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ボクを飼ってみないか?!  作者: 御HeSummer3
第2章

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翠先輩は隠さない


 昼休みの学食は、いつもより少し混んでいた。


 十二時を過ぎたばかりなのに、入口近くの券売機には列ができ、空いている席を探してトレーを持った学生たちが店内を行き来している。


 俺たちは窓際の六人掛けを確保していた。


 俺。


 宮坂。


 翠先輩。


 それから同じ獣医学科の女子二人と、男子一人。


 最近では珍しくない組み合わせだった。


 少し前まで、翠先輩は学食へ来ても一人で食べることの方が多かったらしい。


 今は誰かに声を掛けられれば普通に座るし、自分から会話に入ることもある。


 本人は特に意識していないようだ。


 今日も日替わり定食のトレーを前に置き、女子の一人が話している実習の愚痴を聞きながら、味噌汁を飲んでいた。


「昨日のレポート、何時までやってた?」


 宮坂が俺を見る。


「十一時くらい」

「早っ」

「途中まで土曜にやってたから」

「俺、一時半」

「お疲れ」

「高瀬ってそういうとこ真面目だよな」


 宮坂が唐揚げを一つ口へ入れる。


 隣では、翠先輩が箸で小鉢のひじきをつまんでいた。


「悠人はレポートをやっている時、結構集中しているぞ」

「…………」


 俺は味噌汁の椀を置いた。


 宮坂が翠先輩を見る。


「なんで知ってんの?」

「見たことがあるから」


 さらっと答えた。


 俺は何も言わない。


 言わないが、少しだけ背筋が伸びた。


「家で?」


 女子の一人が聞く。


「うん」

「へえ」


 それだけだった。


 終わった。


 俺は内心で息を吐く。


 最近では、翠先輩が俺の部屋へ来ることを知っている奴もいる。


 家が向かいで、昔から動物園でも顔を合わせていた。


 その程度なら、別に不自然でもない。


 問題は、その先だ。


「野々宮って高瀬んち結構行くよね」


 別の女子が言う。


「そうだな」


 翠先輩は普通に頷く。


「そんな近いの?」

「十二秒くらい」

「十二秒?」

「ちゃんと測ったの?」

「だいたいだ」

「それもう隣じゃん」

「道路を挟んで向かいだよ」


 宮坂が俺を見る。


「いいな、それ。何かあったらすぐ行けるじゃん」

「まあな」


 俺はそう答えた。


 翠先輩は味噌汁を飲んでいる。


 普通だった。


 少なくとも見た目は。


「だから最近、結構便利なんだ」


 翠先輩が言う。


「何が?」

「麦茶とか」

「…………」


 俺は水を飲んだ。


 女子の一人が笑う。


「高瀬んちで麦茶飲んでんの?」

「うん」

「そんな頻繁に?」

「ボクのグラスもあるぞ」

「翠先輩」


 思わず呼んだ。


 全員の視線が俺へ向く。


「なんだい?」


「…………」


 何を言うつもりだったんだ、俺は。


 別にグラスくらいなら問題ない。


 置いてある。


 事実だ。


「いや、なんでもないです」

「そうか」


 翠先輩は何も気にせず、またご飯を食べ始めた。


 宮坂も特に気にしていない。


「いいなあ。友達んちに専用グラスあるの、ちょっと憧れる」

「そう?」

「なんか常連感あるじゃん」

「常連ではあるな」

「…………」


 俺はまた水を飲んだ。


 今のところ大丈夫だ。


 言い方は危ういが、全部説明可能な範囲に収まっている。


 そのまま話題は午後の講義へ移った。


 教授の板書が見づらい。


 あの資料は去年と同じらしい。


 次の小テストはたぶん難しい。


 そんな普通の話をしているうちに、俺も少し気が抜けた。


 翠先輩も友達と普通に笑っている。


 女子の一人に今度新しくできた店へ行こうと誘われて、


「予定が合えば行く」


 と答えていた。


「またそれ」

「何だい?」

「野々宮の『予定が合えば』って、来る時と来ない時分かんないんだよね」

「予定は予定だからな」

「じゃあ今度ちゃんと連絡する」

「うん」


 以前なら、こういうやり取り自体あまりなかったのかもしれない。


 今は自然だった。


 誰かが無理に輪へ引っ張っている感じもない。


 翠先輩も、別に愛想を作っているわけではない。


 普通にそこにいる。


「そういえば野々宮」

「ん?」

「昨日何してたの?」


 聞いたのは宮坂だった。


「昨日?」

「土曜」

「悠人の家で寝ていた」

「…………」


 箸が止まった。


 俺だけ。


 宮坂が一瞬だけ目を丸くする。


 女子二人も翠先輩を見る。


 翠先輩は何も変わらず、ご飯を一口食べた。


「昼寝」

「ああ」


 宮坂がすぐ納得する。


「昼寝か」

「うん」

「びっくりした」

「何を?」

「いや、言い方」

「普通だろう?」

「普通ではないと思う」


 みんな少し笑った。


 俺は笑えなかった。


 危なかった。


 いや、何も危なくない。


 昼寝しただけだ。


 それでも最初に「昼寝」と言ってほしい。


「高瀬んち居心地いいの?」


 女子の一人が聞く。


