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ボクを飼ってみないか?!  作者: 御HeSummer3
第2章

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翠先輩は形から入る


 三限が終わったのは、午後二時四十分だった。


 講義室を出たところでスマホを見る。


 翠先輩からメッセージが来ていた。


『今日、何時に帰る?』


 送信時刻は十二時二十八分。


 二限が終わった直後だった。


 俺は廊下の端へ寄り、時間割を頭の中で確認する。


 今日はこのあと講義がない。


 動物園のシフトも入っていない。


『今終わりました。普通に帰ります』


 送る。


 一分も経たずに既読がついた。


『何時くらい?』

『四時前には』

『分かった』


 それだけだった。


「…………」


 珍しい。


 いつもの翠先輩なら、もう少し何かある。


 暇だとか。


 腹が減ったとか。


 帰ったらいるかとか。


 それが今日は時間を聞いただけだった。


 まあ、そんな日もあるか。


 スマホをポケットへ戻す。


「高瀬、帰る?」


 後ろから宮坂に声を掛けられた。


「ああ」

「駅まで行こうぜ」

「いいよ」


 二人で階段へ向かう。


 大学を出て、駅へ向かう頃には、朝の冷え込みはもう残っていなかった。


 九月の日差しはまだ強い。


 朝、翠先輩が「寒い」と言いながら俺の部屋へ来たのが随分前のことみたいだった。


 宮坂とは駅で別れた。


 電車へ乗る。


 乗り換える。


 最寄り駅から歩く。


 いつもの道だった。


 スーパーの前を通り、細い住宅街へ入る。


 時刻は三時五十二分。


 俺のマンションが見えてくる。


 道路を挟んだ向かいには翠先輩のマンション。


 ここまで来ると、最近は無意識に五階の辺りを見てしまう。


 別に何か見えるわけでもない。


 今日も何も見えなかった。


 自分のマンションへ入る。


 エレベーターで四階へ上がる。


 廊下を歩く。


 鍵を取り出す。


 玄関を開けた。


「ただいま」


 一人暮らしなので、普段なら言わない。


 最近はどっかの誰かさんが出入りするせいで、たまに口から出るようになった。


 当然、今日は返事がなかった。


 靴を脱ぐ。


 鞄を置く。


 上着をハンガーへ掛ける。


 冷蔵庫から麦茶を出したところで、スマホが震えた。


『帰った?』


 翠先輩だった。


『今帰りました』


 既読。


『うん』


 また、それだけ。


「…………」


 やっぱり変だ。


 何かある。


 そう思った直後だった。


 インターホンが鳴った。


「早いな」


 麦茶をテーブルへ置く。


 モニターを見る。


 翠先輩がいた。


 朝と違って、大学へ行った時の格好だった。


 淡い色のブラウス。


 長いスカート。


 肩にはいつもの鞄。


 画面に映っている範囲では、特に変わったところはない。


「はい」


『悠人』


「なんです?」


『開けたまえ』


「何か持ってます?」


『いいから』


 妙に声が弾んでいる。


「…………」


『早く』


「はいはい」


 解錠する。


 また一分もしないうちに部屋のインターホンが鳴った。


 玄関へ行く。


 扉を開ける。


「ただいま!」

「…………」


 閉めた。


「待ちたまえ!」


 すぐ開ける。


「何をする!」

「いや」

「今見たな!?」

「見ました」

「ならなぜ閉める!」

「一回整理しようと思って」

「何をだ!」

「目の前の情報を」


 翠先輩はものすごく楽しそうだった。


 首に、首輪がついていた。


 黒に近い焦げ茶色の細い革製。


 余計な飾りはなく、小さな金具がついている。


 そこから一本のリードが垂れていた。


 翠先輩自身が、その先端を右手で持っている。


「…………」

「どうだ!」

「何してるんですか?」

「見れば分かるだろう!」

「分かりたくないから聞いてます」


 朝、確かに話した。


 リードはない。


 今後もない。


 そう言った。


 それからまだ八時間も経っていない。


「買った!」

「それは見れば分かります」

「二限が終わってすぐ!」

「大学は?」

「空き時間だった」

「どこで買ったんです?」

「駅前のペットショップ」

「行動が速すぎる」

「善は急げと言うだろう?」

「今回の善がどこにあるんです?」


 翠先輩は気にしていない。


 玄関へ入ってくる。


 靴を脱ぐ。


 いつものように揃える。


 そしてリードを持ったまま、俺の前へ立った。


「ほら」

「何です?」

「ほら!」


 リードの持ち手を差し出された。


「…………」

「悠人」

「嫌です」

「まだ何も言ってないじゃないか」

「言わなくても分かります」

「持ってくれ」

「嫌です」

「買ったのに!」

「俺、頼んでないですよね?」

