翠先輩は猫っぽい
翠先輩が俺の部屋で昼寝をしている。
珍しいことではない。
少なくとも、ここ最近は。
土曜日の午後一時過ぎ。
午前中に大学の図書館で借りていた本を返し、ついでにスーパーへ寄って帰ってきたところで、向かいのマンションから翠先輩がやってきた。
来た理由は聞いていない。
本人も言わなかった。
ただ、俺が玄関を開けると、
「いた」
とだけ言って、当然のように入ってきた。
それから一時間。
俺はローテーブルで来週提出のレポートを進め、翠先輩は最初こそ隣で獣医病理学の教科書を読んでいた。
十分後にはソファへ移った。
二十分後には教科書が閉じた。
三十分後には横になった。
今は寝ている。
「…………」
静かだった。
九月も半ばを過ぎ、午後の日差しは夏より少しだけ低くなっている。
カーテンの隙間から入った光がソファの片側へ落ち、その真ん中へ翠先輩がすっぽり収まっていた。
薄いベージュのカーディガン。
白いブラウス。
長いスカート。
首輪はない。
あれは家だけにすると本人が言っていたし、今日は自分の部屋からそのまま来たらしい。
明るい茶色の髪がクッションへ広がっている。
片腕は腹の上。
もう片方はソファから少し落ちていた。
顔には日差しが当たっていない。
身体だけが暖かい場所へ入っている。
妙に位置取りが上手い。
「…………」
俺はペンを止めた。
なんとなく見てしまう。
寝ている人間を観察する趣味はない。
ないはずなのだが。
翠先輩は少し身じろぎした。
膝を曲げる。
身体を丸める。
さらに日の当たる範囲へ寄った。
「猫だな」
「違う」
「起きてたんですか」
「今起きた」
目は閉じたままだった。
「じゃあ寝言みたいなもんじゃないですか」
「聞こえたから」
「猫みたいだなって」
「違う」
「何がです?」
「ボクは猫ではない」
「それは知ってます」
翠先輩は薄く目を開けた。
こちらを見る。
そのまま数秒。
また閉じた。
「じゃあ寝てください」
「うん」
「…………」
寝るらしい。
俺はレポートへ戻った。
五分ほど進める。
今日中に終わらせる必要はないが、できるところまでやっておきたい。
参考文献を一冊開き、該当箇所を探す。
ページをめくる。
文字を追う。
そこで。
「悠人」
「なんです?」
「麦茶」
「冷蔵庫です」
「知っている」
「じゃあどうぞ」
「…………」
返事がない。
俺は顔を上げた。
翠先輩がこちらを見ていた。
寝転がったまま。
「何です?」
「喉が渇いた」
「だから冷蔵庫にありますよ」
「遠い」
「七歩くらいですよ」
「今、いいところなんだぁ」
「寝てるだけでしょう」
「非常にいい」
「何が」
「温度」
確かに日当たりはよさそうだった。
「じゃあ我慢してください」
「…………」
翠先輩は何も言わなくなった。
俺も無視する。
一分。
二分。
三分。
ページをめくる。
「…………」
妙に視線を感じる。
顔を上げる。
まだ見ていた。
「怖いですよ」
「何もしていない」
「ずっと見てるじゃないですか」
「悠人がいつ気づくかと思って」
「気づいてます」
「麦茶」
「自分で取りに行ってください」
「ケチだなあ」
そう言って、また目を閉じる。
行かないのか。
「…………」
俺はレポートを二行書いた。
三行目の途中で止まる。
ため息をついた。
立ち上がる。
冷蔵庫から麦茶を出す。
翠先輩のグラスは、もう俺の家に置きっぱなしになっている。
本人が以前持ってきたものだ。
棚からそれを取り、麦茶を注ぐ。
戻る。
「ほら」
「ありがとう」
翠先輩はむくりと起き上がった。
受け取る。
一口。
二口。
満足そうに飲む。
「最初から自分で行けば三分早かったですよ」
「でも悠人が持ってきてくれた」
「だから?」
「楽だった」
「でしょうね」
グラスを両手で持ったまま、翠先輩はソファへ座っている。
さっきまで寝ていたせいか、髪が少し潰れていた。
右側だけ変な方向へ跳ねている。
「髪」
「ん?」
「跳ねてます」
「どこ?」
「右」
翠先輩が触る。
違うところを撫でる。
「そこじゃないです」
「どこだ」
「もう少し後ろ」
また違う。
俺は立ったまま手を伸ばした。
跳ねた髪を指で押さえる。
少し整える。
「ここです」
「ん」
「…………」
翠先輩が動かない。
俺も手を離した。
「直りましたよ」
「そうか」
「はい」
「…………」
まだこちらを見ている。
