翠先輩は隠さない
昼休みの学食は、いつもより少し混んでいた。
十二時を過ぎたばかりなのに、入口近くの券売機には列ができ、空いている席を探してトレーを持った学生たちが店内を行き来している。
俺たちは窓際の六人掛けを確保していた。
俺。
宮坂。
翠先輩。
それから同じ獣医学科の女子二人と、男子一人。
最近では珍しくない組み合わせだった。
少し前まで、翠先輩は学食へ来ても一人で食べることの方が多かったらしい。
今は誰かに声を掛けられれば普通に座るし、自分から会話に入ることもある。
本人は特に意識していないようだ。
今日も日替わり定食のトレーを前に置き、女子の一人が話している実習の愚痴を聞きながら、味噌汁を飲んでいた。
「昨日のレポート、何時までやってた?」
宮坂が俺を見る。
「十一時くらい」
「早っ」
「途中まで土曜にやってたから」
「俺、一時半」
「お疲れ」
「高瀬ってそういうとこ真面目だよな」
宮坂が唐揚げを一つ口へ入れる。
隣では、翠先輩が箸で小鉢のひじきをつまんでいた。
「悠人はレポートをやっている時、結構集中しているぞ」
「…………」
俺は味噌汁の椀を置いた。
宮坂が翠先輩を見る。
「なんで知ってんの?」
「見たことがあるから」
さらっと答えた。
俺は何も言わない。
言わないが、少しだけ背筋が伸びた。
「家で?」
女子の一人が聞く。
「うん」
「へえ」
それだけだった。
終わった。
俺は内心で息を吐く。
最近では、翠先輩が俺の部屋へ来ることを知っている奴もいる。
家が向かいで、昔から動物園でも顔を合わせていた。
その程度なら、別に不自然でもない。
問題は、その先だ。
「野々宮って高瀬んち結構行くよね」
別の女子が言う。
「そうだな」
翠先輩は普通に頷く。
「そんな近いの?」
「十二秒くらい」
「十二秒?」
「ちゃんと測ったの?」
「だいたいだ」
「それもう隣じゃん」
「道路を挟んで向かいだよ」
宮坂が俺を見る。
「いいな、それ。何かあったらすぐ行けるじゃん」
「まあな」
俺はそう答えた。
翠先輩は味噌汁を飲んでいる。
普通だった。
少なくとも見た目は。
「だから最近、結構便利なんだ」
翠先輩が言う。
「何が?」
「麦茶とか」
「…………」
俺は水を飲んだ。
女子の一人が笑う。
「高瀬んちで麦茶飲んでんの?」
「うん」
「そんな頻繁に?」
「ボクのグラスもあるぞ」
「翠先輩」
思わず呼んだ。
全員の視線が俺へ向く。
「なんだい?」
「…………」
何を言うつもりだったんだ、俺は。
別にグラスくらいなら問題ない。
置いてある。
事実だ。
「いや、なんでもないです」
「そうか」
翠先輩は何も気にせず、またご飯を食べ始めた。
宮坂も特に気にしていない。
「いいなあ。友達んちに専用グラスあるの、ちょっと憧れる」
「そう?」
「なんか常連感あるじゃん」
「常連ではあるな」
「…………」
俺はまた水を飲んだ。
今のところ大丈夫だ。
言い方は危ういが、全部説明可能な範囲に収まっている。
そのまま話題は午後の講義へ移った。
教授の板書が見づらい。
あの資料は去年と同じらしい。
次の小テストはたぶん難しい。
そんな普通の話をしているうちに、俺も少し気が抜けた。
翠先輩も友達と普通に笑っている。
女子の一人に今度新しくできた店へ行こうと誘われて、
「予定が合えば行く」
と答えていた。
「またそれ」
「何だい?」
「野々宮の『予定が合えば』って、来る時と来ない時分かんないんだよね」
「予定は予定だからな」
「じゃあ今度ちゃんと連絡する」
「うん」
以前なら、こういうやり取り自体あまりなかったのかもしれない。
今は自然だった。
誰かが無理に輪へ引っ張っている感じもない。
翠先輩も、別に愛想を作っているわけではない。
普通にそこにいる。
「そういえば野々宮」
「ん?」
「昨日何してたの?」
聞いたのは宮坂だった。
「昨日?」
「土曜」
「悠人の家で寝ていた」
「…………」
箸が止まった。
俺だけ。
宮坂が一瞬だけ目を丸くする。
女子二人も翠先輩を見る。
翠先輩は何も変わらず、ご飯を一口食べた。
「昼寝」
「ああ」
宮坂がすぐ納得する。
「昼寝か」
「うん」
「びっくりした」
「何を?」
「いや、言い方」
「普通だろう?」
「普通ではないと思う」
みんな少し笑った。
俺は笑えなかった。
危なかった。
いや、何も危なくない。
昼寝しただけだ。
それでも最初に「昼寝」と言ってほしい。
「高瀬んち居心地いいの?」
女子の一人が聞く。
「悪くないぞ」
