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ボクを飼ってみないか?!  作者: 御HeSummer3
第2章

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25/37

翠先輩は猫っぽい


 翠先輩が俺の部屋で昼寝をしている。


 珍しいことではない。


 少なくとも、ここ最近は。


 土曜日の午後一時過ぎ。


 午前中に大学の図書館で借りていた本を返し、ついでにスーパーへ寄って帰ってきたところで、向かいのマンションから翠先輩がやってきた。


 来た理由は聞いていない。


 本人も言わなかった。


 ただ、俺が玄関を開けると、


「いた」


 とだけ言って、当然のように入ってきた。


 それから一時間。


 俺はローテーブルで来週提出のレポートを進め、翠先輩は最初こそ隣で獣医病理学の教科書を読んでいた。


 十分後にはソファへ移った。


 二十分後には教科書が閉じた。


 三十分後には横になった。


 今は寝ている。


「…………」


 静かだった。


 九月も半ばを過ぎ、午後の日差しは夏より少しだけ低くなっている。


 カーテンの隙間から入った光がソファの片側へ落ち、その真ん中へ翠先輩がすっぽり収まっていた。


 薄いベージュのカーディガン。


 白いブラウス。


 長いスカート。


 首輪はない。


 あれは家だけにすると本人が言っていたし、今日は自分の部屋からそのまま来たらしい。


 明るい茶色の髪がクッションへ広がっている。


 片腕は腹の上。


 もう片方はソファから少し落ちていた。


 顔には日差しが当たっていない。


 身体だけが暖かい場所へ入っている。


 妙に位置取りが上手い。


「…………」


 俺はペンを止めた。


 なんとなく見てしまう。


 寝ている人間を観察する趣味はない。


 ないはずなのだが。


 翠先輩は少し身じろぎした。


 膝を曲げる。


 身体を丸める。


 さらに日の当たる範囲へ寄った。


「猫だな」

「違う」

「起きてたんですか」

「今起きた」


 目は閉じたままだった。


「じゃあ寝言みたいなもんじゃないですか」

「聞こえたから」

「猫みたいだなって」

「違う」

「何がです?」

「ボクは猫ではない」

「それは知ってます」


 翠先輩は薄く目を開けた。


 こちらを見る。


 そのまま数秒。


 また閉じた。


「じゃあ寝てください」

「うん」

「…………」


 寝るらしい。


 俺はレポートへ戻った。


 五分ほど進める。


 今日中に終わらせる必要はないが、できるところまでやっておきたい。


 参考文献を一冊開き、該当箇所を探す。


 ページをめくる。


 文字を追う。


 そこで。


「悠人」

「なんです?」

「麦茶」

「冷蔵庫です」

「知っている」

「じゃあどうぞ」

「…………」


 返事がない。


 俺は顔を上げた。


 翠先輩がこちらを見ていた。


 寝転がったまま。


「何です?」

「喉が渇いた」

「だから冷蔵庫にありますよ」

「遠い」

「七歩くらいですよ」

「今、いいところなんだぁ」

「寝てるだけでしょう」

「非常にいい」

「何が」

「温度」


 確かに日当たりはよさそうだった。


「じゃあ我慢してください」

「…………」


 翠先輩は何も言わなくなった。


 俺も無視する。


 一分。


 二分。


 三分。


 ページをめくる。


「…………」


 妙に視線を感じる。


 顔を上げる。


 まだ見ていた。


「怖いですよ」

「何もしていない」

「ずっと見てるじゃないですか」

「悠人がいつ気づくかと思って」

「気づいてます」

「麦茶」

「自分で取りに行ってください」

「ケチだなあ」


 そう言って、また目を閉じる。


 行かないのか。


「…………」


 俺はレポートを二行書いた。


 三行目の途中で止まる。


 ため息をついた。


 立ち上がる。


 冷蔵庫から麦茶を出す。


 翠先輩のグラスは、もう俺の家に置きっぱなしになっている。


 本人が以前持ってきたものだ。


 棚からそれを取り、麦茶を注ぐ。


 戻る。


「ほら」

「ありがとう」


 翠先輩はむくりと起き上がった。


 受け取る。


 一口。


 二口。


 満足そうに飲む。


「最初から自分で行けば三分早かったですよ」

「でも悠人が持ってきてくれた」

「だから?」

「楽だった」

「でしょうね」


 グラスを両手で持ったまま、翠先輩はソファへ座っている。


 さっきまで寝ていたせいか、髪が少し潰れていた。


 右側だけ変な方向へ跳ねている。


「髪」

「ん?」

「跳ねてます」

「どこ?」

「右」


 翠先輩が触る。


 違うところを撫でる。


「そこじゃないです」

「どこだ」

「もう少し後ろ」


 また違う。


 俺は立ったまま手を伸ばした。


 跳ねた髪を指で押さえる。


 少し整える。


「ここです」

「ん」

