートロックが開く音がして、それから一分もしないうちに、今度は部屋のインターホンが鳴った。
早い。
いや、向かいなのだから当然なのだが。
俺は歯ブラシを洗面台へ置き、玄関へ向かった。
扉を開ける。
「おはよう、悠人」
「……おはようございます」
翠先輩がいた。
白いパーカーに長いスカート。明るい茶色の髪は一応整っているものの、ところどころ跳ねている。
顔もまだ少し眠そうだった。
というか、眠そうというより半分寝ている。
「寒い」
「だから自分の家にいればよかったでしょう」
「仮飼育初日だぞ」
「始まってません」
「入っていいかい?」
「もうここまで来てるじゃないですか」
「では、お邪魔する」
返事を待たず、翠先輩がするりと入ってくる。
靴を脱ぐ。
揃える。
そこだけ妙にちゃんとしている。
そのまま廊下を抜け、俺より先にリビングへ入っていった。
「…………」
人の家なのに迷いがない。
まあ、最近よく来ているから当たり前ではある。
俺も玄関を閉めた。
洗面所へ戻ろうとしたところで、リビングから声が飛んできた。
「悠人」
「なんです?」
「寒い」
「暖房ついてますよ」
「まだ身体が冷えている」
「十二秒しか外にいなかったでしょう」
「十二秒でも冬は冬だ」
「九月ですよ」
「朝は冷える」
「大袈裟です」
リビングへ戻る。
翠先輩はすでにソファへ座っていた。
座っているというより、沈んでいた。
背もたれへ身体を預け、目を半分閉じている。
「寝ないでくださいね」
「寝てない」
「今ほぼ寝てましたよ」
「目を休めていた」
「家帰って休めばいいでしょう」
「ここで休む」
「なんで」
「飼われてるから」
「飼ってません」
昨日から何度言ったか分からない。
翠先輩は気にした様子もなく、ソファの上で膝を抱えた。
「朝飯はまだかい?」
「まだです」
「何時に食べる?」
「今から作ります」
「いいね」
急に少しだけ目が開いた。
食事への反応だけは早い。
俺はキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開ける。
昨日作った味噌汁が少し残っている。卵。納豆。冷凍してあるご飯。
簡単に済ませるなら十分だった。
背後から足音がした。
振り返ると、翠先輩がいた。
「何してるんです?」
「見学」
「座ってていいですよ」
「飼育される側だからね」
「その理屈なら見学する必要ないでしょう」
「飼い主がどう餌を作るのか把握しておく必要がある」
「ご飯です」
「餌」
「ご飯」
「餌」
「ご飯」
数秒見つめ合う。
翠先輩が先に折れた。
「……朝ご飯」
「よろしい」
「今の『よろしい』、ちょっと飼い主っぽかったな」
「違います」
冷凍ご飯を電子レンジへ入れる。
味噌汁は鍋へ移す。
火をつける。
フライパンを出したところで、翠先輩が横から覗き込んだ。
「卵?」
「そうです」
「目玉焼き?」
「はい」
「半熟で」
「注文入るんですか」
「飼育対象の好みは把握すべきだろう?」
「ホテルじゃないですよ」
「黄身は柔らかめ」
「聞いてます」
「白身の端は少し焼けてると嬉しい」
「注文細かいな」
「あと醤油」
「それは自分でかけてください」
フライパンへ卵を落とす。
じゅっと音がした。
翠先輩が妙に真剣な顔で見ている。
「……何です?」
「いや」
「目玉焼き珍しくないですよね」
「人に作ってもらう朝飯というのは、少し特別感があるな」
「今までも俺の家で朝飯食べたことあるでしょう」
「仮飼育初日は違う」
「違わないです」
翠先輩は満足そうだった。
完全に言葉の問題である。
中身は昨日までとほとんど変わっていない。
なのに「仮飼育」という名前を付けた途端、本人の中では全部が新しいらしい。