「へえ」
「日当たりもいい」
「そこ?」
「重要だろう」
「野々宮らしい」
笑いが起きる。
俺は少しだけ安心した。
日当たり。
それなら大丈夫だ。
座布団を奪った話も、撫でてもらった話も出さなければ。
「あと、悠人は」
「翠先輩」
今度は早かった。
翠先輩が俺を見る。
「なんだい?」
「次、何言うつもりです?」
「まだ何も言ってないじゃないか」
「だから聞いてるんです」
宮坂が笑う。
「高瀬、警戒しすぎだろ」
「最近ちょっと怖いんだよ」
「何が?」
「翠先輩が何言うか」
「失礼だな」
本人だけ不満そうだった。
けれど周りはただのいつもの掛け合いだと思っているらしい。
そのまま昼休みが終わる。
俺たちはトレーを返し、講義棟へ向かった。
午後一限目は全員同じ講義だった。
大教室へ入り、適当に席を取る。
俺の隣が宮坂。
その一つ前に翠先輩と女子二人。
教授が来るまでまだ五分あった。
翠先輩が鞄を開く。
教科書。
ノート。
筆箱。
スマホ。
いつも通りのものが机へ並ぶ。
そこで。
「…………」
焦げ茶色が見えた。
一瞬だけ。
鞄の内側。
細い革。
金具。
俺は反射的に前を見た。
翠先輩も止まった。
目が合う。
「…………」
「…………」
翠先輩が何事もなかったように鞄の口を少し狭めた。
そのまま筆箱を取り出す。
「野々宮、消しゴム貸して」
隣の女子が言った。
「あるぞ」
「鞄の中?」
「うん」
「取ろうか?」
「いや」
翠先輩の返事が少しだけ速かった。
女子が首を傾げる。
「なんで?」
「自分で取る」
「そりゃそうだけど」
翠先輩は鞄へ手を入れ、消しゴムを取り出す。
俺は前を向いたまま、何も言わなかった。
たぶん気づかれていない。
よかった。
本当によかった。
「高瀬」
宮坂が小声で呼ぶ。
「何?」
「どうした?」
「何が?」
「今、一瞬すごい顔してたぞ」
「してない」
「してた」
「気のせい」
「ふーん」
それ以上は追及されなかった。
教授が入ってくる。
教室が静かになる。
講義が始まった。
俺もノートを開く。
前の席では、翠先輩が普通に板書を写している。
いつも通りだった。
背筋を伸ばし、時々教科書を確認し、教授の説明へ線を引いている。
どこからどう見ても、普通の大学生だ。
鞄の中に首輪が入っていることを除けば。
「…………」
考えるな。
集中する。
俺は黒板を見る。
教授の説明を聞く。
十分。
二十分。
三十分。
途中、小さな確認問題が出た。
隣同士で考えろと言われる。
宮坂と答えを合わせる。
前では翠先輩たちも普通に話している。
講義は予定通り終わった。
教室を出る。
廊下へ出たところで、女子の一人が翠先輩へ声を掛けた。
「野々宮、このあと図書館行く?」
「今日は帰る」
「珍しい」
「少し用事があるからな」
「用事?」
「うん」
翠先輩が一瞬だけ俺を見る。
「帰ってからやることがある」
「へえ」
女子はそれ以上聞かなかった。
俺は聞かなかった。
聞かなくても、なんとなく分かる気がした。
いや、分かりたくない。
「高瀬、駅行く?」
宮坂が聞く。
「ああ」
「野々宮も?」
「うん」
三人で歩き始める。
階段を下りる。
外へ出る。
午後の風は少しだけ涼しかった。
翠先輩は宮坂と普通に講義の話をしている。
俺も普通に返す。
誰も何も知らない。
それでいい。
むしろ、その方がいい。
駅までの途中。
信号待ちで翠先輩が俺の隣へ来た。
声を少し落とす。
「さっき」
「何です?」
「見えた?」
「見えました」
「どのくらい?」
「金具まで」
「危なかったな」
「本当にですよ」
「でもバレなかった」
「だから安心してるんです」
翠先輩が小さく笑う。
「ちゃんと持ってきているぞ」
「なんで毎日持ち歩いてるんですか」
「気に入っているから」
「家に置いておけばいいでしょう」
「それは嫌だ」
「なんで?」
「持っていたい」
「…………」
理由になっているような、なっていないような。
「絶対大学で出さないでくださいよ」
「分かっている」
「本当に?」
「ボクを何だと思っている」
「今は信用がないです」
「失礼だなあ」
信号が青になる。
前を歩いていた宮坂が振り返る。
「何話してんの?」
「何でもない」
俺と翠先輩の声が重なった。
「……怪しいな」
「怪しくない」
「怪しくないぞ」
「息ぴったりじゃん」
「偶然」
「偶然だ」
また重なった。
宮坂が笑う。
翠先輩も笑った。
俺は何も言わなかった。
少なくとも、鞄の中身までは聞かれなかった。