「何です?」
「今の」
「髪?」
「うん」
「直しただけですよ」
「そうだな」
翠先輩は麦茶を飲んだ。
それ以上は何も言わなかった。
俺もレポートへ戻る。
しばらくすると、またソファへ横になる音がした。
今度こそ静かになった。
時計の秒針。
エアコンの音。
外を走る車。
たまにページをめくる音。
それだけ。
こうして同じ部屋にいて、別々のことをしている時間も増えた。
最初の頃なら、翠先輩が家に来れば何かしら話していた気がする。
最近はそうでもない。
俺がレポートを書いていても、翠先輩は勝手に本を読む。
眠ければ寝る。
腹が減れば何か言う。
俺が料理を始めれば覗きに来る。
何もなければ何もしない。
それでも帰らない。
「…………」
レポートを一段落させる。
時計を見る。
二時十二分。
そろそろ休憩にしよう。
ペンを置く。
肩を回す。
立ち上がる。
すると、ソファの翠先輩が目を開けた。
「どこ行く?」
「トイレです」
「そうか」
「…………」
俺は廊下へ出た。
トイレへ行く。
戻る。
翠先輩は寝ていた。
「…………」
何だったんだ。
席へ戻る。
椅子代わりに使っていた座布団へ座ろうとする。
「…………」
ない。
さっきまで俺が使っていた座布団がない。
見る。
ソファ。
翠先輩の頭の下にあった。
「翠先輩」
「ん」
「それ俺のです」
「座布団に所有権を主張するのかい?」
「今まで使ってたんですよ」
「空いたから借りた」
「二分ですよ」
「二分あれば状況は変わる」
「返してください」
「嫌だ」
「なんで」
「こっちの方がちょうどいい」
「クッションあるでしょう」
「硬い」
「俺は何に座ればいいんです?」
「床」
「自分の家なんですけど」
翠先輩は顔の位置を少し変えた。
完全に返す気がない。
「…………」
仕方なく別の座布団を棚から出す。
座る。
翠先輩が片目だけ開けた。
「あるじゃないか」
「ありますよ」
「なら問題ない」
「問題あるだろ」
「解決した」
また目を閉じた。
こういうところだ。
「やっぱり猫っぽいですよね」
「またその話か」
「人が使ってた場所取るし」
「空いていた」
「勝手に寝るし」
「眠かった」
「構ってほしい時だけ寄ってくるし」
「それは……」
そこで返事が止まった。
翠先輩が目を開ける。
「寄っているか?」
「寄ってますよ」
「いつ?」
「結構」
「例えば?」
「俺が忙しい時に限って近くにいるでしょう」
「偶然だ」
「この前も洗面所までついてきたじゃないですか」
「あれは暇だった」
「今だって俺がトイレ行くだけで聞いたし」
「どこか行くのかと思っただけだ」
「二分いなくなったら座布団取るし」
「それは関係ない」
「猫じゃないですか」
「違う」
「じゃあ何です?」
翠先輩は少し考えた。
「翠先輩だ」
「それはそう」
「解決だな」
「便利な逃げ方覚えましたね」
翠先輩は満足そうに目を閉じた。
俺もまたレポートへ戻る。
十分くらいしたところで、ソファから気配がした。
身体を起こしたらしい。
ページをめくる。
気にしない。
少しして、床が軋む。
近づいてくる。
「…………」
横に座った。
俺のすぐ左。
さっきまでソファにいたのに。
「何です?」
「別に」
「寝ないんですか」
「目が覚めた」
「そうですか」
翠先輩は俺のレポートを覗く。
「終わりそう?」
「あと少しです」
「ふうん」
それだけ。
自分の教科書を持ってきたわけでもない。
スマホもソファに置いたまま。
ただ隣にいる。
「…………」
俺は書く。
翠先輩は何もしない。
数分。
視界の端に明るい茶色の髪がある。
少し近い。
また数分。
さらに近い。
「翠先輩」
「なんだい?」
「近くないです?」
「そうか?」
「さっきより近いですよね」
「気のせいだろう」
「肩当たりそうですけど」
「狭いからな」
「向こう空いてますよ」
翠先輩が反対側を見る。
何もない。
十分空いている。
「…………」
「移動します?」
「ここでいい」
「そうですか」
また書く。
一行。
二行。
左腕に髪が触れた。
「…………」
止まる。
見る。
翠先輩は普通に前を向いている。
「何です?」
「何が?」
「今、寄りましたよね」
「寄ってない」
「髪当たってます」
「髪はボクではない」
「生えてるでしょう」
「そこまで厳密に言うならボクだな」
「でしょうね」
翠先輩は離れない。
むしろそのままだ。