電子レンジが鳴った。
ご飯を二つの茶碗へ分ける。
味噌汁も二人分。
目玉焼きを皿へ移す。
納豆も出した。
「運ぶの手伝ってください」
「飼われる側なのに?」
「じゃあ食べなくていいです」
「手伝おう」
即答だった。
翠先輩は味噌汁と茶碗を持つ。
俺は皿を運んだ。
ローテーブルへ並べると、さっきまで眠そうだった翠先輩がすぐに座る。
「いただきます」
「いただきます」
箸を取る。
味噌汁を一口飲む。
昨夜の残りなので少し味が濃くなっていたが、朝ならこのくらいでもいい。
向かいでは、翠先輩が目玉焼きの黄身へ箸を入れている。
とろりと黄身が流れた。
「完璧だ」
「それはよかったです」
「やるじゃないか、悠人」
「目玉焼きですよ」
「褒めている」
「どうも」
「飼育者として高評価だ」
「その評価いりません」
翠先輩は醤油を少し垂らした。
黄身へ白身を絡めて食べる。
頬が少し緩んだ。
分かりやすい。
「美味しいですか」
「うん」
「ならよかったです」
「……」
翠先輩の箸が止まった。
「何です?」
「今のは?」
「何がです」
「褒めないのかね?」
「何を?」
「ちゃんと朝飯を食べている」
「食べて当然でしょう」
「昨日、褒めてほしいと言った」
「そこ実行する気なんですか」
「仮飼育だから」
「何でもそれで通ると思わないでください」
翠先輩は少し不満そうに納豆を混ぜ始めた。
妙に勢いがある。
「……よく食べてますね」
「雑」
「ちゃんと朝飯食べて偉いですね」
「子供扱いされている気がする」
「自分から言わせたんでしょう」
「もっとこう」
「まだ注文あるんです?」
翠先輩は少し考えた。
箸を置く。
それから俺を見る。
「よしよし、とか」
「朝から何言ってるんですか」
「昨日言っただろう」
「覚えてますけど」
「試してみたい」
「嫌です」
「なぜ?」
「普通に嫌です」
「一回だけ」
「やりません」
「試用」
「昨日から試用が好きですね」
俺が味噌汁を飲む。
翠先輩はじっとこちらを見ている。
無視する。
まだ見ている。
「……食べてください」
「食べている」
「じゃあ見ないでください」
「視線は禁止事項かい?」
「圧がすごいんですよ」
「クゥーン……」
「朝飯中に鳴かないでください」
「効果があったからね」
「昨日一回だけです」
「成功体験というものは大事だ」
「動物行動学みたいに言わないでください」
しばらく無言で食べる。
数十秒。
翠先輩は何も言わなくなった。
妙に静かだ。
逆に気になる。
顔を上げる。
翠先輩は普通に納豆ご飯を食べていた。
「…………」
「なんだい?」
「いや」
「何かね?」
「静かだなと思って」
「ボクは普段から静かな方だろう」
「俺の家ではあんまり」
「失礼だな」
その言葉の直後、翠先輩が小さく欠伸をした。
口元を手で隠す。
やっぱり眠いらしい。
「昨日何時に寝たんです?」
「一時くらい」
「遅いですね」
「髪を乾かしていた」
「ちゃんと乾かしたんですね」
「言われたからな」
「それは偉いですね」
「!」
翠先輩が顔を上げた。
「今の」
「はい?」
「もう一回」
「何がです」
「偉い」
「……ちゃんと髪乾かして偉いですね」
露骨に機嫌が良くなった。
「悪くない」
「単純ですね」
「褒められる経験が少ない」
「大学生になるとそんなもんですよ」
「もっと褒めたまえ」
「調子に乗らないでください」
「ケチだなあ」
朝食を食べ終える。
食器を重ねる。
俺が立ち上がると、翠先輩も立った。
「置いといてください。あとで洗います」
「ボクが洗おう」
「珍しいですね」
「飼育対象にも協力義務はある」
「急に社会性出してきた」