「…………」


 翠先輩が動かない。


 俺も手を離した。


「直りましたよ」

「そうか」

「はい」

「…………」


 まだこちらを見ている。


「何です?」

「今の」

「髪?」

「うん」

「直しただけですよ」

「そうだな」


 翠先輩は麦茶を飲んだ。


 それ以上は何も言わなかった。


 俺もレポートへ戻る。


 しばらくすると、またソファへ横になる音がした。


 今度こそ静かになった。


 時計の秒針。


 エアコンの音。


 外を走る車。


 たまにページをめくる音。


 それだけ。


 こうして同じ部屋にいて、別々のことをしている時間も増えた。


 最初の頃なら、翠先輩が家に来れば何かしら話していた気がする。


 最近はそうでもない。


 俺がレポートを書いていても、翠先輩は勝手に本を読む。


 眠ければ寝る。


 腹が減れば何か言う。


 俺が料理を始めれば覗きに来る。


 何もなければ何もしない。


 それでも帰らない。


「…………」


 レポートを一段落させる。


 時計を見る。


 二時十二分。


 そろそろ休憩にしよう。


 ペンを置く。


 肩を回す。


 立ち上がる。


 すると、ソファの翠先輩が目を開けた。


「どこ行く?」

「トイレです」

「そうか」

「…………」


 俺は廊下へ出た。


 トイレへ行く。


 戻る。


 翠先輩は寝ていた。


「…………」


 何だったんだ。


 席へ戻る。


 椅子代わりに使っていた座布団へ座ろうとする。


「…………」


 ない。


 さっきまで俺が使っていた座布団がない。


 見る。


 ソファ。


 翠先輩の頭の下にあった。


「翠先輩」

「ん」

「それ俺のです」

「座布団に所有権を主張するのかい?」

「今まで使ってたんですよ」

「空いたから借りた」

「二分ですよ」

「二分あれば状況は変わる」

「返してください」

「嫌だ」

「なんで」

「こっちの方がちょうどいい」

「クッションあるでしょう」

「硬い」

「俺は何に座ればいいんです?」

「床」

「自分の家なんですけど」


 翠先輩は顔の位置を少し変えた。


 完全に返す気がない。


「…………」


 仕方なく別の座布団を棚から出す。


 座る。


 翠先輩が片目だけ開けた。


「あるじゃないか」

「ありますよ」

「なら問題ない」

「問題あるだろ」

「解決した」


 また目を閉じた。


 こういうところだ。


「やっぱり猫っぽいですよね」

「またその話か」

「人が使ってた場所取るし」

「空いていた」

「勝手に寝るし」

「眠かった」

「構ってほしい時だけ寄ってくるし」

「それは……」


 そこで返事が止まった。


 翠先輩が目を開ける。


「寄っているか?」

「寄ってますよ」

「いつ?」

「結構」

「例えば?」

「俺が忙しい時に限って近くにいるでしょう」

「偶然だ」

「この前も洗面所までついてきたじゃないですか」

「あれは暇だった」

「今だって俺がトイレ行くだけで聞いたし」

「どこか行くのかと思っただけだ」

「二分いなくなったら座布団取るし」

「それは関係ない」

「猫じゃないですか」

「違う」

「じゃあ何です?」


 翠先輩は少し考えた。


「翠先輩だ」

「それはそう」

「解決だな」

「便利な逃げ方覚えましたね」


 翠先輩は満足そうに目を閉じた。


 俺もまたレポートへ戻る。


 十分くらいしたところで、ソファから気配がした。


 身体を起こしたらしい。


 ページをめくる。


 気にしない。


 少しして、床が軋む。


 近づいてくる。


「…………」


 横に座った。


 俺のすぐ左。


 さっきまでソファにいたのに。


「何です?」

「別に」

「寝ないんですか」

「目が覚めた」

「そうですか」


 翠先輩は俺のレポートを覗く。


「終わりそう?」

「あと少しです」

「ふうん」


 それだけ。


 自分の教科書を持ってきたわけでもない。


 スマホもソファに置いたまま。


 ただ隣にいる。


「…………」


 俺は書く。


 翠先輩は何もしない。


 数分。


 視界の端に明るい茶色の髪がある。


 少し近い。


 また数分。


 さらに近い。


「翠先輩」

「なんだい?」

「近くないです?」

「そうか?」

「さっきより近いですよね」

「気のせいだろう」

「肩当たりそうですけど」

「狭いからな」

「向こう空いてますよ」


 翠先輩が反対側を見る。


 何もない。


 十分空いている。


「…………」

「移動します?」

「ここでいい」

「そうですか」


 また書く。


 一行。


 二行。


 左腕に髪が触れた。


「…………」


 止まる。


 見る。


 翠先輩は普通に前を向いている。


「何です?」

「何が?」

「今、寄りましたよね」

「寄ってない」

「髪当たってます」

「髪はボクではない」

「生えてるでしょう」

「そこまで厳密に言うならボクだな」

「でしょうね」


 翠先輩は離れない。