「ボクが自主的に用意した」

「じゃあ自主的に持っててください」

「それでは意味がないだろう!」


 翠先輩がリードを両手で持った。


 昨日までこの人は、大学で有名な美人だった。


 いや、今もそうなのだろう。


 今日だって講義室では普通に座って、普通にノートを取っていたはずだ。


 それが二限終了後にペットショップへ行き、自分用の首輪とリードを買い、俺の家まで持ってきた。


 落差がひどい。


「それ、本当に犬用ですよね?」

「うん」

「店員さんに何て言ったんです?」

「自分用です、と」

「言ったんですか!?」

「聞かれたからな」

「店員さん、どんな反応してました?」

「一回黙った」

「でしょうね」

「そのあと『大型犬用ですか?』と聞かれた」

「絶対理解されてないですよ」

「ボクは大型ではない」

「そこじゃない」


 翠先輩が首輪へ触れる。


「サイズはちゃんと測ったぞ」

「どうやって?」

「試着」

「店で?」

「うん」

「…………」

「最初のは少し大きかった」

「店員さん大変だっただろうな」

「二つ目がちょうどよかった」


 俺は額を押さえた。


 想像したくない。


 平日の昼間、ペットショップで犬用の首輪を自分の首へ当てている翠先輩。


 しかも本人はたぶん真顔だ。


「似合うだろう?」

「そこ聞くんですか」

「結構悩んだんだぞ」

「色を?」

「うん。赤もあった」

「へえ」

「青も」

「そうですか」

「でも、これが一番服に合わせやすい」

「日常使いする気です?」

「家だけだ」


 そこだけはまともだった。


「大学につけていくほどボクもおかしくない」

「安心しました」

「失礼だな」

「今の格好で言われても」


 翠先輩が頬を膨らませる。


 それでも機嫌はいい。


 相当気に入っているらしい。


 俺の横を抜け、リビングへ向かう。


 リードが床を擦りそうになったので、思わず足で避けた。


「危ないですよ」

「だから持ってくれ」

「外してください」

「嫌だ」

「踏みますよ」

「悠人が持てば解決する」

「しません」

「合理的じゃないか」

「外す方が合理的です」


 翠先輩はソファへ座った。


 リードの先端を膝へ置く。


 俺はさっきの麦茶を取りに戻った。


 ぬるくなる前に飲む。


「悠人」

「なんです?」

「どうだ?」

「何がです?」

「さっきから一度も感想を言っていない」

「首輪の?」

「うん」


 改めて見る。


 ブラウスの襟元から覗く細い革の首輪。


 色も落ち着いているので、妙に馴染んでいる。


 似合っていないかと言われれば。


「……まあ、似合ってはいますよ」

「そうだろう?!」


 翠先輩の顔が明るくなった。


「と言うか、本当か?!」

「悔しいですけど」

「なぜ悔しがる必要がある」

「もっと似合わなければ外させやすかったので」

「ふふん」

「褒めてないですよ」

「似合っていると言った」

「そこだけ拾わないでください」


 翠先輩は首輪へ指を掛ける。


 嬉しそうだ。


「二限が終わってから、ずっと早く見せたかったんだ」

「そのために帰宅時間聞いたんですか」

「うん」

「なるほど」


 ようやく昼のメッセージの意味が分かった。


「大学で見せてもよかったんだが」

「絶対やめてください」

「だから我慢した」

「そこは本当に偉いです」


「!」


「その反応やめてください」

「もう一回」

「言いません」

「今のはかなり良かった」

「何の評価ですか」


 翠先輩は笑いながらソファの背もたれへ身体を預けた。


 朝から大学へ行き、二限を受け、その直後にペットショップまで行ったらしい。


 その割には疲れた様子がない。


 むしろ朝より元気だった。


「それで」


 俺はリードを見る。


「これ、どうするんです?」

「使う」

「どこで?」

「家」

「家でリード使う意味あります?」

「ある」

「何に?」


 翠先輩が少し考える。


「……まだ考えていない」

「先に買ったんですか」

「形から入るのも大切だろう?」

「形しかないですよ、今」

「中身はこれからだ」

「育てる気なんです?」

「うん」


 即答だった。


 翠先輩は膝の上からリードを持ち上げる。


 そしてまた俺へ差し出した。


「一回だけ」

「何がです?」

「持つ」

「嫌です」

「五秒」

「昨日も聞いたな、その交渉」

「三秒」

「短くすればいいと思ってません?」

「一秒」

「何がしたいんですか」

「悠人が持ったところを見たい」

「自分じゃ見えないでしょう」

「鏡がある」

「準備いいな」


 翠先輩は鞄からスマホまで取り出した。


「写真でもいい」

「嫌です」

「保存する」

「もっと嫌です」

「誰にも見せない」

「そういう問題じゃないです」


 断る。


 翠先輩は諦めない。


 俺の前まで来る。


 リードの持ち手を差し出す。


 避ける。


 追ってくる。


「翠先輩」

「一回だけ!」

「嫌ですって」

「持つだけだぞ!」

「その姿で追いかけないでください!」