翠先輩は食器をシンクへ運んだ。
水を出す。
洗剤を取る。
場所を聞かない。
俺の家でも、もう何がどこにあるかだいたい知っている。
スポンジを泡立て、普通に洗い始めた。
やればできる。
分かっていたことではある。
「じゃあお願いします。俺、着替えるので」
「うん」
時計を見る。
七時十四分。
一限は八時五十分。
家を出るのは八時前で十分間に合うが、朝の準備は早めに済ませておきたい。
寝室へ入り、クローゼットを開ける。
今日の講義は一限から三限。
午後は空いている。
シャツを取り出す。
そこで背後から声がした。
「悠人」
「なんです?」
「終わった」
振り返る。
翠先輩が寝室の入口に立っていた。
「早いですね」
「三分もかからない」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
そして動かない。
「……何です?」
「着替えるんだろう?」
「そうです」
「うん」
「出てください」
「なぜ?」
「なぜって」
「ボクの家ではこの前、洗濯物を普通に干したじゃないか」
「それとこれ別です」
「下着も干した」
「別です」
「評価は断られた」
「そこ掘り返さなくていいです」
翠先輩は不思議そうに首を傾げている。
どうやら本当に分かっていない。
「着替えるので出てください」
「減るものでもないだろう」
「出てください」
「……はい」
素直だった。
扉を閉める。
数秒後。
「悠人」
「まだ着替えてます」
「質問」
「あとで」
「飼い犬は寝室に入ってはいけないのかね?」
「犬じゃないです」
「設定上」
「その設定をまず捨ててください」
「ベッドは?」
「何がです?」
「乗っていい?」
俺はシャツのボタンを留める手を止めた。
「駄目です」
「なぜ」
「なんとなく」
「ソファはいいのに?」
「ソファはいつも座ってるでしょう」
「ベッドも一度くらい」
「駄目です」
「厳しいなあ」
扉越しに声が遠ざかる。
諦めたらしい。
俺は着替えを終えた。
部屋を出る。
「…………」
翠先輩がいない。
リビングにもいない。
嫌な予感がして、寝室へ戻る。
「翠先輩」
「なんだい?」
いた。
ベッドの上に。
しかも寝転がっている。
「何してるんです?」
「乗ってみた」
「駄目って言いましたよね」
「乗る前だったからな」
「屁理屈やめてください」
翠先輩は仰向けだった。
白いパーカーのフードが枕の横へ広がっている。
俺の枕を少し見て、それから天井を見る。
「悪くない」
「レビューいらないです」
「悠人の匂いがする」
「出てください」
「本当だぞ」
「聞いてません」
腕を伸ばし、枕を抱こうとする。
俺は先に取り上げた。
「あ」
「何する気ですか」
「別に」
「今抱こうとしたでしょう」
「飼い主の匂いというものを」
「確認しなくていいです」
「ケチ」
「そもそも飼い主じゃない」
翠先輩は起き上がった。
ベッドの端へ座る。
眠そうに瞬きをする。
「……寝るなよ」
「寝ない」
「目閉じてましたよ」
「一秒」
「翠先輩、二限からなんだから自分の家戻って寝ればいいでしょう」
「一限に行く悠人を見送る」
「なんで」
「飼育対象として」
「立場逆じゃないですか」
「そうか?」
「飼われる側が飼い主を見送るって何です」
「忠犬」
「便利だな、その設定」
時計を見る。
七時二十六分。
まだ余裕はある。
俺は鞄を確認する。
ノート。
教科書。
筆箱。
学生証。
充電器。
「…………」
ない。
当然だ。
昨日、翠先輩の部屋へ置いてきた。
今日使う予定はないので問題ない。
鞄を閉じる。
「忘れ物?」
「充電器です」
「ボクの家だね」
「今日は使わないのでいいです」