 むしろそのままだ。


「…………」


 ふと思い出す。


 この前。


 朝。


 頭を撫でた。


 一回だけ。


 そのあと、もう一回と言われた。


「……翠先輩」

「うん?」

「撫でてほしいんですか」

「…………」


 返事がない。


 目だけが動く。


 こちらを見る。


「違う?」

「別に」

「じゃあいいか」

「…………」


 俺はレポートへ戻る。


 ペンを動かす。


 一行。


 二行。


 翠先輩は何も言わない。


 ただ、離れもしない。


 三行目。


「…………」


 左から小さく息を吐く音。


「……少しくらいなら」

「はい?」

「撫でてもいいぞ」

「頼む側の言い方じゃないですよ」

「頼んでない」

「じゃあやりません」

「…………」


 翠先輩がこちらを見る。


 無言。


「その顔やめてください」

「何もしていない」

「圧があるんですよ」

「ない」

「あります」

「…………」


 まだ見る。


 俺は耐える。


 十秒。


 二十秒。


「……一回だけですよ」

「うん」


 即答だった。


「やっぱり待ってたでしょう」

「待ってない」

「返事速すぎますよ」


 俺はペンを置いた。


 左手を上げる。


 翠先輩の頭へ置く。


 前回より少しだけ長く、髪の流れに沿って撫でる。


 頭頂部から後ろへ。


 一度。


 もう一度。


「…………」


 翠先輩は動かない。


 目を細めた。


 口元から力が抜ける。


 少しだけ顎が上がる。


「…………」

「どうです?」

「悪くない」

「前はかなりいいって言ってましたよね」

「今もかなりいい」

「正直ですね」

「もう少し」

「増えてるじゃないですか」

「今のは二回だった」

「数えてたんです?」

「当然だろう」


 俺は手を離した。


「終わりです」

「…………」


 翠先輩が俺の手を見る。


 次に俺を見る。


「終わり?」

「はい」

「早くないか」

「十分です」

「あと少し」

「レポートありますから」

「…………」

「自分の教科書読んだらどうです?」

「今はいい」

「じゃあソファ戻ります?」

「ここにいる」

「好きにしてください」


 俺はまたペンを取った。


 書く。


 翠先輩は隣にいる。


 静かだった。


 さっきまでのように覗き込んでもこない。


 話しかけてもこない。


 ただ、少しだけ肩が触れる位置に座っている。


 五分ほど経った。


 レポートの最後の段落へ入る。


 そこで。


「…………」


 左手に何かが触れた。


 見る。


 翠先輩の頭だった。


 俺の左手はテーブルの端に置いている。


 そこへ、ほんの少しだけ頭を寄せてきている。


「翠先輩」

「なんだい?」

「何してるんです?」

「何も」

「頭当たってますけど」

「偶然だろう」

「三秒前まで当たってませんでしたよ」

「状況は変わる」

「俺の座布団取った時と同じ理屈使わないでください」


 翠先輩は離れない。


「…………」


 俺は手を少し上げた。


 すると、その動きに合わせて翠先輩の視線が追ってきた。


「…………」

「猫じゃないですか」

「違う」

「今完全に手見てましたよ」

「見ただけだ」

「撫でてほしいんでしょう」

「別に」

「じゃあ戻しますね」

 

 手をテーブルへ戻そうとする。


「待ちたまえ」

「ほら」

「…………」


 翠先輩が少しだけ眉を寄せた。


 負けたみたいな顔をする。


「……もう一回」

「ちゃんと言えるじゃないですか」

「うるさいな」


 頭へ手を置く。


 撫でる。


 今度は何も言わない。


 翠先輩も何も言わなかった。


 ただ、少しだけこちらへ身体を預ける。


 肩が触れる。


 髪が腕へ当たる。


 それでも本人は、たぶん猫ではないと言い張るのだろう。


 しばらく撫でる。


 やがて俺が手を止める。


 翠先輩がこちらを見る。


「終わり?」

「終わりです」

「…………」

「なんです?」

「別に」


 翠先輩は少しだけ不満そうに前を向いた。


 俺はレポートへ戻る。


 二行ほど書く。


 その間、隣から視線を感じる。


 無視する。


 さらに一行。


「……悠人」

「なんです?」

「ボクは猫ではないからな」

「まだ言ってたんですか」

「重要だ」

「じゃあ、なんでさっきから撫でられて喜んでるんです?」

「それはそれだ」

「日向で寝るし」

「暖かいからだ」

「人の場所取るし」

「空いていたからだ」

「呼んでも来ないくせについてくるし」

「気分だ」

「構ってほしい時だけ近づくし」

「…………」

「猫ですよね」


 翠先輩は黙った。


 少し考える。


 それから、俺の肩へほんの少しだけ頭を預けた。


「違う」

「説得力なくなってますよ」

「うるさい」


 そう言いながら、離れる気はないらしかった。

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