「悪くないぞ」

「へえ」

「日当たりもいい」

「そこ?」

「重要だろう」

「野々宮らしい」


 笑いが起きる。


 俺は少しだけ安心した。


 日当たり。


 それなら大丈夫だ。


 座布団を奪った話も、撫でてもらった話も出さなければ。


「あと、悠人は」

「翠先輩」


 今度は早かった。


 翠先輩が俺を見る。


「なんだい?」

「次、何言うつもりです?」

「まだ何も言ってないじゃないか」

「だから聞いてるんです」


 宮坂が笑う。


「高瀬、警戒しすぎだろ」

「最近ちょっと怖いんだよ」

「何が?」

「翠先輩が何言うか」

「失礼だな」


 本人だけ不満そうだった。


 けれど周りはただのいつもの掛け合いだと思っているらしい。


 そのまま昼休みが終わる。


 俺たちはトレーを返し、講義棟へ向かった。


 午後一限目は全員同じ講義だった。


 大教室へ入り、適当に席を取る。


 俺の隣が宮坂。


 その一つ前に翠先輩と女子二人。


 教授が来るまでまだ五分あった。


 翠先輩が鞄を開く。


 教科書。


 ノート。


 筆箱。


 スマホ。


 いつも通りのものが机へ並ぶ。


 そこで。


「…………」


 焦げ茶色が見えた。


 一瞬だけ。


 鞄の内側。


 細い革。


 金具。


 俺は反射的に前を見た。


 翠先輩も止まった。


 目が合う。


「…………」

「…………」


 翠先輩が何事もなかったように鞄の口を少し狭めた。


 そのまま筆箱を取り出す。


「野々宮、消しゴム貸して」


 隣の女子が言った。


「あるぞ」

「鞄の中?」

「うん」

「取ろうか?」

「いや」


 翠先輩の返事が少しだけ速かった。


 女子が首を傾げる。


「なんで?」

「自分で取る」

「そりゃそうだけど」


 翠先輩は鞄へ手を入れ、消しゴムを取り出す。


 俺は前を向いたまま、何も言わなかった。


 たぶん気づかれていない。


 よかった。


 本当によかった。


「高瀬」


 宮坂が小声で呼ぶ。


「何?」

「どうした?」

「何が?」

「今、一瞬すごい顔してたぞ」

「してない」

「してた」

「気のせい」

「ふーん」


 それ以上は追及されなかった。


 教授が入ってくる。


 教室が静かになる。


 講義が始まった。


 俺もノートを開く。


 前の席では、翠先輩が普通に板書を写している。


 いつも通りだった。


 背筋を伸ばし、時々教科書を確認し、教授の説明へ線を引いている。


 どこからどう見ても、普通の大学生だ。


 鞄の中に首輪が入っていることを除けば。


「…………」


 考えるな。


 集中する。


 俺は黒板を見る。


 教授の説明を聞く。


 十分。


 二十分。


 三十分。


 途中、小さな確認問題が出た。


 隣同士で考えろと言われる。


 宮坂と答えを合わせる。


 前では翠先輩たちも普通に話している。


 講義は予定通り終わった。


 教室を出る。


 廊下へ出たところで、女子の一人が翠先輩へ声を掛けた。


「野々宮、このあと図書館行く?」

「今日は帰る」

「珍しい」

「少し用事があるからな」

「用事?」

「うん」


 翠先輩が一瞬だけ俺を見る。


「帰ってからやることがある」

「へえ」


 女子はそれ以上聞かなかった。


 俺は聞かなかった。


 聞かなくても、なんとなく分かる気がした。


 いや、分かりたくない。


「高瀬、駅行く?」


 宮坂が聞く。


「ああ」

「野々宮も?」

「うん」


 三人で歩き始める。


 階段を下りる。


 外へ出る。


 午後の風は少しだけ涼しかった。


 翠先輩は宮坂と普通に講義の話をしている。


 俺も普通に返す。


 誰も何も知らない。


 それでいい。


 むしろ、その方がいい。


 駅までの途中。


 信号待ちで翠先輩が俺の隣へ来た。


 声を少し落とす。


「さっき」

「何です?」

「見えた?」

「見えました」

「どのくらい?」

「金具まで」

「危なかったな」

「本当にですよ」

「でもバレなかった」

「だから安心してるんです」


 翠先輩が小さく笑う。


「ちゃんと持ってきているぞ」

「なんで毎日持ち歩いてるんですか」

「気に入っているから」

「家に置いておけばいいでしょう」

「それは嫌だ」

「なんで?」

「持っていたい」

「…………」


 理由になっているような、なっていないような。


「絶対大学で出さないでくださいよ」

「分かっている」

「本当に?」

「ボクを何だと思っている」

「今は信用がないです」

「失礼だなあ」


 信号が青になる。


 前を歩いていた宮坂が振り返る。


「何話してんの?」

「何でもない」


 俺と翠先輩の声が重なった。


「……怪しいな」

「怪しくない」

「怪しくないぞ」

「息ぴったりじゃん」

「偶然」

「偶然だ」


 また重なった。


 宮坂が笑う。


 翠先輩も笑った。


 俺は何も言わなかった。


 少なくとも、鞄の中身までは聞かれなかった。

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