「取りに行く?」
「十二秒ですけど、いいです」
「ボクが取ってこようか」
「大丈夫です」
「飼い犬におつかいを」
「さっきから飼育対象と飼い犬を都合よく使い分けてません?」
「柔軟性だ」
「ただのご都合主義ですよ」
翠先輩がベッドから降りた。
そのまま俺の後ろをついてくる。
リビングへ行く。
洗面所へ行く。
鞄を取りに戻る。
全部ついてくる。
「……なんでついてくるんです?」
「暇だから」
「自分の家帰ったら?」
「嫌だ」
「即答」
「せっかく来たのに」
「朝飯食べに来ただけでしょう」
「それだけではない」
「何しに来たんです?」
翠先輩が考えた。
「飼われに」
「結局それか」
俺は洗面所へ入った。
髪を整える。
メガネをかける。
鏡越しに翠先輩が映る。
洗面所の入口に立って、こちらを見ている。
「……翠先輩」
「うん?」
「犬って、飼い主が歯磨いてるところずっと見ます?」
「個体差がある」
「万能すぎるだろ、その言葉」
「獣医学を学んでいてよかったな」
「絶対使い方違いますよ」
顔を洗う。
タオルで拭く。
また鏡を見る。
翠先輩はまだいる。
「本当に何なんです?」
「構ってほしい」
あっさり言った。
「…………」
「なんだい?」
「いや」
「構ってほしい時は近くにいるものだろう?」
「それ犬の話?」
「ボクの話」
そこだけ急に人間へ戻った。
俺はタオルを掛ける。
「今、出掛ける準備してるので」
「分かっている」
「なら少し待っててください」
「うん」
翠先輩はその場で待った。
動かない。
「……リビングで待ってください」
「ここでも待てる」
「邪魔です」
「ひどい」
「狭いんですよ」
肩を押して廊下へ出す。
翠先輩は抵抗しなかった。
むしろ少し笑っている。
「今のは?」
「何がです」
「押された」
「邪魔だったので」
「飼育感がある」
「ないです」
七時四十一分。
あと二十分くらいで出る。
俺は鞄をリビングの椅子へ置き、腕時計をつけた。
その間に、翠先輩はまたソファへ戻っていた。
今度は横になっている。
「寝ないでくださいよ」
「寝ない」
「またその姿勢」
「少し休むだけだ」
「絶対寝るやつ」
「悠人」
「なんです?」
「撫でる件なんだが」
「まだ諦めてなかったんですか」
「朝飯も食べた」
「はい」
「皿も洗った」
「ありがとうございます」
「髪もちゃんと乾かした」
「昨日ですけどね」
「褒める条件は揃っていると思う」
「条件制なんですか」
翠先輩はソファに寝転がったまま、こちらを見る。
期待している。
すごく期待している。
「…………」
「…………」
「そんな顔してもやりませんよ」
「どんな顔だい?」
「犬が散歩待ってる時みたいな」
「犬じゃないか」
「自分で言わせようとしてません?」
「撫でたまえ」
「嫌です」
「一回だけでもっ」
「嫌です」
「五秒」
「具体的に減らしても駄目です」
「三秒」
「交渉しない」
「クゥーン……」
「それ昨日から便利に使いすぎですよ」
翠先輩は黙る。
少しだけ口を尖らせる。
昨日、インターホンの画面越しに見たのと同じ顔だった。
「…………」
俺は時計を見る。
まだ時間はある。
いや、だからといってやる理由にはならない。
翠先輩を見る。
まだ見ている。
「……一回だけですよ」
「!」
起き上がった。
速い。
「待ってください、今の反応犬っぽすぎません?」
「早く」
「急かさないでください」
翠先輩がソファへ座り直す。
背筋まで伸びた。
さっきまでの眠気はどこへ行った。
「頭ですか?」
「うん」
「本当にやるんですね」
「キミが言ったんだろう」
「翠先輩がしつこかったからです」
俺はソファの横へ立つ。
翠先輩の明るい茶色の髪が目の前にある。