 テーブルを挟んで反対側へ回る。


 翠先輩も回る。


 俺が逆へ動く。


 翠先輩も逆へ動く。


「なんで逃げる!」

「なんで追うんです!」

「持ってくれれば終わる!」

「外せば終わります!」

「それは嫌だ!」

「じゃあ自分で持っててください!」


 二人でローテーブルの周囲を半周したところで、翠先輩が止まった。


 俺も止まる。


 数秒。


 互いに見る。


「…………」

「…………」


 翠先輩が視線を落とした。


 少しだけ肩が下がる。


「……せっかく買ったのに」

「その顔ずるくないです?」

「本当に楽しみにしていたんだぞ」

「…………」

「二限が終わって、店まで行って」

「知ってます」

「どれがいいか結構悩んで」

「それも聞きました」

「似合うって言ってもらえたし」

「…………」

「一回くらい」


 リードが差し出される。


 俺はそれを見る。


 翠先輩を見る。


 嬉しそうにしていた顔が、今は少しだけ期待を残したままこちらを窺っている。


「……一回だけですよ」

「本当か!?」

「家の中だけです」

「うん!」

「写真なし」

「分かった!」

「引っ張りません」

「分かった!」

「変なことしない」

「分かった!」

「返事だけはいいですね」


 持ち手を受け取る。


「…………」


 革の感触が手のひらに乗った。


 リードの先。


 翠先輩。


「…………」


 俺はすぐに後悔した。


 絵面がひどい。


「おお……!」

「なんでそんな感動してるんです?」

「すごいな!」

「何がです?」

「本当に繋がっている!」

「リードですからね」

「悠人」

「はい?」

「見てくれ」

「見てます」


 翠先輩は首元へ触れた。


 リードを辿る。


 その先にある俺の手を見る。


 もう一度、自分の首輪を見る。


 それから俺を見上げた。


 口元が、ものすごく緩んでいた。


「へへぇ」

「…………」

「いいな、これ」

「そんなにですか」

「うん!」


 思っていた以上だったらしい。


 翠先輩はその場で少し身体を揺らした。


 機嫌の良さが隠せていない。


「悠人」

「なんです?」

「ちょっと歩いてみよう」

「嫌です」

「三歩」

「増やしませんよ」

「二歩」

「交渉しない」

「一歩!」

「何が変わるんですか」


 俺はリードを返そうと手を伸ばした。


 翠先輩が一歩下がる。


 結果、リードが少し張った。


「お」

「危ないですよ」

「今、引っ張られた」

「下がったからでしょう」

「もう一回」

「やりません」


 俺は手を離した。


 リードが床へ落ちる前に翠先輩が慌てて受け止める。


「あ」

「終了です」

「短い!」

「十分でしょう」

「全然足りない」

「何分やる気だったんです?」

「夕飯まで」

「長すぎます」

「じゃあ十分」

「駄目です」

「五分」

「やりません」

「ケチだなあ」


 翠先輩は残念そうにリードをまとめた。


 それでも首輪は外さない。


 ソファへ戻る。


 俺も向かいへ座った。


 テーブルには大学の鞄。


 飲みかけの麦茶。


 翠先輩のスマホ。


 その横に、丸められたリード。


 昨日までなかったものが、また一つ増えている。


「それ、持って帰るんですよね」

「首輪?」

「リードも」

「もちろん」


 少し安心した。


「でも、ここに置いておいてもいいな」

「駄目です」

「なぜ?」

「俺の家に犬用品を増やさないでください」

「ボク用品だ」

「もっと駄目です」


 翠先輩が笑った。


 首輪の金具が、動くたびに小さく鳴る。


「じゃあ今日は持って帰る」

「今日は?」

「うん」

「明日は?」

「明日のボクに聞いてくれ」

「嫌な予感しかしない」


 翠先輩は楽しそうに首輪へ触れた。


「似合ってるんだろう?」

「……まあ」

「ならいいじゃないか」

「何がいいんです?」

「全部」

「雑になってきましたね」

「へへ〜」


 ソファへ深く沈む。


 首輪をつけたまま。


 リードを膝へ置いたまま。


 大学から帰ってきた格好で、いつものように俺の部屋で寛ぎ始める。


 テンションが上がりきった反動なのか、しばらくすると欠伸までした。


「眠いなら帰ったらどうです?」

「嫌だ」

「また即答」

「せっかく見せに来たんだから、もう少しここにいる」

「見せる目的は達成したでしょう」

「まだボクが満足していない」

「俺基準じゃないんですね」

「当然だろう」


 翠先輩は目を閉じかけて、また開いた。


 それから俺を見る。


「悠人」

「なんです?」

「似合う?」

「さっき言いましたよね」

「もう一回っ」

「言いません」

「ケチ」


 少し間が空いた。


「……でも、似合ってるんだろう?」

「はいはい」

「へへ〜」


 また機嫌が良くなった。


 どうやら今日は、しばらく外す気がないらしい。

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