「…………」
ふと思い出す。
この前。
朝。
頭を撫でた。
一回だけ。
そのあと、もう一回と言われた。
「……翠先輩」
「うん?」
「撫でてほしいんですか」
「…………」
返事がない。
目だけが動く。
こちらを見る。
「違う?」
「別に」
「じゃあいいか」
「…………」
俺はレポートへ戻る。
ペンを動かす。
一行。
二行。
翠先輩は何も言わない。
ただ、離れもしない。
三行目。
「…………」
左から小さく息を吐く音。
「……少しくらいなら」
「はい?」
「撫でてもいいぞ」
「頼む側の言い方じゃないですよ」
「頼んでない」
「じゃあやりません」
「…………」
翠先輩がこちらを見る。
無言。
「その顔やめてください」
「何もしていない」
「圧があるんですよ」
「ない」
「あります」
「…………」
まだ見る。
俺は耐える。
十秒。
二十秒。
「……一回だけですよ」
「うん」
即答だった。
「やっぱり待ってたでしょう」
「待ってない」
「返事速すぎますよ」
俺はペンを置いた。
左手を上げる。
翠先輩の頭へ置く。
前回より少しだけ長く、髪の流れに沿って撫でる。
頭頂部から後ろへ。
一度。
もう一度。
「…………」
翠先輩は動かない。
目を細めた。
口元から力が抜ける。
少しだけ顎が上がる。
「…………」
「どうです?」
「悪くない」
「前はかなりいいって言ってましたよね」
「今もかなりいい」
「正直ですね」
「もう少し」
「増えてるじゃないですか」
「今のは二回だった」
「数えてたんです?」
「当然だろう」
俺は手を離した。
「終わりです」
「…………」
翠先輩が俺の手を見る。
次に俺を見る。
「終わり?」
「はい」
「早くないか」
「十分です」
「あと少し」
「レポートありますから」
「…………」
「自分の教科書読んだらどうです?」
「今はいい」
「じゃあソファ戻ります?」
「ここにいる」
「好きにしてください」
俺はまたペンを取った。
書く。
翠先輩は隣にいる。
静かだった。
さっきまでのように覗き込んでもこない。
話しかけてもこない。
ただ、少しだけ肩が触れる位置に座っている。
五分ほど経った。
レポートの最後の段落へ入る。
そこで。
「…………」
左手に何かが触れた。
見る。
翠先輩の頭だった。
俺の左手はテーブルの端に置いている。
そこへ、ほんの少しだけ頭を寄せてきている。
「翠先輩」
「なんだい?」
「何してるんです?」
「何も」
「頭当たってますけど」
「偶然だろう」
「三秒前まで当たってませんでしたよ」
「状況は変わる」
「俺の座布団取った時と同じ理屈使わないでください」
翠先輩は離れない。
「…………」
俺は手を少し上げた。
すると、その動きに合わせて翠先輩の視線が追ってきた。
「…………」
「猫じゃないですか」
「違う」
「今完全に手見てましたよ」
「見ただけだ」
「撫でてほしいんでしょう」
「別に」
「じゃあ戻しますね」
手をテーブルへ戻そうとする。
「待ちたまえ」
「ほら」
「…………」
翠先輩が少しだけ眉を寄せた。
負けたみたいな顔をする。
「……もう一回」
「ちゃんと言えるじゃないですか」
「うるさいな」
頭へ手を置く。
撫でる。
今度は何も言わない。
翠先輩も何も言わなかった。
ただ、少しだけこちらへ身体を預ける。
肩が触れる。
髪が腕へ当たる。
それでも本人は、たぶん猫ではないと言い張るのだろう。
しばらく撫でる。
やがて俺が手を止める。
翠先輩がこちらを見る。
「終わり?」
「終わりです」
「…………」
「なんです?」
「別に」
翠先輩は少しだけ不満そうに前を向いた。
俺はレポートへ戻る。
二行ほど書く。
その間、隣から視線を感じる。
無視する。
さらに一行。
「……悠人」
「なんです?」
「ボクは猫ではないからな」
「まだ言ってたんですか」
「重要だ」
「じゃあ、なんでさっきから撫でられて喜んでるんです?」
「それはそれだ」
「日向で寝るし」
「暖かいからだ」
「人の場所取るし」
「空いていたからだ」
「呼んでも来ないくせについてくるし」
「気分だ」
「構ってほしい時だけ近づくし」
「…………」
「猫ですよね」
翠先輩は黙った。
少し考える。
それから、俺の肩へほんの少しだけ頭を預けた。
「違う」
「説得力なくなってますよ」
「うるさい」
そう言いながら、離れる気はないらしかった。