普段から近い。
肩が触れるくらいの距離にも慣れている。
それでも、自分から頭へ手を伸ばすとなると少し違った。
「……いきますよ」
「どうぞ」
手を置く。
軽く撫でる。
頭頂部から、髪の流れに沿って一度だけ。
「…………」
翠先輩が固まった。
俺も手を離す。
「はい、終わり」
「…………」
「翠先輩?」
「もう一回」
「一回って言いました」
「今のは確認だ」
「何の」
「適性」
「どうでした?」
翠先輩は少し考えた。
「かなりいい」
「そうですか」
「もう一回」
「駄目です」
「なぜ!?」
「一回だけって言ったでしょう」
「評価が高かったんだぞ」
「俺への評価でしょう、それ」
「飼育者として才能がある」
「嬉しくないです」
「もう一回っ」
「時間ないです」
「三秒」
「さっきと同じ交渉しないでください」
翠先輩が立ち上がる。
俺の前へ来る。
頭一つ分まではいかないが、俺より少し低い位置から見上げてくる。
「悠人」
「何です?」
「ボクは今、非常に良い飼育を受けた」
「撫でただけですよ」
「継続を希望する」
「却下です」
「クゥーン……」
「それ禁止にしますよ」
「ワン」
「変えても駄目」
俺は鞄を持った。
七時五十三分。
「そろそろ出ます」
「もう?」
「一限あるので」
「知っている」
「翠先輩は二限ですよね」
「うん」
「じゃあ帰って寝てください」
「見送る」
「玄関まででいいです」
「駅まで」
「帰る方向同じでしょうけど、二限には早すぎる」
「大学まで」
「一時間以上早く着きますよ」
「学食で寝る」
「家で寝てください」
俺が玄関へ向かうと、翠先輩もついてくる。
本当に忠犬みたいだ。
本人へ言うと喜びそうなので黙っておく。
靴を履く。
翠先輩も靴へ足を入れ始めた。
「え」
「なんだい?」
「本当に来るんですか」
「うん」
「二限ですよね」
「うん」
「まだ八時前ですよ」
「うん」
「家、目の前ですよ」
「知っている」
「戻って寝れば?」
「嫌だ」
「なんで」
翠先輩は靴を履き終えた。
立ち上がる。
眠そうだった目は、さっき撫でられてから少しだけ開いている。
「散歩」
「…………」
「仮飼育初日の朝散歩だ」
「駅までですよ」
「十分だ」
「リードはないですからね」
「今日は我慢する」
「今後もありません」
玄関の扉を開ける。
朝の空気が入ってくる。
廊下へ出る。
翠先輩も続く。
鍵を掛ける。
「悠人」
「なんです?」
「さっきの、もう一回帰ったらやってくれるかい?」
「何がです」
「撫でるの」
「知りません」
「では、今日一日頑張ったら?」
「何を頑張るんです?」
「大学」
「普通に行くだけでしょう」
「勉強する」
「学生なので」
「昼飯もちゃんと食べる」
「当たり前です」
「授業中寝ない」
「そこは頑張ってください」
「全部できたら?」
「…………」
エレベーターのボタンを押す。
翠先輩が横から覗き込んでくる。
「考えておきます」
「本当か?」
「考えるだけです」
「よしっ」
嬉しそうだった。
エレベーターが来る。
乗る。
一階のボタンを押す。
扉が閉まる直前、翠先輩が小さく俺の袖を摘まんだ。
「何です?」
「散歩中だからな」
「迷子にならないでしょう」
「一応」
十二秒先に自分の家がある人間が何を言っているのか。
それでも手を振り払うほどでもなく、俺はそのままにした。
エレベーターが一階へ着く。
扉が開いた。
翠先輩が先に出る。
数歩進んだところで振り返った。
「ほら、悠人」
「はい?」
「散歩だぞ」
「大学です」
「ワン」
「朝から元気ですね」
「褒められたからな」
自動ドアが開く。
翠先輩は機嫌よく外へ出ていった。




